25
夜の闇に瞬きながら、ゆったりと上昇していく機体。
それを見上げる雅之が、目を手の甲でこすってから、背後の人を振り返った。
「泣いてる場合じゃないぜ、聡君」
「いや、……今泣いてるのは雅だけのような」
その聡の横顔も、目が赤く腫れている。
「パスポート取るぜ、ロンドンとロス、とりあえず行くしかないだろ」
「その次は島根だな」
「どこまでバラバラになってんだよ、俺たち」
本当にバラバラだ。
再結成、乗り越えるには、あまりにも高い壁。
「イタさんと、小泉君も探さないとな」
「真咲さんは無理かもだけど」
「人妻だぜ?ちょっと将君とは……きついだろ」
笑ってる場合じゃないのに、2人で、顔を見合わせて笑っている。
「なんとかなるさ」
「うん」
気持ちだけで言うなら、再結成に向けて、すでに戦いは始まっているのかもしれない。
しかし、ふいに、笑っていた雅之の表情が翳った。
「聡君」
「ん?」
「………英語喋れる?」
「……………高校中退だぜ、俺」
「………………」
あのさ。
どこまで、ポイントずれてんだよ、こいつらは。
「通訳くらいなら、やってもいいぜ」
将は、荷物を下ろしながらそう言った。
取りあえず手荷物だけ、一体今夜、どこに泊まればいいんだろう。
「しょっ……」
「戻ってきちまったじゃねぇか、馬鹿野郎!!」
バカじゃねぇの、俺も。
「将君っ」
「将君!」
で、バカじゃねぇの、こいつらも。
「わかってんのか、俺と一緒に心中だぜ」
「わかってるよ!」
「どんだけ叩かれるか、わかんねぇぞ!」
「叩けよ、もう何もでてこねぇよ!」
「バカだろ、お前ら!」
「将君には負けるよ!」
怒鳴りあいながら、そのまま三人、肩を抱くようにして抱きしめあった。
「………………」
「………………」
「………………」
馬鹿野郎。
やっかいごとに巻き込まれやがって。
このまま、普通に生きてりゃ、それなりの幸せが待ってたかもしれないのに。
将は黙って、興奮する2人の拳を握り締めた。
「引くなら、今しかねぇからな」
2人は無言で首を振る。
「戻るって決めた以上、俺は徹底的にやるつもりだ。途中できつくなっても、もう降りたりできねぇからな!」
「………………」
2人は無言で首を振る。頑なな目で将を見つめる。
初めて将は、全てを諦めて、笑った。
そういうことかよ、バカ女。
よく判ったよ、あんたはとことん、俺を追い詰めるのが好きなんだ。
今回は、まさに地獄の底までってやつだろう。
「花火がさ」
「え?」
呟いた将を、聡と雅之が不思議そうに見上げる。
花火って、ちまちまやっても面白くないじゃない?いじましい上に、儚くて。
どうせやるならさ、でっかい花火をあげようじゃないの。
「あの女は、どうにも、でっかい花火が好きみたいでさ」
どうせ散るならさ、どかーんって派手に行きたいじゃない。
「昔、俺の誕生日にさ、季節外れの花火全部買い集めて、ひとつに括って公園でどかん、だよ。今思えばよく警察につかまらなかったもんだ」
「……なんの話?」
聡と雅がいぶかしげな視線を交し合っている。
「いや」
将は苦笑して首を振る。
薄々察しがついていた。
あの、奇妙ないたずらの理由。
「先週の終り、東京ドーム事務局から俺んとこに連絡があったんだ」
「東京ドームって……あの東京ドーム?」
聡の問いに、将は肩をすくめて頷いた。
「どうやら俺の名前で予約入ってるらしくてさ、12月31日から翌年にかけての2日間」
「へ?」
「しかも、ご丁寧に手付金まで五百万の前払い」
「は???」
予約日は7月31日、J&Mが正式に予約を取り消した当日。入れ替わるように将を代表者として、ドームが二日間押さえてあった。
2005年、最後の夜の東京ドーム。
「な、何する気……」
やや、びびりつつ聡。
「あいつはどうしても、俺たちに、でっかい花火をあげさせたいみたいだぜ」
あの女、真咲しずくは。
「マ、ママ、マジかよ、将君」
雅之の顎も落ちている。
そりゃそうだ、高いなんてもんじゃない、天井さえ見えない壁。
今の将の立場を考えると、これは、不可能への挑戦だ。
将は無言で闇に包まれた空を見上げる。
適当なのか、お見通しなのか。
今度こそ、どうやったって俺は乗らないはずだったのに。
26
「よー」
玄関で母親から聞いた時は冗談かと思ったが、リビングの扉を開けると、それは夢ではなく現実だった。
雅之は立ったまま、目をこする。何度もこする。
「なんだよ、お前も今夜だったのか、A級戦犯」
「うっせえよ」
まず将が、なんでもないようにその傍に歩み寄った。
「元気そうじゃん」
「将君が元気じゃ、まじーなぁ」
ソファで足を延ばしてリラックスしながら、憂也。
ロサンゼルスで仕事をしているはずの憂也。
雅之だけでなく、隣に立つ聡も茫然としている。
「聞いてた?」
「い、いや」
雅之はパニック寸前で、首を振る。
い、意味、わかんねーし。
なんだって将君の次に、憂也が帰国?
で、なんだって普通に、俺んちのリビングでコーヒーなんか飲んでるわけ?
ようやく立ちすくんでいる雅之と聡に気付いたのか、憂也、いつもの含みのある笑顔になって顎をしゃくる。
「まぁ、座れば?」
って、ここ、俺の家……。
少し伸びてくしゃっと乱れた前髪、髪色は、海外を意識してか真っ黒だ。デザイナーズシャツにジーンズ、少し大人びた服装のせいか、あまり普段の憂也らしくない、でも、憂也だ、間違いなく憂也だ。
「あ、すいません、今夜はお世話になります」
いきなり大混雑になった成瀬家のリビング、冷茶を運んできた母に、将が立ち上がって一礼した。
「えー、将君泊まり?なら、俺も泊まりてーなー」
遠慮の欠片もない口調で憂也。
「あ、俺も…」
おずおずと聡も手をあげる。
雅之は、ただ唖然としていた。
憂也だ。
大袈裟でなく、夢にまで見た憂也が、ここにいる。
「雅君のお客さんだから、雅君の好きにしていいわよ」
母親がそんな雅之を見て、戸惑った笑顔で了承を与える。
ん、んな、無責任に許可されても――俺の気持ちっつか、心の準備みたいなものは。
が、踏み出せない雅之一人を置いて、すでに聡も、憂也と将の輪の中に入っている。
「なんだかんだっつって、雅んとこになんだよなぁ」
「あの部屋解約しちゃったんだっけ」
「惜しいことしたな、俺が借り直そうか」
さっそく、遠慮もへちまもなくリラックスしている三人。
まぁ、……いいんだけど。
雅之は、おずおずと、ソファの隅っこに腰かける。丁度、憂也には死角の場所、別に、わざと避けてるわけじゃないんだけど。
「メシ、食った?」
「迷惑かけても悪いし、食いにいくか」
「あ、俺免許取ったんだ」
「下手なんだよ、こいつの運転」
てか。
すっげ、普段通りなんですけど。
「用意してるかもしんねぇし、俺、お袋に聞いてみるよ」
ようやく雅之は、口を開いて立ち上がった。
ほんわかと嬉しくなる。歩きながら、それが浮き立つような歓喜に変わる。
憂也、将君、聡君。
絶対戻らないと思っていた3人が、時間が、ごく自然に、戻ってきてくれたことが。
「ストーム戻ってきたよ、お袋」
台所で、つい子供みたいなことを言ってしまっていた。
「そうねぇ」
苦笑する親の顔を見て、はっとした。
忘れていた現実。
将君が言っていたことがどこまで本気かわからないけど、これから、もしかすると、俺たちは。
「……色々、これから」
「いいわよ、雅君の決めたことだから」
返事は拍子抜けするほどあっさりだった。
「もうね、お母さん何も心配しないことにした。雅君と雅君のお友達のこと、信じてるから、お母さん」
27
結局は雅之の母の手料理を食べて、順番に風呂に入って、狭い部屋、ベッドに憂也と聡、それから下に、布団を並べて雅之と将。
小柄な2人を狭いベッドに押し込んで、体格の大きい将と雅之が下に寝た。
だいたいこの組み合わせだと、自然に憂也と雅之がセットになる。実際「いいの?」と聡に言われたが、「俺、ベッドがいい」とはしゃいだ声で憂也がそれを遮った。
食事中も、二人になると会話が止まる。再会したばかりの夜、雅之だけでなく、憂也にも、どこか見えない壁があるようだった。
「……じゃあ、憂也は、マジで乗る気で帰ってきたの?」
「そりゃそうじゃん、ストームの再結成、で、東京ドームでコンサートのリベンジなんて、乗らないほうがどうかしてる」
ベッドの上から、聡と憂也のひそひそ声。
「ま、将君戻ってくるっつーのだけが半信半疑だったけどね、すっげタイムリー、今夜だったんだ」
憂也を呼び戻した首謀者が誰なのか、確認するまでもないと雅之は思った。
雅之の隣では、将が無言で天井を見上げている。
憂也が戻ってきた理由を聞いてからずっと、むっつり黙ったままの将は、怖いほど不機嫌オーラを発散している。
「その話って……電話で?」
「何度も言うけど、かけてきたのはイタさんだからね」
片野坂イタジ。
食事中、初めてそれを聞いた時、雅之もそうだが、無論全員が驚いた。
てゆうことは、イタジさんも首謀者の一味。J&Mが解散した後、あの人はさっさと会社を辞めてしまったけど、あれからずっと、真咲さんの傍にいたんだろうか。
が、それにも反応しないまま、将はじっと腕枕をして、天井を見つめている。
「……反対、されなかったのかよ、憂也のマネージャーに」
どこか、ぎこちない声で雅之は聞いていた。
憂也と聡、二人の囁き声がふと止まる。
なんだよ、憂也。
やや女々しい思いに雅之は囚われている。
あれだけ険悪だったのに、即座に仲直りしている素直な聡がうらやましい。なんだろう、俺の方が、元々仲がよかったのに、とか思ってしまっている。
「そりゃしたさ、もう、決裂寸前で逃げてきた」
本気か冗談か判らない口調で憂也。
「大丈夫なのかよ」
聡。
「結果で見せるしかねぇだろ、ひとまずは、色んな意味で説得すんのが先だけど」
そして、憂也は、初めて微かな息を吐いた。
憂也自身も覚悟しているだろうが、その作業はこれから一番の壁になりそうだった。
今、一番時間がなく、そして自由が制約されているのが憂也だ。CМ契約をしているスポンサーが、そもそもストームに戻ることを許してくれるのかどうか。
「まずは、俺らの味方を探すのが先だよな」
「いや、その前に、りょうが」
と、言いかけた聡が口をつぐむ。
りょう。
りょうを、どうする。
それは、雅之だけでなく、多分誰もが、口に出せない疑問だった。
また光の下に立たせることが、果たしてりょうにとって幸せなのか。
「…………俺が行くよ、明日にでも」
今まで黙っていた将が、ようやくそう呟いた。
「……末永さんと、仲良くやってんのかな、りょう」
「かもな」
それしか言わない将の横顔は、照明の光で影になっている。
「なんにしても、りょうに決めさせればいいよ」
さばさばした声で憂也。
将はそれには答えない。
雅之は眉を寄せる。りょうはどうするだろう。これもまた、予想もできないし、まるで楽観できない不安要素。
でも、将のいないストームがストームではないように、りょうのいないストームも、ストームではないと、それだけは断言できる。
「本音を言うと」
将が、ため息と共に呟いた。
「戻ってこない方が、あいつのためかもしれないって思う」
多分、誰もがそう思っていること。
しかし、闇の中、憂也がわずかに笑う気配がした。
「それは、将君の決めることじゃないよ」
「わかってる」
「つか、将君には、もういっこ大仕事があるんだけどなー」
天井を見上げる憂也の声は、楽しそうだった。
憂也は、そっか、いつだってこんなだったんだ。
雅之は、その心地いい声を聞きながら、ふと思っている。
深刻さをものともしない強さがある。笑い飛ばしてジョークに変える強さがある。その強さが、どうしてあの時の俺には、ただの身勝手に見えていたんだろう。
「俺たちをどん底に叩き落した責任者として、これだれは逃げずにやってもらわないとね、新生ストームのマネージャー探し」
「そりゃ、イタジさんだろ」
ちっちっちっ、と復活した小悪魔は唇の先で指を振った。
「ほしいのは、奇蹟のヒットをたたき出した超敏腕美人マネージャー、ストームのミラクル、できるのはあの人しかいないっしょ」
「…………………………」
しーん。
時計の音だけが響いている室内。
誰も怖くて口がきけない。
ふいに、がばっと、将が起き上がった。
「うわっっ」
「わっっ」
「行ってくる」
超不機嫌な横顔が呟く。
い、行ってくるって今……?
雅之を始め、全員が時計を見上げる。
時差ぼけしてる憂也と将を気遣って、早々に布団に入ったから、今は十時少しすぎ。
「ちょ……新婚家庭を訪問するには、なんつーか非常識っつーか」
はっと禁句を口にした雅之は大慌てで口を塞ぐ。
「俺、じゃあ、車出すよ」
聡が即座に起き上がった。
「いや、いいよ」
「俺は外で待ってるから、2人で話あったらいいよ」
それには肯定も否定もせず、むっくりと起き上がった将は、すでに上着を羽織っている。
「じゃ、俺も…」
と、言いかけた雅之に、聡はしっと、唇に指を当てて見せた。
ああ――、となんとなく、雅之にも判ってしまった。
将君が、ずっと無言で天井を見上げていた理由。
あの怒った横顔は、将君の中に、真咲さんへのわだかまりが、ずっと消えずに残っていたからなんだろう。
勝手に東京ドーム予約して(実際、有り得ないと雅之は思う)、で、勝手に憂也にまで連絡して。
ふられたはずの女に、自分の行動を、こうもいちいち見透かされていたら、それは腹も立つし、気になるだろう。
「将君も、かわんねぇなぁ」
気づけば憂也と二人きり。
「ま、まぁな」
半身を起こしていた雅之は、そのまま、所在無く枕に頭を預けた。
「………………」
「………………」
気まずい……。
しょ、将君のことばっか心配してる場合じゃなかった、今の俺。
不自然な沈黙の中、時計の音だけが響いている。
雅之は寝返りを打って、暗闇の中、唇を噛んだ。
言いたいことは、いっぱいある。
謝りたいこともいっぱいある。
なのに、
「………雅」
闇の中から低い声がした。
それがいきなりだったのと、まるで憂也らしくなかったのとで、雅之はドキッとして身体を硬くする。
「こっち来いよ」
「…………」
え?
「はぁ??」
さすがに、がばっと起き上がっていた。
な、何言ってんだ、憂也の奴。
「い、行かねぇよ、つか、何、やばい雰囲気かもしてんだよっ」
「あははは」
明るい声。
その瞬間、再会して、はじめて壁が壊れた気がした。
「ごめんな、雅」
腹ばいになりつつ、憂也。
「いや……俺こそ」
意味もなく、寝返りを打ちつつ雅之。
ごめん。
ごめん、ごめん。
目茶苦茶謝りたいけど、それが口にできないのは、今までの憂也との関係が、どこか変わってしまうのが怖いからなのかもしれない。
もう――変わってしまったのかもしないけど。
「雅を傷つける気なんてなかったよ、マジで」
「俺だってそうだよ」
「………死んじゃおっかなーって」
「……………」
「思ったよ、雅に嫌われたって思った時は」
えっと、雅之は起き上がる。
憂也は、枕の上につっぷしていた。
「ご、ごめ、」
「マジ、泣きそうだった」
「ごめん」
「超、傷ついた」
「本当にごめんっ」
さすがにベッドににじり寄った雅之は、動かない憂也の背に手を当てる。が、
「なわけねーじゃん」
見下ろした途端に、笑った顔で見上げられた。
「なんで、せっかくの再会なのに、喜び爆発させてくんねーのかなー」
「し、してるよ、つか離せって」
「今夜は雅の腕枕で寝たい」
「無理!ダメ!そんなの、戻ってきた将君に見られたら、永遠にネタにされるっ」
「寝たいったら寝たい」
わーーーっっ
とか思いながら、結局その通りにさせられている。
「雅さ」
「なんだよ」
腕、おもてぇし。
ああ、これが可愛い女の子だったら。
「あんま、俺に気ぃ使うなよ」
「……………」
暗闇の中、憂也の声は、再会してはじめてひどく静かだった。
「人間って不思議なもんでさ、相手のこと苦手だって思ってたら、たいてい相手も自分のことを苦手だって思ってる、感情の映し鏡みてーなもんだ」
「……………」
「雅が気を使うと、俺も気ぃ使っちまう、いつも通りでいいから、俺たちは」
「………うん」
そのいつもどおりが、今は判らなくなっている。
それを、今、口にしていいかどうか判らないけど。
そして、多分、これは雅之だけでなく、将も聡も思っていることだと思うが、ある意味、世界に羽ばたこうとしている憂也を、本当に巻き込むべきなのか。
「雅の中の、俺へのこだわりがなくなったら、俺も自然になくなってるよ」
もしかして。
「それでいいんだよ、俺たちは」
「………うん」
聡君は、わざと部屋を出てくれたのかもしれないな。
憂也の温みを半身に感じつつ、雅之は、そんなことを思ってしまっていた。
28
「まさか、自宅にまで押しかけてくるとは思ってもみませんでしたよ」
通されるとも思ってなかったけど。
都内のほぼ中心部。マンションの最上階。広さで言えばホームパーティがゆうにできるほどの広々としたリビング。いったいどれくらいの値段がするのか想像に難くない。
「彼女はいません」
将は無言で、出されたコーヒーに視線を落とした。どこか嫌味なクラッシックが、静かに室内を満たしている。
将の対面、真紅のベルぺットのソファにゆったりと腰をおろしているのは、長者番付の常連でもあるニンセンドーの代表取締役 御影亮。
ゲーム界の貴公子と呼ばれているだけあって、端正な美貌と理知的な眼差しを持った男だ。立ち上がれば、将よりおそらく頭ひとつくらいは背が高い。ある意味、この世のすべてを手に入れている厭味な男。
「用件は、聞いてもらえたと思いますけど」
将は言った。
実は、目の前に座る男に、将は今日の午前中、電話でアポを取っている。無論、この男を通してある人間と会うために、だ。
生憎男は会議中で、夜なら会えると伝言をもらい、個人的な連絡先まで教えてもらったが、夜なら無理だと、とその時は諦めて電話を切った。
本音を言えば、どこかで逃げていたのかもしれない。
この男を通じて、いまや男の妻としてしか表に出てこない女に会うことから。
「じゃあ、自宅の方ですか」
この男の自宅は葉山にある。ヒットゲームのキャラを揶揄してマリス御殿と称されている広大な邸宅。
「いえ、そこにも」
御影はうっすらと笑って、自身はアルコールの入ったグラスを持ち上げた。
将も最初、すすめられたが、車だからと断っている。
「……俺、別に、あなたと話しがあるわけじゃないんですけど」
じゃあ、海外か。
将は脱力しつつ、少し目上の男を見上げた。
だったら最初からいないって言えよ。
「聞きますよ、家内への用件を聞くのも、夫の役目でしょう」
「………………」
なんなんだ。
妙に挑発されてると思うのは、気のせいだろうか。
「いや、直接話したいんで」
将は感情を抑えて立ち上がった。
「電話でもいいんで、教えてもらえますか、金も絡んだ話だし、きちんとしとかないと、後々もめるのも嫌ですから」
ビジネスです、と強調したつもりだった。
あの女、俺のこと、一体どういう風に説明してんだろう。
なんで二十近く年上の男から、こうも敵意をこめた目で見られてんだろう。
「それも無理ですよ」
御影は、グラスの液体をあおった。
「じゃあ、手紙ならいいですか」
なかば、やけになって将。
「それも無理です」
「…………………」
なんなんだ、一体。
「何か、誤解されてるようだったら」
「彼女は死んだんですよ」
「……………………」
は?
「先月の終り、向こうの病院でね、遺言に従って遺骨は海に流しました、無信心な人でしたから位牌も墓もありませんけど」
「……………………」
は?
「君はそんなことも知らなかったのかな、今まで」
は?
意味、わかんねーし。
これ、一体何の話だよ。
「今夜、君と会いたかったのは」
冗談だろ。
いい年したおっさんが、そんなくだらないことやめとけよ。
あ、そっか、ゲーム会社の社長だし、そのあたりは結構面白い人だったりすんのかな。
「君に、彼女から預かっているものがあるからです」
つまんないジョーク。
いいからさ、さっさとタネ明かししてくれよ。
テーブルの上、差し出された鍵を、将は黙ったまま、見つめていた。
「あの人の部屋の鍵です、中はそのままにしてあります」
「………………」
あの女の、部屋。
将も何度も言ったことがあるマンション。
「形見分けというやつかな、ご自由に好きなものをお持ち帰りください、部屋も、しばらくは使ってもらっていいですよ」
「………………」
「いずれ、処分しますがね」
「………………」
何の……話だろう。
これ、何の悪夢だろう。
「事故、ですか」
立ち上がった将が言えたのは、それだけだった。
「いいえ、病気で、でも君が、それを知る必要はないですよ」
「…………病気」
なんの。
まだ、あんなに若かったのに。
まだ、あんなに。
「さて、ここからは、僕のビジネスの話をさせてもらってもいいですか」
本当に、もういないのか。
本当にもう、あんたはこの世界から消えちまったのか。
「君が戻ってきた理由も、これからしようとしていることも、残念ながら僕は全て知っています」
目の前の男が何か言っている。
将は、ようやくそれに気がついた。
「それも、彼女の遺志なのでしょうが……けれど、僕は、ビジネスには一切私情を挟まない男です。むしろビジネスの面では、僕は彼女を恨んでいる、J株の暴落で、あやうく僕は取締役を解任されるところでした」
あの女の、遺志。
まだ思考が動かない将を、御影は薄く微笑して見下ろした。
「ストームの結成は、認めません」
「……………」
「そのような動きをするなら、成瀬雅之も東條聡も、即刻事務所から解雇します。うちの会社に暴力タレントは必要ない、未来永劫、存在してもらっては困ります」
29
「本当にいいの」
「悪いな、今夜は戻んないかもしんないって、雅にも言っといてくれ」
運転席から、聡が不安げに見上げている。
「将君、戻れよ」
「え?」
歩き出した将は、足を止めて振り返っていた。
「絶対に戻ってこいよ、俺たちのところに」
「………………」
「社長に、何言われたかしらないけど」
社長。
そうだな、こいつらのボスは、今はもう唐沢さんじゃないんだ。
「将君空港に迎えにいった時から、俺と雅には覚悟できてる、どんなことだって耐えられる」
「………………」
「戻ってこいよ、絶対に」
「わかってるよ」
笑顔で答えながら、将は揺れている自身を感じている。
(ストームの結成は、認めません)
「……………」
(そのような動きをするなら、成瀬雅之も東條聡も、即刻事務所から解雇します。)
そんな甘いものじゃないとは思っていた。
しかし、現実につきつけられた残酷な選択肢。
マンションのエントランス。記憶した暗証番号を入れながら、将は、自分が心のどこかで、それでも真咲しずくをよりどころにしていたことを、認めざるを得なかった。
でも、もうあの女はいない。
世界中のどこを探しても、どこにも、いない。
「…………………」
先月の終り。
何の病気だったんだろう。
どうして俺に、一言も言ってくれなかったんだろう。
そしたら、どうしたって、どこにいたって。
俺は。
(バニーちゃん)
鍵を差し入れ、扉を開けた瞬間、懐かしい匂いがあふれ出たような気がした。
(どうしたの?そんな怖い顔して)
(歌はね、心よ、魂よ、技術じゃないの、ハートで歌えばそれでいいの)
世界中のどこにいたって、
俺は――。
(似てるの、まるであの日の彼がそこにいるみたい)
(かわりなんて思ったこと、一度もないよ)
部屋に上がるのが怖かった。
感情が、壊れそうで怖かった。
二度と会えないと判っていたら、あの時、どうしたって離したりはしなかったのに。
(月が綺麗よ、バニーちゃん)
(もう会えないと思うけど)
あの時、
(もう君には、二度と会えないと思うけど)
あいつには、もう判っていたんだろうか。
あれが最後になるってことが。
どうして、
「だったら、どうして、」
感情がこみあげる。将は拳を握り締めた。
俺のこと好きだったくせに。
すっげー好きだったくせに。
今なら、不思議なほど確信できる。
憂也のヤマカンは当たっている。俺が好きな以上に、あいつも俺が好きだった、間違いなく。
なのに――。
「……っ」
ふいに室内の明りが瞬いた。
え?
「何、もう寝てたんだけど」
声、そして奥の扉が開く音。
はい?
生あくびをしつつ、裾の長いシャツにスウェットパンツ。だらしない格好で出てくる女。
「今夜だったっけ、ごめんなさい、すっかり忘れてたかも」
「…………………………」
あの…………。
世界中、どこを探しても、いないはずなんじゃ。
「あれ?」
と、はじめてしずくが目を見開いた。
「何やってんの?」
って、
って、それ、俺のセリフなんだけど??
act11 明日へ(終)
※この物語は全てフィクションです。
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>「クロスワード」 >back
孤立無援の3人の前に、次々と突きつけられる残酷な選択肢。
友達の夢と自分の夢……憂也にとって何が一番いいことなのか、迷う雅之。
そして、島根に向かった将は末永真白と再会するが……。次回お楽しみに。
「いや、てゆっか、今のこの場面の続きが問題なんじゃねえの??」(byバニー)
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感想、お待ちしています。♪内容によってはサイト内で掲載することもあります。
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