1
おはよう、翔君。
今日はステキな夢を見たから、誰かに聞いてほしくって、さっそくメールしちゃいます。
なぁんと!
私が、STORMに拉致される夢。
夢の中では、私「モーニングガール」の一員なの。
テレビの歌番組で一緒になった後、局の廊下でSTORMの5人にばったり。
「おい、なんか可愛い子がいるぜ」(綺堂君でーす)
「可愛いから、拉致っちゃおうか」(りょう君です、ドキドキ)
「そこのお前、こっちに来いよ」
キャーーーーーーー
将君がーーーーっっっっ
でも、ガーン、そこで夢は終わっちゃったの。
明日は続きが見られるといいな。
「………………………………………………………………」
なんじゃ、これは。
「翔、朝ごはんよ、いつまで寝てんの!」
階下から、相当苛立ったおふくろの声がした。
「うーっっす」
俺は適当に答え、まだ半分寝ぼけた目をこすって携帯電話をパキン、と閉じた。
バカだ。
いや、そうだってことは知ってたけど、本当にバカだ、こいつは。
朝イチで、うるさい着信音で目覚めさせられた挙句が、このメール。
アホか。
が、そのアホが、二ヶ月前からつきあっている俺の彼女なのである。
で、ついでに言えば、こんな朝の目覚めは一度や二度じゃない。俺の携帯には、彼女の妄想夢シリーズが延々蓄積されつつある。
「おはよっ、翔、寝ぼけ顔もいけてるじゃない、この色男」
と、階段ですれ違いざま、ひとつ年上の女子高の姉貴が、俺にラブレターめいたものを押し付けた。
「ああ……」
「返事ちょうだいよ、前みたいに勝手に捨てたりしないでよ」
先月、町のガイド誌か何かに、街で見かけたイケメン高校生とかで氏名学校が載ったせいかもしれない。最近、こんな面倒なことばかりだ。
俺、桜木翔。
高校二年生。
交際中の彼女、美月奈緒と、いつ別れるべきか、今真剣に考え中である。
2
「っす、桜木」
教室に入ると、気のあう仲間たちが振り返って手を上げてくれる。
俺は適当に答えながら、窓際の席で、一人静かに座っている美少女に視線を向けた。
「なっち、来てるよ」
親友の相葉マサルがにやにやしながら囁いてくれる。
なっちというのは、俺の彼女――美月奈緒が、元モーニングガールのなっちに似ているから、男連中がひそかにつけたあだ名である。
「相変わらず、かわいいねー、よっ、色男、もうキスくらいはしてんだろ」
「ははは」
俺はあいまいにごまかして、鞄を机の上に投げ出した。
「相変わらず熱心に本読んでるなあ……読書家なのかな、物静かだよね、なっちは」
と、何も知らない相葉は感心しているが、なっち――こと、俺の彼女美月奈緒が、まともな本など読まないことは、俺が一番よく知っていた。
どうせ、「STORMの秘密」とか、「STORM誕生秘話」とか、そんなたぐいのものを読みふけっているに違いないのだ。
俺は――それでも一応、顔さえあげずに熱心に文字を追う、奈緒のところに行ってみた。
「おはよう」
と、声をかける。
微動だにしない頭に、我慢を重ねてもう一度声をかけてみた。
「あ、おはよ」
ようやく気づいたのか、奈緒がわずかに視線を上げる。
う……。
俺は、胸を射抜かれる。
なんだって、こいつは、こんなに犯罪的に可愛いんだ。
この外見に、男はみんな騙されるんだ。
そう、俺もそうだった。
「今朝は……ごめん、寝坊して、メール返せなかった」
「いいよ」
「…………」
そ、それだけかよ。
女の関心は、すでに目の前の本、それだけである。
「……何の、本?」
あまりに自分がバカみたいなので、仕方なく話題を振ってみた。
「あ、これ?翔君も気になる?」
たちまち、奈緒の顔がぱっと明るく輝いた。
う、超可愛い。
俺はまたまた、胸を串刺しにされている。
「昨日見つけたの、STORM爆笑コント集、これはね、バラエティのコーナーで、面白かったコントをそのままのっけたやつなんだけどー」
「ふ……ふぅん」
俺は額に汗しながら、すごく楽しそうな相槌を打った。
「読んだら、翔君にも貸してあげるね、将来アイドルになるんだったら、こういうところも押さえとかなきゃ」
「そ、そうだね」
声が小さいのが救いだった。
俺は、周囲の友人の視線をいたく気にしつつ、自席に戻る。
「いよっ、いいねぇ、朝っぱらからラブラブで!」
相葉が、ばん、と背中を叩いてくれる。
俺はげほげほと咳き込みながら、実際、脱力してそのまま机にへたりこんでいた。
美月奈緒は、高校から一緒になった同級生である。
一年の時はクラスが違った。
が、今年の新入生に、モーニングガールクリソツ(死語?)の、超可愛い子がいるということは、俺の耳にも入ってきていた。
ちなみに俺。
は、恥ずかしながら、中学まではモーニングガールに夢中だったわけで。
もちろん、俺は、俄然美月奈緒に興味を持った。いや、ぶっちゃけ、俺の女になってくんねーかな、とソッコー思った。俺は自分で言うのもなんだけど、そこそこいけてる方だと思うし、今まで女にふられたことは自慢じゃないけど一度もない。
結構つりあってるんじゃないかな、と、一年間様子を見続けて、そして二年。
同じクラスになった。
実際、間近で見る奈緒は、ホントーに、可愛かった。モーニングガールは何度もオーディションやってるから、応募すればいいのに、と思うほどだ。
が、少し変わった子かな、とも、ふっと思った。
どうもあまり友達がいない。
男に興味がないのは、のきなみふられた男どもから聞き知ってはいたが、どうも、女付き合いも悪いらしい。
で、何人か仲良さそうにしているのは。
そろいもそろって全員ブス。
よりにもよってこいつらかよ、みたいな。
―――あれじゃない?美人ほど、自分よりブスな子とつきあうっていうじゃない。
と、女連中が皮肉たっぷりに言っていたが、言っては悪いが、この学校に美月奈緒ほどの美人はまずいない。
そこのところが、微妙に不安だったが、とりあえず、俺は告った。
で、ふられた。
髪も服も目茶目茶決めて、で、帰宅途中に待ち伏せして、相当ドキドキしながら告ったのに、――少しかんがえてから、一言。
「ごめん、私、柏葉君が好きなの」
カシワバ。
誰だよ、そいつは。
相当ショックだった俺は、家に帰って、それでもすぐにあらゆるすべての伝を頼って、カシワバたる野郎を探し当てた。
三年、相撲部にそいつはいた。俺は写真を見て卒倒した。
つーか、嘘だろ。ありえねぇだろ。女にしろ、男にしろ、どんだけブスが好きだっつー話だよ!
しかし、今思えば、その方がまだ健全だったのだ。
奈緒の言ったカシワバ君とは、つまりすなわち柏葉将。
この学校どころか、県内どこを探してもいるはずがない。
俺のライバルは、ブラウン管の中で笑っているアイドルだったのである。
3
「……ま、まだ買うの?」
俺は、ちょっとうんざりしながら、それでも笑顔を浮かべてそう言った。
「うん、記事は全部チェックしとかなきゃ」
なんでもないように奈緒は言い、手当たりしだいにティーンズ雑誌を持ち上げては、ぱらぱらとめくっている。
つーか、俺が持たされてる本だけでも、すでに六冊。
毎月のはじめ、こうやって雑誌の新刊が出る時の恒例行事――らしい。
俺の彼女は、STORM関連の記事が載った雑誌は、たとえそれが週間新潮でも九州スポーツでも買ってしまう女なのである。
「きゃーっ、見て見て、これ、将君の浴衣写真、もー、超レア、鼻血でちゃう〜」
そ、そんなもんかよ。
俺はははは、と力なく笑った。
それって、男が女の水着とかみて言う台詞だと思うけどな。
それに、言っては悪いが、恥ずかしい。
街に一軒しかない書店の、このコーナーには、中高生らしきいかにもアイドルおたくみたいな女の子が、座り込まんばかりに立ち読みしている。
で、その妙な輪の中に、男である俺一人。
狭い街、書店のおっさんは、顔なじみだから、こんな時なんとも気まずいのである。
「ねぇ、おじさん、そのポスター、いつまで貼ってるの」
が、奈緒は、そんな俺の戸惑いも頓着せずに、レジのおやじにずけずけとおねだりしている。おじさん、いつものことなのか弱り顔で苦笑している。
別れよう。
俺は、心に決めていた。
どうせ、奈緒は、俺のことが好きじゃない。
彼女が、俺とつきあう?ことを決めてくれた本音は、実はまったく別のところにあるからだ。
が、
「どっかでお茶する?」
書店を出て、黒目勝ちな目で見上げられ、そういわれただけで、俺はふわふわと舞い上がってしまっていた。
可愛い。
さらさらの黒髪。色素の薄い肌に、茶味かかった虹彩を持つ瞳。
もちろん、くっきり二重で、淡い色味を帯びた唇はどこかセクシーだったりもする。で、ここ最高!なのだが、頬には、いつもキュートなえくぼが浮かんでいて、ぷっくりしたほっぺは、そのまま食べてしまいたいほどだ。
―――と、書けばいかにも俺が変態のようだが、それだけ奈緒という女は可愛いのである。
が、
町外れの喫茶店について、再び俺は後悔することになった。
女の目的は、どうも買ったばかりの雑誌をチェックすることで、俺との会話にあるわけではなかったからである。
「いいなぁー、すごいなー、東京の人になりたいなー」
今月の記事は、のきなみ東京で行われたJ&Mのフェイティバル……よく知らないが、武道館にアイドルたちが集まってイベントのようなことを行った、その内容ばかりのようだった。
俺の前に、ほぼ強制的に広げられた雑誌にも、そのステージの様子を写した写真がでかでかと載っている。
その中で、俺が知っているのは、GALAXYの5人。彼らのことは、はっきり言って、俺だけでなく、日本のほとんどの人が知っているだろう。
あと、バラエティでよく見るMARIA。
スニーカーズもよく見ている。田舎のこのあたりじゃ深夜放送だが、澤井兄弟は、俺もまぁまぁ好きな番組だ。
SAMURAI6もバラエティの常連だから、なんとなく全員の顔(名前まではやばいが)を記憶している。
が、
申し訳ないが、女が強烈に愛しているSTORMだけは、なんとも俺には判らない存在だった。
曲を聴いてああ、と思った。何年か前、ワールドカップバレーのテーマ曲だかなんだかで、ものすごくヒットした歌。正直言ってくだらねー歌だったが、記憶にはちゃんと残っている。
そういえば、バレーの始まる時間にはいつも、なぜかバレーとは無縁の男5人が、ひらひらの衣装を着て、神聖なコートの上で歌い踊っていたもんだっけ。
バレー部のダチが、あれだけは許せん、バレーファンをなめきってる、と激怒していたのもよく覚えている。
今思えば、誰が誰だか、顔の区別すらつかないその時の5人がSTORMだったというわけだ。
―――へー、まだ、いたんだ、
申し訳ないが、そう思ってしまった。
東京では、じゃんじゃんテレビにも出てるのかもしれないが、悪いがここ、新幹線さえ通らない鳥取のド田舎では、ゴールデンにレギュラーでも持っていない限り、まずお目にかかることはないのである。
「もう、よく見てよー、この子、片瀬君って言うんだけど、よくドラマにも出てるんだよ。主演だってしてるし、憂也君だって映画にも出たりしてるし」
奈緒は、むきになって色々説明してくれるが、そして、そういわれれば、ああ、見たわ、とも思ったが、ドラマでたまに見る俳優が、そもそもJ&Mのアイドルユニットかどうかなんて判らないし、興味もない。
いくら面白いドラマでも終わってしまえば、それきりである。
「紅白とか出られるの、この人たち」
「出ないけど、それは、ほら、事務所の方針だと思うのよ」
と、奈緒はわけのわからない理屈を言った。
自称アイドルおたくの奈緒の理論によると、いまや男性歌手で売れているのは、ほとんどがJ&М事務所所属のアイドルであるらしく、それらすべてを紅白に出すと、大変なことになる――のだという。
「ほら、バランスの問題よ、紅白にひとつの事務所から、五つも六つも出てきたらおかしいじゃない」
あと、金。
稼ぎ時の年末に、報酬の安い紅白ごときに、大切なタレントすべてを渡せないということらしい。
「CDの売れ行きでいったら、MARIAとかより、絶対STORMが売れてるの。今、一番売れてるの。なのに、扱い低いよね、なんでだろ」
奈緒が不平を漏らすとおり、確かにどの雑誌でも、STORMの扱いは、ちょっとばかり小ぶりだった。
―――そういや、もうすぐ夏休みだなぁ
俺は、ぼんやりしながら、すっかり氷の溶けたコーヒーをかき回した。
来年は受験だ。
地元に大学は少ないから、おそらく県外に出ることになる。
勉強しなけりゃいけないし、こうやって、くそ退屈な田舎街で、うだうだ時間をすごすことができるのも、今年が最後になるのかもしれない…。
ふつ気づくと、それまではしゃいでいた女が、ふいに静かになっていた。
「……どうしたの」
俺は、ちょっと驚いて身を乗り出していた。
もしかして、心ここにあらずすぎたのだろうか。いや、あまりにもどうでもいい話だったから……。
「………広島に、来るんだって」
「………うん?」
なんの話だろう、と一瞬思ったが、かんがえるだけ無駄だった。
STORMの、夏のコンサートの予定が書かれている記事。
奈緒はそれを見ているらしい。
「広島には来るのに、ここには絶対に来ないんだもんねぇ……同じ中国地方なのに、ほんのちょっと違いなのにねぇ……」
「まぁ、……新幹線が通らないってのは、痛いよな」
ほんのちょっと――といいつつ、ここから広島までは、実に四時間以上かかるのである。新幹線の最寄駅にたどり着くまでの時間を合わせればそれ以上。
広島には、修学旅行で行ったきりだ。
まぁ、ここよりは都会だが、半分は田舎で、半分は町。そんな感じの都市だった。
「………ね、翔君は、東京に行くんでしょ」
が、女はすぐに、気持ちを切り替えたように顔を上げた。
「あ、……う、うん」
この嘘が。
「事務所のオーディション受けるなら、もうちょっと早いほうがいいとは思うけどなー、ほら、最近じゃ、小学校低学年もいるんだって」
「お、親がー、まだ許さないし」
俺は曖昧に言葉を濁した。
この嘘が、奈緒と付き合うきっかけだったのである。
俺が、よりにもよってアイドル目指してて、高校でたら東京行ってJ&Mのオーディションを受けるというのが。
相葉が考えた適当な嘘だが、それを口にした途端、奈緒は目を輝かして、「もっと、その話、聞かせて」と言ってきた。ここまで喜んだ顔を見て、実際、後戻りはできなかった。
あと、名前。
漢字違いだが、翔と将。
似ているところがよかったらしい。
友達でも呼ばない「将君」と、奈緒は、実に嬉しげに読んでくれるのである。
―――まぁ、つまり。
その時も、今も、奈緒は俺のことを、好きとかそういうわけじゃないってことだ。
「いいなぁ……行きたいなぁ……」
奈緒はまだ呟いていてる。
「いけばいいじゃん」
俺は、ちょっと面倒になって、素っ気無く言った。
ここが――実は、奈緒という女のわからないところなのだが、アイドルの柏葉将のことがこんなに好きなくせに、雑誌やテレビ以外でのアプローチを、まるで考えていないようなのである。
アニメや外国人じゃないんだから、いくら芸能人だっていっても、ちょっと頑張って東京に行けば、絶対に会える。少なくとも大阪、広島、福岡には毎年夏コンで来るわけだから、せめてそこにくらい行けばいいんじゃないかと思う。
「んー、だめ、だってうち厳しいし、ファンクラブにも入れないから、チケットも取れないし」
奈緒はまだ、名残惜しげにその記事を見ながら呟いている。
アイドルのコンサートチケットは、基本的にはファンクラブにでも入っていない限り、よほどの運がなければ、手に入らないものだという。
じゃ、入ればいいのに――。
と、俺は簡単に思ってしまうが、奈緒はそれもできないという。
まぁ、察するに、よほど親が厳しいのだろうが……。
「はぁ……行きたい……」
行こうと努力もしないのに、ため息ばかり。
いいかげんにしろよ、と思ったが、そのうつむいた顔がなんだか必要以上に寂しそうだったので、俺のハートは、またきゅんっとなってしまった、
「翔君は、いつか事務所に入ってSTORMに会えるかもしれないもんね。でも、私はダメ、きっと一生、こんな辛い片思いのままなんだ」
「………………そ、そうかな…」
そんなにうまくいったら、全国誰でもアイドルだらけだ。
「ね、STORMに会ったら、将君のサインもらってきてね、奈緒へって書いてもらってね」
「…………」
結局、こいつの頭の中は柏葉将だけかい。
がっくりしながらも、やはりそういう奈緒がどこか寂しげだったので、俺は奈緒をなぐさめたくなる。
しょうがない。
別れたほうが精神的にいいと知りつつ、こうやってだらだら付き合っているのは、やっぱ、好きだから――まぁ、一方的にだが、好きだから、なのである。
「……奈緒もさ、東京に行けばいいだろ。大学あっちいってもいいし、オーディションとかうけてさ、芸能人になったら、柏葉将にも会えるかもしれないじゃないか」
適当な慰めだが、半分は本音だった。
奈緒は可愛い。
こんな田舎で、比べようにも誰も比較する者がいないから――余計にそう見えるのかもしれないが。が、それをさっぴいても、東京に住んでいれば、間違いなく原宿か何かでスカウトされるような気がする。
「ううん、私は本当にダメ……才能ないの、勇気も根性もないし」
「そんなことないだろ」
少なくとも、誰にも負けないゆかんだ情熱ならあると思う。
どうしてその情熱を、いかんなく前向きに発揮しないのだろうか。
「親が許さないよ。大学も、絶対に地元、就職もこっちってもうずっと言われてるの。私、一生この町から出られないんだ」
「………」
結局そこか。
奈緒という女は、どうにも家族の呪縛から逃げられない――というか、逃げる意思さえないらしい。
俺は、以前姉貴が言っていた言葉を思い出していた。
ねぇ、知ってる。犬ってさ、子供の頃から鎖に繋いでると、その鎖がなくなっても逃げないんだって。逃げること知らないの、犬ってバカよね――。
その時だった、いきなりじゃかじゃかと激しい音楽が鳴った。もうすっかり聞き慣れたから知っているが、STORMのデビュー曲「STORM」(ふざけてんな……と、最初は思った)むろん、奈緒の着信音である。
「やば、お母さん、いけない、ピアノに行く時間だったんだ」
携帯を耳にあて、「はい、はい」と素直に返事をしてから、奈緒は慌てて立ち上がった。
「どうしよ……本、もって帰ったら怒られるかな」
「いいよ、俺が預かって、明日……が、家までもってってやろうか」
学校には持っていけない。恥ずかしすぎる。
が、言った後で気がついた。奈緒の家はもっとまずい。
なにしろ、奈緒をがんじからめに縛っている両親である。父親がどこぞの高校の校長で、母親は家で書道とお花の先生をしているらしい。地元でも、そこそこ有名な名家なのである。
むろん、男女交際など許されるはずもない。奈緒が、かたくなに男を拒否していたのは、しつけの厳しい両親の影響もあったのだろう(ほんの少し)。
「うん……ありがと、家はまずいから、また私から連絡するね」
奈緒はすまなそうにそう言い、慌てて財布から自分が飲んだ分だけの代金を置いて立ち上がった。
「じゃあ、またね」
すんなりと伸びた綺麗な脚が、遠ざかっていく。
俺は、ちょっと温もった小銭を指でつまみ上げた。
奈緒のことが、やっぱいいなーと思うのは、こういう所だ。
今までつきあった女は、こういう場面では、当然のように支払いをせずに店を出て行く。
惜しいのは、アイドル狂い。というより、こんな中途半端な片思いは、もう疲れた。
いずれにしても、夏までには結論を出すべきだろう。
「どうすっかなぁ……」
俺は重いため息をつきながら、重たい袋を持ち上げた。
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