11
 



「真白」
「真白―っっ、元気だったか」
「お前、すっかり有名人じゃん」
「きゃー、本当に真白先輩だ」
 駅から乗ってきたバスを降りた途端、駆け寄ってきた出迎えの人を見て、真白は驚いて立ちすくんでいた。
 懐かしい顔、顔、顔。
 高校時代のバスケット部のメンバーたちが、少し大人びた顔を、ずらりと真白の前に並べている。
 男バスのメンバー、苦手だった荒神原もいれば、真白にとっては元彼になる尚哉もいる。後から入ってきたマネージャーもいる。澪と同級生だった連中もいる。
「ど、どうしたの、これ」
「あたしが呼んだのよ」
 少し自慢そうに、背後から七生実が顔をのぞかせた。
 瀬戸七生実。澪をめぐって色々あったが、真白にはただ一人の親友といっていい存在。
「夏休みも終わりだし、今夜が花火大会じゃない?だから同窓会がてら観にいこうって誘ったの」
 その七生実の背後から、ひょい、と見慣れた顔が出てくる。
「真白、だから片瀬なんてやめとけっつったじゃん」
 唐渡尚哉。
 久し振りに再会した幼馴染は、大柄な身体にみっしりと筋肉がつき、びっくりするほど男臭くなっていた。
「尚は余計なこと言わないの!」
 が、びしっと隣の七生実に言いくるめられている。
 澪の名前がでたことで、真白は少しドキッとしたが、周囲は穏やかな笑いに包まれた。
 嘘みたい。
 だって、みんな、県外の大学に出ちゃって。
 地元に残ってる人なんて、ごくわずかだったはずなのに。
 私のためにわざわざ――とまで自惚れる気はないが、七生実が、それを意図して声をかけてくれたのは明らかだ。
 立ちすくんで声もでないまま、真白はこみあげる感情を誤魔化そうと目をそらす。
「荷物は俺持つよ」
「まずは学校で、バスケしようぜ、再会ゲーム」
「負けた方が、缶ビール奢りな」
 え、でも。
 真白はさすがに慌てて、傍らの七生実を振り返った。
「私、家に戻らなきゃ」
「大丈夫、家の人にはちゃんと言ってあるから」
 七生実は長い睫でウインクする。
「ずーっと勤労少女してたんでしょ、1日くらい羽伸ばさなきゃ」
 いいんだろうか、でも。
 ほぼ一ヶ月ぶりの帰宅。お父さんもお母さんも、ものすごく心配してるような気がするんだけど。
「お前んとこも、大変だよな」
 真白の荷物を持ち上げながら、ぼそっと尚哉が呟いた。
「超、態度の悪いド下手な見習いが入って、どうも商売あがったりらしいぜ」
「えっ?」
 ばきっ、と、その直哉の頭を、七生実が拳で殴っている。
「いこ、真白」
「??う、うん」
 も、ものすごくいたそうだったけど、大丈夫かな。
 でも、昔からそうだったけど、なんだかお似合いだな、七生実と尚は。
 友達って、いいな。
 仲間に囲まれて歩き出しながら、真白は、自分の幸せをあらためて実感する。
 大阪で別れた彩菜も、週に一度はメールしてくれる。流川凪からも、時々、近況を知らせるメールが届く。
 人に傷つけられても、人に助けられている。
 晴天の空を見上げながら、真白は、その言葉の意味をかみ締めていた。




                 12



 着替えを済ませた真白は、むき出しの腿に、さすがに抵抗を感じながら、体育館の扉を開けた。
 予め、学校に話を通していたのだろう、女子更衣室に用意してあったのは公式戦用のユニフォーム。
「ジャージでいいのに」
 真白は思わずぼやいている。
 当時と、さほど体型は変わってはいないけれど、二十歳すぎて、ここまで脚を出すのは痛いような気もする。
―――あれ、誰も来てないのかな。
 薄暗い体育館は、妙に静まり返っていた。
 七生実と、他の女子メンバーは、買出しに行くといって、自転車で出てしまった。
 男子部の連中は、もう更衣室から消えていたから、ウォーミングアップくらい始めていると思っていたのに。
「………………」
 一人、いた。
 午後の日差しだけが薄く差し込む館内、一人、所在無くドリブルをしている人影。
 センターサークルに立ち、まるでボールと遊んでいるような頼りなさで。ゴールマウスの下まで進んで――すうっと腕を伸ばす。
 カンッ、と硬い音を立てて枠に弾かれたボールは、そのままバウンドして真白の足元に転がってきた。
「……下手」
「いたんだ」
 ボールを拾い上げ、真白はそれを、澪の胸元に投げ返した。
 夢?
 それとも、幻?
 高校の時と、同じユニフォーム。
 同じくらいの長さに切られた髪。
 少し冷めた目で笑う横顔。
 時間の狭間の思い出の中に、迷い込んでしまったのだろうか。
 しかし、あの頃と違う証拠に、澪の背が少し高い。
 腰にも肩にも、少年とは違う、男の骨格が完成している。
「………何やってんの?」
 再び、ドリブルをはじめた澪に、真白は茫然と呟いていた。
「練習、今日負けたら、唐渡さんに、ビールケースごと奢ることになってるから」
 いや、そういうことじゃなくて。
 ようやく、ボールが、ゴールマウスに吸い込まれる。
 転がってきた球を、真白は再度、拾い上げた。
「……何、やってんの?」
「何って、俺だって元バスケ部じゃん」
 澪が手を伸ばす。
 真白は、一歩引いて、手にしたボールを投げ返した。
 今度は、澪はそれをよける。肩の横をすり抜けたボールは、音を立てて、体育館の床に転がった。
「ボールじゃないのに」
「………………」
 澪。
 澪が、
 信じられない、嘘みたい。
 澪が、笑ってる。澪が、そこに立っている。
「泣いたら、七生実さんの思う壺だよ」
「………泣いてない」
 歩み寄ってきた澪の手に、肩を抱かれる。
 素肌に触れたあたたかな手のひら。
 うつむいた澪の髪が、額に触れて、そのまま抱き寄せられていた。
―――もう……
「りょ……」
「ごめんな」
「……………」
「一番辛い時に、ほっといて、ごめん」
 真白はただ、首を振る。澪の匂い、澪の声。言葉が何も出てこない。
 もう、会えないと思ってた。
 最後に、2人の手が離れてから。
 もう――会えないんだと、思っていた。こんな風には、絶対に、二度と。
 こんな風に、澪の温もりを感じることは、もう絶対にないんだって。
 澪の手が、何度も優しく髪を撫でてくれる。
 まるで人目を気にしているように、素早いキスが、額に触れてすぐに離れた。
 二度と会わないと決めていた頃の自分が信じられないほど、今は、この温もりが愛おしい。
「何……してるの、今」
「バイト、昨日で終りだったんだけど」
「……そっか」
 真白は、涙を拭って顔をあげる。
 バイトしてんだ、澪が。
 想像できないよ、一体何やってたんだろう。
「また仕事探すつもり、大学行くよりは、資格とって働こうと思ってるから」
「………………」
 それには、言葉を返せないまま、澪の顔をただ見上げる。
 けれど澪の目は、もう全てを割り切った人のように、さばさばしていた。
「芸能界が向いてないってマジでわかった。もう、戻らないよ、東京には」
「本気なの?」
 本気で、そう思ってるの?
 それとも、それは。
「本気」
「…………」
「やりたいこと、びっくりするくらい沢山あるんだ、今までできなかったことばっかだったから、俺」
 真白の不安を見越したのか、澪は、少しいたずらめいた笑顔になった。
「逃げてんるんじゃないよ、前進してんの」
「…………」
「まだ、先なんて真っ暗で、頼りないけどね、それでも、ぼちぼち歩いてくから」
 拾い上げたボール、ふいに身体を反転させた澪が、見事なシュートを決める。
「澪……、でも」
 背後から拍手と歓声が巻き起こり、真白の言葉は飲み込まれていた。




               13




「どうしたの?」
 頭に、ばさっとタオルが投げられる。
 ベンチでジュースを口に運んでいた真白は、少し笑ってから、それを手に取った。
「どうしたのって」
「ずっと、不安そうな目で見てるから」
 真白の隣に腰掛けながら、七生実は自身も汗を拭う。
 窓を開け放っても暑い体育館に、晩夏の熱気がこもっている。
 男女混合の試合は、遊びながらも白熱して、今もフィールドでは、尚哉と澪が、身体をぶつけ合うようにしてボールを奪い合っていた。
「澪上手いね、尚は大学でもバスケやってるのに、遜色ないんだもん、驚いちゃった」
「センスかな、でも、それだけって気もするけど」
 結局は体力がないから、負けている。
 せりあいに負けた澪が、どんどん引き離されていくのを見ながら、真白はこの後、澪がどれだけ悔しがるか想像して、笑っていた。
「澪、もう芸能界には戻らないって言ってたよ」
 七生実が、話を元に戻す。
「……うん、聞いた」
「いいじゃない、それで、何をそんなに暗い顔してるのよ」
「……………」
 澪の居場所。
 澪の生きていく場所は、本当にここなんだろうか。ここでいいんだろうか。
 それが、真白には判らない。
 もう何年も前、澪をこの町から追い出すようにして東京に行かせた真白には、再び澪が、ここで生きていくと決めたことを、どう受け止めていいか、判らない。
「真白と澪は、今までいっぱい苦しんだんだから」
 七生実の手が、真白の背を優しく叩いた。
「もう、そんなこと気にしないでいいんだよ、幸せになっちゃえばいいんだよ」
「……………」
 そうかもしれない。
 でも。
「ねぇ、真白、どんな普通の恋人だってさ、永遠に幸せな時間なんて、絶対にないんだよ」
「……………」
 振り返った七生実の目は、どこか遠くを見つめているようだった。
「いつかは別れるの、だって絶対いつか、人なんて死んじゃうじゃない」
「………………」
「儚いんだよ、生きてる時間も、愛し合える時間も」
 フィールドから、七生実を呼ぶ声がする。
「先のことなんて、あれこれくよくよ考えるのはやめなよ」
 七生実は、そう言って立ち上がった。
「今、一緒にいられる時間があるなら、一緒にいたらいいんだよ」




                 14




「手紙……読んだよ」
「うん」
 夕暮れの坂道。
 真白と澪は、手を繋いだまま歩いていた。
 浴衣姿のカップルや家族連れとすれ違う。今夜、これから仲間たちと花火に行く澪に、真白は家まで送ってもらっていた。
 いくら両親がそれを許しても、今夜だけはきちんと家に帰りたかった。
 十分楽しい時間を過ごした。もう、それだけで、全てが報われて満たされるくらいに。
「色々考えさせられた……俺も、こんなになって、色んな人に助けられたから」
「そうだね」
「真白の言うように、人には、色んな面があるのかもしれない。ただ、それが一面であっても、あんな目にあったことが、俺には忘れられるとは思えないけど」
 真白は無言で、澪の横顔を見上げる。
「……それに俺には、そんなすごい力なんてないよ」
「………………」
「あっても、今は、……身近で俺のことを心配してくれてる人を、安心させるのが、先かなって思う」
 そっか。
 それが、澪の決めたことなら、口を出すことじゃないのかもしれないけど。
「本当に、戻らないの」
「うん」
「……未練はないの」
「ないよ」
 不思議なほど、淡々とした声だった。
「聡と雅は映画と舞台が決まってる。憂也なんか海外デビューだ。みんながそれぞれの道で頑張ってるのが、すごく嬉しいんだ、俺」
「柏葉君は」
「………………」
 それには黙る澪、まだ一点、柏葉将のことだけが、自身で消化できていないことが、その表情に表れているようだった。
「将君のことで、今、言えるのは」
 はじめてその横顔が、心もとなく揺れて見えた。
「俺自身が、しっかり生きれば、将君も喜んでくれるって、それくらい」
 けれどそれを、自身で否定するように、澪は静かに言葉を繋ぐ。
「今はまだ会えないけど、何年かして、自信もって将君と会える日が、来ればいいと思ってる」
 そっか。
 夕日が、濃い影を、アスファルトに刻んでいる。
 本当に澪は――ここで生きていくつもりなんだ。
「真白は、これからどうすんの」
「………うん」
 どうなるんだろう、それは、今夜、両親とも話すんだろうけれど。
 そういう意味では、真白にしても、澪のことばかり気にかけてはいられない。
「どうなるかわかんないけど、どうしたいのかっていうのは、ちょっと見えたかな」
「何?」
 上手く、言えないんだけど、まだ。
「……人の心には、神様と悪魔の両方が住んでて」
「?うん」
「どっちを出すのも、きっと、その人次第なのね」
「……そうだね」
「でも、誰だって、悪魔でいるより、神様でいる方が、楽だし気持ちいいじゃない?」
 それには、澪は答えない。
 ある意味、真白より深い部分で、芸能界の闇を知っている澪には、その部分は納得できないのかもしれない。
 真白にしても、自分が理想論を言っているのは自覚していた。
「私たちは、小さくて、非力で、他人の心の中の神様を出すのは、すごく難しいと思うんだけど、自分の神様をいつも出すことは、できるんじゃないかと思うのね」
 だって、真白ちゃん、今、すごく素敵な笑顔だったから。
 まるで、仏様みたい。
 もし、あの時、自分にそんな笑顔ができていたとしたら。
 それは、間違いなく、そう言ってくれた老婦人の笑顔のおかげだった。
「そこから、何かが他人に伝わっていくのかもしれない。いかないのかもしれない、それは、わかんないけど……」
「………………」
「そういう生き方ができたら素敵だなって、そう思った」
「………………」
 わかるかな。
 へんなこと言ってるって、思われたかな。
「なんとなく、判る」
「そう?」
「真白が笑ってると、俺も幸せだから、そういうこと?」
 近い……けど、そんなこと、綺麗な真顔でさらりと言われても。
「じゃ、俺のことも、ずっと幸せでいさせて」
 緩やかな坂、両側に民家が点在している、穏やかな家庭の灯り、見下ろした視界には紫茜色に陰った広い海、空には宵の明星が輝き、どこかで汽笛の音がした。
 沈みかけた夕日が、その赤い残滓を、家々の屋根の尾に滲ませている。
 澪、私ね。
 ずっとこの坂を、こんな風に澪と歩くことが、夢だったんだよ、本当だよ。
 人生に、そんなに悪いことなんて絶対にないよ。
 色んなことがあったけど。
 あんなことがなければ、澪とこうして、2人でいられる時間なんて、絶対になかったと思うから。
「真白……」
 腕を引かれ、人気のない建物の影で、再会して初めて抱きしめあった。
 目を閉じた時、睫毛が触れた。
 暖かな唇。
 そっと触れて、ゆっくりと離れる。
「………反省の色なしかな、俺」
「………うん……」
 私も……。
 腰に腕を回して抱きしめあい、もう一度、唇を重ねる。
 例え世界中に非難されても。
この、苦しいほど好きな気持ちは、もう誰にも止められない。
「……好きだよ」
 澪が囁く。
 柔らかなキスが、額に、頬に、唇を包み込むように、続く。
「……好きだ」
 そんなに、言わないで。
 もう、澪と別れることができなくなる。
 心のどこかで覚悟していた場所に、二度と戻ることができなくなる。
 髪を撫でられ、その指が首を滑って頬を抱かれる。
「そんな目しなくていいよ、もう」
「澪……」
「絶対に、どこにもいかないから」
 額を、そっと合わされる。
「絶対、約束する」
―――澪……。
 左手を持ち上げられて、薬指に澪の唇が触れた。
「ここで、幸せになろうな、俺たち」
 プロポーズみたい。
 真白を見下ろす澪の顔に、子供のようないたずらめいた笑みが浮かぶ。
「いいよ」
 え? 
「今日は泣いてよし」
「もう……」
「やっと笑った」
 笑いながら、それでも真白は泣いていた。
 笑おうとしても零れる涙を、何度も何度も手のひらで拭った。そして思った、今日のこの幸せを、私は忘れることはないだろう。この先、二人に何があっても、絶対に。
「なんでもできるよ」
 澪の声は明るかった。腰を抱かれて持ち上げられる。
 真白は慌てて、その肩に腕を回す。
「ちょっと、澪」
「もう、なんでもできる、普通の恋人同士なんだ、俺たち」
「澪ったら」
「やってみたいこと沢山あるけど、まずは人前で手を繋いでデートしよう」
 笑いながら、澪の指が真白の頬に零れた涙を払った。
「俺の彼女だって、大声で叫ぶから」
―――澪……。
「一生俺のもんだって、世界中に宣言するから」
「…………」
 澪。
 視界が潤んで、零れおちたものを、澪の唇が受け止めた。
 真白は、その頬に指で触れる。
 目を閉じた。
 指先に触れる澪だけが、真白が感じる全てになる。
―――大好き……
 愛してる。
 判った。
 もう、澪以上に好きになれる人なんて、絶対にいない。
 恋が中毒からくる勘違いなら、一生そのままでかまわない。
 もう迷わない。
 これが、きっと、私の人生で最後になる恋だから。
 身体を離した澪が、腰に回そうとした腕をふと止めた。
「両親公認ってのも、なんだかな」
「どういう意味?」
 少し照れた微笑を浮かべた澪に、うながされるようにして、再び手をつないで歩きだす。
 少し濃くなった夕闇の空。
「挨拶しよっか」
「えーっ、ちょっと待って、それは無理」
「いいんだ」
「でも、うちの親」
「行けばわかるよ」
 澪の笑顔の意味は、判らないけれど。
 迷わない。
 真白は暮れていく街を見下ろしながら、澪の暖かな手を強く握る。
 もう、迷ったりしない。


















 ※この物語は全てフィクションです。



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