18
「あっきれた…」
まぁ、そう言われるだろうとは思っていた。
浅葱悠介は、コーヒーに砂糖を入れてかきまぜる。
「いったい、どんなウルトラC使ったわけ?よくあのお父さんが許したわね」
悠介の差し出したコーヒーを、亜佐美は眉をあげて遮った。
「こんなもんじゃ誤魔化されないわよ」
「まぁ、たったの一年だしさ」
一年後、絶対に父親の会社に入るという念書を書いて、それでようやく折れてくれた。それからもう一つ、父に出された条件があるが、それも含めてここに座る恋人には言うつもりはない。
海外留学。
むろん、勉強とは名ばかりで、向こうで音楽活動をやっていく、そのための留学である。約束は一年だが、向こうで上手く仕事にありつけたら、そのまま一生戻らないつもりだった。
「一時は、将のプロデュースみたいなことをするって張り切ってたのに」
亜佐美は肩をすくめ、少しむくれたように窓の外に視線を向けた。
東京、成城にある悠介の自宅。
亜佐美の家は向かいで、将の家は一ブロック先にあった。今、そこは、貸家になり、すでに借手が、引越しの準備を始めている。
ご近所全てが会社社長か政治家か芸能人。豪邸揃いのブロックだが、悠介が住む浅葱邸はその中でも別格だった。
誰もが足を止める、庭とプール付きの白亜の豪邸。なにしろ、日本最大手の建設会社社長宅。その三代目である悠介の父、浅葱健介は、故創業者の孫であり、相続した資産を合わせると資産何百憶という大富豪である。
来年社長職を退き、会長職につくことが決まっている男は、自分の身に何かある前に、何がなんでも不肖の息子を、会社の後継者として披露したいらしかった。
けれど悠介には、そんな気はさらさらない。無論それを、面と向かって厳しすぎる父親に言ったこともない。
要は、うまく立ち回っては逃げている。卑怯だとは思うが、どう考えても自分が会社を継げば、日本経済に大穴をあけてしまいそうだ。
「まぁ……将は、俺の手の届かない所に行っちゃったっていうかさ」
悠介は所在なく呟き、飲み手を失ったコーヒーをテーブルの上に置いた。
奇蹟のリリース後、急激に人気者になった将に、悠介は会うことさえ難しくなった。携帯電話も繋がらないし、将からの連絡も途切れがち、住家さえ教えてはもらえなかった。
友情に変わりはないと信じていた、が、寂しくなかったと言えば嘘になるし、ただ父親から逃げているだけの自身と比べた時、虚しさを感じなかったと言えば嘘になる。
「……俺、ずっと将の腰ぎんちゃくみたいだったけど」
「つか、それ自分で言う?」
額を、笑った恋人の指に弾かれる。
将の無罪を証明するため、悠介は顔や名前を公表して、テレビの取材を受けたりした。当然のごとく、悠介自身がメディアやネットで中傷の対象になり、父は激怒、結局はそれが契機になった。
(二度と柏葉将に関わるな。)
(それを念書にしたためて俺に誓え。)
(一年、 一年だけ、お前に自由を与えてやる。)
留学がとんとん拍子に決まったのは、マスコミに実名で非難された息子を、ひとまず海外に逃がしたかったのが本音だろう。
が、その父は、今となっては、自身の決断を後悔しているに違いない。
まるで、ストームや柏葉将など最初からいなかったように、マスコミは新しい話題を追い、別のスクープを提供し続けている。
もう……あの夏は、将やストームと過ごした濃密な日々は、終わったのだ。永遠に。
「自分ひとりで何ができるか、やってみたいんだ、マジな話」
悠介は、自分に言い聞かせるように口にした。
父親の権威も財産も何もない、全くのゼロの世界で。
「怖かったけど、いったん決めたらすっきりした。ずっと空っぽだったんだ、俺、むなしくて死んじゃいそうだった。なんか今、超楽しい気分だよ」
大学にも休学届けを出した。部屋のあちこちに、渡米の準備が出来上がっている。
心残りは、残していく恋人のことだけだった。
「勝手だなぁ、男って」
窓を観たままの、亜佐美の横顔が呟いた。
「将も将で、さっさと海外永住決めちゃうしね、残されたあたしのことなんかどうでもいいんだ、2人とも」
「お、おい、将はこの際関係ないだろ」
外務省を辞めた将の父親は、イギリスで大学教授の職についた。柏葉家は一家で移住を決めたのである。こう言っては悪いが、あの時の将に、一人日本に残るという選択肢はなかったろう。
「ついてこない?」
おそるおそる言ってみる。
「い、か、な、い」
予想していた通りの答え。
「そっか……」
ついてこい!とはとても言えない。
将来性なんてゼロ。最悪、野垂れ死にが待っている未来に、大切な女を巻き込めない。
「こっちで勉強して、弁護士になるの、私」
「へぇ」
てっきり、モデルの仕事を本格的にやるのかと思っていた。悠介はわずかに眉をあげる。
「稼ぐわよ、私、そうなったら悠介一人くらい養ってあげるから」
「……………………」
抱きつこうとしたら、手で顔を押し戻された。
「暑苦しいっ」
「亜佐美~っ」
それでも、本気と冗談の境目ぎりぎりのキスを交わし、そのまま胸に抱き寄せていた。
「……結構好きだったけどな、私」
「え?」
呟いた亜佐美は、まだ窓の外を見つめているようだった。
まるで、戻らない何かを待っているかのように。
「将の腰巾着やってる悠介」
「お、おいおい」
そ、それはいくらなんでも。
けれど亜佐美は、静かな真顔で悠介を見上げた。
「自分の居場所ってあるじゃない、誰にもだけど」
「……………」
「悠介はさー、将の傍にいるから悠介なのよ、悪い意味じゃなくてね、……まぁ、私の勝手な感覚だけど、そういう関係もあってもいいかなって思ってたから」
ひどいな、と思ったけど、不思議と腹は立たなかった。
何故だろう、窓の外を見つめる亜佐美の気持ちが悠介にも判る。
二階のこの部屋の前に、昔は大きな欅の木があった。小学生だった頃、将がよくその木をよじ登って部屋に入ってきた。
今も。
(よう、悠介)
ふいに将が、いつものように、窓を開けて入ってきそうな気がする。
不思議だな、将がいなくなっても、日々は変わりなく流れ、むしろ充実しているはずなのに、
「雅君、違う違う」
「うわっ、はいっ、すいませんっ」
手を叩きながら、演出家の斎藤仁が雅之の傍に歩み寄ってくる。
セ、セリフまた間違えたかな、俺。
雅之は慌てて、背後のベンチに置いた台本を持ち上げた。
立ち稽古。演出家のストップで全員の動きが止まる。
「いや、セリフは珍しくあってた」
神妙な顔をした斎藤は、いかにも元文学青年らしい神経質な目で雅之を見上げた。
こう見えて(どう見えて?)おはぎと同級生の二十七歳。この劇団の創設者で、マイナーながらも若手では期待されている新鋭らしい。
「め、珍しくっすか」
すっ、すげー嫌味。
普段気まじめな斎藤の笑えないジョークに、雅之は硬直したまま、意味もなく笑う。
まぁ、仕方ない、稽古が始まって今日で一週間、ここに集まった全ての中で、ワースト一のもの覚えの悪さを露呈してしまったのだから。
「そこは落ち込むとこじゃない、むしろ笑って言ってごらん」
しかし斎藤のダメ出しは、雅之には想定外だった。
「笑うんすか」
ちょっと驚いて雅之は訊き返す。
雅之の役どころは、昭和の売れない漫才師。
今やっていたのは二幕三場、友人に裏切られ、職も金も失ったその男が、すでに結婚した昔の恋人に再会する場面である。作中、最も悲痛な場面だ。
「笑うんだ、しかし、ただ笑うんじゃない」
へらっと笑った雅之の頬を叩き、斎藤は手ぶりを交えて表情を作ってくれた。
「いいかい、表現とは、常に抑圧された感情の裏返しだ、辛い、苦しい、悲しい、泣きたい、だからこそ笑うんだ、わかるか、雅君」
「……はい」
「その笑いで、悲しみを最大限に表現する。いいか、雅君、最高の演出とは、決して直接的であってはならない、ストレートな言葉でも行動でもない、常に逆の何かでその感情を表現するんだ」
わかんねーーーっっっ
頭を抱えたい雅之だったが、きりよくそこで休憩となった。
「雅君」
おはぎ、こと萩尾怜治が、笑いながら歩み寄ってくる。
差し出されたお茶を受け取り、雅之は嘆息しながらベンチに腰かけた。
どうやら、覚えなければならないのはセリフだけではないらしい。
「あー、やっぱ俺には無理だったかも、頭悪すぎだし」
「そんなことないよ、なんか見てるだけで笑えるって、みんな雅君のこと絶賛してるから」
「んなバカな」
「ま、下手は下手だけどさ」
それにガクっとなる。まぁ、図星ではあるけれど。
「雅君、芸人になればいいのに」
「無理っすよ、無理無理」
「んー、でもいいボケかましてるんだよね、むしろ台本無視でいかせようかって、斎藤さんも話してたくらい」
「は、はは」
そりゃ、一種の嫌味なんじゃないだろうか。
すでに現場では、「アドリブ王」と呼ばれている雅之である。
「空気読むのが上手いんだ、そこは、やっぱ、第一線でやってたアイドルさんだからかなって、みんな感心してるよ」
「………………」
昔。
初めてテレビのレギュラーをもらった時、
「使えねぇのが来たな」
「空気が読めてないんだよね」
そんな陰口を聞いたのを、雅之は思い出していた。
そっか。
あれから2年、俺も少しは成長したんだろうか。
お笑い芸人のおはぎに誉めてもらったんだから、そこは少し、喜んでもいいような気がする。
「ただ、今みたいな真剣な場面はマジで下手」
がくっ。
「がんばろうな、キャプテン」
上手く落とされた所で、ごつい手で背中を叩かれる。
うん。
雅之は、額の汗を拭って立ち上がった。
頑張るさ。
スポンサーに嫌がられるのを覚悟で、起用を決めてくれたスタッフや、多分推薦してくれたおはぎのためにも、そして自分の明日のためにも。
別れてしまった仲間のためにも。
窓から差し込む午後の日差しは、まだ眩しい。
飛んだり跳ねたりの舞台だから、全身に心地よい疲労感がある。稽古の後は、数人で連れ立って飲みに行く。そこで繰り広げられる熱い演劇理論も面白い(途中でいつも寝てしまうのだが)、今夜は自動車学校があるから、アルコールは厳禁だけど。
「……………………」
不思議だな。
雅之はぼんやりと空を見上げる。
こんなに、日々は充実しているのに、
「東條さん?」
「ああ、ごめん、今行きます」
聡は、本を閉じて立ち上がる。
都内の公園、撮影の待ち時間。
戸外の撮影。汗をかかないために、日陰のベンチに腰をかけて休んでいた。
気付かなかったが、何度も呼ばれていたらしい、スタッフの一人が、汗を拭き吹き駆け寄ってくる。
そのスタッフが、聡が手にしているものを見て、眉を上げた。
「なんすか、時刻表?別の仕事でも入ってんです?」
「いや、暇あったら、一人旅でもやってみようかなって思って」
「へぇー」
一人でどこかに行くなんて、アイドルという以前に、聡の性格では考えてもみなかった冒険。
けれどもう、何度かその小旅行は実行している。
―――今週も、行けるな。
この映画のことが、ネットで話題になっていて、少しずつだが取材も増えた。上映館もようやく決まり、やっと軌道に乗り始めた感がある。
今だけかもしれないが、聡の日常は忙しない時を刻みつつあった。
奇跡は――今の時点では難しいけど、それでも、セイバー放送再開の希望は、ここにいる誰もが棄てていない。
「…………………」
不思議だな。
毎日が、こんなにあっという間に過ぎていくのに、
「もう……帰んなきゃ」
「うん、判ってる」
未練のように、額に、瞼に口づける。
青い夕暮れが室内を黄昏に染めている。
澪の腕に頭を預け、寄り添いながら見上げている真白の瞳が、心なしか潤んで見えた。
「98か、7くらい」
その、透き通った額に唇を寄せながら澪は言った。
「何?」
「真白の笑顔、100じゃないんだ、いつも少しだけ陰ってる」
「…………」
少しだけ不思議そうな顔になった真白が、無言で澪の胸に頬を寄せる。
澪はその頭に手を当て、髪をすくうようにして何度も撫でた。
「俺が不安にさせてんだ、そうだろ」
「……違う」
「そして、また真白はよからぬことを考えてる」
「…………」
「俺を向こうに戻そうとしてる」
胸から顔をあげ、真白が半身起こして澪を見下ろす。
窓を背にしたその表情の意味は、澪には理解することができなかった。
「逆だったら、どうする」
逆……?
肩から流れる髪をすくいながら、澪は真白の顔を見る。
「私が、意地悪で最低な女になって、意地でも澪を東京に行かせないようにしたら、どうする」
「…………」
「冗談」
柔らかな笑顔になった真白に、頬を指先で摘ままれる。
「何も考えてないよ、私、本当に何も」
「本当かな」
「澪が気にしすぎてるだけ」
衣ずれの音、囁き、ため息。
身体の向きを変えて、抱きしめて、抱きしめられる。
少し照れた眼差しを交わしあって、最後にもう一度キスをした。
「帰れなくなっちゃう」
「帰るなよ」
それでも澪には、真白の底にあるものが見えないような気がした。
どうやったら、この人を安心させてあげられるだろう。
どうやったら、もう2度と離れないと、心の底から信じてもらえるだろう。
全身で伝えても、それでもまだ、どこか憂いをひそめた笑顔で明るく振る舞う恋人に。
片付いたばかりの部屋。どこかで、携帯が着信を告げている。
俺が不安にさせてるんだろう。
澪は、未練と憂いを断ち切るように半身を起した。
「やべ、俺も今夜は、家にメシ食いに帰れって言われてんだ」
「中途半端な一人暮らし」
「うるせぇよ」
それでも、まだ離れられない未練が、2人の身体を寄り添わせている。
静かに翳っていく日差しは、真白が家に戻る時間が近づいているのを意味していた。
「明日も、来れる?」
「うん、まだ全部片付いてないし、この荷物なんとかしなきゃね」
「俺がメシ作るよ、親父さんに鍛えられたんだ、ちょっとした料理ならできるから」
「あー、言わないで、その現場が見れなかったこと、私、今でも悔しいんだから」
「いつだって見れるよ、また手伝いに行くし、俺」
言い差した澪は、真白の耳に視線を止めた。
「潰すの、穴」
口づけてから、聞いた。
くすぐったそうに、真白はわずかに身をよじる。
「……うん、そうなるのかな、怖いしね、うちの親」
「そっか」
ファーストピアスのとれた底に、小さなくぼみの痕がある。
このまま、何もしなければ、やがては穴は閉じるだろう。
「ごめんね、澪からもらったピアス」
「ああ、いいよ、あんな騒ぎがあったもんな」
プレゼントしたピアスは、大阪を引っ越す時に、紛失したと聞いていた。一度もつけてもらえなかったことは、多少悲しくもあったけど、今となっては、東京での過去は、忘れたほうがいいのかもしれない。
「また買うよ、あー、耳がだめなら、別のやつ」
「いいよ、そんなの」
今度は、指輪を買いに行こう。
澪は内心決めている。
未来を確実に約束できるとは思わないけど、今、喜んでもらえる約束なら、何を言ったって惜しくない。
真白の笑顔が100になれば、もう他には何もいらない。
「澪がいれば、それだけでいいんだ、私」
「…………」
らしからぬ言葉に、澪は少し驚いていた。
うつむいたまま、真白は澪の肩に額を寄せる。
「他に何もいらない、本当に何もいらない」
「…………」
「澪が、私の傍にいてくれたら、それで」
澪は、目の前の髪に軽く唇をあてた。
胸がいっぱいになって、逆に、それ以外何もできそうもなかった。
「俺も」
「……好き」
「……うん」
「……澪が大好き」
俺も大好き。
もう、他には何もいらない。
なのに。
髪に顔をうずめ、澪は目を閉じる。
なのに、どうして何かが、埋まらないままなんだろう。
どうして心のどこかが。
何をしても空っぽのままなんだろう。
「まいったな、イタジさんまで、行方不明かよ」
携帯電話を閉じて呟く。
目の前には瓦礫の山。
私有地につき立ち入り禁止。
ここに、かつて、日本で一番大きな芸能事務所があったなど、誰が想像するだろう。知っていた人でさえ、いつかは、忘れてしまうだろう。
幼い頃に過ごした街並みを、今、どうしても思い出せないように。
「………ほんっと、何もかも、なくなっちまったんだなぁ」
さてと、
時計を見る。もう時間はあまりない。
残暑の街、柏葉将は、感慨を振り切って歩き出した。
※この物語は全てフィクションです。
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