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「美波じゃない」
「嘘、キャノンの?どこどこ」
 マネージャーに庇われるように、美波は新幹線に駆け込んだ。悲鳴と嬌声がホームを包む。
「押さないで、危険です!」
「ホームの内側まで、下がって下がって」
 警備員が、必死の形相で押し戻している。
 大阪でソロライブがあって、その帰り。
 うっかり一人で雑誌を買っていたのが、迂闊だったと言えばそれまでだが、新幹線駅のホーム、こんな騒ぎになったのも初めてだった。
「最近の美波さんの人気、ちょっと普通じゃないですね」
 ようやく走り出した車内で、汗を拭いながらマネージャーが言った。
「全盛期のキャノンを完全に上回ってますよ、これ」
「確かに仕事の量は上回ってるよ」
 美波は嘆息しつつ、手渡された缶コーヒーを受け取った。
「これじゃ、おちおち寝る間もない、過労死させる気かって、言っといてくれ」
「またまたぁ」
 と、ますます汗をかくマネージャーを無視して、美波はシートを倒し、目を閉じた。
 初めての、東京と大阪での単独ライブ。ミュージカル後に、急きょ決まった仕事だが、チケットは、ものの十分で完売だったという。
 美波には、いまだにこの現象が信じられない。
 キャノンボーイズとして、最後にライブを行なったのが二年前。その時は、もう地方では、客が埋まらなくなっていた。関東大阪でも、チケットは一般発売まで余裕を持って残っていたのが現状だ。
「その髪型のせいですかねぇ」
 寝る間もないのは同行マネージャーも同じことだが、そのマネージャーは、嬉しそうに目を細めた。
「最近の美波さん、男の僕から見ても、ちょっと、ぞっとするくらいかっこいいんですよ。肉体的に、今が、一番いいときなのかもしれないですね」
「……………」
 事務所を移籍することは、古尾谷の指示で、まだ、報告さえしていない。
 あれから一ヶ月。
 間が悪いことに、仕事は次から次へと入り、美波のスケジュールは、かつてないほど黒くなる一方だった。
「来期の契約ですけど」
 目を閉じていると、マネージャーのそんな声がした。
「早めに提出してもらえないかって、営業の方から。十月以降のオファー、今のところ、全部保留になってますんで」
「……………」
「明日くらいに、大丈夫ですよね」
 嘘は苦手だ。
―――しっかりと下準備しないと、芽が出る前に潰されるから。
 そう言って、美波にストップをかけたのは古尾谷だが、秋の番組制作がスタートする今、そろそろ誤魔化しも限界と言う気もする。それに、正直言うと、こんな騙し打ちのようなやり方は好きではない。
 古尾谷の哲学には惹かれるし、信頼もしている。
 が、それも、しょせんビジネスという宿命を背負っている以上、やっていることは今の事務所と大差ないのではないだろうか。成功のためなら、なんでもするという……。
「………美波さん」
 うとうとしかけた時だった。
 耳元で、囁くような声がした。
「このまま聞いてください、今、美波さんのマネージャーは、前の車両で打ち合わせ中です」
 剥げねずみのまっつん――こと、松本崇。
 目を開けて半身を起こそうとすると、そっと手を握られた。
「このまま」
 囁き声は、他聞を避けている風だった。
 まっつんが、どうして。
 驚いたものの、すぐに美波は納得した。
 今日のライブには、若手が何人かバックダンサーとして同行している。朝は姿が見えなかったが、若手のマネージャーである松本は、どこかで合流したのだろう。
「………美波さんの独立の話、もう、上に伝わっています」
「……………」
 自分の顔が強張るのが判った。
「美波さん、……できればやめた方がいい、この話は、少し危険だ」
―――危険、
「……これは、友人としての忠告だと思ってください。藤通さんは、東邦の真田社長と通じている。調べてもらえば判りますが、同じ大学出身で、経済界でも親しい仲だ。あなたがもし、それを聞かされていないのなら」
「…………」
「もしかすると、あなたや緋川は、J&Mを分断するために、利用されているのかもしれない」
―――分断……?
「あなたは、まだ何も知らない」
 トンネルに入る。
 松本の声が、ますます低く、聞き取りにくくなった。
「東邦の真田社長は、うちの事務所を憎悪してるんです、それも、ひどく、異常なほどに」
「……何故だ」
「唐沢部長と、話してください」
「……………」
「僕は、あなたを助けたい。あれだけ忠告したのに、どうして上の騒動に巻き込まれてしまったんですか、言ったでしょう、あなたは必ず、御輿に担ぎだされると」
 反唐沢派の御輿。
 そんなつもりはなかった。
 が、初めて美波は気づいていた。結局は、その通りのことに――なっている。
「あなたは今、光と影の狭間にいる。成功か、奈落か、選べるのは、あなただけです」
 最後にそう囁き、松本は音もなく席を立っていった。


                  9


「……愛季?」
 扉を開けても、いつものように飛び出してくる気配がない。
 踏み込んだ室内。
 灯りの灯った室内には、暖かな家庭の香りがした。
 食卓代わりのローテーブルの上には、すき焼きの鍋が、手付かずのまま並べてある。
―――夏に、すき焼き??
 戸惑ったものの、部屋の主は、どこにもいないようだった。
「涼ちゃん?」
 ばたばたという足音がして、扉が開くと同時に声がした。
「ごめん、来てたんだ、今、ビール買いに行ってた」
「車だけど、俺」
「あ、」
「お前が飲むなら別だけどな」
 相変わらず、間が抜けている女。
「だってー、うちじゃ、すき焼きといえばビールだから」
「今夜は暑い、熱帯夜だな」
「もーっ、なんだって、そんな回りくどい言い方するのよっ」
 美波は、相変わらず貧乏学生みたいな愛季の部屋を見回した。
 セキュリティーも何もあったもんじゃない、それどころか、隙間だらけの部屋。二十歳すぎの女性が一人で暮らすには、危険すぎる気がする。
 一緒に住めればいい、が、それは、今の美波の立場では絶対にできないことだった。
 独立するならなおさらだ。スキャンダルは、絶対に表に出してはいけない時期。
「メシなんて、無理しなくてもよかったのに」
「今日、バイト代入ったから、ほら、いっつも涼ちゃんにご飯おごってもらってるし」
「…………」
 つか。
「いつから涼ちゃんなんだよ」
 席につきつつ、ぼそっと呟いていた。
 まぁ、こう見えて、愛季が二つも年上だと言うことは、自覚している。美波さんってのもないと思ったし、美波君も抵抗があったが――涼ちゃん。
 よりにもよって、一番嫌いな呼ばれ方。
「何?暗い顔して」
「別に」
 並べられた食材は、決して安そうなものではなかった。
「……バイトって、何してる」
「ん?なんかね、ビデオのちょい役みたいなの。ブイシネマって知ってる?」
「……ああ、」
 最近新しく出来たジャンルだ。
 簡単に言えば、ビデオでしか公開されない映画のようなもの。
 テレビでも、映画でもない、純然たるビデオ映画。従来であれば、アダルトが使っている手法だが、そこに、有名女優や俳優をキャスティングして、やや、マニアックな内容を売りにしている。
 まだ市場でのシェアは低いが、業界では注目されている分野である。
「そこに、新しく参入するとこで……まぁ、私なんて、全然端役なんだけど、手伝いなんかもさせてもらったり」
「へぇ」
 なんにしても、それで報酬が出るならたいしたものだ。
「……危ないとこじゃないよな」
「大丈夫、信用できる人の紹介だから、それより食べようよ」
 さっさと食事の準備を始める愛季の背は、仕事のことで、これ以上美波に干渉されることを拒んでいるような気がした。
―――強情なやつ、
 美波は嘆息して肘をつく。
 仕事のことだけではなく、生活のこともそうだ。
 何度か援助を申し出てみたが、それも、きっぱりと拒否されている。愛季らしいと言えばそれまでだが、女優として本気で再起をはかりたいなら、藁にもすがりつくのが本当だろう。
 美波にしても、デビュー前は、生活の全てを真咲真治に依存していた。その時代があるから、今があるのだ。
「今日はね、三つもオーディション受けたの」
 が、コンロに火をつける、愛季の横顔は嬉しそうだった。
「二つはその場でアウトだったけど、舞台の方は、明日、また来てくださいって」
「よかったな」
「結構脈ありそうなの、これ、本当よ」
「そっか」
―――そっか……。
 実際。
 美波は少しおかしくなった。
 援助なんて、余裕のあることを言っている場合じゃないのかもしれない。
 あれから自分は、少しも前に進めていないのに、愛季は、ちゃくちゃくと夢に向かって進んでいる。
「………俺がプーになったら、よろしく頼むよ」
「それ、なんの冗談?」
 美波は笑って肩をすくめたが、それは、決してあり得ない未来ではなかった。
 成功か、奈落か、
―――選べるのは、あなただけです。
「………どうしたの……?」
「……………」
 手だけを延ばし、愛季は黙ってコンロの火を消してくれた。


                 10


「愛季………」
「ん………」
 寄り添ってくる肩に腕をまわし、何度も髪に口付ける。
 まだ、互いの呼吸が乱れていた。
 なのに、離れた途端、またひとつになりたがっている。心ごと、もっと深く。それができないから、もどかしくて苦しい。
「好き……」
 潤んだ瞳が見あげている。
「大好き……涼ちゃん……」
 抱くたびに、互いの想いを感じあうたびに、より深くなっていく感情。
 愛しい。
 自分には、決してもてないそんな感情を、どうして赤の他人に持つことができるんだろう。
「もっと言え」
「……え、いきなり俺様?」
「言えよ、」
 何度聞いても、物足りない。満たされない。
 こんなもどかしい気持ちで、人を抱いたのは初めてだ――
 今、手にしている幸福が、怖いとさえ思えることも。
―――愛季……。
 やがて、眠りに落ちていく横顔に、美波はそっと唇を寄せた。
 自由になるために、好きなことをやるために、辞めると決めはずの事務所。
 なのに、現実は、大切な人一人守ることさえ出来ないでいる。
―――俺が、お前を守るよ、
 柔らかな前髪を、指でかきわける。
 そのためには、大人にならなければいけない。
 一人の男として、社会人として、現実に真っ向から向き合わなければいけない。
 もう、逃げない。
―――俺が、絶対にお前を守る……。
 明日、唐沢直人に会おう。
 美波は、そう覚悟を決めていた。







       

                    
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