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「美波さん!」
 階段を上がっている最中、弾んだ声が背後からした。
「おう、拓海」
 振り返った美波は、先ほどの憂鬱な気分も忘れ、自然に笑んで片手をあげていた。
「探してたんですよ、今日は打ち合わせで、ここにいるって聞いたから」
 階段の数段下、息をはずませているのはまだ線の細い高校生。
 緋川拓海。
 今、事務所が抱える、デビューを控えた若手組の1人である。
 すらりとした痩身は、十代半ばという年相応に、どこか幼く頼りない。が、その瞳の奥には、美波でも飲み込まれそうな強い輝きが秘められている。
 紛れもない原石、――極上の逸材だ。
 美波は、この少年を一目見た時からそれを確信していた。が、反抗的な態度から上層部の受けが悪い緋川拓海は、あと一歩というところで、常にデビューのチャンスを逃し続けている。
「ミュージカルの打ち合わせでしょ、美波さん、きれなきゃいいなぁって心配してました、俺」
「ばーか、お前とは違うんだ」
 緋川拓海もまた、「シンデレラアドベンチャー」に出演する。敵役でもある海賊の首領役。
 心配した――と言う拓海が、どれだけその仕事をくだらないと思っているか、美波はよく知っているつもりだった。
『シンデレラアドベンチャー』
 その主要出演者は、女性出演者以外、殆どがJ&Mの若手で占められているのである。いってみれば、若手の演劇発表会のようなものだ。
「にしても、ひどい本だったな、美波さん、もう読みました?」
「さっきな」
 台本をもらったのは今朝だった。企画を聞いた時から期待はしていなかったが、控え室で読んで愕然とした。正直、ここまで薄っぺらい内容だとは思わなかった。
 コメディタッチのドタバタ劇。
 舞踏会の夜、安直な一目ぼれからはじまって、お約束の12時の別れのシーン。そして、ガラスの靴を抱え、消えたシンデレラ探しの冒険がはじまる。
 心理描写もなにもない、まるで童話のページをめくるように唐突に場面がくるくる展開していき――唐突にラストの舞踏会でプロポーズ。めでたしめでたしという筋書きだ。
「舞台やりたいって……事務所に話もってったの、美波さんだって聞きましたけど」
「…………」
「ま、しょせんアイドルの出るミュージカルなんて、こんなもんかな」
 拓海の自嘲気味の声を聞き流し、美波は、ほとんど背丈の変わらなくなった後輩と肩を並べた。
「そ、しょせんアイドルだ」
「なんてったって、アーイドール」
「ばーか」
 互いに苦笑しつつ、それでも美波は、舞台が決まったと――聞かされた時の、束の間の喜びを思い出していた。
 しょせん、アイドル……か。
 デビューしてから、ずっと同じスタイル、同じイメージ。
 与えられたイメージ以外の仕事は、絶対に回ってこない。
 舞台がやりたい、とマネージャーを通して話を上にあげたのは、確かに美波の冒険だった。
 なんでもいいから、自分の殻を破ってみたい、一度でいいから。――が、結局与えられた仕事は、「アイドル」のミュージカルショー。わずかに期待した分だけ、いつになく落胆も激しかった。
「急いでください、もうすぐ本番ですよ」
 そんな声と共に、突き当たりの踊り場から、サングラス姿の男がふいに出てきたのはその時だった。
 レザージャケットにジーンズ姿の長身痩躯。男の背後から、マネージャーとおぼしき男が大慌てで追いついてくる。
 ものも言わず、美波と拓海の脇をすり抜けて言ったのは、最近デビューした若手俳優の一人、小田原祐二。いまや、歌番組に代わってゴールデンを占めるようになったトレンディドラマ、主演俳優の常連の一人だ。
「なぁんか、感じ悪いっすね、美波さんの方が、どんだけ先輩だと思ってんだか」
 舌打した拓海が、腹立たしげに呟く。
 美波は何も言えなかった。
 後輩に言われるまでもない、年も、キャリアも実力も、間違いなく自分が上だ。
 が、すでに映画主演、舞台主演まで決めている「本格若手俳優」小田原と「アイドル」美波の評価は、天と地ほどの差がついている。
「なんてったってアイドルだからな」
 美波は、苦笑して呟いた。
 人気はあっても、社会的には「バカっぽい」というイメージがついてまわる。同じ仕事をしていても、俳優やミュージシャンと呼ばれる人種とは、常にワンランク下に位置づけされる――「アイドル」。
 美波にしても、今まで様々な仕事をやらせてもらった。が、何もしても評価は常に一定だった。「アイドルの美波君」――まともな「俳優」とも、まともな「歌手」とも、絶対に認められない存在。
 スタジオ前の自販機で足を止め、美波は、元気のなくなった後輩に缶ジュースを奢った。
「………美波さん、俺」
 缶もあけず、しばらく足元を見つめていた拓海が、ふいに何かを思い切るように口を開いた。
「俺、もしかして、年内にデビューするかもしれない」
 美波を見あげる眼差しには、複雑な――けれど、隠し切れない弾んだ感情が、控えめに滲み出ている。
「………デビューか」
 プルタブを切りかけていた美波は、内心の驚きを隠して繰り返した。
 デビュー。
 そんな話は聞いていない。
 というより、今の事務所に、そんな賭けをする余裕などあるだろうか。
「昨日、電話でフルさんに言われたんす、今年の後半は、忙しくなるかもしれないから、覚悟しておけって」
 フルさん――カーネルサンダースこと、古尾谷平蔵。
 美波は眉をひそめたまま、先ほど、打ち合わせの途中で退席したきりの男の顔を思い出していた。
 古尾谷の事務所のおける立場からすると、その電話には信憑性がある、が――。
 美波が黙っていると、拓海はわずかに苦笑して視線を下げた。
「もっと喜んでくれると思ったけどな」
「デビューがゴールじゃないだろ」
 内心の杞憂を打ち消すように、軽い口調で言った美波だが、後輩の目は、どこか暗いままだった。
「………俺、売れないっすか」
 少しためらったような声。
「……デビュー当初、ヒカルさんだって、全然売れてなかったし、結構苦労したって聞きました。そういうの、心配してんすか」
「拓海は何がしたいんだ」
「歌です」
 きっぱりとした声がかえってくる。
「俺、歌手になりたいから、……そのために、事務所に入ったんす」
「…………」
 拓海の歌は確かに上手い、歌い方に独特のセンスがあって、声質もいい。
 が、史上空前のポップス低迷期。
 事務所が拓海を――彼が望む形で、ソロのシンガーとしてデビューさせることなど、間違ってもないのもまた現実だ。
 今、事務所は、ヒカルの勢いをもって、70年代アイドルブームの再興を狙っている。
 おそらく拓海も、ヒカルと同じスタンスで何人かとユニットを組まされ、「アイドル」としてデビューさせられるはずだ。
「アイドルは、まともな歌なんて歌えないぞ」
「……知ってますよ、それどころか、学芸会みたいなミュージカルにも出なきゃいけない」
 自嘲気味に呟く拓海は、すでに、自身が「アイドル」としてデビューすることを理解しているようだった。
「……でも、売れれば……好きな仕事がいつかできると思うから」
「………」
「考え的にはずるいかもしれないけど、俺だって、チャンスは欲しいから」
「………」
 唇まででかかった言葉を、美波は苦い思いで飲み込んだ。
 拓海の考えは、間違っている。
 が、強がっていても「デビュー」に対して内心飢えるほど渇望している後輩に、今、それを口にするだけの自信はなかった。
 ようやくブルタブを切りながら、少し皮肉めいた声で拓海が呟いた。
「つか、アイドルブームって、なんで、すたれちゃったんすかね」
 さぁな、美波は缶コーヒーを一口含んで、首を振った。
 なんでだろう。気がつけば、終わっていた全盛期。
 眠る時間がないほど売れていた頃もあった。拓海が事務所入りしたのはそれから随分後だから、ここ数年の急激な流行の変化が、まだ、世間を知らない拓海には理解できないのだろう。
「……松永聖子でアイドルブームに火がついた。事務所が、所属タレントをアイドルと銘打って売り出し始めたのもその頃だ。田丸さんや、近道さん、……俺らが出てきて、他所の事務所も、次々とアイドル歌手を送り出してきた」
 史上空前のアイドルブーム、わずか数年前のことだ。
 歌番組が驚異的な視聴率をたたき出し、各局で、競うように新たな歌番組が立ち上げられた。Jのタレントは、どの局でも引っ張りだこだった。アイドル、そして空前の歌謡曲ブーム。
「後から後から、同じようなアイドルが山のようにデビューして、同じような歌を歌い、そこそこ売れて、消えていった。それが何年も何年も続いたんだ。大衆があきたんだ、もう、「アイドル」なんていう存在そのものに飽きてきたんだろ」
 歌番組は次々に打ち切られ、アイドルたちの活躍の場所はなくなった。レコードの売り上げは激減し、コンサートの動員数も半減した。
 その過渡期を全て知っている美波にとっては、まるで悪い夢でも見ているような日々。
「でも、ヒカルさんは売れたじゃないっすか」
 拓海が呟く。
 そう、そんな逆境にあっても、ヒカルは売れた。
 それも――異常なほど。
 それは、実のところ美波にもよく判らない。運命のような幸運と偶然に左右されたとしか言いようがない。
 拓海が言った通り、デビュー当初、ヒカルは全くといっていいほど売れなかった。
 デビューイベントに集まったファンはたった七百人。
 社運と多額の予算をかけてデビュープロジェクトを組んだ事務所にとっては、致命的な失敗――。
 ヒカルをプロデュースし、「ローラースケートの王子様」というコピーで売り出したのは、若干二十五でJ&Mの営業部長にまでなった唐沢直人という男だった。
 当然、彼の責任が言及されるべきところで、その不幸で――恐ろしく皮肉に満ちた事件は起きた。
 事故。
 不幸な事故があったのだ。しかしそれが、ヒカルが売れ始めたきっかけになるのだから、世の中は判らない。
「ま、なんにしろ、デビューするなら後にはひけない、がんばれよ」
 美波は微笑して、後輩の背中を軽く叩いた。
 ようやく笑んだ拓海の頬は、まだ年相応にどこか赤みを帯びている。
「みんな、サンダースのおっさんと美波さんがいるから、うちの事務所でがんばれるって言ってんです」
 そして拓海は、照れを無理に押し殺したような声で言った。
「……今の、城之内社長や唐沢さんのやり方には、……ヒカルさんだけじゃない、俺らはみんな疑問持ってます。でも、古尾谷さんや……美波さんが、俺らのこと見ててくれて、上の連中にそれ伝えてくれてるの、みんなちゃんと知ってるから」


                   4


 去って行く後輩の足音を聞きながら、美波は、複雑な気持ちで足元に視線を落とした。
 最後に拓海が言った言葉は、今の事務所の、面白からぬ実情と内紛の危険を内包している。
 社長である城之内派と、副社長である真咲派。
 芸能ニュースや三流芸能誌ですっかり馴染みになった言葉だが、美波の知る限り、事務所内には昔も今も派閥などない。
 いまでは複数の取締役を抱え、一部上場企業にまで発展したJ&M株式会社。が、その屋台骨を支え、株式の殆どを所有しているのは、たった四人の男なのである。
 社長の城之内慶。
 副社長の真咲真治。
 専務取締役の唐沢省吾。
 そして、営業担当取締役のカーネルサンダースこと、古尾谷平蔵。
 アベック創業者である城之内社長と真咲副社長は大の親友同士、その友情に嘘偽がないことは、美波もよく知っている。
 古尾谷平蔵と唐沢省吾は、その城之内と真咲を創業以来支え続け、苦楽と辛酸を共に舐めた戦友のような存在。
 城之内、真咲、古尾谷、唐沢――創業時からの面子で、今も事務所を支えている四人は、意見や思想の食い違いがあっても、それぞれ認め合う同志なのだ。決して派閥など作るような腹黒い人間ではない。
 が、1人の男の存在が、それまで平穏だった事務所内に、不穏な流れを作り出した。
 唐沢直人。
 専務取締役である唐沢省吾の息子で、ヒカルデビューのプロジェクトをてがけた男。
 若干二十六歳。今は一社員だが、ヒカルを成功させた実績をバックに、来期には役員入りするだろうと噂されている。
 直人のポリシーは単純で明快だ。
 売り上げ絶対主義。
 徹底的な商品管理と在庫処分。
 その方針が採用されはじめてから、若手がデビューする機会は極端に減り、採算の合わない地方コンサートは全て廃止された。
 古株のタレントの首は容赦なく切られ、仕事が入らない若手もあっさり解雇された。
 その反面で、稼ぎ頭のヒカルは徹底的に監視、管理され、分刻みのスケジュールが一年先まで詰まっている。睡眠時間は平均で二時間もない。正直、それが美波でも、気が狂うだろう。
 その、冷酷な手法が、城之内社長の後ろ盾を得た形で、事務所改革の旗頭として、ひとつの本流になりつつあるのだ。
 むろん、そこには根強い反対派が存在する。だから、派閥めいた雰囲気も生まれる。
 そういった微妙な状況の中で起きたヒカルの移籍話、これにもし、反唐沢派と呼ばれる、いわゆる真咲、古尾谷派の人たちの思惑が絡んでいたとしたら――
 正直、ここ最近の事務所の内紛に、美波は心底疲れていた。
 無論、唐沢直人のやり方は納得できない。が、しょせん、美波は、雇われたアイドル、タレントとしては古株でも、大きな流れを食い止めるだけの力はない。
―――拓海……
「……俺には、たいしたことは何もできないよ」
 美波は呟き、空き缶をゴミ箱に投げ込んだ。
 粋がっても、まだ純なところのある拓海が、――人間的に愛しいから。
 つい、本音で言いたくなる。
 こんなヤクザな商売やめちまえと、まともに生きてく方が、何倍もマシだぞ、と。
 ホストのようにファンサービスに務め、がむしゃらに、笑顔だけを振りまいてきたこの七年。
 アイドルブームは潰れたシフォンのように儚かった。年を重ねれば飽きられて、ファンの関心は新しいユニットにあっさりと移っていく。
 何も残らなかった。そう、何も。
「…………………」
 美波は黙って、待っている仕事へ向かって歩き始めた。
―――アイドルなんて、ろくなもんじゃねぇよ、拓海。
 言えるはずがない、それが判っていてもなお、この世界にしがみついている自分には。









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