1



―――溶けそうだ………俺……
「ま……、て」
 と、思わず声が出る。
 先日のように、ここで終わってしまったら、いくらなんでも恥ずかしすぎる。
―――け、経験、あまりないって、ばれるじゃん。
 と、思ってはみたものの、実際どう取り繕っても、成瀬雅之にとっては、今、自分の上に被さっている女性が、正真正銘初めてセックスした相手だった。
「いいの?」
 少し笑いを含んだ声が返ってくる。 
 いい――といえば、よくなくて、よくないかといえばよくて。
「どっち?」
 と、暖かな舌先が、再び触れる。
「……ちょっ」
 雅之はうめいて、そのままがくん、と肘をついた。
「いいよ、無理しなくても。私が楽しいんだから、いい子にしてて」
「……は……はぁ」
 あー、もうどうでもいい。
 気持ちよすぎて、なんかもう、このまま――死んじゃってもいいかなって気までする。
 今までのことは、なんもかんも夢の中の話で。
 今、ここにある現実だけが俺のすべてで……。
(―――あっそ、じゃ、やめたらいいじゃん)
 ひどく冷たい声が、目を閉じかけていた雅之を、ふいに現実に引き戻した。
 先日の夜聞いたばかりの、その日が初対面だった女性の声。今日からストームの新しいマネージャーだと、唐沢社長が紹介した長身の女。
「……どうしたの?」
 身体の上にいる、現実の女の動きが止まる。
「あ、あー、いえ」
「今、」
 すうっと女の髪が、雅之の腹部、胸を撫でるようにして這い上がってきた。
 乳白色のぬめるような肌。黒い瞳は細く、桐で払ったように鋭い。
 ノーメイク、なのに血がにじんだように紅い唇も、目同様に薄い。
 先夜紹介された真咲しずくと比べると、目立つような美人ではない。なのに、一目見ると忘れられない、不思議な雰囲気を持っている女。
「……今、私以外の女こと、考えてたね」
 女の魅力は、この知的なまなざしと、怖いまでのクールさにある。
 年は、雅之より十も上だった。しかも、子供が一人いる。
 当たり前だが、雅之の子供ではない。
「……考えてた……けど、そういう意味で、考えてたわけじゃ、」
 しどろもどろで言い訳する口をふさがれる。
 とろけるように甘いキス。
「雅君、もっと、」
「……は、はぁ……」
「……うん……上手」
 まずいって。
 あー、こんなこと、やべーって。
 最初から判っていたのに、気がついたら泥濘の中、どっぷり首までつかっていた。
 どう考えても、もう自力では、この呪縛から逃げられそうもない。
(―――この子のスケジュールは?クイズ番組のレギュラーと、ラジオだけ?あとは、雑誌の取材があるくらいよね。)
(―――いいんじゃない?うちから代わりのタレント出せば、テレビ局も、むしろ嬉しいでしょ。派手に引退公演でもやっちゃいましょうよ。最初から話題づくりができるなんて超ラッキー、ねぇ、唐沢君、……じゃなかった、社長。)
「………」
 先日の告白に至るまでの、この数週間あまり。
 ない頭で、死ぬほど真面目に考えた。考えて考えて考え抜いた。
 りょうは呆然として、
 将君はただ黙り、
 東條君は、顎を落としていた。
 で、憂也は……。
 雅之は、憂也の顔だけ、見ていなかったことを思い出した。
 見ていない、いや、見られなかったのかもしれない。
「あ、あ、あの、……ですね」
 雅之は、女の頬を抱くようにして、自分の顔からぎこちなく引き離した。
「なに?」
 魅力を感じているのか、怖いのか――その刹那、いつも迷ってしまう目が、じっと下から見上げている。
「お、俺と」
 雅之は、そこで言葉を途切れさせ、それから息を吸った。深く。
「おっ、俺と、け、けけ、結婚してください」


                   2


「……憂也君」
 綺堂憂也ははっとして、所在なく手にしていた携帯電話を急いで閉じた。
「どうしたの、元気ないみたい」
「慰めてくれます?」
 とっさに切り返し、目の前の――憂也より二十も年上の、アシスタントディレクターを見上げてみる。
「言ってソンした。頼むからオバサンからかわないでよ」
 はぁっと重いため息と共に、対面の女が、上目遣いに憂也を睨んだ。
「いえいえ、僕は若い女の子が苦手なんで」
「てきとーなこと言ってないで、仕事しなさい」
 丸めた台本で、ぱかっと頭を叩かれる。
 憂也は肩をすくめ、今日のラジオで紹介するハガキを手にして、そして視線を落とすふりをした。
「そういや、ウッディが、いいセンスしてるってほめてたよ」
 出て行き間際にそう言ったその人は、ストームが唯一看板を背負ってやっているラジオ番組「STORM BEAT」のスタッフの一人だった。
 番組ADの安藤克子、通称かっちゃん。この世界では、憂也が唯一気を許している女性である。
「どーも」
 顔を上げずに軽く手をあげると、かっちゃんが苦笑するのが判った。
「本当は飛び上がりたいくらい嬉しいくせに、強がっちゃって」
「いえいえ、クールが僕の信条なんで」
「それにしてもいいの?レッスン代、安くないよ?事務所で出してもらえないの?」
「うーん、うちは筋トレなら出すけど、そっち系はダメみたいでさ」
 憂也は苦笑して肩をすくめる。
「いつも思うけど」
 かっちゃんの声が、少しだけ優しくなった。
「……憂君くらいの年の男の子なら、もっと感情、爆発させてもいいんだよ」
 そういい残し、静かに外から扉が閉まる。
 最後の台詞は彼女の口癖で――口癖というか、憂也が何度も言われた言葉だった。
 憂也はため息をついて、まるで頭に入ってこない、可愛い女の子文字に視線を戻した。
(……憂君くらいの年の男の子なら、もっと感情、爆発させてもいいんだよ)
「たださぁ……」
 独り言を呟き、頬杖をつく。
 打ち合わせを兼ねた控え室。窓の外は晴天だった。幻聴のように、カキンッと、硬球を叩く音が聞こえてくるような気がした。
 あれはいつだったろう。
 家の前の公園で、気がつけばバットを振っていたような気がする。たいして得意でもなかったのに、いい格好したくて。あの頃は――。
―――憂ちゃん。
 ふいに浮かんだ声は、もう忘れたいあの人の声のようでもあり、去年、どうしようもないままに傷つけてしまった人のようにも思えた。
「……もう俺らは、フツーの人間とは違うんだよね」
 憂也は呟き、鳴らないままの携帯をポケットに滑らせた。
 自分だって、逃げ出したいと思うことがある。
 それなのに――どうして止めることができるだろう。
 この鳥かごを破って、自由な人生を飛ぼうと決めてしまった友を。



                 3


「…………」
 憂鬱な気分を押し殺し、片瀬りょうはパソコンの電源を落とした。
 立ち上がろうとして、それができなかった。額を押さえ、机にひじをついたまま、目を閉じる。
 ファンレターや雑誌などを買うまでもなく、即時にリアルな反応が判るのが、インターネットの利点でもあり、怖さでもある。

 片瀬出演ドラマ初回視聴率、惨敗。
 テレビ局、J&M事務所の強引なキャスティング介入にうんざり顔。
 うざい。
 きもい。
 演技ヘタ。
 つまらない。喋り方がきしょい。
 Jなのに、何故か売れないストームの謎(笑)。
 貴沢デビューと共に、解散決定。

 応援してくれるサイトもある。記事もある。が、どうしても胸に刺さるように残るのは、悪意に満ちた言葉の数々だけだった。
 わからない。
 一体、自分が、この人たちに何をしたというのだろう。
 何の意味があって、ここまでひどい書かれ方をしなければならないのか。
(―――馬鹿野郎、そんなもん見るな、見たってなんにもなりゃしないだろ。)
 柏葉将の部屋で一緒に寝起きしていた頃は――こうして憂鬱の波に飲まれそうになった時、将が、必ず乱暴な言葉で目を覚まさせてくれた。
 その将は、もういない。
 いや――将の反対を押し切って、あの暖かな家を出たのは、りょう自身が決めたことだった。
 あの家で、考えようによっては、りょう以上に重たいものを抱えている将。これ以上、大切な友人に迷惑をかけたくなかったからだ。
 今は、事務所が借りてくれたマンションで、一人きりで生活している。
―――雅……
 今、雅之も一人きりでいるのだろうか。
 ストームで、親元を離れて生活しているのは、雅之とりょうの二人だけだ。
 机の上に置いたままの携帯電話。どれだけ待っても、それはずっと沈黙している。
「……着信、拒否かよ」
 りょうは嘆息して、携帯電話を持ち上げた。
 他人に、しかも同じグループのメンバーに、あからさまに拒否されているのというは、りょうにとっては衝撃以上の経験だった。
 が、その時になって気がついた。デビューして三年、今まで――こうやって仲間たちの携帯に電話したことがあっただろうか、と。
 お互いの番号だけは交換しあった、が、かけることは本当になかった。デビューしたての頃はそんな必要もないくらい毎日顔を合わせていたし、二年目以降は、自分のことで必死だったからだ。
 会えばなんとなく馬鹿を言い合う。改まって話さなくても、なんとなムードができあがっている。電話なんて、いまさらな……という感じで、気持ちの齟齬を曖昧にしたまま、今日に至った気がする。
「小泉ちゃん?あ、俺、りょう。うん……そっか、まだ捕まらないんだ」
 伝言を託したマネージャーへの電話を切り、再度、雅之の携帯にかけてみる。
「……………」
 虚しさがこみ上げて、りょうは力なく、机の上につっぷした。
 雅之に次に会えるのは、バラエティ収録がある一週間後。小泉の話が本当なら、それまでにタイムリミットがきてしまう。
 もたもたしている内に、事務所がさっさと引退を公表してしまうかもしれない。そうなれば、おしまいだ。
「……頼むよ……マジで、辞めんのかよ」
 辞めると決まったタレントに対して、事務所は残酷なほど容赦ない。あっさりと引退をマスコミに発表し、以後の仕事は一切回さない。
 むろん、はなばなしい引退コンサートなど開いてもくれないし、記者発表もファックスで済ませる場合が多い。
 つまり――徹底的に、次の活躍につながるような、マスコミへの露出度を断ち切っていくのである。
 ふいに、胸に、細かな針が刺さったような痛みが走った。
 それが、発作の前兆だということは、経験からわかっているものの、一人きりの室内でそうなったことに、りょうはただ驚いていた。
「…………」
 椅子を軋ませて前かがみになった。シャツを掴むように胸を押さえ、こみ上げた息苦しさをやりすごそうとする。
 が、針ほどの痛みは、すぐに穿つような疼痛に変わった。
 音のない部屋で、自分の動悸だけが激しくなっていくのが判る。
 無意識に、握り締めた指を見る。
 指輪――が、指には、何も光ってはいなかった。
(―――これ、やるし、オマエは1人じゃないって証拠)
 あれは、中学に入って間もない頃だった。ステージで、初めての発作を経験した日。
(―――なんか思いつめる前に、俺のこと思い出せよ)
―――将君……
 以来、ずっと、その指輪はりょうのお守りのようなものだった。
(―――いっつも、同じアクセサリーはやめとこうよ)
(―――ファンの子から問い合わせも多いんだよ。色々噂されてるみたいだし)
 が、かつてのチーフマネージャーから言われたままに、今はもう、撮影のたびに外している指輪。
 というより、どこかで、将に依存してばかりの性格を、断ち切りたいと思っていたのかもしれない。
(―――とにかく、ストレスをためない生活を送ることだね)
(―――不安が強くなったり、追い詰められた気持ちになると起こりやすいからね。……うーん、芸能界は……君みたいなタイプにはちょっと不向きなんじゃないかなぁ)
「…………」
 わかっている。
 だから、一度はリタイヤする道を選んだ。
 でも、それでも捨て切れなかった夢。戻ってきてしまった場所。
 掴みたかった何かを、俺はもう手にしているのか、それともまだ、夢は夢のままなのか。
「く………」
 息が、しだいに、上手くできなくなっていく。
 りょうは、肩で忙しい呼吸を繰り返し、胸をかきむしるようにシャツを握り締めた。
 こんなにひどい発作は、何年かぶりだ。デビューして以来、一度もなかった。体質云々より、精神的なものが原因だと聞いた、だから――もう、平気だと思っていたのに。
「………っ」
 携帯電話が、ふいに、静かなメロディを奏でる。
 着信メロディを特別に設定しているから、この音でかかってくるのは、世界でたった一人だけ。
 東京に戻ってから設定したこの音楽。
 聴くのは、これが初めてだった。
「………………」
 りょうは、半ば、夢でも見ているような気持ちで、机の上の携帯電話を掴み取った。
 上手く指が動いてくれなかった。喋ろうにも、まだ言葉が口から出てこない。
『もしもし……』
 少し間があって、どこか、不安気な声がした。
「真白さん?」
 りょうは、自分の口からよどみなく出る言葉にほっとした。
『うん……どうしたの?疲れてる?』
 優しい声。
 いや、素っ気無いからあまり優しくはないんだけど、不思議なくらいほっとする声。
「今、百メートル全力疾走してたとこ」
『なにそれ』
 かすかな笑い声が聞こえた。
 くすぐるような響きが心地よかった。りょうは携帯を持ち直し、壁にそっと背を預ける。
 鼓動が静かになり、呼吸が楽になりつつある。
 信じられないほどナイスなタイミング。今まで、どんなに待っても一度もかかってきたことがなかったのに。
『……え、走ってたって』
 笑い声が、はた、と止まって、ためらうような声に変わった。
『……も、もしかして、撮影……とか?』
「いや、家」
『なによー、もうっ』
「ルームウォーカー買ったの、アイドルは体力いるから」
『本当の話?それ』
「すごいよ、俺、今、腹割れてるから」
『信じられないなー、こないだ会ってから、あまり時間たってないのに』
「たってるよ」
『そうかな』
「……うん、たってる」
 会いたい。
 会いたい――会って、抱きたい。抱きしめたい。
『ドラマ、観てるよ』
「観なくていいっつったのに」
『すごくいいよ。かっこいい、ちょっと相手役の人に妬いちゃうくらい』
「本気で言ってる?」
 りょうは笑った。
 秋から始まった新ドラマは、視聴率が低迷していて、早くも打ち切りの話が出ていた。
 主演は別の俳優で、ドラマの失敗は、りょうとは関係ない部分にあるのだが、アイドル片瀬りょうがスキャンダラスな役どころを演じる――という前評判だけが売りだったドラマの失敗は、そのまま、片瀬りょうの俳優としての評価に影響を与えた。
(―――春ドラは、声がかからなかったみたいで。)
 と、今日も小泉から聞かされたばかりだった。
 同じ事務所では、まだデビュー前のキッズたちが次々とドラマ出演を決めている。そして貴沢秀俊、ギャラクシーの面々にいたっては、どのシーズンでも必ずドラマ枠にその名を主役として連ねている。
 思い知らされないわけにはいかなかった。しょせん、事務所の後押しで得たポジションと、実際の人気で得たポジションとの差を。
 が、なによりりょうを苦しめたのが、自分を推してキャスティングを決めてくれたプロデューサーや、番組スタッフに対する自責の念だった。
 番組の失敗は、彼らにとっては死活問題なのだ。特にドラマ制作会社にとっては、その存亡すらかかっている。
『目をね、つむって見ることにしたの』
 この人の声は優しい。
 りょうは、自分の胸に積もった澱が、少しずつほぐれて溶けていくのを感じていた。
 いや……俺が勝手に惚れてるから、そう思えるのかもしれないけど。
「見るってなにを」
『りょうのドラマ』
「なにそれ、眠るほどつまんねーってこと?」
『もうっ、そうじゃないって』
 今は――
 考えることから、今はちょっと逃げていたい。大切な人の声を、気分よく聞いていたい。
『なんかね、私に言ってるような錯覚感じるじゃない?目つむってきくと、キザなセリフも』
「ねぇ、それ、本気で言ってんの?」
 りょうは笑った。
 信じられない。綺麗な顔をしているくせに、性格はどこかさばけていて、ロマンチックなムードとは縁遠い人なのに。
『なによ、……なんでそこで笑うのよ』
「いや、だって、らしくないから」
『じゃあ切るね、サヨナラ』
「うそうそ、きんないで」
『電話料金もったいないもん』
 たわいない会話。
『そっち、雨?』
「ううん、なんで?」
『降りそうなの、洗濯今干したから、困っちゃう』
「あ、そうなんだ、俺んとこ全自動だよ」
『えー、してんの?りょうが?』
「だって一人暮らしだもん」
 どうでもいい会話。
「料理なんかも上手いよ、俺。綺麗好きだから、基本、一日一回は掃除機かけるし」
『えー、ちょっと引いちゃう……一緒に暮らしたくないタイプじゃん』
「なんでさー、結構お買い得だよ、俺」
『あっ、ちょっと待って、マジ降り出した、このまま電話もってベランダ行くから』
 どうでもいいと、多分お互い判っていて、切りたくないから……ただ、話を繋げているだけの会話。
『雨の音……聞こえる……?』
「聞こえないよ」
 聞きたい。
『すごく、降ってるよ』
「うん……聞こえない……」
 聞きたいよ。
 そんな言葉じゃなくて、もっと別の、俺だけに見せる目で、顔で、囁いてくれる言葉を。
『……りょう?』
「………会いたい……」
『…………』
「会いたい……、」
『…………』
 聞こえなかったはずの、雨音が聞こえた気がした。
 抱きたい、―――抱きしめてほしい。
 こんな弱気な自分を見せたくはないけど。
『行くから、待ってて』
 多分、気休めだろうと思った。りょうは苦笑して、携帯電話を持ち直した。
「なんてね、やだな、真白さん本気にした?」
『本気にした。だから、ちゃんと会いに行くから、……もうちょっとだけ、待ってて』
 が、真白の声は、笑ってはいなかった。
「いいよ、無理だろ」
『大丈夫、会いにいくから、一人で背負い込まないで、りょう』
「背負い込むって、なにを」
『何をって、色々よ、……とにかく、私、一度そっちに行くから』
「……………」
 何をムキになってるんだろう。
 一瞬、不思議に思ったものの、りょうはすぐに思い直した。
 俺の態度や、声が、多分この人を、いたずらに不安にさせたんだ。
 俺は男で、この人は女だから。
 俺が、この人に、心配されるようじゃ、いけないんだ。
「俺、そんなに力持ちじゃないし」
 りょうは冗談めかした声で言った。
『知ってる、超非力だもん』
「自分のことだけで精一杯、別に、何も背負ってないし、背負う気もない」
 電話の向こうで、少しだけ沈黙があった。が、次に聞こえてきた声は明るかった。
『てゆっか、私くらい背負ってくれなきゃ』
「あ、忘れてた」
『サイテー』
「ダイエットしてくんなきゃ無理だよ、多分」
『ひ、ひど、なによっ、さっき腹割れしてるって言ってたくせに』
 互いの笑い声が、交じり合う。
「……セリフの練習」
 りょうは、ひどく静かで暖かな気持ちのまま、携帯を口元に近づけた。
「君の瞳に永遠が見える」
『……………はっ??』
「いままで俺は、本当の愛を知らなかった」
『……す、すごいセリフだね』
「愛してる、こんな気持ちははじめてだ」
『………も、もういいよ』
「一生、大切にするって、約束する」
 電話の向こうで笑い声がはじける。
「錯覚した?」
『しないって、普通』
 雨の音が、確かにりょうの耳にも届いた気がした。
 正直言えば、愛の意味なんて判らない。
 ただ、好きで、一緒にいたいと思える人。なのに、普通の恋人らしいことを、何一つしてあげられない人。
『……電話、いつごろだったら、してもいいの?』
「いい時間にメールする、俺からしてもいいならするし」
『……うん、嬉しい』
「……好きだよ」
 それもセリフ?
 かえってきた声は笑いを含んで楽しそうだった。
 りょうは苦笑して目を閉じた。
 この聞き心地のいい声を、今はいつまでも聞いていたい気分だった。


                  4


「もしもし?」
 柏葉将は、ワンコールでボタンを押して、即座に携帯電話を耳につけた。
 少し間があって、ためらいがちな声が続く。
 電話の相手は、今、将のいる場所と、状況を気にしているようだった。
 本当に待っていた相手からの電話ではない。が、将は、その人が、わざわざ掛けてくれたことに、心から安堵していた。
「いや、いいよ、まだ大丈夫。りょうのやつ、元気にしてた?」
 目の前では、撮影現場のスタッフがあわただしく行き来している。将は、ここ――国営放送のスペシャルドラマに、主人公の弟役として出演することになっていた。
 主役は、サムライ6の岡村準一。今、サムライで人気が急上昇している美青年である。実際将の出演は、同じ事務所の先輩である、岡村のおまけのようなものだった。
 出番までは、まだ相当な時間がある。
 将は、監督と打ち合わせをしている岡村を横目で見つつ、携帯電話を持ち直した。
「そう……うん、悪かったな、手紙なんか出して、いや、末永さんが妙な誤解して、りょうともめたらどうしようかって思ったんだけど」
 手紙に書き記した携帯の番号。即座に電話が掛かってきた時はほっとした。
 将には珍しく迷いに迷ったことではあるが、大阪で初めてこの女性を見た時、この人なら大丈夫だと――直感でそう思えたことに賭けてみた。
「………りょうは……色々抱えてるんだ。お母さんのこともそうだし、親父さんのことも、………自分から、家のことあれこれいうヤツじゃないだろ、あいつ」
 そだね、と返ってきた声は、少しだけ寂しそうだった。
「つか、だからって気にすんなよ、りょうはそういうヤツなんだ。相手を大切に思えば思うほど、頼らずに自分で解決しようってタイプ」
 それが昔から心配だった。
 例えて言えば、りょうというコップに注がれた水が、限界を超えて溢れそうになっても――それを、絶対口にしない男。
 そして、溢れて初めて、周囲が気づく。が、その時はもう手遅れなのだ。かつて、事務所を辞めたときがそうだったように。
 りょうは、もう戻らない。
 当時、将でさえあきらめたことを、しかしこの電話の女性は、いともあっさりやってのけた。正直、今でも信じられない。あの頑ななりょうが、一度決めたことを翻意して、事務所に戻ってくれたことが。
「おもてーかもしんねーけど、知っててやって……、俺じゃ、りょうを助けてやれねぇ時もあってさ」
 というより、将は思う。自分に庇護されることを、もうりょうは望んではいないのだろう。
 電話の向こうから返ってきた声は、小さくてもどこか明るかった。
 将はほっとしながら、少しだけ声をひそめた。
「それから、りょうに言っといてくれ、携帯に番号を登録しないこと、着信やメールの記録は即消去すること、それから――携帯を置いて、撮影なんかに出る時は、必ずロックしておくこと」
 なにそれ、なんでそこまでするの?
 と、聞こえてきた声が、少しだけ戸惑っている。
「うちは、そういう事務所だからさ」
 将は短くそう言い、最後にもう一度礼をして、相手が切るのを待って携帯を切った。むろん、即座に着信履歴もクリアする。
 事務所の連中の汚いやり口を、将はよく知っている。
 彼らは、タレントをそもそも人間とは認めていない。商品、だから、徹底的に商品管理されるのだ。プライバシーなどまるでない。過去未来にわたり、がんじがらめに支配され、そして搾取されるだけ。
 それが、唐沢直人、そして美波涼二が作り上げたJ&Мという王国の実態だった。
「…………」
 りょうに、まだそれは言いたくない。
 能天気な雅之は、多分何も考えてはいないだろう。
 東條聡は、どこかで理解して、それをふわりと受け流している。どんな状況にもいつの間にかなじんでいるのが、東條聡のすごいところだから……。
 憂也は、おそらく知っているだろう。頭のよさでは、内心叶わないといつも思う。知っていて――憂也は何を考えているのだろう。
 そして、
 携帯が鳴る。
 将は、眉をひそめてそれを持ち上げた。
「なんの用だよ」
 知らず、冷たい声が出ていた。
『何の用はないでしょ、久しぶりの再会だってのに、てんで無視しちゃって、バ』
「その呼び方で、二度と呼ぶなっつっただろ!」
 押さえたつもりが、強い口調になっていた。スタジオの中にいた何人かが、驚いた目で振り返るのがわかる。
 将は舌打ちして立ち上がり、携帯を耳に当てたまま廊下に出た。
「何の真似だよ」
『真似ってなぁに?』
「ざけんなよ、一体何しに帰ってきたんだよ」
『いやぁねぇ、昔は、あんなに熱っぽい目で見てたくせに』
「………言ってろ、莫迦」
 声の主は、どう言葉をぶつけてものらりくらりと交わすだけ、声はむしろ、楽しげになっていく。
 将は、会話する努力を放棄した。
「言っとくけど、俺らになんかするつもりなら、俺は、徹底的に抵抗するから」
『少しは英語、喋れるようになった?』
「……あんたを、俺らの味方とは認めない、何をするつもりかしんねぇけど、絶対言いなりにはならねーから」
『どうやって?ペットの犬より忠誠を強いられているドロイドちゃんたちが、どうやってシスに抵抗すんの?』
「………なんなんだよ、その例えは」
 思わず脱力するようなくだらないことを平然と言う。その癖は昔と変わらない。
『あら、唐沢君がシス卿で、美波君がダースベーダー、どう?いい例えだと思わない?』
「じゃあ、ルークは誰なんだよ」
『うーん、いい質問、誰がいいかなぁ……緋川君も捨てがたいし、天野君も』
「もういいよ」
 いけない。
 俺としたことが、また、この女のペースに巻き込まれている。
「じゃ、切るから」
『スカイウォーカーには、君がなったら、柏葉将』
「………あのさ」
 嘆息して、携帯を耳から離そうとした。
『ジェダイの力で、可哀相なベイダー卿の目を覚まさせてあげなきゃ。力を合わせて帝国の支配の時代を終わらせるの、かーっこいいっ』
 あほか。
 いや、忘れていた。この女は、とんでもなく頭がいい癖に、真性のアホなのだ。
「じゃ、そういうことで」
『しょせん、ドロイドには何もできないわよ』
 聞こえてきた声は、一転して氷よりも冷ややかだった。
 将は、眉をひそめたまま、黙って脚を止めていた。
『ドロイドはね、シスの指示に従って、ただ笑って歌ってればいいの。一人じゃ何もできないのに、強がっても無駄なだけ』
「……………」
『今回のCDのことでも、それがよくわかったんじゃない?1人で、色々がんばってたみたいだけど』
「…………うるせーよ」
 今回のCDが、ストームとしては最後の楽曲になる可能性がある。
 それは、この電話の相手から聞かされた極秘リークだった。
『ま、HaiHaiHaiは面白かったけどね』
 ふいに女はくすりと笑った。
『堅物だと思ってたけど、あんな莫迦もできるんだ、成長したじゃない、バ』
 将は、そこで携帯をぶつっと切った。
 躾の厳しい家で育ったから、相手が切る前に電話を切るのは――今も昔も、この女に限られている。
「……………」
 そして。
 将は無言のまま、スタジオに戻った。
「柏葉君、何怒ってたのさ」
 さらっと微笑して、超人気者になっても人当たりのいい、岡村準一が声をかけてくる。
 関西テレビ社長の実子。お坊ちゃま育ちで、雰囲気の柔らかい岡村は、J&Mの中では、どこか異色の存在だった。
 テレビ番組企画の一環として事務所入り、即デビューを果たした岡村は、キッズ時代を経験していない。そのあたりが、彼が自ら所属するユニット「サムライ6」の中でも、どこか浮いている所以なのかもしれない。
「もしかして、彼女とケンカ?スタッフの人たちが噂してたよ」
「まさか」
 将は笑って首を振り、持っていた携帯を鞄に納めた。無論、きっちりとロックをかけて。
「今日は、来てからずっと携帯ばっか見てるじゃん。用心深い柏葉君らしくないね。どんだけ恋してる相手なの」
 岡村は、楽しそうに聞いてくる。
 大手テレビ局がバックについている岡村準一には、おそらく、将の置かれている立場は判らない。事務所のブランドが不要になれば、彼はあっさりと事務所を辞めてしまうだろう。
 将は、苦笑しつつ、元のベンチに座り、煩く伸びた髪をかきあげた。
(―――冗談じゃないわ、だから私は反対したのに、)
(―――将には、あの狂った男の血が流れてるのよ。信じられない、なんのために、ここまで大切に育ててきたと思ってるの!)
(―――歌は心よ、魂よ、)
(―――人の心を、高みに、高みに、魂の果てにおしあげるもの――それが、本物の音が持つ力なのよ、柏葉将。)
「……………」
 そして……。
 そして、一番判らないのが俺だ。
 俺は一体、何故この事務所に入って。
 何のために――絶対に届かないものを求めて、歌い続けているのだろうか。

















           それぞれのシークレット 終

 

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