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 バスは、まっすぐに都心に向かって進んでいた。
 暖房の効いた生暖かい車内。
 最後尾に座る流川凪は、そっと額を窓ガラスにおしつける。
 試験明け。正直頭は朦朧としていた。
 できたような――できなかったような。
 自信があるような、が、その自信が逆に怖いような。
 そんな曖昧で不安な気分。
 結果は月曜には判る。
 今日は土曜。
 凪は一人、都心にある「東邦EMGプロダクション」本社ビルに向かっていた。
(―――な、凪ちゃん、どうしましょ、風が、こんなものを置いて。)
(―――お父さんは来月まで戻らないし、ああ、警察に電話でもしたらいいのかしら。)
 半分パニックになった母をなだめ、凪は兄が「家出」して、頼っていった先に向かっている。
 東邦EMGプロダクション。
 大きな会社が、まさか、こんな手段で未成年を拘束したりはしないだろうが、問題は、風汰が――どう考えても「帰りたくない」と言い張ることだろう。
 憂鬱だな……。
 このルートで都内に入るのは、二年前、高校一年生の夏に、J&Mのキッズとして過ごした時以来だった。
 この二年で。
 凪は髪も身長も伸び、間違っても男と勘違いされることはなくなった。
 信じられないが、告白というのも初めて体験した。いや、させられた。それも結構何回も。
 断ったものの、自分がそういう対象として見られていることに、凪はまずびっくりしてしまったのだった。
 曇天の空。
 日が、少しずつ高くなりつつある。
 正直言えば、少しだけ不安だった。
 母には、昔の知り合いがいるから大丈夫、と言い切って出たものの、そんな人はどこにもいない。いたとしても連絡さえ出来ない人たちばかりだ。
 首にぶらさがったままの、母が買ってくれた合格祈願のお守りだけが頼りである。
「…………」
 この空の下に、あの能天気男もいるのだろうか。
 凪は目をすがめ、雲に覆われた空を見上げていた。


               2


「やぁ、待ってたよ、凪ちゃん」
………なれなれしい……。
 と、思いつつも、流川凪は丁寧に頭を下げた。
「すいません、兄がご迷惑をおかけしまして」
「いやいや、こっちは来てくれて、むしろ嬉しいくらいだから」
 出てきてくれたのは二人の男だった。
 一人は、凪もよく知っている神崎琢磨。
 流川家にスカウトにきた、ちょっと苦みばしった、悪い言い方をしたらヤクザじみた……が、雰囲気はスマートな男である。年はまだ、三十に届いていないだろう。
 もう一人は、眼鏡を掛けた中年の――しかし、どう見ても銀行マンには見えない男だった。二人とも、黒味を帯びたスーツを着ているが、タイは締めていない。
 見上げるほど巨大な建物――地上十五階建てのビル「東邦プロ」
 ぴかぴかに光った大理石のロビー。クラッシックなハーブの音と、ほのかな芳香。
 日本最大手の芸能事務所の所以なのか、受付のお姉さんまで、タレントと見まがうほどの綺麗な人だ。
 一階の受付で名を名乗ると、すぐに同じフロアにあるロビーに案内された。パーティションで仕切られた各テーブル。机もソファも、相当な高級品である。
 所在無く待っている間、凪が考えていたのは、どうみても豪華とは言いがたいJ&Mの事務所内だった。
 それは……すごいとは思った、が、ここの豪華さに比べたら惨めなものだ。
 ギャラクシー、スニーカーズ、マリア、サムライ6、ストーム、そしてヒデ&誓也。
 とんでもなく儲けているはずなのに、それは、別のところに消えてしまっているのだろうか。
 すぐに出てきてくれた男二人組み。神崎と連れ添って来た男の名刺には

 伝通 営業二課長 一文字 慎
 
 と書かれていた。
 会社の名前はなんとなく知っている、日本でも相当大きな広告代理店……かなにか。
「どうなの、最近の学校の様子は」
 凪としたら、「神崎さんのところにいく」と、へたくそな文字で書き残して家を出た風汰の行方を、ソッコー聞きだしたいところだったが、彼らはのんびりと、凪の近況や学校のことを聞いてきた。
 挨拶がわりに我慢してつきあっていたが、その話は延々尽きることなく続いてく。
「医学部ねぇ、かっこいいな、ねぇ、一文字さん」
「悪くないですね、知的なイメージというのは、いいと思います」
 って、なんだかわけの判らないところで、二人して納得している。
「いえ、まだ受かるって決まったわけじゃないし、みじめな浪人生活が待ってるかもしれませんから」
 凪は素っ気無く言って、ようやく鞄の中から、風汰の置手紙を取り出した。
「あの、電話でもお話したんですけど」
「ああ、判ってる判ってる」
 神埼は、口元に皺を寄せて、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「でも彼ねぇ、どうしても、この世界に入ってみたいようだよ」
「……それは」
 無理だ。
 ずたずたに失敗して、泣いて帰ってくるのがオチだ。
 と、思うものの、凪にはそれ以上何もいえない。
 それが――本当に風汰のしたいことだったら。自分にも夢があるように、風汰の夢が、今はそれだったとしたら。
「とにかく会わせてもらえませんか」
 自分の中の迷いを、凪は振り切って顔を上げた。
「いずれにしても、母を説得しないと話になりませんから。一度帰って、家族で話し合ってみます」
「いや、それはわかってるよ、やだなぁ、まるでうちが、風汰クン無理に連れ出したみたいじゃない」
 神埼は笑う。
 屈託のない笑い方だったが、初めて凪は、この男に信用おけないものを感じていた。
 確かに出て行ったのは風汰の意思だが、甘い言葉でそう仕向けたのは、この男ではなかったか。
「風はどこにいるんですか」
 凪は、少し攻撃的になって聞いていた。
「風君なら、今、見学。タレントの仕事がみたいって言うからさ、グラドルの夏目純ちゃん、知ってる?」
 神埼は、ますます馴れ馴れしい口調でそう言った。
 知るか、んなもん。
 と、思いつつ凪が黙っていると、
「今月から、うちに移籍した女の子なんだけどね。今、セイバーって知ってる?子供向け特撮なんだけど、そっちでお父さん世代に人気が出てきた女の子でね」
 セイバー。
 凪はようやく顔を上げた。
 即座に浮かんだのは、ひと夏一緒にいて、誰よりも優しくて、穏やかな空気をまとった東條聡のことだった。
「彼女の撮影に同行してるの、今、どこに行ってるかなぁ、ね、どうせ学校休みなんでしょ、よかったら凪ちゃんも行ってみない?」
「…………」
 どうしよう。断った方がいいような気がした。
 そこは、神崎のテリトリーだ。たった一人、誰にも相談しないままここにきて――足を踏み込むのは危険な気がする。
 が、
「行こうよ、凪ちゃん、運よかったら、ストームの東條君に会えるかもしれないよ」
 その一言で、凪は迷いつつ、うなずいてしまっていた。


                   3


 サンテレビ。
 凪にしてみれば、初めて足を運ぶテレビ局。
 ロビーにも近辺にも、見学の人が、結構たくさんうろうろしていて、凪も、さほど気後れすることなく、神崎に付き添って中に入った。
 というより、少しだけ拍子抜けしていた。
 テレビ局というから、入ったとたんにタレントにばったり……てなこともあるのかと思っていたが、全然そんな雰囲気ではない。
 が、エレベーターをひとつ上に上がっただけで、もう、一般人めいた人はいなくなった。スタッフジャンバーを羽織ったいかにも徹夜明けっぽい人たちが、うろうろと行き来している。
 凪が最終的に連れて行かれたのは、五階にあるスタジオの一室で――それは、期待していたセイバーの撮影所ではないようだった。
「『OLライフ』の撮りなんだ、深夜番組だけど知ってる?純ちゃん、準レギュなんだけど、今回は塩風呂の効果を試すって企画に出させてもらっててね」
 神埼が機嫌よく説明してくれる。
 確かに扉を開けた途端、ふわりと甘い、浴室から漂う石鹸のような匂いがした。
 グリーンのカーテンの向こうで、照明がまぶしくきらめいている。カメラを持った人、銀色の板のようなものを持った人が、せわしく行き交い、時折、怒声のような声も聞こえる。
「急いで、純ちゃん、次の仕事入ってますから」
「今、メイクなおしてまーす」
 薄暗いスタジオでは、何人ものスタッフがあわただしく動いていた。
「風は?」
 凪はそう聞いたが、さっさとスタジオの中央に行き、スタッフと挨拶を交わしている神崎は、振り返りもしない。
 凪の背後には、ずっと同行している一文字がついていた。が、彼はそもそも神埼の言うことに「そうだね」「いいと思います」と受け答えるばかりで、詳しい事情は知っていそうもない。
「あっつーい、もうちょっと涼しくしてもらわないと、メイクがくずれちゃうでしょ!」
 そんな、甘い、が、どこか棘のある声がした。
 カーテンがばっと開いて、その中から、バスタオルを胸に巻きつけた、ほぼ半裸の女性がいきなり現れる。
「わっっ」
 と、凪は思わず叫んで後ずさった。
 女――テレビでたまに見る、清純そう――に思えた夏目純は、「ん?」と、不機嫌そうな目で凪を見て、そして背後の一文字を見て、急に機嫌よさげな笑顔になった。
「きゃっ、一文字さんじゃないですかー」
「よう、久しぶり、純ちゃん」
「もうっ、今日はなんのお仕事なんですー?」
 凪はあっけに取られていた。
 な、なんなんだろう、この変わり身のすばやさは。
「ちょっとね、それより、どう、この子」
 と、一文字の視線が、ふいに凪に向けられた。当然同時に、純の視線も凪に向けられる。
「新人ですかぁ?かっわいい〜」
 って、絶対心にも思ってねーだろ。
 と、思いつつ、凪も作り笑顔で頭を下げる。
 いや待て、ここは否定するところじゃん。
 と、気づいた時には、すでに視界から、夏目純の姿は消えていた。
「こんにちは、一文字さん」
 その代わり、すこし線の細い女性の声が、背後からした。
 先ほどの夏目純がココアなら、この人の声は日本茶だな、と凪は思った。なんていうか、渋い。
 振り返ると、シックなグレーのスーツを着た細身の女性が、スタジオの入り口で、丁寧に頭を下げている。
「これはこれは、ヤナセ先生、お久しぶりです」
 と、今度は一文字の口調がふいに変わる。
「先生はよして、もう本は書いてないのよ」
 顔をあげて微笑した女性は、確かに洋服より和服が似合いそうな人だった。
 いかにも弱そうな色白の肌に、きつくまなじりの上がった細い眼。真っ赤な唇は、奇妙なほどナチュラルで、もしかしてノーメイクなのかな、とさえ思えてしまう。
 いまどき珍しいほど黒い髪は、サイドをわざと零した形で、しどけなく後ろでまとめられていた。
「何をおっしゃる、構成作家だって、立派な作家先生ですよ」
 と、一文字、上へも置かない褒めちぎりぶりである。
 それまで、どこかすかした態度だったのに――
 凪はまたまた唖然としていた。
 そうか、芸能界って変わり身の速さが勝負なのね。
 これは、絶対に風には向かない。だって人の目をまともに見て、話すこともできない奴だから。
「……この子は?」
 その、ヤナセと呼ばれた女性の視線が、ふいに凪に向けられた。
「ああ、東邦さんの新人で、今日はスタジオ見学に」
「へぇ……」
 違う、と口を挟むのもはばかられるので、凪はただ黙って頭を下げた。
「可愛いのね、がんばって」
 と、にっこりと笑いかけた女の目が、ふと表情をなくしたように一点で止まった。
「………?」
 凪が戸惑っていると、女は取り繕ったように顔を上げ、一文字を見上げる。
「本当に可愛い、いい線いくんじゃない?名前聞いてもいいかしら」
「流川凪、十七です、そうですか、やはりいい線いきますか」
 と、即座に一文字が答える。
「…………」
 女は、それには答えずにただ微笑し、再度凪を見てから、そしてすうっと背を向けた。
 なんだろう。
 凪は、不思議な不安を感じて、背後に立つ男を見上げた。
「彼女ね、デビュー作で芥川賞とった天才作家って呼ばれてた人でね。知らない?ヤナセキョウコさんっていうんだけど」
 聞いたような、聞いたことのないような。
「今は作家を辞めて、バラエティ番組の構成や、企画に携わってる人なんだ。この番組の構成作家も、確か彼女」
 そうですか。
 凪はそれだけ答え、女の立っていた場所を見つめた。
 何故だろう。
「顔売っといて損はないよ。才女だからね。この業界でも生き残っていくだろうし、今、作家復帰のために本書き下ろしてるって噂だし」
 初めて会うはずの人。
 が、女の目は、明らかに凪を知っているようだった。
 しかも――とびきりの嫌悪をこめて。
「ちょっと、そこの子、こっちに来て」
 ふいに、怒ったような声でそう呼ばれたのは、その時だった。


















           

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