15
 


「……本当に、あの時は色々迷惑かけちゃって」
 雅之の前で、氷の解けたコーヒーが、カランと軽い音を立てた。
「それはいいよ、雅君たちのせいじゃないだろ」
 対面席の人がそう言った途端、電話が鳴った。
 即座に立ち上がった前原大成は、背後のデスクの受話器をとる。
「はい、レインボウ、前原」
 忙しいんだな。
 雅之は、残りのコーヒーを飲み干してから、立ち上がった。
 東京都内の貸しビルの一室、閑古鳥が鳴く小さな事務所。しかし、誰もいないのは、現場が凄まじく忙しい証であり、この会社が繁盛していることを意味している。
 邪魔をするために寄ったわけじゃない、でも、さして用があったわけでもなかった。
 夏の終り、東京の日差しはまだ炎天下なみに厳しい。
 株式会社「レインボウ」。
 かつての、J&M……というより、ストーム専属の音響会社。
「悪いね、なんか現場でトラブってるみたいで」
 社長兼オペレーターの前原大成は、電話を耳に当てたまま、そう雅之に囁いた。
 よほど忙しいのだろう。乱雑に乱れた机の上には、コンピニの弁当殻が積み上げてある。
 ひと月ぶりに見る前原は、心なしか、額がますます後退しているようにも見えた。が、五十過ぎても少年のように活き活きとした目を持つ男は、精力的に電話に向かって指示を飛ばし続けている。
 やっぱ……来るんじゃなかったかな。
 雅之は所在なく、誰もいない室内を見回した。
 なんとなく――さびしくなって。
 そんな理由で来たなんて言ったら、叱られてしまいそうだ。
 謝罪したところで、とても追いつかないし、前原がそれを求めていないことも知っている。それでも、もしかすると、何かの許しを求めてここまで来てしまったのかもしれない。
 中止になったコンサートでは、最初から最後まで前原に迷惑のかけどおしだった。
 小さな音響会社を、イベンター会社に進化させようとしていたレインボウにとっても、あれは、取り返しのつかない失敗だったに違いない。
 芸能界史上類をみない形でのファン同士の騒動、そして緊急中止という最悪の結末。
 マスコミや同業者に、管理体制の不備を散々叩かれたレインボウは、イベンター会社への転進の道を、最初の段階でくじかれた形になった。
「とにかく、そっちは階段の幅、大至急こっちにファックスして、機材は俺の方でなんとかするから」
 忙しない前原の声、雅之が見上げた壁際のホワイトボードには、都内のライプの予定がぎっしりと書き込まれている。
(信用回復のためには、いい仕事沢山するしかないからね)
 そう言っていた前原は、あの夜からノンストップで走り続けているに違いない。
―――俺も、がんばらなきゃな。
 ビルを出た雅之は、ポケットに手を突っ込んで空を見上げた。
 雲ひとつない、ぽっかりと青い空。
 国道沿い、歩道の植樹からは、夏の名残のような蝉の声が響いている。
 雅之は目をすがめる。
 暑い夏だった、晴天続きで、記憶に残る空はいつでも気が滅入るほど青かった。
 暗く、重苦しく、息さえできないほど何かに追い立てられ、始終圧迫されていたような、今年の夏。
 息苦しさから開放された今、いつの間にか過ぎてしまった季節と共に、ストーム……というより雅之一人が、世間から取り残されてしまったような気がする。 
「信じらんない、もう夏休み終わりだしー」
「超早いよね、全然遊んでないよ、アタシ」
 雅之の隣を、女子高生の二人連れが通り過ぎる。
―――なんつーのかな、別に、だからどうだってわけじゃないんだけど。
 俺らにとっては、人生が狂うほどの大事件でも、世間的にはすぎたこと。そう思い知らされる平和なひと時。誰が言ったんだっけ、それでも地球は回ってる。
 あれだけ騒がれていたのって、一体何の意味があったんだろう。騒いでいた人たちって、そもそも何がしたかったんだろう。
「雅君、」
 背後から声が追いかけてくる。
「悪いね、せっかく来てもらったのに」
 振り返ると、ヘルメットを片手にした前原大成が申し訳なさそうに片手を上げていた。
「いや、いいっすよ、俺も今から仕事だし」
「舞台だってね、がんばれよ」
 前原が笑顔できびすを返す、リュックサックを背負った小柄な身体がビルの駐車場に消えていく。
「…………………」
 少なくとも、今、世界は、ストームなんてまるで忘れた所で回っている。
 最初から、そんなもの、あってもなくてもどうでもよかったかのように。
 いや、最初から、ストームなどどこにも存在しなかったように。
 先日、ずっと行けなかったCDショップに行って気がついた。ストームのCDが、すべて撤収されている。
―――懐かしのアイドルにさえ、なんねーのかもな、俺らは、もう。
 その時の衝撃を思い出し、雅之は自嘲気味に唇をゆがめた。
 事情は、すでにJ&Mを正式退社した雅之の元マネージャー、逢坂慎吾から聞かされた。
(とにかく今は、名だたるスポンサー企業が、ストームやJ&Mに対して、アレルギーっていっていいほどの拒否反応を示してるでしょ)
 今でも時々携帯で連絡を取り合っている逢坂は、現在マスコミ関係を中心に、再就職先を探している。
(柏葉君に対する世論の厳しさ、唐沢社長への強烈な反感、ストームそのものに対する信頼の失墜。そのストームの版権を引き継いだニンセンドーとしては、ストームそものものを封印して、市場の信頼を得るしかないんじゃないかな)
(それから、東邦プロが、ストームの楽曲や映像を一切使わないよう、音楽協会を通じて圧力をかけたって噂もある。まぁそこまでいくとブラックな世界の話で、真偽のほどは、僕なんかには判らないけどね)
 CDもDVDも、全て生産中止。
 五人の生きた証が、こうしてひとつひとつ、消去されていく。
―――……へこんでる場合じゃないし。
 雅之は、気を取り直して歩き出した。
 へこんだって、何も変わりはしないのだ。
 ストームがなくなって、将と憂也は遠い国の人になって、りょうは引退して、聡とは「お互いそっとしとこう」みたいな疎遠な関係になって――それでも、日常は変わりなく過ぎていく。
 J&Mから唐沢社長がいなくなって――唐沢社長どころかJ&Mそのものがなくなって、ギャラクシーも緋川さんもいなくなったのに、それでも、テレビは変わらない娯楽をお茶の間に流し続けている。
 世界は止まらない、雅之一人が、止まっている場合じゃない。
 止まれば確かに楽になれる。でも、この流れから簡単に振り落とされ、二度と戻れなくなるだろう。
 歯を食いしばってでも、食らいついていくしかない。
 信号は赤。
「やるさ、うん」
 足をとめた雅之は、自分に言い聞かせるように呟いた。
 悪いことばかりじゃない。
 新事務所からは、2年はテレビの仕事は無理だろうと言われていたし、正直、まともな芸能活動ができるとは思ってもいなかった。
 なのに、聡にも仕事が入り、雅之にも舞台の仕事が舞い込んでいる。
 この秋公演予定の舞台「どついたろか」。
 客演だが、雅之は主役である。
 崖っぷちサッカー部で一緒に仕事をした「おはぎ」こと萩尾怜治が所属している劇団からのオファー。おはぎが劇団に所属していたのにも驚いたが(本名にももっと驚いた)、まさか自分に「舞台」なんていう高尚な仕事が舞い込んでくるとは夢にも思っていなかった。
 大根を自負している雅之である。すべてが、本当に初体験。
 声の出し方ひとつからしてド素人だし、今はただ、長いセリフを覚えるのに必死である。
(西高東低って書いてあんの、意味わかんねーって聞いたらさ)
 憂也の軽快な声が、どこかで聞こえた気がした。
 信号が青になる。
「…………………」
 振り返るのは、もうやめよう。
 それが、傷つけた憂也に対してできる、唯一のことだ。
 どんなに苦しくても、立ち止まらずに、歩くことが。
―――憂也……。
 雑踏の中、ふと、背中を探してしまうのは、もう。
 もう――やめよう。



                16



「スポンサー決まったぞ!」 
 その声に、弁当を食っていた全員が顔をあげた。
「マジ??」
「すげー、やったじゃん、智」
「これで、もしかして俺たちにもギャラが出るとか」
 歓声の輪の中に、聡もいた。
 東京某所、ロケ用に借りた私立高校の校舎。
 紅潮した顔で飛び込んできたのは、尾崎智樹。
 映画「時の迷宮」の監督兼脚本、製作の全てを実質一人でこなしている男。
 その尾崎が、ずっとスポンサー探しに奔走していたことは、ここにいる全員が知っていることだった。
「で、どこだよ、それ」
「イレブンチェーンさん、ほら、コンピニの」
「うそー、すげーじゃん、でけーじゃん」
 歓声の中、一人、所在なく立つ聡に気付いたのか、尾崎が顔に笑いの余韻をにじませたまま、歩み寄ってきた。
「……おつかれ、尾崎君」
 聡が、控えめに声をかけると、「な、言っただろ」と言わんばかりに背中を思い切り叩かれる。
「しっかり頼みますよ、東條さん!」
 有り得ないほどハイテンションな声が、普段クールな尾崎の、爆発しそうに嬉しい今の感情を表しているようだった。
 企画当初についたスポンサーが、制作発表前になってまさかの撤退。一時は制作中止まで検討されたらしいが、尾崎はそこであきらめなかった。
 仲間内で初期資金をかき集め、なんとかスタッフを揃えて制作発表にこぎつけ、そして今日、見事に代わりのスポンサーを得てきたのである。
「東條さんのおかげですよ、有名どころが主役だから、なんとか企業も食いついてきた」
 弾んだ声で尾崎は続ける。
 伸びた蓬髪に口元には不精ひげ、寝不足のせいか鋭く充血した目。セイバー撮影時のきどったイケメンぶりは影をひそめてしまっている。
 今、尾崎は俳優ではなく、監督であり制作総指揮者なのだ。
「……うん」
 聡はぎこちなく頷いた。
 内心では、そんなに気をつかわなくてもいいのに、と思っていた。
 確かに尾崎が言うような面もあっただろう、が、主役が東條聡でなければ、スポンサーはもっと簡単に探せていたはずだ。
 聡は今、完全にテレビから干されている。
 名だたるスポンサーが、ストームを敬遠しているからである。
―――もしかして、最初のスポンサーが降りたのも、俺のせいなんじゃ……。
 そんな杞憂を抱いた聡だったし、実際その話は何度か尾崎にもしてみたが「東條さんには関係ないし、内容で勝負するから大丈夫、それにこの話、俺、東條さんイメージして描いたんです」と、尾崎はあくまで強気だったし、そして実際、今、その強気を実現させたことになる。
―――本当、すごいよ、尾崎君は。
 聡は素直に感嘆する。
 所属事務所には、当たり前だが猛反対されたらしい。私財を投げ打っての映画製作。
 尾崎智樹は、黙って立っているだけで、誰もが見とれる美男子である。演技力にも定評があり、固定ファンもついている。なにもわざわざ、とは誰もが思ったことだろう。
「よしっ、じゃ、一時から撮影な」
「えー、あと五分じゃん」
「きっつー」
 非難の声もどこか明るい。
 昨日が初顔合わせだった。そして今日が撮影初日。
 尾崎の母校だという高校の校舎。借り切った教室に、出演者やらスタッフやら資材やらが、所狭しとつめこまれている。全員が二十代、賑やかで楽しげで心地よい、音楽のような喧噪。
 当面はノーギャラ、弁当は自前、撮影機材も鏑谷プロからレンタルだし、スタッフは尾崎智樹の学生時代の友人たちだという。
 聡は手にした台本を机の上に置いた。
 特殊な能力を持った少年が過去と未来を行き来する幻想的なストーリー。聡は、主役の高校生トオル役。
 そのために黒く染め直した髪もそうだが、久々に着た学生服が窮屈で息苦しい。
 高校中退の、すでに二十歳を超えた自分が高校生役、という戸惑いもある。
 でも多分、この居心地の悪さは、その違和感のせいだけではない。
「ここ、俺的にはどうかなって思うんだけど」
「じゃあ、カメリハの時に調整してみる」
「誰かー、ガムテもってない??」
 なんか……。
 ふいに、胸が締め付けられるほど息苦しい、そして懐かしい感覚に襲われる。
 聡は立ち上がって、風にあおられる窓のカーテンを隅でまとめた。
(雅――っ、寝るなーっ)
(ここの振り付け、今から移すからすぐに覚えて)
(どうしろってんだよ、本番は明後日なのに)
「…………………」
 もう、決して戻らない日々の残像。
 もう、戻らないと、自分で決めてしまった場所。
「頑張りましょうよ、東條さん」
 背後から、どこか遠慮がちな声が聞こえた。
 聡は、少し驚いて振り返る。
「もう、そんな浮かない顔はやめてくださいよ、役作りじゃなかったら」
「そうっすよ」
 元「セイバー」の出演者たち。
 聡自身の「裏切り」により、出演番組の放送打ち切りという――最悪の事態を迎えさせてしまった仲間たち。セイバーのGANのメンバー。
 その数人が、聡を遠巻きに囲むようにして、優しい、気を使うような眼差しを向けてくれている。
「浮かない顔……してたかな、俺」
 聡は呟いて、それを否定するように精いっぱいの作った笑顔を浮かべた。
 してたのかもしれない。
 というより、正直言えば、自分が迷惑をかけた相手に対して、どう接していいのか判らなかった。
 現場は今日で初日。昨日は、まだスポンサーが正式決定していなかったせいもあり、他人行儀な挨拶だけで解散となった。仲間との再会にぎこちなさを感じていたのは、聡だけでなく、Ganのメンバーも同じだったのかもしれない。
 聡は居住まいを正して立ち上がった。
 緊張で口の中が渇いている。
 唇を舐める。
「本当は、」
 ようやく喉の奥に引っ掛かっていた言葉が出た。
「本当は昨日、最初にきちんと謝ろうと思ってた、でも、そんな雰囲気でもなかったから」
 雰囲気を察したのか、スタッフに指示を飛ばしてした尾崎が、しっと口元に指をあてた。
 ふいに喧噪が静まり、全員がしんとする。
 聡は再度唇を舐め、それから溜まっていた息を吐いた。
「今回のことは、本当にすいません、謝って許されることじゃないけど、本当に、本当にすいませんでした!」
 拳を膝の上で握り、聡は深く頭を下げた。
 本当に……申し訳なかった。
 Ganのメンバー。
 尾崎をのぞけば、彼らの殆どが、まともな形での事務所契約をしていない。
 フリーか歩合、つまり「セイバー」の打ち切りは、即座に収入を直撃したはずだ。
 正直言えば、この現場に来るのが聡には怖かったし、どれだけ罵倒されても、無視されても、我慢するつもりだった。
 なのに、顔合わせ初日の昨日、蓋を開ければ全員が拍子抜けするほど普段モード。
「俺の、考えなしの行動のせいで……みんなが、」
「いいですよ、もう」
 あっさりした尾崎の声が、聡の謝罪を遮った。
「俺ら、東條さんが思ってるほど、怒ってるわけじゃないですから」
「女関係のことじゃ、さすがにむかつきましたけど、まぁ、男だし、過ちはあるわけだし」
 一番仲のよかったメンバーが、その後に続く。
「そうそう、現場じゃ、純ちゃんと諒子ちゃん、東條さんとりあってばちばちだったよな」
「むしろ、東條さん、彼女いんのに気の毒だよなって」
 誰かが吹き出し ようやく、明るい声が飛び交いはじめた。
「オイ、過ちっつったら、純ちゃんが可哀想だろ」
「でもさ、あの子も週刊誌で告白とかしてなかった?」
「ちょっと意図的だったよな、まぁ、疑っちゃ悪いけど」
 聡は無言で視線をあげる。
「つか、気にしすぎっすよ、東條さん」
「上の人たちは金のこともあって、怒ってるかもしんないけど、俺らはちゃんと、もらうもんはもらってるし」
「……………」
 上の人たち――鏑谷会長と、ジャパンテレビの人たちだろう、多分。
 鏑谷会長と監督、プロデューサーには、騒動の後、唐沢社長と一緒に謝罪に行った。
 損害賠償、契約変更等のビジネスの話を淡々としていた会長の本心までは聡には判らない。ただ、迷惑をかけてしまった、そのことが辛くて、顔さえあげられなかったし、鏑谷も、一度も聡に声をかけてはくれなかった。
「最終回まであと少しで、いきなり放送中止には驚いたけど」
 尾崎が、かすかに嘆息して、それだけはくすんだ声で呟いた。
「それもなんだかな、柏葉さんの事件のことがきっかけではあるんだけど……東條さんはただ、友だち庇おうとしただけでしょ」
 聡が何か言う前に、周囲が頷いてそれに続く。
「今思うと、それくらいで?って感じだよな、そりゃ、暴力はいけないことだし、そう言われたら子供番組としては反論なんかできねーけどさ」
「中止はねぇだろ」
「そうそう、意味もなく世間の勢いに押されただけ、みたいな」
 聡の気持ちをよそに、元隊員たちの声は明るかった。
「それくらいで、降りるスポンサーとか、その程度でびびるテレビ局ってどうなのよ、俺はむしろ、そっちの方にむかついた」
「俺も」
「結構、俺らと同じようなこと思ってる連中、多いと思うけどな」
「そ、しょーもないことで騒ぎすぎ」
―――みんな………。
 何もかも、
「なくなよー、東條さん」
「がんぱって、世間のやつら、見返してやろうよ、マジで」
 気がつくと仲間たちに肩を叩かれていた。
 聡は頷いて、手のひらで涙を払う。
 何もかも、なくしたんじゃなかった……。
 なくして、そして得たものがあった。手にいれたものもあったんだ。
「このまま負けっぱなしは悔しいっすよ」
 背後から、尾崎に肩を叩かれる。
「奇跡の放送再開、俺たちのミラクルマン魂で、やってやりましょうよ。頑張りましょう!」
「うん!」
 聡は力強く頷いた。
 雅、りょう、将君……それから、憂也。
 俺、がんばっていくよ。
 一人で、いや、一人じゃないけど、お前らのいなくなった、この世界で。
 できることを、ひとつひとつ、やっていくよ。



              17



「じゃあ、来週からお願いできますか」
 扉が開くと共に、即答だった。
「あ、……はい」
 緊張していた澪は、立ち上がって一礼する。
「よろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ」
 面接、実技と、ずっと澪を見てくれた女性は、そう言ってにっこりと笑った。
 しなやかな長身に、明るいロングウェーブ、一目で、ダンスをやっていると判る雰囲気。
 実技も面接も同じ部屋だった。待たされること十分、澪の新しいバイト先はあっさりと決まった。
「教室は土日だけになりますけど、きっとすぐに話題になるでしょうね」
 澪の対面に座り、ビニールフォルダーから書類を出しながら、女は言った。
「いや……それは」
 かえって迷惑なのでは、と澪は言いよどむ。
 が、女はあらたかの事情は察しているのか、続きを遮るように笑って澪を見上げた。
「子供たちには、いい刺激になると思いますよ。J&Mのアイドルは、ここの生徒にとってはある意味究極の目標ですから」
 もうなくなっちゃったですけどね。
 そう言い添えて、「じゃ、契約書にサインしてもらえます?」と、バインダーに挟んだ白い紙を差し出される。
 福岡市博多区。
 タレント養成アカデミー「ドリームスクール」
 土日だけのアルバイトのつもりで、ダンス講師の募集に応募したところ、その夜の内に電話があって、即面接ということになった。
 福岡だから、少し移動が大変だが、条件を聞けば交通費も出るし、何より、澪自身が仕事を抜きにして楽しめる気がした。
「バイトじゃ惜しいんじゃないかしら」
「平日は、いろいろすることがあって」
 サインしながら、澪。
 いずれ、公認会計士の資格を取るための勉強。それもあるが、本音は、今地元を離れたくない。
 叔父夫婦には子供がいないから、やがて澪が、片瀬家の事業の一端を担うことになるのだろうし、今は、その期待に応えたいと思っている。
 澪の対面に座る女は、じっと澪を見つめている。
「やっぱり、バイトじゃ惜しいわ、あなた」
「そうですか」
「踊りには定評のあるJの方だけあって、相当秀逸だと思いました、振付師としてはもちろん、現役で何かされても十分なくらい」
「子供の頃からずっとやってましたから」
 記入漏れをチェックして、紙を差し出す。
「じゃ、少し待っててくださる?」
 立ち上がった女に、澪は携帯電話の使用の許可を聞いた。言われるままにロビーに出て、携帯を耳にあてる。
 何度か目のコールの後、すぐに明るい声が返ってきた。
「うん、採用、すっげ給料いいの、やっぱ持つべきものは技術だよなー」
 おめでとう、と、今日福岡まで同伴してくれた真白の声も弾んでいる。
「あと三十分もすれば、出れると思うから、うん、そこで待ってて」
 背後で、ふいに賑やかな音楽が流れ出す。
 携帯を切った澪は、つられるように振り返った。
 平日の朝のせいか、人気のないロビー。音源は、そこに添えつけの大型テレビだった。昼のワイドショーを流している。
 一時、恐怖で見ることさえできなかったそれを、澪は不思議なくらい静かな気持ちで見上げていた。
「年末に向けて、大きなサプライズが発表されました、紅白歌合戦で司会が決定しているヒデこと、貴沢秀俊さんと、ハリウッドデビューが決定した綺堂憂也さんが、NHKのお正月特別ドラマで夢の共演です」
 すげーな。
 まだ8月なのに、もう来年の話なんだ。
 澪にとっては、もう、遠い別世界の話。
 テレビでは、コンサート映像の断片なのか、華やかな笑顔のヒデが、画面に向かって手を振っている。
 切り替わって憂也。
 世界の巨匠に囲まれての、会見映像の断片。
 神妙にしているようで、どこかいたずらめいた目色が憂也らしい。
「…………………」
 憂也は、ヒデに追いついたんだろうか。
 それとも、追い越したんだろうか。
 5人にとって、ずっと大きな壁であり、ある意味仮想敵国みたいな目標だった貴沢秀俊。
 リタイアした澪は、日本の端っこで傍観し、憂也は今、ヒデの隣に立っている。
 寂しいとか悔しいとか、今更、そんな感情はないけれど――。
「澪」
 待ち合わせの場所は、駅前の広場。
 所在無くベンチに腰掛けていた恋人は、澪の姿を認め、嬉しそうに手を振ってくれた。
 今朝、二人で新幹線に乗ってここまで来た。地元を離れての初めてのデート。
 淡いブルーのワンピースにボレロ。明るい日差しの下で見る恋人は、澪には少しまぶしいくらい綺麗に見えた。
「ごめんな、遅くなって」
「いいよ、でもお腹すいちゃった」
 互いに指を絡めて歩き出す。
 新幹線の中でも、ずっと繋いで離さなかった手。少し大げさなくらい、多分良識のある人が見たら眉を寄せるくらい、恋人同士でいられる今を楽しんでいる。
 歩きながら、肩を抱き寄せ、その髪にキスをした。
「何食べたい?」
「うーん、パスタみたいなの」
 言いながら真白が、頭を肩に預けてくる。
 澪自身、自分の愛情表現が過剰だと思ったが、真白がそれを嫌がる風ではないのが、嬉しかった。
 乾いた風には、少しだけ海の匂いがした。
 澄んだ青い空から、明るい日差しが降り注いでいる。
「メシ食ったら、どっか行こうか」
「うん、そうだね」
「足延ばしたら、ハウステンボスとかに行けるかな」
「こんな半端な時間で行くんじゃ、もったいないよ」
 本当はどこでもよかった。
 こうして歩いているだけでも、二人一緒にいられるだけで。
 休日の繁華街、カップルや家族連れでショッピングモールは賑わっている。正午すぎ、ウインドウ越しに見るレストランやカフェには、軒並み人の列ができているようだった。
「並ぶのも面倒だから、外で簡単に食えるもんにしようか」
「うん」
 時折、ふっと通り過ぎる人が振り返る。あれ、みたいな目でじろじろ見られる。
 携帯を向けられた時、澪は躊躇なく睨み返していた。
 一般人、もう、怖いものは何もない。
 怖いのは、隣にいる人を失うことだけ。
 結局は屋台でホットドックを買って、海が見える広場のベンチに腰かけた。
「アパート借りるって、本気なの?」
 紙包みを破りながら、真白が言った。その話は、新幹線の中でもしている。澪は頷いた。
「うん、親父も賛成してくれてる、二十歳すぎて親と一緒っていうのもね」
「それ嫌味でしょ」
「女の子は別だよ」
 軽く唇を尖らせる。澪は笑ってその口元にキスをした。
 真白は、まだ先のことが定まらないのか、親元で店を手伝っている。
 色々考えているようだし、両親とも話し合っているようだが、大学へは、もう戻るつもりはないらしい。
「家にいろよ」
「……どうして?」
「一緒に住もうって言ったじゃん、あと二、三年もしたら、そうなるよ」
「なるかなぁ」
「なんだよ、俺こんなに頑張ってんのに」
 澪名義の貯金は、報酬の全てを母親が残していてくれたから、この年にしてはかなりある。講師のバイト料も、予想外にもらえそうだし、贅沢をしなければ、今、一人で生活するには十分だった。
「結婚したら、どんくらいかかんのかな。んで、子供でもできたら」
「そこまで考える?」
 真白は笑ったが、澪にしてみれば真剣だった。
 家の仕事って儲かってんのかな、親父も叔父さんもそこそこ羽振りよさそうだし、でも、それ、俺の代でつぶしちまったらどうしよう。
 ま、いっか。歌って踊れる会計士、食いっぱぐれることはないだろう。
 ふとおかしくなる。
 芸能界にいた時には、入ってくる金にも貯金の額にも頓着したことがなかったのに、これが、生きていくということなのだろうか。
「こんなとこに住みたいな、私」
「え?」
 真白が見上げているのは、海とは逆の方向にある高台、緩やかな傾斜になった坂、その道なりに並ぶペンション風の住宅だった。
「すっごい見晴らしよさそう、空気も綺麗だし、海は目の前だし、あんな家に住めたら嬉しいな」
「うわ、すげー高そう」
「高いとこ苦手?」
 いや、そっちじゃなくて。
 住宅ローンってどのくらいなんだろう。三十年かそれくらい、東京の賃貸と比べたら安いのかもしれないし、なんとかなるものかもしれないけど。払い終わるのが五十すぎか、はぁ……。
「何、微妙な顔して」
「いや……」
 腕を組んだまま、澪はしばし、茫然と高台の家々を見上げる。
「人生って、長いもんだと思ってさ」
「そっかな」
「……うん」
 今まで、駆け抜けるように生きてきた。振り返ることさえなかった日々。あらためてそれが、思い知らされる。
「私にはあっと言う間に思えるけど」
 え?と思った時、ふいに笑顔になった真白に腕を取られた。
「行こ、座ってる時間がもったいないよ」
















 ※この物語は全てフィクションです。



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