25



 夜の闇に瞬きながら、ゆったりと上昇していく機体。
 それを見上げる雅之が、目を手の甲でこすってから、背後の人を振り返った。
「泣いてる場合じゃないぜ、聡君」
「いや、……今泣いてるのは雅だけのような」
 その聡の横顔も、目が赤く腫れている。
「パスポート取るぜ、ロンドンとロス、とりあえず行くしかないだろ」
「その次は島根だな」
「どこまでバラバラになってんだよ、俺たち」
 本当にバラバラだ。
 再結成、乗り越えるには、あまりにも高い壁。
「イタさんと、小泉君も探さないとな」
「真咲さんは無理かもだけど」
「人妻だぜ?ちょっと将君とは……きついだろ」
 笑ってる場合じゃないのに、2人で、顔を見合わせて笑っている。
「なんとかなるさ」
「うん」
 気持ちだけで言うなら、再結成に向けて、すでに戦いは始まっているのかもしれない。
 しかし、ふいに、笑っていた雅之の表情が翳った。
「聡君」
「ん?」
「………英語喋れる?」
「……………高校中退だぜ、俺」
「………………」
 あのさ。
 どこまで、ポイントずれてんだよ、こいつらは。
「通訳くらいなら、やってもいいぜ」
 将は、荷物を下ろしながらそう言った。
 取りあえず手荷物だけ、一体今夜、どこに泊まればいいんだろう。
「しょっ……」
「戻ってきちまったじゃねぇか、馬鹿野郎!!」
 バカじゃねぇの、俺も。
「将君っ」
「将君!」
 で、バカじゃねぇの、こいつらも。
「わかってんのか、俺と一緒に心中だぜ」
「わかってるよ!」
「どんだけ叩かれるか、わかんねぇぞ!」
「叩けよ、もう何もでてこねぇよ!」
「バカだろ、お前ら!」
「将君には負けるよ!」
 怒鳴りあいながら、そのまま三人、肩を抱くようにして抱きしめあった。
「………………」
「………………」
「………………」
 馬鹿野郎。
 やっかいごとに巻き込まれやがって。
 このまま、普通に生きてりゃ、それなりの幸せが待ってたかもしれないのに。
 将は黙って、興奮する2人の拳を握り締めた。
「引くなら、今しかねぇからな」
 2人は無言で首を振る。
「戻るって決めた以上、俺は徹底的にやるつもりだ。途中できつくなっても、もう降りたりできねぇからな!」
「………………」
 2人は無言で首を振る。頑なな目で将を見つめる。
 初めて将は、全てを諦めて、笑った。
 そういうことかよ、バカ女。
 よく判ったよ、あんたはとことん、俺を追い詰めるのが好きなんだ。
 今回は、まさに地獄の底までってやつだろう。
「花火がさ」
「え?」
 呟いた将を、聡と雅之が不思議そうに見上げる。
 花火って、ちまちまやっても面白くないじゃない?いじましい上に、儚くて。
 どうせやるならさ、でっかい花火をあげようじゃないの。

「あの女は、どうにも、でっかい花火が好きみたいでさ」
 どうせ散るならさ、どかーんって派手に行きたいじゃない。
「昔、俺の誕生日にさ、季節外れの花火全部買い集めて、ひとつに括って公園でどかん、だよ。今思えばよく警察につかまらなかったもんだ」
「……なんの話?」
 聡と雅がいぶかしげな視線を交し合っている。
「いや」
 将は苦笑して首を振る。
 薄々察しがついていた。
 あの、奇妙ないたずらの理由。
「先週の終り、東京ドーム事務局から俺んとこに連絡があったんだ」
「東京ドームって……あの東京ドーム?」
 聡の問いに、将は肩をすくめて頷いた。
「どうやら俺の名前で予約入ってるらしくてさ、12月31日から翌年にかけての2日間」
「へ?」
「しかも、ご丁寧に手付金まで五百万の前払い」
「は???」
 予約日は7月31日、J&Mが正式に予約を取り消した当日。入れ替わるように将を代表者として、ドームが二日間押さえてあった。
 2005年、最後の夜の東京ドーム。
「な、何する気……」
 やや、びびりつつ聡。
「あいつはどうしても、俺たちに、でっかい花火をあげさせたいみたいだぜ」
 あの女、真咲しずくは。
「マ、ママ、マジかよ、将君」
 雅之の顎も落ちている。
 そりゃそうだ、高いなんてもんじゃない、天井さえ見えない壁。
 今の将の立場を考えると、これは、不可能への挑戦だ。
 将は無言で闇に包まれた空を見上げる。
 適当なのか、お見通しなのか。
 今度こそ、どうやったって俺は乗らないはずだったのに。
 



                 26



「よー」
 玄関で母親から聞いた時は冗談かと思ったが、リビングの扉を開けると、それは夢ではなく現実だった。
 雅之は立ったまま、目をこする。何度もこする。
「なんだよ、お前も今夜だったのか、A級戦犯」
「うっせえよ」
 まず将が、なんでもないようにその傍に歩み寄った。
「元気そうじゃん」
「将君が元気じゃ、まじーなぁ」
 ソファで足を延ばしてリラックスしながら、憂也。
 ロサンゼルスで仕事をしているはずの憂也。
 雅之だけでなく、隣に立つ聡も茫然としている。
「聞いてた?」
「い、いや」
 雅之はパニック寸前で、首を振る。
 い、意味、わかんねーし。
 なんだって将君の次に、憂也が帰国?
 で、なんだって普通に、俺んちのリビングでコーヒーなんか飲んでるわけ?
 ようやく立ちすくんでいる雅之と聡に気付いたのか、憂也、いつもの含みのある笑顔になって顎をしゃくる。
「まぁ、座れば?」
 って、ここ、俺の家……。
 少し伸びてくしゃっと乱れた前髪、髪色は、海外を意識してか真っ黒だ。デザイナーズシャツにジーンズ、少し大人びた服装のせいか、あまり普段の憂也らしくない、でも、憂也だ、間違いなく憂也だ。
「あ、すいません、今夜はお世話になります」
 いきなり大混雑になった成瀬家のリビング、冷茶を運んできた母に、将が立ち上がって一礼した。
「えー、将君泊まり?なら、俺も泊まりてーなー」
 遠慮の欠片もない口調で憂也。
「あ、俺も…」
 おずおずと聡も手をあげる。
 雅之は、ただ唖然としていた。
 憂也だ。
 大袈裟でなく、夢にまで見た憂也が、ここにいる。
「雅君のお客さんだから、雅君の好きにしていいわよ」
 母親がそんな雅之を見て、戸惑った笑顔で了承を与える。
 ん、んな、無責任に許可されても――俺の気持ちっつか、心の準備みたいなものは。
 が、踏み出せない雅之一人を置いて、すでに聡も、憂也と将の輪の中に入っている。
「なんだかんだっつって、雅んとこになんだよなぁ」
「あの部屋解約しちゃったんだっけ」
「惜しいことしたな、俺が借り直そうか」
 さっそく、遠慮もへちまもなくリラックスしている三人。
 まぁ、……いいんだけど。
 雅之は、おずおずと、ソファの隅っこに腰かける。丁度、憂也には死角の場所、別に、わざと避けてるわけじゃないんだけど。
「メシ、食った?」
「迷惑かけても悪いし、食いにいくか」
「あ、俺免許取ったんだ」
「下手なんだよ、こいつの運転」
 てか。
 すっげ、普段通りなんですけど。
「用意してるかもしんねぇし、俺、お袋に聞いてみるよ」
 ようやく雅之は、口を開いて立ち上がった。
 ほんわかと嬉しくなる。歩きながら、それが浮き立つような歓喜に変わる。
 憂也、将君、聡君。
 絶対戻らないと思っていた3人が、時間が、ごく自然に、戻ってきてくれたことが。
「ストーム戻ってきたよ、お袋」
 台所で、つい子供みたいなことを言ってしまっていた。
「そうねぇ」
 苦笑する親の顔を見て、はっとした。
 忘れていた現実。
 将君が言っていたことがどこまで本気かわからないけど、これから、もしかすると、俺たちは。
「……色々、これから」
「いいわよ、雅君の決めたことだから」
 返事は拍子抜けするほどあっさりだった。
「もうね、お母さん何も心配しないことにした。雅君と雅君のお友達のこと、信じてるから、お母さん」



                  27



 結局は雅之の母の手料理を食べて、順番に風呂に入って、狭い部屋、ベッドに憂也と聡、それから下に、布団を並べて雅之と将。
 小柄な2人を狭いベッドに押し込んで、体格の大きい将と雅之が下に寝た。
 だいたいこの組み合わせだと、自然に憂也と雅之がセットになる。実際「いいの?」と聡に言われたが、「俺、ベッドがいい」とはしゃいだ声で憂也がそれを遮った。
 食事中も、二人になると会話が止まる。再会したばかりの夜、雅之だけでなく、憂也にも、どこか見えない壁があるようだった。
「……じゃあ、憂也は、マジで乗る気で帰ってきたの?」
「そりゃそうじゃん、ストームの再結成、で、東京ドームでコンサートのリベンジなんて、乗らないほうがどうかしてる」
 ベッドの上から、聡と憂也のひそひそ声。
「ま、将君戻ってくるっつーのだけが半信半疑だったけどね、すっげタイムリー、今夜だったんだ」
 憂也を呼び戻した首謀者が誰なのか、確認するまでもないと雅之は思った。
 雅之の隣では、将が無言で天井を見上げている。
 憂也が戻ってきた理由を聞いてからずっと、むっつり黙ったままの将は、怖いほど不機嫌オーラを発散している。
「その話って……電話で?」
「何度も言うけど、かけてきたのはイタさんだからね」
 片野坂イタジ。
 食事中、初めてそれを聞いた時、雅之もそうだが、無論全員が驚いた。
 てゆうことは、イタジさんも首謀者の一味。J&Mが解散した後、あの人はさっさと会社を辞めてしまったけど、あれからずっと、真咲さんの傍にいたんだろうか。
 が、それにも反応しないまま、将はじっと腕枕をして、天井を見つめている。
「……反対、されなかったのかよ、憂也のマネージャーに」
 どこか、ぎこちない声で雅之は聞いていた。
 憂也と聡、二人の囁き声がふと止まる。
 なんだよ、憂也。
 やや女々しい思いに雅之は囚われている。
 あれだけ険悪だったのに、即座に仲直りしている素直な聡がうらやましい。なんだろう、俺の方が、元々仲がよかったのに、とか思ってしまっている。
「そりゃしたさ、もう、決裂寸前で逃げてきた」
 本気か冗談か判らない口調で憂也。
「大丈夫なのかよ」
 聡。
「結果で見せるしかねぇだろ、ひとまずは、色んな意味で説得すんのが先だけど」
 そして、憂也は、初めて微かな息を吐いた。
 憂也自身も覚悟しているだろうが、その作業はこれから一番の壁になりそうだった。
 今、一番時間がなく、そして自由が制約されているのが憂也だ。CМ契約をしているスポンサーが、そもそもストームに戻ることを許してくれるのかどうか。
「まずは、俺らの味方を探すのが先だよな」
「いや、その前に、りょうが」
 と、言いかけた聡が口をつぐむ。
 りょう。
 りょうを、どうする。
 それは、雅之だけでなく、多分誰もが、口に出せない疑問だった。
 また光の下に立たせることが、果たしてりょうにとって幸せなのか。
「…………俺が行くよ、明日にでも」
 今まで黙っていた将が、ようやくそう呟いた。
「……末永さんと、仲良くやってんのかな、りょう」
「かもな」
 それしか言わない将の横顔は、照明の光で影になっている。
「なんにしても、りょうに決めさせればいいよ」
 さばさばした声で憂也。
 将はそれには答えない。
 雅之は眉を寄せる。りょうはどうするだろう。これもまた、予想もできないし、まるで楽観できない不安要素。
 でも、将のいないストームがストームではないように、りょうのいないストームも、ストームではないと、それだけは断言できる。
「本音を言うと」
 将が、ため息と共に呟いた。
「戻ってこない方が、あいつのためかもしれないって思う」
 多分、誰もがそう思っていること。
 しかし、闇の中、憂也がわずかに笑う気配がした。
「それは、将君の決めることじゃないよ」
「わかってる」
「つか、将君には、もういっこ大仕事があるんだけどなー」
 天井を見上げる憂也の声は、楽しそうだった。
 憂也は、そっか、いつだってこんなだったんだ。
 雅之は、その心地いい声を聞きながら、ふと思っている。
 深刻さをものともしない強さがある。笑い飛ばしてジョークに変える強さがある。その強さが、どうしてあの時の俺には、ただの身勝手に見えていたんだろう。
「俺たちをどん底に叩き落した責任者として、これだれは逃げずにやってもらわないとね、新生ストームのマネージャー探し」
「そりゃ、イタジさんだろ」
 ちっちっちっ、と復活した小悪魔は唇の先で指を振った。
「ほしいのは、奇蹟のヒットをたたき出した超敏腕美人マネージャー、ストームのミラクル、できるのはあの人しかいないっしょ」
「…………………………」
 しーん。
 時計の音だけが響いている室内。
 誰も怖くて口がきけない。
 ふいに、がばっと、将が起き上がった。
「うわっっ」
「わっっ」
「行ってくる」
 超不機嫌な横顔が呟く。
 い、行ってくるって今……?
 雅之を始め、全員が時計を見上げる。
 時差ぼけしてる憂也と将を気遣って、早々に布団に入ったから、今は十時少しすぎ。
「ちょ……新婚家庭を訪問するには、なんつーか非常識っつーか」
 はっと禁句を口にした雅之は大慌てで口を塞ぐ。
「俺、じゃあ、車出すよ」
 聡が即座に起き上がった。
「いや、いいよ」
「俺は外で待ってるから、2人で話あったらいいよ」
 それには肯定も否定もせず、むっくりと起き上がった将は、すでに上着を羽織っている。
「じゃ、俺も…」
 と、言いかけた雅之に、聡はしっと、唇に指を当てて見せた。
 ああ――、となんとなく、雅之にも判ってしまった。
 将君が、ずっと無言で天井を見上げていた理由。
 あの怒った横顔は、将君の中に、真咲さんへのわだかまりが、ずっと消えずに残っていたからなんだろう。
 勝手に東京ドーム予約して(実際、有り得ないと雅之は思う)、で、勝手に憂也にまで連絡して。
 ふられたはずの女に、自分の行動を、こうもいちいち見透かされていたら、それは腹も立つし、気になるだろう。
「将君も、かわんねぇなぁ」
 気づけば憂也と二人きり。
「ま、まぁな」
 半身を起こしていた雅之は、そのまま、所在無く枕に頭を預けた。 
「………………」
「………………」
 気まずい……。
 しょ、将君のことばっか心配してる場合じゃなかった、今の俺。
 不自然な沈黙の中、時計の音だけが響いている。
 雅之は寝返りを打って、暗闇の中、唇を噛んだ。
 言いたいことは、いっぱいある。
 謝りたいこともいっぱいある。
 なのに、
「………雅」
 闇の中から低い声がした。
 それがいきなりだったのと、まるで憂也らしくなかったのとで、雅之はドキッとして身体を硬くする。
「こっち来いよ」
「…………」
 え?
「はぁ??」
 さすがに、がばっと起き上がっていた。
 な、何言ってんだ、憂也の奴。
「い、行かねぇよ、つか、何、やばい雰囲気かもしてんだよっ」
「あははは」
 明るい声。
 その瞬間、再会して、はじめて壁が壊れた気がした。
「ごめんな、雅」
 腹ばいになりつつ、憂也。
「いや……俺こそ」
 意味もなく、寝返りを打ちつつ雅之。
 ごめん。
 ごめん、ごめん。
 目茶苦茶謝りたいけど、それが口にできないのは、今までの憂也との関係が、どこか変わってしまうのが怖いからなのかもしれない。
 もう――変わってしまったのかもしないけど。
「雅を傷つける気なんてなかったよ、マジで」
「俺だってそうだよ」
「………死んじゃおっかなーって」
「……………」
「思ったよ、雅に嫌われたって思った時は」
 えっと、雅之は起き上がる。
 憂也は、枕の上につっぷしていた。
「ご、ごめ、」
「マジ、泣きそうだった」
「ごめん」
「超、傷ついた」
「本当にごめんっ」
 さすがにベッドににじり寄った雅之は、動かない憂也の背に手を当てる。が、
「なわけねーじゃん」
 見下ろした途端に、笑った顔で見上げられた。
「なんで、せっかくの再会なのに、喜び爆発させてくんねーのかなー」
「し、してるよ、つか離せって」
「今夜は雅の腕枕で寝たい」
「無理!ダメ!そんなの、戻ってきた将君に見られたら、永遠にネタにされるっ」
「寝たいったら寝たい」
 わーーーっっ
 とか思いながら、結局その通りにさせられている。
「雅さ」
「なんだよ」
 腕、おもてぇし。
 ああ、これが可愛い女の子だったら。
「あんま、俺に気ぃ使うなよ」
「……………」
 暗闇の中、憂也の声は、再会してはじめてひどく静かだった。
「人間って不思議なもんでさ、相手のこと苦手だって思ってたら、たいてい相手も自分のことを苦手だって思ってる、感情の映し鏡みてーなもんだ」
「……………」
「雅が気を使うと、俺も気ぃ使っちまう、いつも通りでいいから、俺たちは」
「………うん」
 そのいつもどおりが、今は判らなくなっている。
 それを、今、口にしていいかどうか判らないけど。
 そして、多分、これは雅之だけでなく、将も聡も思っていることだと思うが、ある意味、世界に羽ばたこうとしている憂也を、本当に巻き込むべきなのか。
「雅の中の、俺へのこだわりがなくなったら、俺も自然になくなってるよ」
 もしかして。
「それでいいんだよ、俺たちは」
「………うん」
 聡君は、わざと部屋を出てくれたのかもしれないな。
 憂也の温みを半身に感じつつ、雅之は、そんなことを思ってしまっていた。



               28



「まさか、自宅にまで押しかけてくるとは思ってもみませんでしたよ」
 通されるとも思ってなかったけど。
 都内のほぼ中心部。マンションの最上階。広さで言えばホームパーティがゆうにできるほどの広々としたリビング。いったいどれくらいの値段がするのか想像に難くない。
「彼女はいません」
 将は無言で、出されたコーヒーに視線を落とした。どこか嫌味なクラッシックが、静かに室内を満たしている。
 将の対面、真紅のベルぺットのソファにゆったりと腰をおろしているのは、長者番付の常連でもあるニンセンドーの代表取締役 御影亮。
 ゲーム界の貴公子と呼ばれているだけあって、端正な美貌と理知的な眼差しを持った男だ。立ち上がれば、将よりおそらく頭ひとつくらいは背が高い。ある意味、この世のすべてを手に入れている厭味な男。
「用件は、聞いてもらえたと思いますけど」
 将は言った。
 実は、目の前に座る男に、将は今日の午前中、電話でアポを取っている。無論、この男を通してある人間と会うために、だ。
 生憎男は会議中で、夜なら会えると伝言をもらい、個人的な連絡先まで教えてもらったが、夜なら無理だと、とその時は諦めて電話を切った。
 本音を言えば、どこかで逃げていたのかもしれない。
 この男を通じて、いまや男の妻としてしか表に出てこない女に会うことから。
「じゃあ、自宅の方ですか」
 この男の自宅は葉山にある。ヒットゲームのキャラを揶揄してマリス御殿と称されている広大な邸宅。
「いえ、そこにも」
 御影はうっすらと笑って、自身はアルコールの入ったグラスを持ち上げた。
 将も最初、すすめられたが、車だからと断っている。
「……俺、別に、あなたと話しがあるわけじゃないんですけど」
 じゃあ、海外か。
 将は脱力しつつ、少し目上の男を見上げた。
 だったら最初からいないって言えよ。
「聞きますよ、家内への用件を聞くのも、夫の役目でしょう」
「………………」
 なんなんだ。
 妙に挑発されてると思うのは、気のせいだろうか。
「いや、直接話したいんで」
 将は感情を抑えて立ち上がった。
「電話でもいいんで、教えてもらえますか、金も絡んだ話だし、きちんとしとかないと、後々もめるのも嫌ですから」
 ビジネスです、と強調したつもりだった。
 あの女、俺のこと、一体どういう風に説明してんだろう。
 なんで二十近く年上の男から、こうも敵意をこめた目で見られてんだろう。
「それも無理ですよ」
 御影は、グラスの液体をあおった。
「じゃあ、手紙ならいいですか」
 なかば、やけになって将。
「それも無理です」
「…………………」
 なんなんだ、一体。
「何か、誤解されてるようだったら」
「彼女は死んだんですよ」
「……………………」
 は?
「先月の終り、向こうの病院でね、遺言に従って遺骨は海に流しました、無信心な人でしたから位牌も墓もありませんけど」
「……………………」
 は?
「君はそんなことも知らなかったのかな、今まで」
 は?
 意味、わかんねーし。
 これ、一体何の話だよ。
「今夜、君と会いたかったのは」
 冗談だろ。
 いい年したおっさんが、そんなくだらないことやめとけよ。
 あ、そっか、ゲーム会社の社長だし、そのあたりは結構面白い人だったりすんのかな。
「君に、彼女から預かっているものがあるからです」
 つまんないジョーク。
 いいからさ、さっさとタネ明かししてくれよ。
 テーブルの上、差し出された鍵を、将は黙ったまま、見つめていた。
「あの人の部屋の鍵です、中はそのままにしてあります」
「………………」
 あの女の、部屋。
 将も何度も言ったことがあるマンション。
「形見分けというやつかな、ご自由に好きなものをお持ち帰りください、部屋も、しばらくは使ってもらっていいですよ」
「………………」
「いずれ、処分しますがね」
「………………」
 何の……話だろう。
 これ、何の悪夢だろう。
「事故、ですか」
 立ち上がった将が言えたのは、それだけだった。
「いいえ、病気で、でも君が、それを知る必要はないですよ」
「…………病気」
 なんの。
 まだ、あんなに若かったのに。
 まだ、あんなに。
「さて、ここからは、僕のビジネスの話をさせてもらってもいいですか」
 本当に、もういないのか。
 本当にもう、あんたはこの世界から消えちまったのか。
「君が戻ってきた理由も、これからしようとしていることも、残念ながら僕は全て知っています」
 目の前の男が何か言っている。
 将は、ようやくそれに気がついた。
「それも、彼女の遺志なのでしょうが……けれど、僕は、ビジネスには一切私情を挟まない男です。むしろビジネスの面では、僕は彼女を恨んでいる、J株の暴落で、あやうく僕は取締役を解任されるところでした」
 あの女の、遺志。
 まだ思考が動かない将を、御影は薄く微笑して見下ろした。
「ストームの結成は、認めません」
「……………」
「そのような動きをするなら、成瀬雅之も東條聡も、即刻事務所から解雇します。うちの会社に暴力タレントは必要ない、未来永劫、存在してもらっては困ります」



                 29



「本当にいいの」
「悪いな、今夜は戻んないかもしんないって、雅にも言っといてくれ」
 運転席から、聡が不安げに見上げている。
「将君、戻れよ」
「え?」
 歩き出した将は、足を止めて振り返っていた。
「絶対に戻ってこいよ、俺たちのところに」
「………………」
「社長に、何言われたかしらないけど」
 社長。
 そうだな、こいつらのボスは、今はもう唐沢さんじゃないんだ。
「将君空港に迎えにいった時から、俺と雅には覚悟できてる、どんなことだって耐えられる」
「………………」
「戻ってこいよ、絶対に」
「わかってるよ」
 笑顔で答えながら、将は揺れている自身を感じている。
(ストームの結成は、認めません)
「……………」
(そのような動きをするなら、成瀬雅之も東條聡も、即刻事務所から解雇します。)
 そんな甘いものじゃないとは思っていた。
 しかし、現実につきつけられた残酷な選択肢。
 マンションのエントランス。記憶した暗証番号を入れながら、将は、自分が心のどこかで、それでも真咲しずくをよりどころにしていたことを、認めざるを得なかった。
 でも、もうあの女はいない。
 世界中のどこを探しても、どこにも、いない。
「…………………」
 先月の終り。
 何の病気だったんだろう。
 どうして俺に、一言も言ってくれなかったんだろう。
 そしたら、どうしたって、どこにいたって。
 俺は。
(バニーちゃん)
 鍵を差し入れ、扉を開けた瞬間、懐かしい匂いがあふれ出たような気がした。
(どうしたの?そんな怖い顔して)
(歌はね、心よ、魂よ、技術じゃないの、ハートで歌えばそれでいいの)
 世界中のどこにいたって、
 俺は――。
(似てるの、まるであの日の彼がそこにいるみたい)
(かわりなんて思ったこと、一度もないよ)
 部屋に上がるのが怖かった。
 感情が、壊れそうで怖かった。
 二度と会えないと判っていたら、あの時、どうしたって離したりはしなかったのに。
(月が綺麗よ、バニーちゃん)
(もう会えないと思うけど)
 あの時、
(もう君には、二度と会えないと思うけど)
 あいつには、もう判っていたんだろうか。
 あれが最後になるってことが。
 どうして、
「だったら、どうして、」
 感情がこみあげる。将は拳を握り締めた。
 俺のこと好きだったくせに。
 すっげー好きだったくせに。
 今なら、不思議なほど確信できる。
 憂也のヤマカンは当たっている。俺が好きな以上に、あいつも俺が好きだった、間違いなく。
 なのに――。
「……っ」
 ふいに室内の明りが瞬いた。
 え?
「何、もう寝てたんだけど」
 声、そして奥の扉が開く音。
 はい?
 生あくびをしつつ、裾の長いシャツにスウェットパンツ。だらしない格好で出てくる女。
「今夜だったっけ、ごめんなさい、すっかり忘れてたかも」
「…………………………」
 あの…………。
 世界中、どこを探しても、いないはずなんじゃ。
「あれ?」
 と、はじめてしずくが目を見開いた。
「何やってんの?」
 って、
 って、それ、俺のセリフなんだけど??






















   act11 明日へ(終)
 ※この物語は全てフィクションです。



>クロスワード >back 
孤立無援の3人の前に、次々と突きつけられる残酷な選択肢。
友達の夢と自分の夢……憂也にとって何が一番いいことなのか、迷う雅之。
そして、島根に向かった将は末永真白と再会するが……。次回お楽しみに。

「いや、てゆっか、今のこの場面の続きが問題なんじゃねえの??」(byバニー)
感想、お待ちしています。♪内容によってはサイト内で掲載することもあります。
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