――4――

 




                                     


                  10
 
 
 渡された台本を隅から隅まで読んだ拓海は、こんな役どころが自分に回ってきたことに、心から驚いていた。
 春の新ドラマ。
 タイトルは「危険な恋」
 朝ドラ出身女優、石原ひかり主演で、相手役は今注目の人気俳優筒井康夫である。
「緋川君の役は、筒井君の弟役、一見遊んでる大学生、だけどナイーブ、みたいな」
 Fテレビ月9担当プロデューサー、萩野灰二が、早口でそう説明してくれた。
 室内でもサングラスをかけたままの男は、夏だというのに、ダークなスーツ、そのネクタイさえ緩めようとしていない。
 Fテレビの控え室。
 新ドラマのキャスティングは、まだ調整中の段階だったが、緋川拓海だけが、プロデューサー荻野に直々に呼び出され、役柄の説明を受けていた。
 狭い控え室はヘビースモーカーの荻野のおかげで、空気さえ濁ってみえる。
 あれほど一時煙草に依存していた拓海だったが、不思議と、自分が吸う気にはなれなかった。
「悪役だし、石原さんと結構濃厚なラブシーンもあるし、……まぁ、役のイメージに関しては、事務所に了解とってるけど、どう、緋川君的には」
 よほどせっかちなのか、頭の回転が速いのか、荻野の声は、時に聞き取れないほど早口になる。
「はぁ」
 拓海は曖昧に答えて面を伏せた。
 正直、戸惑う気がないでもなかった。
 月9というのは、Fテレビの看板ドラマ枠である。確実なヒットが見込めるドラマ出演は、願ってもない話なのだが。
 こんな破廉恥な悪役を、一応アイドルがやってもいいものなのだろうか。
「実は、君の事務所からは、色んなシーンでダメだしが出てるし、出ると思う、これからも。最終回までの脚本があがってくれば」
 荻野は灰のたまった灰皿に、自らがくゆらせていた煙草をねじ込んだ。
「が、僕は、それは現場のアドリブで、できるだけ撮っちゃいたいと思ってる、視聴率があがれば事務所も絶対に文句を言わないし、言わせない自信がある、どう、緋川君」
「………アドリブっすか」
「というか、むしろゲリラ撮影」
「…………」
 荻野は唇だけで薄く笑う。実際、サングラスのせいで、男の表情は掴みにくかった。
「緋川君はさ」
 そしてスーツに包まれた脚を組む。その動作の全てがさまになっている。
 すげぇ人だな、と、拓海は素直に思っていた。
 荻野灰二は、無論、芸能人ではない。顔立ちもスタイルも平凡だ。だが、実の所この部屋に入った最初から、拓海は荻野という男にひきつけられ、そして圧倒され続けていた。
「今まで爽やかな好青年の役しかやってないでしょ、ちょっとしたイメージのシフトになるとは思うんだ、君ももう二十歳だし、大人のセクシーさを売りにしてもいいと思う、セックスは好きだろ」
「……はぁ……はっっ?」
「そういう色気をね、言葉ではなく、目で出すんだ、身体じゃないよ目で出すの、君はそれができる素材、だから君をチョイスした」
「…………」
 実際、迷う時間はわずかだった。
「……いや、やりたいっす、よろしくお願いします」
 拓海は立ち上がって頭を下げた。
 本能的に、これが、自分でも何かの転機になるような気がした。
 もしかすると、荻野という男が持つ雰囲気が、拓海の気持ちを自然に高揚させていたのかもしれない。
「このドラマはね、あたるよ、緋川君」
 別れ際、荻野は、かすかに笑ってそう言った。
「がんばります」
 そう言いながら拓海は、この荻野がまだ三十になったばかりだというのを思い出していた。
 なのに、この貫禄はなんなんだろう。
 身長は拓海の耳ほどしかない、どちらかと言えば華奢な体躯をしているのに、妙な精気というかオーラが全身から漂っている。
 荻野灰二。
 この業界では、間違いなくトップクラスに立つ敏腕プロデューサーである。
 若くして電通から独立、番組制作会社を設立し、そしてFテレビに引き抜かれてわずか数年で今の地位にたどり着いた。次々と新たな切り口でヒットを飛ばすため、業界の異端児とも言われている。
 今のドラマブームを作ったのは、彼だといっても過言ではない。
 拓海が圧倒されていると、荻野は口許から笑いを消し、少し皮肉気に肩をすくめた。
「これは長年こういう仕事してきた僕のカンだけどね。君は、これからは活躍の場をドラマに移してもいいと思う。これからのアイドルはドラマから人気の火種がつく時代だ、僕はそう思ってる」
「………はぁ」
「まぁ、不服はあろうがね、君の本業は歌手で、しかもアイドルだから」
「…………」
 自然に顔が憮然としたものになっていた。まるで、拓海の本心を言い当てたような荻野の言葉に、わずかな反発を覚えてしまったのかもしれない。
 が、荻野はその反応を見越したように、優しく笑った。
「この役を汚いと思うなら、物足りないと思うなら、不動の人気を得て上にいくことだよ、緋川君。君はハンパな原石だ、まだ半分も光りきってない」
「…………」
「明日を見るんじゃない、10年後の自分を見なさい、ま、いい仕事をしようや、緋川君」
 荻野灰二。
 10年後、緋川拓海は再びこの男に会うことになる。今とは、まるで違う立場で、環境下で。
 が、無論そのことを互いに知るはずもないまま、2人は挨拶を交わし、控え室を後にした。


               11


「おい、聞いたかよ、秋の番組改変」
 控え室で、出番待ちをしていた拓海は、その興奮気味の声に驚いて顔をあげた。
 頬を紅潮させて飛び込んで来たのは、メンバー最年少の賀沢東吾である。
「夢をあなたに、思いっきりリニュするらしい、司会進行を全部ギャラクシーに任す形にして」
「マジかよ」
 読んでいたサッカー雑誌を投げだすようにして、まず天野が立ち上がった。
「で、番組タイトルが、愛ラブ・Galaxy、月曜の10時だぜ、ゴールデンじゃねぇけど、Fテレで、俺らの看板もてるんだよ」
 マジかよ、すげーっっ。
 やったじゃねぇか、オイ。
 メンバーたちの喚声を聞きつつ、拓海も自然と唇を緩ませていた。
 みんなが手放しで喜ぶのも当然だった。デビューして3年、どうしても手が届かなかった看板番組なのである。
 こういうこともあるものなのか、と思っていた。
 不思議だった。不得手なものを受け入れようと思った途端に、全てが流れるように上手くいきはじめている。
「拓海のコントが、結構受けてるからじゃねえの」
 天野がそう言って、拓海の肩をばん、と叩いた。
「最近、みょーにふっきれてるよな。くっだらねぇことも結構楽しげにやってるし」
「別に……普通だよ」
 少し照れて、拓海は髪をかきあげながら立ち上がった。
「俺、ちょい、自販」
 前の撮影が長引いているため、もう時計は深夜を回ろうとしていた。バラエティの撮りではよくあることで、もう、それには慣れっこになってしまっている。
「何がきっかけかな」
 廊下の隅の自動販売機の前に立つと、いつの間についてきたのか、背後にはメンバーの1人、草原篤志が立っていた。
 年齢も事務所入りした年も、拓海より若い。温厚だが秘めた情熱を胸の底に抱いているような物静かな男である。
「何がってなんだよ」
 普段、あまり話さない草原に話し掛けられたことに、拓海は普通に驚いて聞き返していた。
「いや、天野君が言ってたからさ。あのブス猫が」
 自販機にコインを入れる、草原の横顔は楽しげだった。
「自分の命と引き換えに、緋川君にカツ入れてくれたんじゃないかって」
「…………なんだよ、それ」
 笑おうとして笑えなかった。
 むしろ拓海は、自分がひどく恐い顔になっているような気がした。
「だったら、僕も、向日葵には感謝しなくちゃね」
 熱いコーヒーに息を吹きかけながら、草原は静かに続けた。
「緋川君は、すごい奴なのに、僕なんかからしたら、殴りたいほどすごい才能もってんのに」
「…………」
「くさってんなよ、マジになってみろよ」
 初めて聞くような、草原らしくない口調に、拓海は茫然と顔をあげる。
 が、次の瞬間、草原は、彼らしい穏やかな表情に戻った。
「……僕は、いつもそう思ってたよ」
 普段大人しいとばかり思っていた後輩の――初めて聞くような本音に、拓海はただ驚いていた。
「天野君は、ああいう人だけど、やっぱ拓海のこと心配してたんだと思うよ」
 飲み干した紙カップをダストボックスに投げ入れながら、草原は穏やかな口調で続ける。それには、拓海は失笑していた。
「あいつはそんな柄じゃねぇよ」
「そうかな」
「草原君、そろそろスタジオ入ってください」
 背後から、マネージャーの声がする。それに「はい」とだけ丁寧に答え、草原は優しい目を拓海に向けた。
「天野君、緋川君の飲みには絶対ついていくでしょ……他に予定入ってても、絶対」
「………夜遊びは、あいつの趣味だろ…」
 それもあるけど。
 草原はくすっと笑う。
「天野君は遊んでる風にみえてしっかりしてるよ。でも、僕からすれば、緋川君が一番危なっかしく見えるからね」
 天野は――お目付け役のつもりだったとでも言いたいのだろうか。
 さすがに照れて、拓海は草原から目を逸らした。
「……うるせーよ、後輩」
「ははは」
 かすかに笑って、草原は背を向ける。
 1人取り残された拓海は、コーヒーの苦さを不思議な温かさで噛み締めていた。
 そっか。
 そうだったのか。
(―――拓海君が楽思うとこで変えるものええけど、せっかくだったら、今いる場所で変えたらもっとええ思うよ)
 ふいに、あの女の声が蘇る。
 あの夜とは、まるで違う意味を持って。
 そっか……そうだよな。そういうことなんだよな。
 不思議なほど素直な気持ちで、拓海はそう思っていた。
 コーヒーを飲み干した拓海が控え室に戻ると、そこには天野雅弘だげか残っていた。
 相変わらずイヤホンを耳に差し込んで――呑気そうに鼻歌を歌っている。
 通りすがりに、拓海はその頭を軽く叩いた。
「お前、夜遊びは、てめーの趣味じゃなかったのかよ」
「……は?なんだよ、そりゃ」
 びっくりした様に顔を上げた天野は、いぶかしげに瞬きしている。
「なんでもねーよ」
 拓海は苦笑し、自分の定位置に腰掛けた。
「そういや夜遊びで思い出した、ちょい、気になってたけど……お前が言ってたランパブの女の子」
 拓海が雑誌を広げた時だった。ふと気づいたように、天野がそう切り出した。
「わっさんに聞いておどろいた、可愛い子だったはずたよ、元々は歌手志望で、わっさんが面倒見てたこともあったんだと」
 自然と眉をしかめていた拓海は、そこで表情を止めてしまっていた。
「…………え……?」
「グラビアでデビューしたけど売れなくてさ、で、他の事務所に移っちゃって……まぁ、そこが、サイアクのとこだったんだろうなぁ、今、ああいう仕事してるってことは」
「…………」
「わっさん、悔やんでたよ……もっとちゃんと叱ってやりゃよかったって……。あの子、上京してる間にお父さんが交通事故で死んじゃったんだと、まぁ、いってみりゃ、孤独な子なんだよな」
「…………」
 お父さんが。
(―――観覧車の中で、お父ちゃん色々しゃべってんねん、)
(―――うちの小さい頃のこととかなぁ、自分の人生観とかなぁ、もう一生懸命しゃべってんねん、うち、何機嫌とってんねん、このクソ親父思うてな、もう一言も口きかへんで、むっつりしたまんまやった)
(―――うち、お嬢やねん、親厳しいし、あかんよ、男女交際は)
 あの莫迦。
 最後まで嘘ばっかつきやがって。
「………なんて、名前だよ」
 へ?
 天野は唖然としている。立ち上がった拓海は、その肩を掴みかかるように抱いていた。
「そいつ、その女、なんて名前だよ!」
「……だから……向日葵、え?だから拓海、その子に興味あったんだろ?ブス猫と同じ名前だったから」
「……………………」
 偽名だと思っていた。いや、最初、確かに女はそう言っていた。
(―――昨日な、緋川君、寝言で何度も向日葵って言ってたから、うちの名前思い出すまで、うちのこと、向日葵って呼んでええよ)
 酔ったはずみで向日葵のことを口にして、それで、その名前を――。
 拓海は唇を押さえていた。
 向日葵が猫ことだと……じゃあ、あの女にはわかっていたんだろうか。
 俺は寝言で、向日葵が猫だと、そんなことまで説明したんだろうか。
 いや、そんなはずはない、それはあまりにも不自然だし、猫の向日葵のことは、拓海は一言も話していない。
 なのに女は、向日葵が何をさすか、最初からちゃんと知っていたような気がする。
 向日葵。
 玄関で死んでいた向日葵。
 マンションに、いきなり入り込んでいた女。
(――うち、拓海君の幼馴染やん、すごく仲よかったの、覚えてないかな)
 ちょっとまて、向日葵を拾ったのは……俺が、大阪にいた頃で。
「いるんだよなぁ、そんな変わった名前をつける親」
 拓海の態度をどう思ったのか、天野は、ちょっと取り繕ったように肩をすくめた。
「あのブス猫は、お前が名前つけたんだろ、いっつも思うけど、らしくねえ名前だよな」
 わかった。
「……拓海?」
「悪い、ちょい……黙っててくれ」
 水飛沫。
 ブンチョウ――文鳥。
 洪水のように溢れ出す記憶。
―――可哀相やなぁ
 雨が降っていた。そいつは――時々公園で会って遊んでいた、男のような女の子。
―――可哀相やなぁ、でも、うちは、猫だめやねん、おかあちゃん、文鳥こうとってな
 ばしゃばしゃと、水しぶきがして……そいつが猫を抱いて、俺が傘をさしてやってた。
 一生懸命走ったんだ、そう、抱いていた命が、今にも尽きそうな気がしたから。
 駆け込んだ獣医、お金持ってるの、と聞かれ、ひどく恥ずかしくてむかついたのを覚えている。
―――名前はうちがつけてもええ?拓海君がいややなかったら、
―――ブス猫やから、うちの名前つけたるわ、ええか、お前、向日葵やねん。
 向日葵。


                12


 走りながら、拓海はサングラスをかなぐり捨てた。
 視界が悪いうえに、この人ごみだ、そして時間はわずかしかない。
 時折すれ違う人が振り返る。が、それは、拓海を「J&M」緋川拓海と認めたからではなく、人がごったがえす東京駅のホームを、いい年をした大人が全速力で駆けていることへの非難と驚きのためだろう。
 立ち止まり、キャップを深く被り直した拓海は、息をきらしてホームの周辺を見回した。
 大阪行きの最終便。
 立ち止まった同時に轟音がして、新幹線がホームに滑り込んできた。拓海は素早く周囲を見回す。必ずここにいるはずだし、いなければ二度と会うことはできないはずだった。
 詰め寄せた人が、次々と車内に吸い込まれていく。拓海は焦りつつ、窓をひとつひとつのぞき、乗客の顔をチェックする。時折、あっという目でこちらを見る女の子がいる。それでも拓海は、窓から窓へ、すでに出発を待つだけになった新幹線の最後尾まで走り続けた。
―――いないのか……
「いねぇのかよ」
 舌打ちと共に呟く。立ち止まった途端、汗がひとすじ頬を伝った。タクシーを降りてずっと走りどうしで、もう、体力も限界だった。
 膝に両手を当て、がっくりと肩を落とす。
「……でてこいよ……莫迦猫……」
 ベルの音が、けたたましくホームに鳴り響く。
 拓海の目の前の車両では、窓越しに、女の子たちが興奮気味に手を振っていた。ああ――バレてんな、そう思ったが、もう動く気力も尽きかけていた。
 再び轟音と共に、新幹線がその巨大なノーズを闇に溶け込ませていく。
「………………」
 最終便。
 人気の途絶えたホームには、掃除道具を抱えた人と、そして仕事を終えた乗務員がちらほら歩いているだけだった。
「あかんなぁ」
 背後で声がした。
 拓海は、はじかけれたように顔をあげた。
「サングラスははずしたらあかんよ、うちでもわかったくらいやし、気づいた人、結構おったんやない」
「…………」
 拓海は、……ほんの二メートルの距離を開けて立つ女を上から下まで見下ろした。
 薄茶色のベリーショート。そばかすの散った白い肌に、寂しげだけど、綺麗な輝きを秘めた瞳。
 白のパーカーにジーンズ姿の女は、手に大きな荷物を抱えていた。
 どこか、潤んでいるようにも見えた、が、女の表情は、まるでからかうような楽しげなものだった。
「……乗らなかったのか」
「次あるし」
「ねぇよ、最後だろ、責任とれよ」
 まだ呼吸が平常に戻らない。拓海はそこで言葉をきって、何度か苦しい息をした。
「お前のこと聞き出すのに、店の女の子全員に色紙書いて握手したよ、責任とれよ、この莫迦猫、クソ恥ずかしい思いさせやがって」
「取り方……わかれへんし」
 女の目が揺れている。が、それは束の間で、すぐにすっきりとした顔で拓海を見上げる。
「うち、大阪に帰るねん、お父ちゃんがなぁ、帰れ帰れ、うるさいねん」
「…………」
 それは嘘だと、もう拓海は知っている。が、楽しそうに言う女の顔を見ると、もう何も言えなくなった。
 荷物を持ち替え、女は晴れ晴れとした顔を上げる。
「うちな、大学行く事にしてん」
「……知ってるよ」
 それは店で聞かされた。事務所で背負わされた借金を返した後、稼いだ金で進学する。最初からそういう事情で勤めはじめたのだと。
 店は拓海の部屋にいた時にはやめていたらしい。様々な後始末をすませ、今日、大阪に帰るというのは奇蹟のような偶然だった。
「きれいになるねん、生まれ変わるねん、もういっぺん、やりなおしてみるねん、逃げるんやないよ、ゆうとくけど」
「…………」
「………それでも、消えへんことは、あるけどな」
 少しだけ寂しげになった目は、それでも次の瞬間明るい向日葵のように微笑んだ。
 綺麗な笑顔だと思った。本当に――そう思った。
「きれいだよ」
「…………」
「そのままでも、全然きれいじゃん」
 女の顔が、はじめてぐしゃっと崩れたように見えた。
「……おおきに」
 女はうつむく、そのまま、しばらく言葉が途切れる。
 なんと言っていいか判らなかった。拓海は時計を見た。撮影を抜けたことは、天野がフォローしてくれている、が、そんなに悠長にしてもいられない。
「俺、今は何もしてやれないよ」
「…………」
「……今は、なにもできねーから、俺がハンパで……お前を傷つけるだけのつきあいになるから」
 女は微笑する。優しい笑い方で、そしてゆっくりと首を左右にふる。そんなこと気にせんでええよ、もう会えへんよ、その目はそう言っているように見えた。
「でも、待ってろよ」
「…………」
「俺、でっかくなるよ、くだらねーことで周りにガタガタ言わせないくらい、でっかい男になるからさ、俺」
「……拓海君…」
 ちょっと潤んだ女の眼が伏せられて、そしてさらに首を振る。
 何度も振る。
 拓海は周囲を見回し、そしてすばやく女の傍に駆け寄って肩を掴んで抱き寄せた。
「待ってろっつってんだ、わかったか!」
「…………」
「……わかったって言えよ」
「…………」
 痩せた肩が震えている。
 辛い恋なるな、拓海は思った。この先――どうなろうと、続こうと、壊れようと、これは辛い恋になる。自分にとってではなく、この女にとって。
「……向日葵……が……教えてくれた……」
 抱いた腕の中から、嗚咽まじりの声がした。
「………ん……?」
「店に来てくれた時から、うち……拓海君のことが心配でたまらんくなってしもうてなぁ。まるでなぁ……昔のうち、見とるみたいで」
「…………」
「…………知っとったけど、拓海君アイドルで、もううちとは違う世界の人やって」
「…………」
「昔、ちょっと遊んだだけのうちなんて、記憶にもないって、それは判ってたんやけど」
「…………」
「うちは、ずっと、……応援してたから」
「……悪かったな……」
 拓海は素直に言っていた。
 女の言うとおりだった。あれだけ一緒に遊んだのに、正直、殆ど記憶にはない。
 なのに、再会した瞬間から、不思議なほど居心地のよさを感じたのは何故だろう。
「……でも、偶然向日葵に会わなかったら………できひんかったよ、あんな真似」
「……向日葵が……」
「拓海君がうちの店から乗ったタクシーの運ちゃん、馴染みやねん。だいたいの場所聞いて、うろうろしとった、あほやろ、偶然会えたらええな、思うてん」
 女は涙に潤んだ目をあげて、照れたように笑った。
「……でも、会えたのは拓海君やなくて、向日葵。びっくりしたなぁ、くせのある毛並みが一緒やし、まさか、ありえへんやろ思いながら後つけて」
「…………」
「とことこマンションはいってってなぁ、急にぺたんって倒れて、あれ、思うとったら、うちが駆け寄る前に、ドア開いて拓海君でてきてん」
 あの日だ。
 拓海はようやくすべての合点がいった気がしていた。
 あの日――向日葵が死んだ夜。
「……うち、見とった……心臓止まるかと思った……拓海君、向日葵ゆうたから、ああ、うちの名前………つけとるねんって」
「…………」
「……だから、それで少し勇気もらうたんよ。店やめて……勇気出して会いにいったのが、あの夜やけど、拓海君、今度はマンションの前で倒れてたし」
 そうか――。
 あいつが、連れてきたくれたんだ。
 だから――玄関なんかで死んでたのか。
 莫迦猫。余計なことしやがって。
 どこかで向日葵が、間の抜けた欠伸をしたような気がした。
「ちょっとからかうつもりやってん。すぐばれる思うたんやけどなぁ……ごめんな、拓海君といたかった……それは、うちの、我侭やし、最高に卑怯な嘘やった」
「………………」
「ごめんな」
 いいよ。
 拓海は言っていた。そして思い出していた。子供の頃も、この女の嘘にけっこう振り回された記憶がある。なのに、腹をたてながら、それでも毎日遊んでいた。
 あの頃から、振り回されるというマゾ気質が染み付いているのかもしれない。
 そしてこの感覚が、無意識に過去の――楽しかった時代を喚起させ、女といることへの安堵感に繋がっていたのかもしれない。
 拓海は黙って、女の痩せた肩を抱き締めた。駅員が振り返る、もう何も気にはならなかった。
「……やっぱ、猫の意趣返しだった」
「なに、それ?」
「自分がいなくなるから、代わりに連れてきてくれたんだろ」
 涙に濡れた女の眼が見上げている。その目が、何を?と言っている。
「自分よりブスな猫」
 拓海は笑って、脱いだキャップを女の頭に深く被せ、かがみこんでその唇にキスをした。
















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