vvvvvvvvvvvvv |
「酷いと思わない!」
だん、とビールのジョッキをコタツの天板に叩きつけて、私は叫んだ。
「俺がいなくても全然平気!って!平気な振りしてただけなのに!全然そういうところ判ってくれなかった、あの鈍感男!」
ごっごっごっとビールを飲み干し、ぷはーっと息をつく。きゅっと口元を手の甲で拭った。
「こんなにかわいー人をほって二股だなんて何考えてんだー!」
「確かに、絶対そいつ目ぇ節穴だよ」
うんうんと神妙に頷きながら東吾が同意してくる。
「でしょー?」
「俺のほうもみんななんで俺のこと子ども扱いすんのかなー。確かに俺が一番年下だけど、そんなにかわんないじゃん」
メンバーとのかかわりにおいて、彼が漏らす愚痴はいろいろある。アイドルっていっても、やはり綺麗に笑っているだけが全てではない。そのための衝突、葛藤、焦燥、無力感。会社の中で化粧品のことをろくろく理解していない親父ども笑顔で戦う私と一緒だ。
揺ぎ無いもののように笑っているけれども、彼らの心はずっと繊細で、それを周囲に悟らせないように必死に己と闘っているのだということを私は東吾を通して知った。私は斜め前に座る東吾の頭をよしよしと撫でる。
「そうねー。男の子だものねー東吾もねー」
「ひーめー。ビールのみすぎ。全然フォローになってないよその言い方」
「あはは。だってぇ、可愛くてー。弟みたいにみんなが可愛がりたく思うのもわかる気がするわー」
「姫ももう少しフォローしてよ。可愛いっていわれてもぜんぜん嬉しくないって。そんな風に姉貴風吹かせたりするから、周囲に強いって思われちゃうんだ」
「なによぉ。それだったら東吾も男の子っぽいところ見せてみればいーんだー」
私は膨れて見せて、底に残っているビールを、ジョッキを傾けてちびちび飲んだ。ヴォリュームを押さえているはずの深夜ニュースの音が、急に浮かび上がって聞こえる。
ややおいて、低めた声音で東吾が尋ねてきた。
「……感じてみる?」
「んー?何を?」
「俺が、どこまでも男だってこと」
アルコールによって鈍磨した感覚は、その声に潜む真剣さを聞き零した。私は考えもなしに頷く。
「いーよ」
そうして、私は痛い目を見ることになるのだ。
突如、顎を掴まれて東吾のほうを向かせられ、唇に口付けを受けた。
「……?! ――――?!!!! ………あふっ、と、うご!ふぐっ」
噛み付くようなその口付けの激しさに、私は眩暈を起こしそうになる。そのままその場に押し倒されながら、その肩に手をつっぱって、必死に抵抗を試みた。けれども、やっぱり体格の差がある。いくら彼が細身だからといって、女の私とでは、力の差は歴然としていた。
彼は私の手を片手でまとめて掴んでねじりあげ、片手でそれを床の上に縫いとめる。コタツから足を抜いた彼は、私の膝の上に体を乗せて、私の動きを固定した。空いている片手が、セーターの裾から肌と服の隙間を縫って入り込んでくる。そして右のふくらみに手が届くと、ブラの上から、それをきつく掴み上げた。
「……いっ……はっぁあ!」
最初は、痛いぐらいにきつく。
ゆっくりと緩急をつけて揉みしだかれる。それほど胸の無い私は、揉むほどもないような気がするのだけれども。ゆるゆると、下着の上から撫でさするものに手つきが変わり、次第に口付けも、乱暴といっていい激しいものから、優しく唇を唇ではさむようなものに変わっていった。
「どう?感じてきた?」
「……あ、あ……や、め、とう、ご」
セーターの下にもぐりこむ手は、キャミソールの上から腹部をゆっくりと撫でさすっている。直接肌に触れられているわけではないのに、じわりと下腹部に熱が溜まっていくのを感じた。
私は足をつかって、背中をこすり付けるようにして床を這い上った。丁度芋虫の原理。けれども東吾はそれに合わせて体をずらす。こつん、と私の額がベッドに当たって、もう逃がすまいと本格的に舌が私の舌を捕らえ始めた。
「や……ぁ、や、やめ、お願い、やめて!」
「やめない」
「とうご!」
……油断、というよりも。
私は最初から警戒していなかったのだ。彼が自分を犯すはずがないと、勝手に思い込んでいた。だからこそ私は合鍵をとりあげることもせず、同居人同然に扱い、今まで寝食を共にしていた。
突然、私の生活を侵食した、赤の他人の男の子を。
思い返せば私は、彼の職業がアイドルということ、あとは年齢ぐらいしかしらないのだ。二十二。私よりも六歳年下。犬っころみたいに笑うことと、意外に世話焼きだということ、あとは好きな食べ物、嫌いな食べ物。それぐらいしか。
どうして、私の部屋を"避難所"に選んだのか、どうして、私の部屋に居座り続けているのか。
どうして、私の話に笑顔で相槌を打ってくれているのか。
それらに、全くの下心がないと思っていたなんて、私はとってもオメデタイ。
東吾の舌は、私の唇をなぞり、唾液が溜まってあふれるまで口の中を犯し続けた。その一方で、手はセーターとキャミ、そしてブラをめくり上げている。直接皮膚に与えられる手のひらの熱。指でつっ、と、腹の中心の線をなぞられる。
「………あぁはあぁっ……あっ」
東吾は肝心なところは全く触っていない。胸もブラをめくり上げた後は一切触れてこなかった。脇腹をひたすら撫で摩っているだけだ。やがて手がジーンズパンツのファスナーに伸びて、じれったいぐらいにゆっくりと下げられる。かち、と底までファスナーが下げられると、剥ぎ取るような荒々しさで、ジーンズとショーツが勢いよく膝までずり下げられた。
「……つあ、や、やめてぇ……お願い……ね?おねが……あんっ」
口を離れた東吾の舌は、私の臍周りをくるりとなぞった。電流が体を駆け抜ける。その下は私の茂みのところまで降り、そして肝心の部分は飛び越えて、膝の内側に移った。
「すごく濡れてる」
舌を膝の内側に這わせながら、私の花芯を眺めて東吾は言う。その笑いを含んだ言い方に、かちんときた私は上半身を起こして彼の肩につかみかかろうとした。けれども先を読んだ東吾の動きに、それはあっさり封じ込められてしまう。彼は私の膝の間に腰をすべりこませて、膝が閉じられないように固定すると、また私の手をまとめてねじり上げた。頭の上に押し付けられる。無邪気な子供みたいに笑う彼を、私はきっと睨みつける。
「すごくやらしい格好だよね。服の脱ぎ方も中途半端って」
「と、とうご」
「でも感じてるでしょ」
ぐ、と私は息を呑んだ。まだ、肝心の部分には直接一切触れられていないのだ。舌は、太ももの内側を探り、手は、脇腹と腹部を撫で摩っているだけ。胸にも、下の唇にも、一切触れられていない。
なのにエアコンに温められた部屋の空気に触れるそこは、むっとした匂いを漂わせ、太ももから零れ落ちるぐらいの雫が落ちている。
「ひどい………やめてよ。お願いだから」
私は体を包む羞恥心と、惨めさ、そして限りない欲望の狭間で葛藤しながら、擦れた声で呻いた。
やだ、なんだか視界が白く滲んできた。
なんだかとても、可愛がっていた飼い犬に手を噛まれた気分なのだ。事実、その通りなのかもしれない。
次々と後輩がでてくるのに、その追随を許さないアイドルグループ、Galaxyの一人、賀沢東吾。
そんな男との非現実な半同棲の生活は、どこかで夢であると高をくくっていたのかもしれない。
けれどもこの体を支配する熱さは紛れも無い現実で。
やめてほしいのか、やめてほしくないのか、極限まできた私はアルコールも手伝って、意識が混濁してくる。
「泣かないで」
ふと、両頬を優しく包まれて、甘く口付けされた。
「御免。……少し腹がたったんだ。だって姫、前の彼氏のことばかりくちにするから」
目の前に、俺がいるのに、と少し悔しそうに彼は言う。
「……やめてもいいよ。やめてもいいけど、大丈夫?もし続けてほしいって、姫がいったら、なんにも考えられないぐらいにどろどろに愛してあげる。姫が甘えることが好きな一人の女の子だっていうことを、証明してあげるよ。ねぇ……千姫」
どうする?といって、彼は衣服越しに彼のふくらみを私の下腹部に押し付けてくる。私は肩で荒い息を繰り返しながら、唾を嚥下した。
「……お願い……続けて……」
結局私は、体中を支配する欲望に負けて、そう懇願してしまった。
――なんで、ゴミの中に埋もれてたの?――
「ふ……あ……あんっ……や、あぁ……あっ」
衣服を全て脱ぎ去った私たちは、寝台の上で肌を貪りあう。東吾の体は綺麗で、浮き出た喉仏、引き締まった筋肉の線、私の体を抱きしめる腕の力強さ――それらは紛れもなく、成人した、一人の男の人のものだった。
――お酒をみんなで呑みにいったんだけど――
「……ふっ………ん、いや、やぁ……とうごぉ……」
胸を舐るその舌使いは巧みだった。前の男の前戯が、まるで子供の遊びみたいに思えてしまうほどに。桜色に色づいた部分を砂糖でもついているかのように丹念になめて、口の中に胸の先を含んで転がす。
――みんなって、Galaxyの?――
――そう。そこでみんな俺のことを子ども扱いしてさ。いつもだったらハイハイって頷いてるんだけど、そのときはぶちきれて、ちょっと悪い酔いした。実は俺自身、どうしてあんなところに居たのか覚えてないんだ――
「あぁあっ!と、とう……」
「もっと名前、呼んで」
「とうごぉ……」
東吾は足の間に頭を埋めて、舌先を尖らせて蜜をなめとってくる。私は彼の髪をかき乱しながら、喉をのけぞらせた。
――避難所ってどういう意味?――
――最近、ちょっと芸能界から逃避したかった。芸能界、というよりも、仲間からかな――
「とうご。とうご、とうごとうご東吾!」
――デビュー前から、俺たち一緒で、家族よりももう近くて。そのせいで距離を今測りかねてる。俺のマンション、スタジオに近いからしょっちゅうみんな泊まりにくるんだ。昔はガキだったからそれなりに寂しくて、合鍵なんかも渡しちゃっててさ。……他に、ちゃんとした友達っていうのも、俺いないしな――
少し寂しそうに語る東吾。輝かしい芸能界に立ち続けるためには、不安定要素を排除する必要がある。プライベートを秘密にしていくうちに、親しかったはずの一般の友達は、疎遠になっていく。
――なんで、私だったの?――
――恩を売る、とか、引き止めるとかそんな感じが全然しなかったから。夢現でぼんやり見てた。少し驚いた顔してたけど、あとは普通だったじゃんね――
「あう、あ……」
――狸寝入りだったの?最初の日――
――あはは。半分だけ。でも、本当にこの人だ!って決めたのは、熱の看病してるとき。とろんとした目で笑う姿が、もうむちゃくちゃ可愛くて――
可愛くて、仕方がなかった――……。
そんな風に言われたのは、生まれて初めてだった。
「あ、あん……ね、おね………とうご……わたし、も、もう、だ、だめもうぁ……」
散々じらされて、痺れさせられて、もうどうしようもないところまで来て。
私は涙を流して懇願した。こんなこと初めてだった。彼が指を動かすたび、舌を這わせるたび、囁かれるたびに、躰は麻薬みたいに毒されて、犯されていく。甘い、甘い、至高の麻薬。こんなの、覚えこまされたら、抜け出せない。
なんて危険な。
快楽。
東吾は微笑み、避妊具を手早くつけて、私の額、瞼、頬、そして唇と、順番に口付けていった。胸をすり合わせ、次の瞬間に、躰をえぐって彼が入り込んでくる。
その、痺れる衝撃に私は背を弓なりに撓らせた。
「――――っ、あぁああああっ」
「ち、き……」
最初にじらしてくるのは彼の悪い癖だ。ここにくるまでに散々私のことを待たせたくせに、入り込んできてなお、私にお預けの状態を保たせようとする。私が動いて、と懇願し始めるまで、彼は少し腰を揺らすだけで動き出そうとはしなかった。ようやく動き出したとき、私はその最初の動きだけで、達してしまった。
「あぁあああ」
ぐったりと崩れる私を支えて、彼はまだ、と容赦なく腰を打ち付けてくる。たまらない。躰全てが性感帯で、彼の髪の一筋が触れるだけで、もうわけがわからなくなってしまう。
危険すぎる。
溺れこんでいく。
離れられなくなってしまう。
このひとは、私とまったく違う世界で生きるひとで。
このひとは、私をもしかしたら地獄に突き落とすかもしれないひとで。
ブラウン管の向こうのスターと付き合い始めた一般人が、ほんの些細なことで週刊誌にすっぱぬかれ、私生活も人生も、全て暴かれてずたずたにされてしまうことは、よく知られていること。
だから私たちは、芸能人のファンにはなりえても、滅多なことで彼ら、もしくは彼女らの恋人に納まろうなどとは本気で思わない。
二つの世界は、同じ現実世界に生きながら重なり合うことはないのだ。
それなのに、こんなにも。
こんなにも、溺れさせられて。
その躰に、その声に、その力に、吐息に。
私の躰を夢中で貪る、賀沢東吾という一人の男に。
私は。
魂までも絡めとられている。
危険すぎる。
「うく……っつ……あ、ち……千姫!」
「あぁっつ……」
薄い膜越しに彼の熱さを感じて。
私たちはそのまま崩れ落ちた。
達して、まどろんで、どちらからともなく口付けを落とし、再び躰を愛撫して。
お互いが溶けるような熱でもって、繰り返しお互いを貪った。
朝。
目覚めると、東吾はいなくなっていて。
私は気だるさから、今日は何も特別な用事がないことを確認して、会社を休んだ。
そして夢の残滓に包まれながら、一日眠った。
けれども東吾はその夜戻ってくることはなく。
その翌日も、その次も、次も、次も。
姿を見せなかった。
「……いい天気」
季節は春に向かっている。今年の冬は雨が多かった。思えば真に別れを告げられた日からずっと雨だったのだ。久しぶりに晴れ間をみたのは東吾が私を抱いた、翌日の朝だった。
それ以来、晴れの日が続いている。私は現実世界に戻ってきた。ばりばり毎日仕事をこなし、周囲にとっては頼れる姉御。一人でしっかりと立っている大人の女だ。
テレビに映る東吾は元気そうで、相変わらずあの人懐っこい笑顔を浮かべている。私はほんの少しの痛みと親しみをもって、テレビを見るようになった。
私は、全て夢であったのだと、思い込むことにした。でないとたまらないから。今日もあの夜の余韻を残す淫らな躰が、少し疼いている。仕事に打ち込むのは、その疼きに蓋をするため。麻薬を振り切る、中毒患者みたいに、私は仕事に没頭する。
本当は、会いに行って、どうして帰ってきてくれないのといいそうになった。そんなことをいえる立場なんかじゃない。危険性だってよく判っているから。結局は芸能人の火遊びだったのだと、そう思い込むことにした。
久々の休み、私は部屋の片付けに取り掛かった。二人の男の記憶が染み付いたこの部屋は、今の私にとって生々しすぎる。幸い、もう真のことでくよくよ悩むことはなくなっていた。その代わり心の中に住み着いてしまった男がいるわけだけれども。
いるものいらないものを順番に分けていく。真との写真が収められたアルバムだとか、捨ててしまおうと思ったけれども、そのまま実家に送ることにした。いつか、優しくその写真を指でなぞれる日がくるかもしれない。
そして、東吾の私物。
夢だと思っていた日々。部屋の中をひっくりかえしていると、その遺物がいたるところから出てきた。
たとえば、彼が使っていた整髪料、櫛、シャツや、ジーンズ、下着類。
いつのまにこんなに、物を持ち込んでいたのだろう。私は笑い、そしてその笑いは引きつって涙と摩り替わった。
ピンポーン
部屋に響いた呼び出し音に、私は慌てて涙を拭ってインターフォンに向かった。昼食用に宅配ピザを頼んでいたのだ。けれども受話器をとっても反応がない。するとがちゃ、と唐突に玄関の扉が開いた。
「と、東吾……?」
玄関を開けたままの姿で、佇んでいるのは東吾だった。モスグリーンのパーカートレーナーにジーンズ。くたびれたスニーカーに、目深に被られたキャップ帽。テレビに映った彼の姿よりも、幾分か幼い格好だ。そうしていると、誰も彼をブラウン管の向こうで、揺ぎ無い人気を誇る青年だとは思わないだろう。
「何、してるのコレ」
私の横をすり抜けて、部屋の煩雑な様子を認めて東吾は目を見開いた。彼の口調には驚愕が滲んでいる。驚きたいのは私のほうだ。なんで、今頃になってやってくるの――。
「何って……引越し」
「引越し!? ……俺が、居ない間になにを」
「……なんで、戻ってきたりするの」
腕を組んで、顔を背けながら私は呻く。去ったと思っていたのに。どうして戻ってきたりするの。
「何でって……ひめ?」
「……芸能人の遊びに付き合うなんて、私は御免」
遊びは御免。真が最初から遊びであったとは思っていない。けれども彼との別れ方は、私に確かに傷を残したのだ。
その傷が癒えぬまま、無謀な恋に踏み出す勇気、私にはない。
私は髪を振り乱して絶叫する。
「判ってよ。もう、もう御免なの。……なんで戻ってきたりしたの!」
「……俺が、いつ遊びっていった?」
「たとえ今遊びじゃなかったとしても、東吾は絶対私を捨てるわ!」
東吾はただのアイドルではない。押すに押されぬ、トップクラスのアイドルなのだ。もし芸能誌にでもすっぱ抜かれでもしたら、彼はきっと安易に私を捨てるだろう。
そんなのはいや。それだったら、私は一人で生きていくわ。
「いつ、誰がそんなことをいった!?」
東吾は珍しく声を荒げ、私の肩をひっつかんで壁に押し付けた。積んであったダンボールの空箱が足にぶつかってひっくり返る。彼の帽子がぱさりと床に音を立てて落ちた。私の顎は上げられて、きつく抱きしめられながら、深いキスを彼から受ける。
「……とうご」
吐息のように名前を吐き出す。鼻先が触れ合うほどの位置にある整った顔は、悲痛そうに歪んでいた。
「戻ってくるよ……嫌だといわれても戻ってくる。俺、きちんと覚悟があって姫を抱いたんだ。しばらくこっちに来られなかったことは謝るけど、仕事が忙しくなってこっちに来られなくなったって、俺には連絡の仕様がなくて」
携帯電話も、この部屋の番号も何もしらない。彼はそう私に主張する。
「かく、ご?」
「逃げないで。俺は千姫を捨てたりなんかしないし、出来ない。判って姫。俺が千姫に拾われたんだ。それなのに、その俺が、捨てるなんてできるはずがない」
もう一度口付けをされて、頭を抱えられるようにして抱きしめられる。壁に押し付けられた背がとても痛いけれども、繰り返し髪に口付けを落とされて、泣きたくなる。
「……お願い。俺に甘えて。甘えさせて」
心地よいテナーの声が脳髄を痺れさせる。最高級の美酒のように、甘い痺れ。
俺の、ひめ、と囁いて、東吾が続けた。
「その代償に、どこまでも君を、俺は守ってみせるから……」
……ずるいわそんな風に言うのは。
まるで映画のワンシーンのように囁かれるその言葉。現実にはありえないと思っていた。けれども台本も何もなく、真摯な祈りのように囁く人がここにいて。
それで墜ちない女はいないわ。
「……ずるい」
「ずるくても、千姫をこの手に抱いておくためだったらなんでもするよ。……俺たちの世界は、光と影に彩られた虚構の世界なんだ。俺たちが本当に手に出来る信じられる存在っていうのは、とてもすくない」
「……一つ約束して東吾」
「……なに?」
「……絶対、私を捨てないで」
あの、雨の中を歩いた日。
私はとても惨めだった。
私は強くなんかないわ。
誰かに守ってほしいおんなのこよ。
強くあるよう背伸びはできても、突き放されることに慣れるほど、私は強靭ではなくて。
「だから、捨てることなんて絶対ないって」
私のことをぎゅっと抱きしめて東吾はつぶやく。私は恐々その背に腕を回して、子供なんてとんでもない、鍛えられたしなやかな筋肉に覆われた胸に頬を押し当てた。
「……東吾……」
そうして彼が、失恋に苛まれる私が生み出した幻でないことを知る。
「……あの、千姫」
どれぐらいそうしていたのだろう。それほど長い時間ではなかったはずだけれど。私を抱きしめたままであった東吾が、躊躇いがちに口を開いた。
「……なに?」
「……いまからヤっていい?」
……………はぃ?
私が回答するよりも前に、東吾の唇が首筋に降りてくる。私は慌てて彼の身体との間に腕を差し入れ、身体を離そうとした。変な力の入れ方をしたせいかもしれない。バランスを崩して、その場に私たちは転倒してしまう。それでも私を壁に押し付けて、東吾は唇を私の首筋から離さない。
「え、え、え、え、ちょ、ちょっとまって東吾っひゃっ」
今!今耳の後ろ舐めたでしょう!?
ぴんぽーんとチャイムがなる。インターフォンには外線の赤いランプが点滅していた。ピザ屋だと思う。
「ね、ねぇぴ、ピザがきたわ!お昼ごはん食べてからにしよう?東吾」
「ごめんもう待てない。ピザよりも昼ごはんは姫がいい」
ちょっとなんていうことを言うの!
顔を真っ赤にして抗議するけれども、東吾はちっともやめる気配がない。前よりも性急に、直接肌に触れてくる。犬が、主人にじゃれているみたいに。
「ちょっと、も、――――っつ、東吾ぉお!」
私の絶叫が、柔らかさを増した日差しの差し込むマンションの一室に響き渡った。
|
end
|