4

 
 風呂からあがって、タオルでゴシゴシと頭をこすっている時だった。
「え、マジでー、本当にそれ、譲ってもらえんの?」
 姉貴の、素っ頓狂な声がした。
 また、電話かよ……。
 俺はうんざりしながら、電話台の傍をすりぬけて階段に向かう。
 携帯があるくせに、長電話が好きな姉貴は、たいてい九時から十時までは、家の電話を占領しているのである。
「あー、でもストームかぁ、私、スニーカーズなら行ってもいいんだけど」
 俺の耳はデビルイヤーになり、脚は十字架のイエスキリストになっていた。
「広島だったら、八月の最終日でしょ、どうかなぁ……、遠いもんね、交通費もかかるし、まぁ、今回はパ」
「姉貴!!」
 俺は、姉貴の、女にしてはごつい手首を掴みあげていた。
「きゃー、実の弟に襲われるぅ」
「あ、あほか、それ、なんの話しだよ」
 姉貴は「はぁ?」と、眉をしかめながら、それでも詳細を話してくれた。
 つまり、ファンクラブチケットで多めに買った広島公演――むろん、ストームの、その悪い方の席二枚を、定価で買ってくれないか、という誘いらしい。
「買う、俺が買う、頼む、買わしてくれ」
 俺は、土下座せんばかりにして姉貴に頼み込んだ。
 実際、後先のことは深く考えずに、ただ、奈緒の喜ぶ顔のことだけを考えていた。
「買うって……二枚で一万以上はするよ、あんた、どこにそんな小遣いがあるのよ」
「お………」
 お年玉、前借りして、
 と、俺は苦しい言い逃れをした。そうか、金はない。交通費を合わせたら、二万以上はかかる。これから、夏は頑張ってバイトして、それでなんとかなるなら――。
「……ふぅん……」
 姉貴は、たっぷりと考えてから、俺を舐めるような目で見上げた。
「ラブレターの返事、全部書いた?」
「か、書きます、今から」
「全員と、一応会って話しして、自分の口から断ってもらうけど、それでもいい?」
 な、なんつー、面倒で、後味の悪いことを。
 そう思ったが、断れなかった。
 アイドルのコンサートチケット。すでに一般発売が終わっているチケットを取るのがどれだけ至難のわざか、それは、俺にもなんとなく判っているからだ。
 姉貴からオーケーをもらって、俺は小躍りしながら部屋に戻って――はた、と気づいた。
 ここから広島まで、日帰りでぎりぎり行けるとしても――コンサートの時間によっては、帰れなくなることも、十分ある。
 で、いくらなんでも、奈緒の交通費まで負担……できるだろうか。
 というか、あれだけ親の言いなりになっている奈緒が、そもそもコンサートに行くと言えるのだろうか。
 つーか、俺、奈緒と別れるつもりじゃなかったっけ。
 俺……
 バカじゃねぇの。
 そう思いつつ、俺は、机の上に詰まれたラブレターの山をとほほ……な気分で見つめていた。


                    5


「えっ、本当?」
 奈緒は、心底驚いたようだった。
 喜ぶというより、むしろ不安げな顔になっている。
 俺は、言い出したことを後悔した。まさかと思うが、何か下心があると思われているのでは―――。
 チケットを仮ゲットした翌日――つまり、今日。
 驚いたことに、携帯に電話があって、今からそっちに本を取りに行く――そう言ってくれたのは奈緒の方だった。
 夕暮れの中、奈緒はまだ制服姿のまま、自転車に乗って急な坂の上にある俺の家までやってきてくれた。
 で、今。
 家から少し離れた児童公園で、止めた自転車の前で向かい合って立っている。
 茜色に染まった奈緒の肌は本当に綺麗で、人気のない公園で、二人の距離は初めてってくらい近づいて、俺は――なんだかこのまま、ちょっとエッチな気分になりそうだった。
 が、コンサートの件に関しては、マジで下心はないのである。
「いや、もしあれだったら、他の友達といってもいいし、泊まりとかになるなら、俺は遠慮しとこうと思うから」
「夜の公演なら、帰れないよ……てゆっか、それじゃ悪い、翔君だって観たいんでしょ」
「…………いや………」
 それは……ないんだけど。
「……ちょっと……考えてみる。大丈夫、駄目になってもお金はちゃんと払うし、交通費も、なんとかなるから」
「考えるって、大丈夫なのかよ」
「……うん……大丈夫、まさか、アイドルのコンサートに、男の子と行くなんて、お父さんもお母さんも思わないだろうし」
 えっ。
 じゃ……じゃあ。
 あのー。
 俺と、一緒に行ってくれるってことで。
 つ、つまり。
 俺と一夜を、そのー。
「じゃ、本はありがとっ、またね」
 が、奈緒は俺の高まった気持ちをよそに、さっさとスカートを翻してしまった。
 しかし、今日の俺は、がっくり肩を落とすことはなかった。
「よっしゃー、バイトだーっ」
 俺は雄たけびを上げ、降りてきた坂を全力ダッシュで駆け上がったのだった。


                      6


「えー、じゃあ、つきあってる子いるんだ」
「は、……はい、すいません」
 疲れた……。
 一体、姉貴の奴、何人と妙な約束してんだよ。
「ま、いいかー、今日一日遊んでくれれば」
「は…はぁ、まぁ、バイトの時間までなら」
 これで三人目。
 遊ぶといっても、狭い狭い、きわめて娯楽の少ない町である。また、こないだと同じコースかよ。
 俺はうんざりしながら、伝票を掴んで立ち上がった。
 が、これも、奈緒と、楽しい旅行(まぁ、目的はコンサートだが)に行くための軍資金集めである。
 姉貴のノルマをこなせれば、3万。
 といっても、来年のお年玉で返金することになるのだが、姉貴が出資してくれることになっていた。
 奈緒の両親は、まさかアイドルのコンサートに男と行くとは夢にも思わないだろうが、逆に俺の場合、姉貴は――まさか、ヤローと二人でコンサートに行くとは夢にも思わないだろう。
「なんだかんだとお金かかるわよぉ、お昼ご飯に晩ご飯、彼女にいいとこ見せたいんでしょ」
 と、妙ににやにやしつつ、広島のガイド誌を手渡してくれた姉貴は、まぁ、やっぱ、弟思いのいい奴なのだろう。 
 信じられないことに、奈緒の両親は、広島行きを許可してくれたらしい。
「びっくりした、思い切って言ってよかった。嘘つくのは辛いけど、どうしても行きたかったから」
 先週、電話で聞いた、奈緒の声は明るかった。
 実際に会って話したかったが、俺があまりにも忙しすぎた。
 コンビニのバイトをはじめたことは、まだ奈緒には言ってはいない。まぁ、へんなところで気を使わせたくなかったし、俺も、はりきってるって思われるのが恥ずかしかったし。
「友達が、お姉さんと行くの。で、一緒に行くことにしてもらったの。私……だから、泊まるところは、友達のいるホテルでいいかな」
「あ……そうなんだ」
 それは、内心ガクっだったが、実際、手もつないだことのない奈緒と、その一晩でどうこうなるなんて想像してもいない純な俺。
 だから、「いいよ、俺もどっか適当にとまるよ」と、さらりと答えた。
 が、不思議だったのは、友だち――(それは、俺がブス……だと思っていた奈緒の友達連中で、彼女たちもまた熱心なアイドルオタクだったらしいのだが)、その友達が実際に行くなら、なんそもそもで奈緒は、彼女たちと一緒にチケットを取らなかったのだろうか……。
 その疑問は聞けないまま、もうすぐ八月も半ばになる。
 バイトは今週で終わりだった。
 来週には、広島だ。
 現実には、今、好きでもない女とデートしているわけだけど。そのノルマも今日で終わる。
 俺はそう思い、萎えそうな気持ちにハッパをかけた。
「ねぇ、翔君の彼女って、どんな子?」
 なれなれしく俺の腕を取りながら、姉貴と同じ高校だという、ちょっとけばいお姉さんが言った。悪いが名前もよく覚えていない。
 ショッピングセンターで、女がリップを選ぶのを、所在無く待っていた時だった。
「えーと、普通の子ですけど」
「綺麗な子?髪とか、ロング?」
「……まぁ、綺麗だし、髪は長め……かな」
 肩先までしかない髪を、ロングといっていいものかどうか判らない。
 迷っていると、ふいに女がくすくすと笑い出した。
「よく覚えてないんだ、本当にその子のこと好きなの」
「は……はは、さぁ……」
 俺は曖昧に言って、曖昧に笑った。
 というより、そもそも彼女といっていいかどうかも判らない。
―――そういや、俺、ふられたんだよな。
 はっきりとふられて。
 で、嘘ついて、「話聞かせて」になって。
 そのままずるずる今に至る。これって……そういや、なんなのだろう。
 つーか、俺。
 なんのために、この夏ずっと働いていたんだろう。


                      7


「奈緒」
 が、それでも俺は、尻尾を振ってご主人さまの喜ぶ顔を待つ、悲しいくらい忠実なワン公だった。
 今日がバイトの最終日にして給料日。
 すぐに旅行会社に自転車を走らせ、当日の新幹線や在来線のチケットを買ってきた。宿は、友達に聞くと、飛び込みでラブホに入るのが一番安上がりだと言う。
 実際、広島のビジネスホテルは七千円台がほとんどで、ラブホなんて一人で入れるのかよ、とそれが不安だったものの、結局、宿の予約はしないままだった。
 姉貴から、ようやく手渡されたコンサートのチケットは、スタンドエフの十四列。どう考えても、さほどいい席ではなさそうだが、この薄いかみっきれ一枚が、今は極上の宝物に見える。
 それを持って、俺は奈緒の家の傍にある公園まで自転車を走らせた。
 一刻も早く、奈緒の喜ぶ顔が見たかったし、バイトのお金で、ちょっとしたプレゼントも用意していた。
「久しぶり」
 奈緒は、白いノースリーブのワンピースを着て、髪は後ろでひとつにまとめていた。そのせいか、ドキドキするほど大人びて見えた。
 というより、本当に大人に見える。
 つーか……
 テンション、妙に低すぎる……ような気がする。
「これ、チケット」
 俺は、用意したプレゼントだけは、ポケットにねじこんだまま、ひとまず封に入ったチケットを差し出した。
「……ありがとね」
 奈緒の声は、やはりまるで元気がなかった。
 俺は、どこか、肩透かしのような気持ちになりながら、無言で奈緒から、チケット分の代金を受け取った。
 が、奈緒は、俺の差し出した封は受け取らなかった。
「ごめん……だめに……なったの、実は」
 なんとなく、そんな気もした。
 あ、…そうなんだ。
 俺は、それだけを呟いた。実際、どんなリアクションをしていいのか判らなかったから。
「つーか……なんで?」
 奈緒が黙っているので、俺は仕方なく自分から聞いた。
 聞きながら、初めて腹立たしいものを感じていた。
「友達が……行けなくなったの。お母さんが急に入院したらしくて、……そこ、寝たきりのおばあちゃんとかもいて、……一昨日のことなんだけど、今年はあきらめるって電話があった」
「………で?」
 俺は少しいらいらしていた。
 疲れていたせいもあるのかもしれない。
「……うちのお母さん、その家の事情とかもよく知ってるから……だから、一人で行くのは許さないって、……そう、言われた」
 奈緒は歯切れ悪くうつむいている。
「で?」
 俺は――何故か、怒っていた。
「だから、行けない、……ごめん」
「…………」
 また親か。
 だったら最初から行けないって言えよ。
 最初はなんとかするって、俺と二人でもなんとかして行くってそう言ってたじゃねぇか。
 親一人も説得できねぇのか。
 あんだけ異常なほど好きなくせに、親一人言いまかせられないのかよ。
「これ」
 俺は素っ気無く、手にした封を、奈緒の手に押し付けた。
「もう金もらったから、やるよ。売るなり捨てるなり、思い出にとっとくなり、好きにしろよ」
 もう、振り回されるのはうんざりだ。
 いや、俺が勝手にくるくる回ってるだけの恋だったけどさ。
「…………」
 奈緒は何故か、動かなかった。
 うつむいたまま、何かにじっと耐えているようにも見えた。
 そして、信じられないような言葉を口にした。
「……じゃ、もう、私にあれこれ言ってくるのも、やめてよね」
 「………なんだよ、それ」
 俺は――普通に呆然としていた。
「わ……わたしたち、確認しとくけど、別につきあってるとかじゃないよね。そういう話もしてないし」
「…………」
 なんなんだ。それは。
 なんだってそこに話が飛んでくんだ。
 が、ある意味そこをはっきりさせるのは、夏前からの俺の本望でもあった。
「してねーし、そんなつもりも最初からねーよ」
 口にしてから、その言葉の冷たさに気がついた。
「ふぅん……」
 奈緒は、うつむいたまま、そう呟いたきりだった。
 長いまつげがゆれている。俺は眼をそらしていた。信じられないことに、奈緒は、明らかに傷ついた顔をしていた。
「………ふぅん…」
 奈緒は、もう一度呟いた。
「…………」
 どういう理由であれ、俺が、女のプライドを傷つけたことだけは、間違いないような気がした。
 それはそうだ。告白したのは俺だし、ふられても、つきまとっていたのは確かに俺だし。なのに、
 あんなひどいセリフ、どのツラで吐いたんだ、俺ってヤローは。
「…………」
 ごめん。
 喉まで言葉は出るのに、それ以上は出てこない。
「……行けよ、俺は行かないけど」
 その代わり、やっぱり、冷たい言葉を吐いてしまっていた。
 奈緒は、何も答えない。動こうともしない。
 もういいか。
 俺は、嘆息して髪をかきあげた。
 もう終わった。この恋は、これで本当に終わっちまった。
 もう、嘘も芝居もいい。俺、結局奈緒を騙してたんだ。それだけは、最後に謝らなきゃ、本当にサイテーの男になる。
「ごめん」
 俺は横を見ながら言った。
「悪いけど、嘘ついてた、俺、アイドルなんて全然興味もないし、なる気もない。つーか、無理。俺だって分ってもん知ってるから」
 奈緒は何も言わない。顔もあげようとしない。
「行けよ、広島」
 俺は、もう一度行った。
 奈緒の言葉を聴きながら、何故かずっと腹立たしかったものの正体が、なんとなくわかったような気がしていた。
「来年の夏は受検だし、今年しかないかもしれないじゃないか。行けよ、そんなに難しいことなのかよ、ひとりで広島まで行くことが」 
「………無理なんだって」
「お前の好きってそれくらいかよ、たかだか一日のことじゃないか」
 奈緒は、うつむいたまま首を左右に振った。
「………翔君にはわからないよ……私、生まれた時からここを出たことなくて、卒業しても県外に行くことなんて許されなくて、……毎日お稽古ごとばかりで、友達の家にも泊まりに行けなくて、」
 感情を抑えた声は、俺にとって初めて聞くような声だった。
「――そんな私のことなんて、翔君にはわからないじゃない……」
「わかんないけど、俺なら行くよ」
 ようやく判った。
 俺が奈緒を好きだったのは。
 バカみたいなことだけど、一生懸命になってる顔がかわいかったから。
 だからきっと、顔で好きになって告白した最初より、つきあいだしてアイドルバカだって知った今のほうが、結構本気で好きだったような気がする。
 だって、正直、テレビで柏葉将の顔見るたびに、ぶん殴りたくなるからさ。
「俺なら行くよ、取り合えず行ってから謝る。そうしなきゃ、何もできねぇだろ、親なんて、何やったって心配しかしねぇんだから」
 だから今、結構マジでむかついてるんだ。
 奈緒の一生懸命を、俺は応援してやりたかった。
 ライバルの柏葉将に――夢で拉致られるほど好きな柏葉将に、一目でも合わせてやりたかった。
 なのにこいつは、親の殻ひとつ、自分の力で壊せないような女だったんだ。
「柏葉将が好きなんだろ」
 俺は、……それでも、奈緒が少しかわいそうになって、声のトーンを下げていた。
「行けよ、会いに行って来いよ、奇蹟が起きてさ、柏葉将が、客席にいるお前に気づいて、そっから恋がはじまることだってあるかもしれねぇじゃないか」
「………」
 泣きそうになった奈緒の顔が、わずかに笑ったような気がした。
「お前は可愛いからさ……そういうことだって、きっと、あるよ」
 俺は、最後にそう言って、ちょっと泣きたい気持ちになって、自転車のサドルに飛び乗った。












          
                >>next >>back