――3――

 




                                     
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                  7


「飲む?」
 缶ビールを差し出すと、女は黙って首を振った。
 拓海は黙ってベッドの端に腰を下ろし、プルタブを切ろうとして、そしてやめた。
 所在無く冷えた缶を、てのひらの上で転がす。
 開け放たれた窓から、涼しい風が流れ込んできた。
 夏ももう終りかな――。立ち上がってカーテンを閉めなおした拓海は、2度、肌を合わしてしまった女を見下ろした。
「なに?」
 ベッドの上で膝を抱き、そこにシーツだけ被った女は、ちょっと不思議そうな目をして笑う。
 昨夜初めて抱いて、そして今夜。
 仕事を終えた拓海は、わっさんの誘いを断って真っ直ぐに自宅に戻った。
「なんだよ、恋人でもできたのか」
 そんなからかいの声に、
「新しいペット飼いはじめたんす」
 と、言い残してタクシーを拾った。
 本当は少しだけ不安だった。いないかもしれない。来た時と同じように、なんの前触れもなく女が消えてしまうような――そんな予感が少しだけした。
 が、ドアを開けると、待っていたように女は飛び出してきてくれた。
 食事を取る暇もなく、そのまま抱き合ってキスして、すぐにベッドにもつれこんだ。1日の疲れと不満を、全部吐き出すような激しさでセックスした。
「……いや、不思議だな、と思ってさ」
「なにが?」
 女はきょとん、とした目をしている。
「いや」
 拓海はかすかに苦笑して、女の傍らに腰を下した。そのまま頭を抱いて、自分の方に引き寄せる。
 こんなに、他人を自分の傍に近づけたのは初めてで、なのに、俺は――
 こいつの、名前さえ知らないんだ。
 で、こいつのこと、本当に好きかどうかもわかんなくて。
 多分こいつは、明日あたり、この部屋を出て行くはずだ。
「電話、お母さんからだったん?」
 肩に頭を預けたまま、女が小さく呟いた。
 さきほど掛かってきた電話のことを言ってるんだな、とすぐに判る。
「うん、最近よく掛かってくる」
「なんて?夏休みくらい帰って来いって?」
「ま、そんな感じ」
(―――もう、いいんじゃないの。拓海。)
(―――拓海はすごく頑張ったと思う、ここまでやればもう満足でしょう。まだ、大学だって行ける年よ、やり直すなら、今しかないんじゃないのかしら。)
「…………ずっと、行きたい場所があって」
 拓海は、女の髪をなでながら呟いた。ふわふわとした茶色の猫毛だ。
「それがここなのかな、って、今少しわかんなくなりかけてる。やりたいことしたくて家出たはずなのに、今、本当にやりたいことしてんのか、わかんなくなりかけてる」
「うん……」
 女の声は眠たそうだった。
 つまんない話だよな、拓海は思わず苦笑していた。
「もっと楽に生きる道があって、そこに……戻った方がいいのかなぁって、思う時がある、最近」
「楽な道ってなに?」
 殆ど独り言のように言った言葉だったが、女の声は意外にもしっかりしていた。
 楽な道。
 普通に学生して、会社はいって、決められた人生のレールを進む道。
 売れれば王様、売れなくなれは乞食以下、そんなギャンブルみたいな芸能界で、気持ちばっかりすりへらし、酒や煙草に溺れる日々から、もし、逃げることができるのなら。
「……ま、お前にはわかんねぇよ」
 拓海は女の頭をぽん、と叩き、そのまま仰向けに寝そべった。
 帰ろうかな、そしてまた思っていた。
 こいつが出てけば、俺は本当に一人になる。
 向日葵は死んだ、それは、もしかして何かのきっかけで、拓海にとってはこの旅の終わりを意味しているのかもしれない。
「……楽な道なんてなぁ、うち、どこにもないと思うんよ」
 囁くような声がした。拓海は閉じかけていた目を開けた。女の背中、女はまだ、膝を抱いた姿勢のままだった。
「どんな人生にも、戦いゆうん?辛いことはある思うよ。楽に生きてそうな人もなぁ、色んな悩みがある思うよ」
「なんだよ、お説教かよ」
「……自分は特別思うたらあかんよ、拓海君、どこにいってもなぁ、自分の性格からは逃げられへんねん」
「…………」
「けったいな性格はなぁ、どっかで変えなきゃ何も変われへん思うよ、拓海君が楽思うとこで変えるのもええけど、せっかくだったら、今いる場所で変えたらもっとええ思うよ」
「…………」
「うちなぁ、高校の時、お父ちゃんが大嫌いでなぁ」
 ふわり、と女が胸元に寄り添ってくる。
「将来のこと、色々反対されてなぁ、大喧嘩や、二人でゆっくり話し合おうゆわれて、で、最後にいったんが遊園地」
「……観覧車か」
 女はこくり、とうなずいた。
「観覧車の中で、お父ちゃん色々しゃべってんねん、うちの小さい頃のこととかなぁ、自分の人生観とかなぁ、もう一生懸命しゃべってんねん、うち、何機嫌とってんねん、このクソ親父思うてな、もう一言も口きかへんで、むっつりしたまんまやった」
「ひでぇな、そりゃ」
「で、その時お父ちゃんがゆっとったんが、さっきの話や」
「…………」
 拓海が黙ると、女は遠くを見るような眼になった。
「そん時はわかれへんかったよ、でもなぁ、今ならすごくわかるんや、……お父ちゃんには見えとったんやろなぁ、うちが……ただ逃げたかっただけやって」
 それ以上言わせるのが、何故か酷なような気がした。
 柔らかな髪に唇を寄せ、もういいよ、と拓海は言った。
 俺みたいな莫迦に、そんな大切な思い出話すのはもったいねぇよ、と。
「……お前、いつ、出て行くの?」
「明後日、10時の飛行機予約してんねん」
 女はあっさりとした口調で言う。
「行くなよ」
「殺し文句やねぇ」
「……連絡、どこにすりゃいいんだ」
「うち、お嬢やねん、親厳しいし、あかんよ、男女交際は」
 その言葉にも、そのままついっと顔を上げ、いたずらっぽくキスをねだる表情にも、拓海との別れを惜しむ気配は微塵もなかった。
「……お前……」
「何?」
「…………」
 帰国子女なんて嘘だろ。
 拓海は、そう言おうとしてやめた。
 女の語る言葉も、思い出も、どこか少しずつ齟齬がある。
 本名さえ名乗らない女が、全て本当のことを言っているとは思えない。
 が、拓海自身も嘘をついている、そしてまだ、本当のことを言う気にはなれない。今までの友達と同じで、打ち明けた途端――妙な壁ができてしまいそうな気がするから。
 だったらむしろ、今のまま、ハンパな関係で別れた方がいいのかもしれない。
「……拓海君、キス、上手いなぁ」
「そんなでもないだろ」
「ほんまやねん、うち、キスだけで、もう溶けそうになっとるし」
「ほんまやな」
 拓海は女の口調を真似てから、その額に自分の額を押し当てる。指で女の言葉を確かめてみる。
 くすぐったそうに体をくねらしたものの、女はそのまま、拓海の腰に両手を回してくれた。
「……エッチぃなぁ、拓海君」
「普通だろ」
 体温が熱い、痩せた肩に、ふいに愛しさがこみあげた。
 女を横倒しにしながら、拓海は耳元で囁いた。
「もっと、溶けそうなことしてやるよ」
 

                8


「拓海、雰囲気変わったんじゃねぇの」
 いきなりそう言われたのは、グラビアの写真撮りの後だった。
 ベンチに座り、マネージャーの出してくれたポカリを口にした途端、隣りに座っていた天野雅弘がそう言った。
「えっ、俺?」
 拓海は驚いて、缶につけていた口を離した。
 隣りに座っていた天野雅弘は、いつも通りのラフな姿で、耳にはラジオのイヤホンを差し込んでいる。そして、多分、始まったばかりの野球放送に意識を集中させたままで言う。
「やけに楽しそうじゃん、何かいいことでもあったのかよ」
「……いや、別に」
「こういった仕事、おめぇは嫌いでさ、いっつも待ち時間は不機嫌そうなのに」
「…………」
 そうだっけ。
 そんなこと、自覚したこともなかった。
 確かに拘束時間も注文も長いグラビア撮りは、拓海にとっては苦手な仕事だ。
 なのに今日は、それがまるで苦にならない。
 そして、暇になれば、ついつい考えてしまっていた。今夜は――最後だ、どこかへ連れてってやってもいい。夜遅くまでやっている遊園地とかはないだろうか。あの子供みたいな女と観覧車に乗るのも楽しいかもしれない。
 最後だと思いつつ、不思議と、別れることに現実感が持てないままだった。まるで、何年も前からの知り合いで、何年も前からつきあっていたような気がする。まるで――そう、向日葵のように。
「そういや、撮影所の外にさ」
 背後から、不意に口を挟んできたのは、今から撮りに入る上瀬士郎だった。
「きれーな向日葵が咲いてたなぁ、夏も盛りだね、もう」
 拓海はげげほと咳き込んだ。
 士郎はそれだけ言うと去っていき、そこには咳き込む拓海と怪訝気な天野だけが取り残されている。
「向日葵って、そういや、お前んとこのブス猫は元気かよ」
 天野はようやくイヤホンを耳から外すと、ちょっとおかしそうな目になってそう言った。
 何度か向日葵は、コンサート先にこっそり連れて行ったことがある。
 ああ――こいつには言ってなかったな。そう思いながら、
「死んだよ」
 拓海は、自分の感情が出ないように、素っ気なさを装ってそう言った。
「えっ、マジ?」
「もう一週間も前かな、玄関開けたら、外で死んでた」
「そりゃ……可哀相だったなぁ」
「ま、大往生ってやつじゃねぇの」
 その代わり、別の向日葵が、いまは拓海の部屋にいついている。
 それはさすがに言えなかった。一昨日初めてセックスして、で、昨日も何度も抱いてしまったなんて。
「でもさぁ、猫って、死ぬ時は、遠くに行くっていうじゃねぇか」
 拓海が黙っていると、天野は、ちょっと不思議そうな目になってそう言った。
「お前んとこの猫は不思議だな、玄関の外でわざわざ死んでたわけだ」
「………………」
 まぁ、そうだ。
 それは、そういえば少しヘンだ。
 だって、向日葵は……夜は、ベランダからしか行き来しない。
 拓海のマンションは、5階にある。向日葵は、隣接する建物の屋上や塀なんかを上手く利用して、ベランダと外を行き来している。
 そういえば、エレベーター付きのマンションで、向日葵はどうやって5階の玄関先までたどり着いたのだろうか。
 ふいに、水飛沫が聞こえた気がした。
 そして誰かの声、――ブンチョウが……
「拓海?」
「え?」
 拓海ははっとして顔をあげる。なんなんだ、今のは……何かを、俺は何か、大切なことを忘れてるんじゃないだろうか。
 そして、忘れていた不安が、再び拓海の中で首をもたげてくる。
 よくわからない。一体あの女は――何者なんだろう。
「……天野」
「ん?」
「お前とさ、最後に飲んだ夜だけど」
 北海道ロケから戻った天野に、拓海はあえてその話をふらなかった。もういいや、と思っていたし、あの夜の狂態や自分のガキっぽさは、いまだに思い出したくもないからだ。
「ああ、ひでー夜だったよな、俺も次の日きつかった」
 天野は苦笑しつつ、片手を振る。天野にとっても嫌な思い出だったのか、その話はよせよ、と目がいっている。
「俺……その時さ、どっかの女と話してなかった?髪みじかい、痩せた感じの、」
「女………?いんや?」
「大阪弁まるだしの、なんつーか莫迦っぽい女、ベリショで、右目の下んとこに、けっこうはっきりとしたそばかすがあって」
「ああ、あの子?」
 天野はあっさりと肯定した。
「でも、それ、その先週くらいに飲んだ店の話じゃねぇの?ほら、わっさんに連れてってもらったランパブ」
 ランジェリーパプ。
 思いっきり変装して行った所だ。あれだけは、今でも思い出したくない。
 その場の雰囲気に染まるのが嫌で、とにかくわっさん相手に喋りまくり、途中で退席した覚えがある。
「その店にいたねーちゃんだろ、大阪弁かわいくてよく覚えてるよ、なんつったっけ、名前」
「…………それ……違うと思うけど」
「違う?拓海のこと、店の前まで心配そうに見送ってたけど……ランパブのねーちゃんなんてすれたのばっかだと思ってたけど、彼女、なんか可愛かったよな」
「…………」
 それは違うだろう。
 それは……多分、違う。
「その日じゃねぇよ、だから俺ら2人で飲んだ日だよ、……俺、女と話してなかったっけ、ほら、昔の知り合いとか、幼馴染とか」
 天野と言い争い、正体もなく酔ったあの晩に、拓海と女の間に――何かがあったのは事実なのである。女が拓海の部屋に転がりこんでくるような、何かが。
「何言ってんだよ、あの日、俺、お前をタクシー拾えるとこまで送ってったけど、誰にも会ってねぇよ、そもそも俺ら、ボックスで飲んでたじゃねぇか」
「………………」
「しっかりしろよ、拓海、いくらなんでも、マネージャー抜きで飲み上げて女とべたべたしてたらやばいっしょ、俺ら腐ってもアイドルだべ?」
「………………」
「拓海?」
 天野が、その目から笑いを消し、いぶかしげに見上げている。
 拓海は無言で立ち上がった。
「向日葵ねぇ」
 拓海が黙ったまま壁を睨んでいると、背後から、どこか楽しげな声がした。
「おめぇにしては、リリカルで前向きな名前つけたよな。どういうネーミングだよ、向日葵ってのは」
 その声も、いまは意味もなく通り過ぎていく。
(―――俺さぁ、フツーの恋愛がしてみたいんすよ、)
(―――無理無理、天下の拓海君が、それは無理っしょ。)
(―――いやぁ、どっかにいるかもしれないじゃないっすか、俺のこと知らない女の子、例えば……)
 あの狂態の夜。莫迦みたいに交わした会話のひとつひとつが、悪夢のように蘇ってくる。
「その……ランパブの姉ちゃんだけど」
 拓海は、茫然としつつ、言葉を繋いだ。
「もしかしてさ、胸に赤い痣がなかった?ブラの痕とかなんとか」
「ああ、やっぱ、覚えてんじゃん」
 拓海は目を閉じた。やっと判った。
 やっとわかった、でも……なんてことだ……。


                  9


「おかえり」
 出迎えに出てきた明るい笑顔を、拓海は無言で見返した。
「遅かったんやねぇ、今日は早いゆうとったのに」
「……仕事、あったから」
 靴を脱ぎ、女を押しのけるようにして部屋に入った。
「……どしたん?」
「驚けよ、俺、今仕事っつったんだぜ、バイトじゃねぇよ、テレビ番組の収録撮り」
「…………」
「ふざけんなよ、なめんなよ、お前、俺のこと知ってたんだ、そうだろ」
「…………」
「そうだろ、ランパブのねーちゃん、名前まで知らないけどさ、何人なめた嘘ぶっこいてんだよ」
 女はリビングの入り口付近に立ったまま、みじろぎもしていなかった。
 その、無表情とも思える顔に、拓海は、ふいに理不尽な怒りを感じた。
「俺、一緒にいた奴らと話してたろ、店で、お前はその会話を聞いてたんだ。フツーの恋愛がしたい、俺のこと知らない女とつきあってみたい」
(―――そんな女の子、国内じゃいないでしょ。)
(―――いや、帰国子女とかなら有り得るんじゃないっすか?あこがれっすよねぇ、お嬢様っつーのも。)
 その時、わっさんと交わした会話を、拓海は一気に言い切った。
 女は無言のままである。
 よどみなく溢れるあの夜の記憶。本気で言っていたわけじゃなかった。妙なムードになるのが嫌で、わっさん相手にとにかく喋り続けていた。
(―――この店は、芸能関係の出入り多いし、女の子も口堅いから大丈夫。)
 そう言われてはいたものの、正直、不安で仕方なかった。誘うと即座に同行してくれた天野は、完全にリラックスして楽しそうに騒いでいたが。
 拓海は女を見下ろした。
 ここまで言っても特に表情を崩さない女に、新しい怒りがかきたてられる。
「お前のこと、信じてなかったよ、でも、莫迦みたいだけど、俺のこと知らねぇってとこだけは信じてやってた。だって、そうだろ、そんな嘘つく理由何もねぇし、だから俺は」
―――俺は……
「…………」
 そこで拓海は言葉を詰まらせた。
 自分が言おうとしている言葉の矛盾に、その時初めて気づいていた。
 それを誤魔化すように、怒った目のまま、女から顔を逸らす。
「で?どうやってここの住所調べたんだよ、店に預けた上着でものぞいたのかよ、それってさ、どう言い訳しても立派な犯罪だよな」
「……拓海君、」
「出てってくれよ」
 拓海は拳を握り締めた。
「雑誌に告白でも売りたいなら勝手にしろ、俺はどうせ、芸能界なんかやめるしさ、痛くも痒くもねぇからさ」
 勢い任せに、テーブルの上のものを手で払った。
 払ってから気がついた。ここに、何がおいてあるんだ?
 けたたましい音と共に、お皿が落ちて、そこからスパゲティが零れ落ちる。
「………………」
 女がしゃがみこもうとする。
「ほっとけよ、掃除なら俺がするから」
「………でも」
「ほっとけよ!」
 こんな時間まで起きていて、食事の支度をしてくれた女が憐れだった。が、その気持ちを誤魔化したくて、拓海はいっそう激しく怒った。
「出てけよ」
「…………」
「とっとと、出てけっつってんだよ!」
 部屋はしん……と静まり返っている。紙が落ちただけでも響くほどだった。
 かさり、と音がした。
 女がエプロンを取り、それをテーブルの上に置く音だった。
「……ごめんな、」
「…………」
「……すぐに、ばれる思うたんやけどなぁ」
「…………」
「拓海君、天野さんに話せぇへんかったんやな、……あんなにばればれの嘘やったのに」
「…………」
 声は、思いのほか静かでしっかりしたものだった。
 逆に拓海は、何も言えなくなっていた。
「あかんかったなぁ、でもなぁ……うち、拓海君に迷惑かけるようなことだけはしてないし、これからもせぇへんよ」
 とっくに掛けられてんだよ。
 拓海は黙ったまま、カーテン越しの夜を睨み続けていた。
「部屋もなぁ……ほんまは一歩も出てないねん、だから、誰にも気づかれてない思うし」
「もういいよ、とっとと出てけよ」
 どうしてこんなに腹が立つのか、拓海には判らなかった。
 女が隣室に消えていく。がさがさと音がする。
 わずかの間に荷物をそろえた女は、躊躇う素振りもなく玄関に向かった。
「……うちなぁ」
「…………」
「いっこだけ、本当のことゆってんねん、うちの名前な、ほんまに向日葵ゆうんやで」
「…………」
 だから何だよ。
 マジで、死んだ猫の化身だとでも言いたいのかよ。
「フツーに恋愛してみたかってん、それ、拓海君のことやないよ、うちのこと。……だってなぁ、無理やん、アイドルとランパブ嬢じゃ、絶対につりあえへん」
「………………」
 胸に冷たい何かが落ちてくるような気がした。
 出ていけよ、拓海はもう一度呟いた。
「……こういう経歴はなぁ、絶対に消えへんもんね、一回だけ、奇蹟みたいに夢かなったんよ、それだけは……ごめんな、うちの我侭やけど、嬉しかった」
「ファンかよ、俺の」
 拓海は軽蔑をこめて言ってやった。
 それには女は答えなかった。
 足音が遠ざかる。静かに扉が開いて、そして閉まる。
 静けさだけが―― 一週間ぶりに取り戻した静けさだけが、1人取り残された拓海を包み込んでいた。
「くそっ……」
 拓海は、怒り任せに傍らの椅子を蹴り上げた。
 それでもまだ判らなかった。何に怒ってるんだ、俺は。
 女の言葉を信じていたわけじゃない、そういう意味では、俺のことを知ってるとか知らないとか、それも大した問題じゃない。
 そんな疑問もひっくるめ、もしかして何もかも嘘かもしれない――そう思いながら、拓海は女と同居し続けていたのではなかったか。
 所詮は一週間の付き合いだとたかをくくって。
 いや、心のどこかでは、この先もつきあっていくかもしれない、そんなことさえ思っていたのではなかったか。
 なのに、今更――何を怒ってるっていうんだ?
「………………」
(……だってなぁ、無理やん、アイドルとランパブ嬢じゃ、絶対につりあえへん)
 判っている。
 拓海は額を抑え、壁に寄りかかるようにして腰をついた。
 それが答えだ。
 浅ましくて卑しい、自分の本音。
 天野の口からその可能性を示唆された時、それだけはまずい、と即座に思った。
 アイドルタレントとしては、致命的なスキャンダル。職業の貴賎うんぬんの問題ではない。要は――拓海のアイドルとしての立場の問題なのだ。
 普通の一般人やタレントも、スキャンダルの相手としては無論まずい。しかし、まだ世間に認知される可能性はある。が――。
 風俗。
 これがすっぱ抜かれたら、拓海個人の問題ではすまないだろう。Galaxyという、いや、事務所そのものを巻き込んだ形の騒ぎになる。
 かつて、キャノン・ボーイズの美波涼二を襲ったスキャンダルもそうだった。今ではマスコミ各社に緘口令が引かれているが、拓海はよく記憶している。
 相手はたった一度だけ、AVに出演した経験のある若手女優。交際宣言をした直後、女優の過去をすっぱ抜かれた後の騒ぎは、目を覆いたくなるほどひどいものだった。
 美波は激しく反論した、マスコミに真っ向から喧嘩を売った――結果、それは全て裏目に出た。
 アイドル失格、美波、追放、美波干される――そんな記事さえも新聞を賑わしていたほどだ。後の顛末は拓海には判らない。別れたのだろう、多分。
 世間では、いまだ水商売の女は表舞台に受け入れられない。ひとつの弱点として、格好のゴシップの餌食になる。
 そこに理不尽な差別意識が根付いているのは確かだが、それを声高に叫んだとしても仕方がない。
 みんなが口先で理解していて、頭では受け入れられないもの。
 残酷なようだが、それが現実だ。
「…………」
 拓海はしゃがみこみ、零れたパスタと砕けた皿を拾い上げた。
 ぐしゃりとつぶれた半熟卵。
 ふと、場違いな笑いが滲んでいた。
「……何……やってんだ……俺」
 女の正体を知った刹那、拓海は、自身がアイドルという――ギャラクシーの緋川拓海という立場に、強烈な未練を持っていることに気がついていた。
 あれほど逃げたいと思っていた場所に、浅ましいまでに執着している自分がいることに気がついた。
 怒りは女にではない、全て自分に向けられたものだった。
 もし、女に怒っているとすれば。
「………………」
 それは、本気で恋してしまったということになる。
 拓海は唇に自嘲の笑みを刻んだまま、しばらくその場から動けなかった。















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