―――なんの声だ……?
 夜明けに泣く猫の声は、赤ん坊の泣き声に聞こえて気味が悪い。
 今、不意打ちのように耳に飛び込んできた音は、まさにそんな不気味さがあった。
 がこん、と落ちた自販機の缶コーヒーをかがみこんで取り出しつつ、
―――空耳かな、
 美波涼二は眉をひそめ、静まり返った地下駐車場を見回した。
 深夜二時。
 霜月である。吐く息は白く、手も足も、かじかむほど寒い。
 撮影が押して、こんな時間まで局に足止めされてしまった。珍しいことではないが、昨日から徹夜で撮影に出ていたため、立っていられないほど眠い。
 元来寝起きが極端に弱い美波は、こういう時、絶対に――それが転寝程度でもしないようにしている。一度意識を失ったら最後、蹴られようと殴られようと起きないのが自分なのである。
 だから今も、休憩時間、眠気覚ましに地下駐車場まで、ふらふらと散歩がてら足を延ばしてしまったのだが――。
 てのひらのホットコーヒーは、肌が焼けるほど熱かった。
 それを冷えた頬にあて、人気のない駐車場をもう一度一瞥して――背を向けた時、
「…………」
 また聞こえた。
 今度ははっきりと、猫の声じゃない、人間の泣き声だ。
 白々とした照明に照らされたコンクリ。点在している車の中には人影はない。
 もう一度見回して、美波はようやく、その泣き声の影を見つけた。
 エレベーター付近の柱の影、細い影が、柱とかぶるように伸びている。
 目をこらすと、赤いスカートに真っ白なブーツがのぞいていた。スカートは超ミニで、端には白のファー。
 眉をひそめるほどセンスの悪い服――が、すぐに、それは私服ではなく、何かの衣装なのだと気がついた。
―――出演者かな……
 サンライズテレビ本社ビル。
 この建物の上層階には、撮影用のスタジオがひしめいて、二十四時間タレントやらスタッフやらが出入りしているからである。
 言っては悪いが、ものすごく泣いている。
 人の気配を察したのか、その声だけは止んだようだが、鼻をすすり上げる音、しゃくりあげる音が、みっともなく響いている。
「…………」
 ポケットにハンカチがある。
 が、
―――ま、ほっとくかな。
 美波は肩をすくめ、きびすをかえした。
 何があったか知らないが、この世界ではよくあることだ。涙など、なんの役にも立ちはしない。
 実際、アイドルである美波に、女性タレントとのスキャンダルはご法度だった。それが、単なる立話であっても、写真を撮られでもすれば大騒ぎになる。事務所の力関係によっては、さらに悲惨な結末になることもあるからだ。
 1980年代の半ば。
 アイドルの恋愛は、絶対に、何があっても公にしてはいけない時代だった。
 気持ちを切り替えた美波が、ジーンズのポケットに片手を突っ込み、歩き出した時、
「はっっくしゅんっ」
「…………………………」
 背後で弾けたいきなりのくしゃみ。
 思わず、がくっとつんのめりそうになる。
 さ、寒いのかよ。
―――つーか、なんつー、豪快なくしゃみだよ。
 間髪いれず、ずるずると鼻をすする音。
「……………」
 どういう種類のタレントか知らないが、若い女性なら絶対に売れねーな。
 そんなことを思いつつ、足は自然に、女の影に向かっていた。
 人の気配は足音で判るだろうが、女は、それでも柱の影から出てこない。うつむいたまま、振り返りさえしない。
 短い髪がうなじのところで跳ねていた。ひどく華奢な肩と首、棒のように痩せた胴。
 伸びた影が、駐車している車の影に溶け込んでいる。
 声をかけようと思った美波は、そこで再びためらった。
 まぁ――それはそうだ。それが俺でも、今は、顔なんて見られたくないだろうし。
「…………」
 手にした缶コーヒーはまだ熱かった。
 少しためらってから、それを、柱の陰にそっと置く。
 缶の上にハンカチを載せて。
 かける言葉は何もないし、その必要もない。
 恩を売る気もないし、顔を見られたくもない。
 美波はそのままきびすを返した。
 やがて駐車場を出るまで、背後からは、何の気配もしないままだった。






1989年 春





                    1



「………ひでー…」
 知らず、ナチュラルな呟きが口をつく。
「はい?何か言った?美波君?」
 隣で、進行を説明していたプロデューサーの堀江仁が、青黒くて丸い顔をあげた。
「いえ、何も」
 美波涼二は、営業スマイルを浮かべ、手元の台本に目を落すふりをしる。
 今のが、今朝方もらったばかりの台本の内容に漏れた呟きだとは、一タレントの立場で口が裂けても言えるはずがない。
 美波が手にしている台本には「シンデレラアドベンチャー」という、どこかポップな文字が躍っていた。
 今春、美波が初主演するミュージカル劇のタイトル。
 今日は――そのミュージカルの、企画協賛会社でもあるジャパンテレビで、宣伝番組の打ち合わせの最中なのだ。
「じゃ、一応オーディションの最終選考は、この面子でいくってことで!」
 と、草団子堀江が、その場にいる全員に同意を求めた。
 この春、テレビ局の人事異動で最年少プロデューサーに就任した男は、最初から、異様なくらいテンションが高い。
「それにしても、すごい人数の応募がありましたねぇ」
「アイドルブームは終わったっていいますけど、Jさんの人気は相変わらずすごいですよ」
「うちの娘もヒカルのファンで、そりゃあもう、大変なんですから」
 スタッフの愛想話を、美波は聞こえないふりでやりすごした。
 美波涼二、初主演となるミュージカル「シンデレラアドベンチャー」は、童話、シンデレラをモチーフにした冒険活劇である。
 主役は美波演じる王子。そしてシンデレラ役は、一般公募でオーディションによって決定されることになっている。その経緯を――ミュージカルの宣伝も兼ねて、特番としてテレビで流そうというのである。
「二次選考までは前撮りで、最終選考は、生放送ってのはどうですかね」
「いやー、どうかな、東邦プロさんの意向も聞いてみないと、そこは」
 スタッフの声を聞きながら、美波は所在無く、企画書を手繰る。
「もっと、面白い演出ができないかな、面白いっつーか、奇抜な感じで」
「前売りのハケがいまいちでしょ、マスコミに注目されるような、ビックサプライズが必要ですよ」
 へピースモーカーぞろいのスタッフルーム。ただ、黙って座っているだけの「アイドル」に、本気で意見を求める者など誰もいなかった。
「でも、初舞台の役が王子様かぁ、かっこいい美波君には、ぴったりだね」
 思いついたように、対面席の堀江プロデューサーが、ふいに声をかけてきた。
「ヒロインの候補者リスト、よかったら目を通してみてよ」
「わかりました」
 素直に答え、分厚いファイルを手にしたものの、美波は内心、かなりの疲労を感じていた。
 実の所、すでに一次選考の時点で、オーディションの勝者は決まっている。
 東邦EMGプロ所属で、今春レコードデビュー予定の若手タレント。
 つまり、後の選考会は、単なるイベントにすぎないのだ。J&Mのファンにさえ認知度の低いミュージカルと、そして、人気タレントのデビューを盛り上げるためだけの。
「じゃ、私は、舞台監督と打ち合わせがあるので――」
 ふいに、美波の隣席に掛けていた人が立ち上がったのはその時だった。
 この席に、美波が所属するJ&M側から唯一参加したスタッフ。統括マネージャーでもあり、営業担当取締役でもある、古尾谷平蔵。
 それまで、終始寡黙だったから、存在自体を失念していた。候補者の写真に目を留めていた美波は、少し慌てて顔を上げ、大柄なその巨体を見あげてみる。
 古尾谷平蔵。
 がっしりした巨体に白髭、黒縁メガネ。
 カーネルサンダース古尾谷とあだ名される所以だが、古尾谷平蔵は、この世界では誰もが知っている、J&Mの名物マネージャーである。
「フルさん、この後、飲みに行きましょうって言ったじゃないっすか」
「いや、申し訳ないが、仕事があるので」
 堀江の誘いを、古尾谷はやんわりと断り、一礼した。
「じゃ、美波君、また後で」
 社交儀礼のような挨拶を交わし、カーネルサンダースが退室する。
「古尾谷さん、なんか昔とイメージ変わりましたね」
「昔は鬼の平蔵って呼ばれて、話しかけるのも怖い人だったけどなぁ」
 同席スタッフが首をかしげている。
 その感想は、美波もまた同じだった。
 事務所創立以来マネージャー業一筋だという古尾谷は、昔、瞬間湯沸かし器とあだ名されるほど苛烈な男だったらしい。
 美波にしても、随分しごかれ、怒られもしたものだが、デビューしてからはとんと疎遠になってしまった。今回の企画で、顔を合わせたのが久し振りなほどだ。
「この子、ちょっと面白いね。元ナースだってさ。二次で落ちてるけど、テレビ的に色がでそうじゃない?」
「んじゃ、呼ぶか、事務所に連絡入れてみろ」
 美波は、自分も早く退席したい――と思いつつ、軽く息を吐いて空を見上げた。
 ジョーク混じりに、適当に選ばれていく候補たち。それでも彼女たちにしてみれば幸福なのかもしれない。
 どういう形であれ、テレビに映る、それが、次のチャンスを生まないとは限らない。そう、それが――どれだけ儚くて、何の意味もない希望でも。
 ここは芸能界――幻よりも儚い世界。
 十六でキャノン・ボーイズとしてデビューして七年。
 アイドルとしては旬を過ぎた、すでに新曲を出さなくなって一年以上がたつ。
 この年、美波涼二は、まだ二十三になったばかりだった。


                  2


「お、美波君、いいところで出会ったねぇ」
 局の休憩スペースで、雑誌を手繰っていた時だった。
 唐突にそんな声が、背後からかけられる。
 咄嗟に紙面を閉じた美波は、わずかに眉を上げて、声の主に目礼した。
 顔見知りのワイドショーのリポーター、亀梨圭介。
 でっぷり超えた赤ら顔にアロハチックなシャツは、まるでリゾート帰りの成金のようだ。番組収録の関係でたまたまそこにいたのか、それとも最初から美波を探し歩いていたのか。
「ん、それって舞台関係の本?今度のミュージカルって、コンサートの延長みたいなもんじゃないの?」
 迷惑気な美波の仏頂面をスルーして、陽気と押しの強さが売りの男は、ずけずけと距離を縮めてくる。
「それよか、どうなのよ、社内の様子は」
「なんの話でしょう」
 雑誌を片手に立ち上がった美波は、歩きながらそう答えた。
「またまた、冷たいねえ、美波君。僕と君は同じアナの狢、互いに利用しあって共存してるっつーのにさ」
 男は、太ったからだをゆすりながらついてくる。
「僕ァ、美波君にほれてんだよ、アイドルブームは終わったけど、美波君は別、全然別格」
「…………」
 列島を駆け抜けた熱狂的なアイドルブームは、すでに二年も前に終焉したと言われている。
 同時に音楽業界もひどい低迷期に突入した。老舗の歌番組は次々と打ち切りになり、バラエティやドラマに改編。
 昔ながらの和気藹々としたアイドルネタでは数字が取れない。亀梨のようなワイドショーのリポーターは、今、目新しいゴシップが欲しくてしょうがないのだろう。
 そして今、美波が所属するJ&M事務所には、その格好のネタがあるのである。
「でさ、城之内社長派と、真咲福社長派、ふたつの派閥に別れて社内がもめてるってホントなわけ?」
 リポーター亀梨はしつこく食い下がる。
 城之内
(じょうのうち)社長派と、真咲(まさき)副社長派。
 事務所を代表する2人の男の名前を聞き、美波はわずかに眉をひそめた。
 城之内慶
(じょうのうちけい)と、真咲真治(まさきしんじ)
 今から二十数年前、美波が所属するアイドル事務所「J&M」を設立したアベック創業者。
 J&Mとは、2人の頭文字「J」と「M」とってつけられた社名なのである。
「……真咲福社長は、数年前から病気で療養中ですよ。派閥なんて作れるはずないでしょう」
 美波は苦い思いのまま、それだけを口にした。
「またまた、とぼけちゃって美波君。君は真咲さんの秘蔵っ子、真咲副社長のお嬢さんと結婚して、事務所を継ぐ話まであるらしいじゃない」
「ばかばかしい」
「ぶっちゃけ、ヒカルの移籍話、その派閥争いが絡んでるんじゃないの?」
 濁った目をきらきらさせながらそう続けた亀梨は、ふっと、ある一点で視線を止めた。
「ほら、今、ニュースでやってるよ、おたくの事務所の記者会見」
 美波の腕を小突き、脂肪でくくれた顎をしゃくる。
 顎で示した先は、扉が開いたままの控え室だった。
 看板がないから誰も使用していない。その部屋で、数人の、局のスタッフとおぼしき面子がテレビを取り囲んでいる。
 カメラのフラッシュを浴びつつ画面に映っているのは、五十過ぎのふくいくたる容姿に、白いブランド物のスーツを身につけた、いかにも裕福気な男。
 株式会社「J&M」の代表取締役社長――城之内慶。
 社内でお馴染みの、七福神のえびすさまに良く似た顔を認め、美波は複雑な気分で目をそらした。
「いや、それはありません、ヒカルの移籍は、絶対にありません!」
 城之内社長は、独特の甲高い声で周囲のカメラマンに向かって声を荒げている。
 体型と同じで、ふっくらとした赤みの濃い顔。目が細く垂れ気味のため、いつも笑っているように見えるが、実は決して笑わない男。
 五十前の年相応の雰囲気だが、軽くウェーブのかかった襟足の長い髪だけが、彼が元ロッカーであったことの唯一の名残のようにも見えた。
「……って、言ってるけど、マジ?」
 再び歩き出した美波に、リポーター亀梨が追いすがってきた。
「ヒカルは城之内会長が育てたグループだから、移籍したら城之内派は痛いんじゃない?こういう時、株式会社ってのは怖いよな、今でも株価が下がってるって話じゃない」
「申し訳ありませんが、僕には何もわかりませんので」
 美波は、丁寧に質問を遮り、今度こそ、一礼してからきびすを返した。
 ヒカル、――正式ユニット名は「HIKARU」
 三年前J&Mがレコードデビューさせた、六人組の高校生ユニットである。
 いかにも新時代のアイドルを思わせる甘い、王子様のようなマスクと、ステージ上でローラースケートをつけて歌うというパフォーマンスが物議をかもし、社会現象にまでなったアイドルユニット。
 他の大手芸能プロがアイドル路線から撤退し、俳優、グラドル養成路線に変更つつある昨今でも、レコードリリース、コンサート動員数などで、一人勝ちのセールスを続けている。
 今、日本芸能界で「アイドル事務所」といえば「J&M」とまで言われるようになったのは、全て「ヒカル」の大ヒットからきたことなのである。
 そのヒカルが移籍する――。
 日本芸能界最大手の芸能事務所――「東邦EMGプロダクション」に。
 社内でもトップシークレット扱いになっているヒカルの移籍問題。
 詳しいことは正直美波にも判らない、が、アイドルにとって冬の時代、ヒカルの移籍話が、美波の所属するJ&М事務所にとって、事務所の存続を作用しかねないほどの大事件だというのは間違いない事実だった。








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