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「ねぇねぇ、君、可愛いね、大きくなったらJ&Mに入らない?」
 誰だ?
 このクソでかい女は。
「年は?今何年生?どこの学校通ってんの?」
 変態だ。
 最近は、男子でもやばいっつってたけど、本当だった。
 柏葉将は、いきなり自分の視界を遮った存在をすり抜けて、ただ、前を見ながらすたすたと歩いた。
 河原沿い、静かな水面は夕日を反映し、群青色に輝いている。
「ねぇ、こんな時間にどこ行くの?」
 その将の後を、先ほどの変態はずっとついてきているようだった。
 今まで見た異性の中で、最高にでかい女。
 栗色の髪が肩先で揺れて、目は半透明の薄茶色。母親が趣味で集めているアンティークドールのような顔をしている。
「ねぇってば、どこいくのよ、小学生」
 が、そのアンティークドールは、顔だちとはアンバランスなスタイルをしていた。
 派手な迷彩柄のジャケットを着て、それと同タイプのズボンにブーツ。で、シルバーとブルーのラインの入った、大型のバイクを手で押しながら歩いている。
「ねぇってば、こんな時間にどこいくのって、き、い、て、ん、の」
 無視無視。
 しらねぇおっさんについてったらいけないって言われてるし。
 バイクに乗ってる女なんて、どうせろくでもない不良に決まってる。母さんが言ってた「落ちこぼれ」ってやつだろう。 
「ランドセルって可愛いね」
「うっせぇ!」
 が、その一言には耐えられずに返事をしてしまっていた。
 将の通う学校では、ランドセル持参が必須だっだ。近辺の公立では、同級生がのきなみ手提げ鞄に切り替えている中、校則以上に厳しい親の監視下の元、将の背中には、いつまでも小学生の証が揺れているのである。
「怒りっぽいなぁ」
 背中から、くすくすと楽しそうな笑い声がした。
「にしても、とことん相性悪そう、困ったな」
―――何言ってんだ?
 意味、全然わかんねぇし。
 前方から、鈍く何かが弾ける音がした。将にとっては聞きなれた音。バットが軟球を叩く音だ。
「………………」
 夕日が半ば、川面に沈みかけている。
 河川敷の土手にいくつも並んだ自転車が、道路に長い影を引いていた。
「お、草野球?」
 背後の人の声を無視して、将は土手を降りていった。
 初夏の風が吹きつける広い河川敷。
 数人の少年たちが、試合をするには中途半端な人数で、打ったり投げたりの野球遊びを楽しんでいるようだった。
 将の足元に、彼らが打ったボールが転がってきて止まる。
「なんだよ、お前、また来たのかよ」
 ボールを拾い上げた将の傍に、背の高い少年が近づいてきた。
 同じ町の公立小学校。名札から彼らが六年生だというのは知っている。クラスでも一、二を争うほど背の低い将から見ると、体格も背も、見あげるほどでかい連中。
「ボール返せよ、チビ」
「痛い目にあいたくなかったら、二度とくんなっつってんだろ」
 ばらばらとそこらにいた数人が寄ってくる。
 将は無言で、手にしたボールを渾身の力で遠方に――日差しの名残が滲む川に向かって放り投げた。
 即座に背中のランドセルを投げ捨てる。
 宣戦布告。
「返すのはお前らの方だろ!」
 飛び込んだ身体は、拳ごとあっさりと交わされた。
「なにすんだっ、このクソチビ」
「ふざけんな、バカ!」
 たちまち突き飛ばされ、腰をついた途端、上から肩の辺りに蹴りが見舞われる。
「うるせぇ、このボール、もともとは盗ったもんだろ!」
 将は、負けん気をむき出しにして怒鳴り返した。
「バットもグローブも、俺の友達から盗ったもんじゃねぇか、てめぇらこそ返せよ、ボケ!」
 暴れたが、体格差はどうにもならない。さんざん頭を小突かれて、組み伏せられ、口に泥を押し込まれた。
「こいつもあれか、附属のおぼっちゃまか」
「おい、ランドセル開けてみろよ、前のガキみたいに、金持ってるかもしんねぇぞ」
 泥を吐き出しながら将はむせて咳き込んだ。咳き込みながらも、必死で目の前の顔にパンチを食らわせる。
「いってぇ、なにすんだっ」
 髪をつかまれ、そのまま顔から泥の中に押し付けられた。
「ぐっ……っ」
「無駄な抵抗しやがって、チビのくせに」
―――息、……できねぇ。
 さすがに苦しくてもがく。
 背中を何度も殴られて、そしてようやく開放された。
「弱いくせに、かっこつけんなよ、バーカ」
「チビはチビらしく、かあちゃんのおっぱいでも飲んどきな」
「なんだと!」
 肩で息をしながらも、顔をあげた時だった。
「おーい」
 どこか呑気な声がした。
 将の視界。
 土手の上――並んだ自転車。多分、ここにいる連中の自転車だ。
 その傍に、先ほどの変態女が立っていた。
 片手を口元にあて、なんだか登山で山頂に上った人みたいなほがらかさで「おーい」と呼びかけている。
「なんだ、あの女」
 と、誰かが呟いた時だった。
 ふいに、その女の結構長い足がひょい、と上がった。
 それは、一番手前の自転車のサイドを軽く蹴り飛ばし、あとは、ドミノ倒しのように、連なった自転車が倒れ、がしゃがしゃと土手を下っていった。
 唖然、とした沈黙。
「な、なにすんだっっ」
「俺の自転車、買ったばかりなのに!」
 一時の後、将を取り巻いていた少年たちが、怒声をあげながら、転がる自転車を追って土手を駆け上がっていく。
 女はにこにこしながら、その後をついて降りていった。
 将も――唖然としつつ、後を追って土手を上がる。
 正直言えば、何が起きたのか、まだ理解できなかった。
 つか、一体、この女、なんなんだよ。
 土手の半ばまで滑り落ちた自転車は、無残に重なり合って、籠など完全に変形したものもあった。彼らの持ち物おぼしき鞄が散乱し、教科書やら筆箱の中身やらがあちこちに飛んでいる。
「てめぇ、このガキの知り合いかよ」
「警察にいって、弁償してもらうからな!」
 学用品を拾い、まがったハンドルに半べそをかきつつ、少年たちが女にすごんだ。
 子供とは言え、来年は中学生。万引き、恐喝、将の学校でも被害にあった友達は多い。この界隈では、悪名高い連中だ。
「すっごいなぁ、最近の小学生は、まるで映画のやくざみたい」
 が、女は、ひたすら楽しそうな声で言った。
「んじゃ、行こうか、警察」
 腕を腰にあて、むしろわくわくしたような口調で言う。
「実はおねぇさん刑事なんだ、警視庁生活防犯部刑事四課巡査部長、知ってる?マルボウ専門なんだけど」
 その言葉には、周りの子供だけでなく、将も、ぎょっとして振り返っていた。
 マルボウ――って、テレビで聞いたことあるけど、もしかして、やくざ?
 いや、信じらんないけど――確かに、そう言われれば、テレビに出てくる女刑事みたいな風情ではある。専門的な役職もなんたかリアルで本物っぽい。
「お、多岐川小学校、六年五組の中重君かぁ、覚えちゃった」
 女が手にした教科書めいたものを、一人が慌ててもぎとった。
「最近は、面倒見とかいって、知らない間に小学生でも傘下に入ってることがあるからね、六年三組の宮田君」
 一番体格のいい少年が、はっと顔を赤くした。
「だからさ、君らのことも、子供扱いしないで、ちゃーんと話聞いてあげるよ」
 女はつかつかと、傍らの少年の前に歩みより、顔をのぞこむようにしてかがみこんだ。
「佐川君、安心して全部話しちゃおうよ、バット盗ったのも、お金盗ったのも、大人に脅されてやったんでしょ?」
「………………」
「子供だもんね、純粋だもんね、悪いのは全部大人だもんね」
「………………」
「じゃないと、子供でも容赦しないよ」
 ふいに怖い、ドスの聞いた声になる。
 わっと、息を引いた連中の一人が、そそくさと自転車に飛び乗り、後は一斉にそれに続いた。
「あれま、あっけないこと」
 女は腰に手をあて、からからと笑った。
「こんなしとやかな美人が刑事なんて、どうやったら信じるかなぁ。やっぱ、子供って可愛いっ」
 なんなんだ、こいつ。
 将は、言葉さえ出ないまま、隣立つ巨大な女を見上げる。
「ケンカはいいけど、やるならここをつかわなきゃ」
 女は、自分の頭に指をあて、いたずらめいた目で将を見下ろした。
―――頭って……
 将は、首をひねりつつ、砕けたライトの破片が残る足元に視線を向ける。
 つ、つか、ただ目茶苦茶なだけなんじゃ……?
「あらあら、せっかくの美少年が台無しじゃない」
 女はふいにかがみこみ、将の頬を手のひらでこすった。
「さわんなよ」
 慌てて顔を逸らしていた。
 間近に顔を寄せられた途端、甘い匂いが、ふわっと髪から立ち上ってきて、それが妙に気恥ずかった。
 しかし女は躊躇なく、将の頬を抱いて引き寄せる。
 間近に近づいた睫が長い。将はまたしても目を逸らしていた。
「口とか、結構切ってるね。マジで警察に行けばよかったかな」
 まばたきをするたびに、瞳が艶めいて優しくなる。
「ここもあざになりそう、痛いでしょ、よく我慢したわね」
「………そんなにひどい?」
 思わず漏らした不安げな声に、女の目が再びいたずらっぽく輝いた。
「あれ?もしかして、ケンカしたらママにお尻ぺんぺんされる口?」
「………………………」
 図星だが、その言い草には、むしろ何も答えたくない。
「おいで」
 が、女は将の手をふいに掴んで歩き出した。
「は、離せっ、変態」
「……変態?」
 手のひらは、少し冷たくて、滑らかな感触がした。
 将は何故か、自分の頬が熱くなるのを感じていた。
「お前、もしかしなくても、ショ、とかなんとかいう奴だろ」
「ショ?」
 と、一瞬いぶかしげな目をしたものの、女はそのまま自分のバイクに向かって歩き続ける。
「うちで手当てしてあげるよ、泥も綺麗に落さなきゃ」
「………………」
「それとも怖い?」
 ヘルメットを頭からかぶせられ、その「怖い」というのが、バイクの背中に乗ることを意味していると気がついた。
 そういう言われ方をされたら後には引けない。
「別に」
「しっかり捕まってて」
 バイクの荷台によじ登ると、すでにハンドルを握りながら前かがみになった女が言う。
 どこに―― 
 と、思ったものの、それはひとつしかなく、実際しがみつかなければ、とても自分を支えられなかった。
―――うわっ
 轟音と共に発進するバイク。
 一瞬身体が浮いた気がして、ぎゅっと目を閉じた将は、顔に当たる風の強さにおそるおそる目を開けた。
「す、……」
 そして言葉を失っていた。
 見たこともない世界が、眼前に開けている。
「すげぇ!」
「ジェットコースターより興奮するわよ!」
 風………?
 きっもちいい。空気がびしびし全身を締め上げる感覚。
 初めて感じる体験。
 風が前面から押し寄せてきて、将の身体をすりぬけるようにして後方に流れていく。景色も対向車も、時間を早回ししたように高速で流れていく。まるでこの世界を抜け、どこか――違う世界へ連れて行かれるような感覚。
 しがみついている女の腰は、何もかもでかいはずなのに、そこだけは信じられないほど細かった。



「顔と身体は大事にしなきゃ」
 そう言われ、唇の端に消毒液を塗られる。
「つっ……」
 将は、痛みに口元をゆがめていた。
 将の前に膝をついた女は、優しい目になってかすかに笑った。
「君は将来いい男になるよ、それは私が保証してあげる」
 唇を、ぴん、と指先で弾かれる。
 着替えた女は、黒のノースリーブにジーンズ姿。格好は男みたいなのに、人形みたいな端整な顔立ちと、透き通るほど白い肌は、母の蒐集した骨董品以上に美しく見えた。
「おふくろは、親父みたいにえらい人になれっつってるけど」
 将は閉口しつつ、女から目をそらして呟いた。
「いい男ってどういう意味だよ」
 初めて入った女性の部屋。ていうか、この時点で、相手が誘拐犯だったらおしまいだ。どんなバカが知らない人についてったりするんだと思ったら、自分がそうなってるんだから、笑い話にもなりゃしない。
「あはは、えらい人かぁ、そんなのもったいないじゃん」
 救急箱を手際よく片付けながら、女は楽しそうに笑った。
「そんなもんね、本気で努力すりゃ誰だってなれるの。君がなるのは、誰にもなれない存在だから」
「………?」
「人に夢を与える存在」
「………意味、わかんねーんだけど」
 将の呟きが聞こえないのか、女はそのまま台所の方に消えていった。
「…………………」
 オフホワイトとブルーで統一された綺麗な部屋だ。
 きちんと片付いていて、書棚には観たこともない難しい本がぎっしり詰まっている。
 一人暮らしにしては、広すぎる気がした。
 将のいるリビングには、高そうな応接セット。部屋は奥にもあと一部屋はありそうだし、隣は広いリビングに台所がついている。
 割と、裕福な人なんだな、というのだけはなんとなく判った。バイクにしても、珍しいデザインで、どことなく高級そうな代物だったし。
「決めた!」
 手に缶ジュースを持って戻ってきた女は、うれしそうに指を鳴らした。
「君は今日からバニーちゃんだ」
「……?」
「何故ならウサギみたいで可愛いから」
 女は将の隣に座り、ふいに将の頭に手を置いた。
 そのまま、くしゃっと髪をかきまわされる。
「むっくむくのぬいぐるみみたい」
「ふ、ふざけんな、バカ」
 それを手で払って避けつつ、また――ふわっと感じた香りに、不思議なほど頬が熱くなっていた。
―――な、何だ、俺?さっきから、へんな気分なんだけど。
「今日からも何も、お前とは二度と会わないし」
「そうかなぁ」
 と、何か意味があるのか、女は、将を見下ろして楽しげに笑っている。
 手渡された缶ジュースを唇にあてながら、将は初めて質問した。
「お前の名前、……なんだよ」
 表札もない部屋だった。そういえば、名前さえ聞いていない。
「しずく」
「………へんな名前」
 苗字?名前? 
 なのに、心の中に、ふいにその名前がゆっくりとしみこんでいくような、不思議な感覚がした。
「早く大きくなぁれ」
 見下ろす目が、優しかった。
 というより、将は、こんなに綺麗な女の人を間近で見るのは初めてだった。
「はっやく芽を出せかきの種」
「……………ばかじゃねぇ?」
 で、こんなにばかっぽい大人を見たのも。
「早くみたいんだー、大人になった君の姿を」
「……………」
 やっぱ、こいつ、ショタなんとかっていう変態かも。
 と、思いつつ、何もいえなかった。
 将を見下ろす女の目に、まるで――母親のような、柔らかくて、暖かな愛情が、感じられたから。
 本当の肉親のような、それよりもっと強い何かを感じたから―――


                    ※



 視野に、ぼんやりと天井の陰影が戻ってくる。
 朝の日差しが、カーテン越しに室内に満ちていた。
「…………………」
 またかよ。
 将は、嘆息しつつ、片手で目を覆った。昨夜飲んで帰ったせいか、右のこめかみあたりに偏頭痛がする。
 今日は、十一時にはエフテレで衣装合わせだ。昼に、雅之と会う約束もしていて、午後からは夜まで撮影。のんびりしている暇はない。
「いてて」
 頭を押さえつつ、ベッドから飛び降りる。
 アルコールには強くなったが、その分悪酔いすることも多くなった。ここ数日は、飲めば飲むほど憂鬱になる気がする。
 それはもしかして、最近、やたらと見るようになった昔の夢のせいかもしれない。
 今となっては最悪の思い出。とうに忘れていたと思っていた過去の遺物。
 あくびをしながら部屋を出ると、家中が静まり返っていた。
 昨夜、遅くに帰宅したから、全員が寝静まっていて――今はもう十時、全員が出かけている時間だ。
 綺麗好きの母親がきちんと片付けた台所には、ラップをかけた一人分の朝食が用意されている。
(寝起きのカップヌードルキムチ味が意外といけるのって知ってる?)
(騙されたと思ってさ、オレンジジュースでラーメン作ってみようよ)
 あれには本当に騙された。
 真咲しずく。
 あんなに綺麗で頭もいいのに、やることなすこと目茶苦茶で――いつだって将の理解を超えていた女。
 それでも、最高に好きだった。
 いつの頃からだろう。多分、認めたくないけど出会った最初の日から。
 その週の終りには「家庭教師の真咲です」と、めがねを掛けた真咲しずくが別人のような生真面目さで柏葉家に現れた。むろん、勉強なんて殆ど教えてもらえなかったけど。
 夜中にこっそり窓から抜け出して、夜の高速をバイクで走った。多分、警察に見つかったら補導されるどころの騒ぎじゃなかったろう。
 色んな所に連れて行ってもらって――色んな人と引き合わされた。
 よく行ったのがクラブで、そこで、はじめて洋楽を知った。
 夢中になって、夢中で聞いた。あの頃覚えた洋楽は全部、ラップに傾倒するようになった今でも、不思議なほど気に入っている。
 しずくが時々アカペラで歌うブルースが、妙に気に入って、それを繰り返し歌っては覚えた――初めて、他人の前で披露した歌。自分では最悪の出来だったが、しずくは盛大な拍手で誉めてくれた。
(歌は心よ、魂で歌うの、上手い下手なんて関係ない。)
 時々、しずくは、遠い目で夜を見あげる。
 それは何かに憑かれて――何か、見えないものに恋をしているような眼差しだった。
(人の魂を高みへ――精神の高みにおしあげるもの、それが本当の音楽が持つ力、どんなかなわないことも可能にする、奇蹟みたいな力)
(私は見たことがあるの、その奇蹟はね、開かない扉を開ける、たった一つの鍵なのよ)
 あれは――なんの曲だったんだろう。あの人が、時々口ずさんでいたメロディ。あれだけ必死に覚えたのに、今では、片鱗さえ出てこない。
 タイトルも判らないし、レコードもない、記憶だけが頼りの歌。
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した将は、唇を開きかけて、そして閉じた。
「………………」
 思い出せない。というより、思い出したくない。
 好きだった。
 初恋だった。
 十以上の年の差、成就することのない、それこそかなわない奇蹟だとわかっていたけど。 
 あれだけ綺麗で陽気な人だから、当時は当然いい寄る男も相当いて、その度に
「私、将来、この子と結婚する約束してんの」
 と、冗談まじりに抱き寄せられるのが照れくさかったけど、嬉しかった。
 もちろん、冗談だと判っていたけど――あと、何年かして、背も伸びて年も重ねれば、いつかは。
 なのに、女は唐突に消えた。
「ちょっと、海外で暮らしたくなったのよね」
 そんなことを言っていた翌週には、もう日本から消えていた。置手紙ひとつ残さずに。
 あの海で――しずくと、見知らぬ男のキスを見た、その翌年のことだ。
 そのショックを引きずったまま、中学に上がった将は、半ば投げやりな気分でJ&Mのオーディションを受けた。歌の道に進みたいとは思っていたが、当時、まるで眼中になかったアイドル事務所。
 妹が勝手に応募した一次選考に通ったからだが、真咲しずくが、そこの副社長だと知っていたから――時々冗談みたいに「大きくなったらJ&Mに入らない?」言っていたのを覚えていたから――どこかで、繋がりを探していたし、どこかで、運命みたいなものを信じようとしていたのかもしれない。
 ずっと待っていた偶然は、それから何年もたったデビュー前に訪れた。
 が、たまたま取締役会議で一時帰国した真咲しずくは、成長した将を見ても、なにひとつ変わらない態度で「バニーちゃん!」と笑って、おでこにキスしてくれた。
 信じられないことに、よりにもよって居合わせた憂也の目の前で。
 その日のうちに出国したしずくは、それから再び戻らない人となった。  美波涼二と真咲しずくが一時婚約していたという噂を聞いたのもその頃だ。
 ようやく将は、理解した。運命なんて最初からなかったことに。
 女にとって、自分は、とりたてて特別な存在でもなかったことに。
 何もかも――自分のひとりよがりだったことに。
 屈辱のでこちゅうを機に、将は、きっぱりと、過去のセンチメンタルな自分と決別した。
―――つもりだった。















この物語は全てフィクションです。実在の団体、個人に一切関係なく、
実団体、個人に対する作者の感情が、小説内にそのまま反映されているわけではありません。


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