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「別れよっか」
デザートがそろそろ運ばれてくるか否か、といったタイミング。テーブルの上に肘をつき、両手を目の前で組んでいた真は、神妙な面持ちで私にそう告げた。
「……は?」
私はワイングラスを傾ける手を止めて、ぱちぱちと目を瞬かせる。真は下唇を噛み締め、瞑目して丁寧に言葉を繰り返した。
「……別れよう、といったんだ。千姫(ちき)。別れたほうがいい……いや。俺が、君とは今日限りにしたい」
彼が言ったその言葉は、確かに私の耳に届いた。けれども言葉が鼓膜を震わせ、脳髄に届き、きちんと私が意味を咀嚼するのに、かなりの時間を要した。
やだ、マスカラがコンタクトに付いちゃったのかしら、視界が少しおかしいわ。
私はもう一度目を瞬かせて、首をかしげる。
「……えぇ?……ちょっとまっ……ど、どういうこと?」
「千姫。いつか言わなければならないと、俺は思っていた」
「な、何を……」
私は眉根を寄せてかすれた声で呻いた。きちんとした問いの形にもなっていないそれに、真は簡潔に答える。
「俺には子供がいる」
私は、硬直した。
「…………子供?」
大学の頃からの彼、真は、その名前に違わずとても正直者だった。
彼は決して嘘が付けない。ありとあらゆることにおいて、彼は誠実さが滲み出るような男だった。だった、というのは、実はそうでなかったからである。実はとてつもない大法螺吹きであり、私をほぼ一年間騙してくれていたことを、このときになって初めて私は知らされた。
子供がいる。正確には、生まれるのだ。二股相手のお腹の中には、三ヶ月の子供がいるのだという。相手は真の患者。真は内科の医者で、検診に来ていたその女性と知り合い、一年前から付き合い始めていたのだという。そして子供の妊娠がわかって、来月、式を挙げることに決まったそうだ。
だから、別れてくれと。
そもそも今日は朝からツイていないと思ったのだ。
まず、朝一番にチェックするテレビニュースとインターネットの星座占いが軒並み私の不幸を告げていた。目覚めのコーヒーを飲もうと思ったら、豆が切れていて、仕方なくインスタントを呑もうと思ったら、封の空いたそこにはゴキブリが生息してくれていた。朝から地球でもっともしぶとい生物とスリッパ片手に格闘し、ゴキブリ駆除剤を焚かなければならなかった。よりによって貴重な休日を、朝から掃除に費やさなければならなかった。
真は医者、私は化粧品会社の広告部。お互いにクリスマスも正月も仕事が忙しくて、ようやく休みが重なった一月の終わり。東京の高層ビルの最上階の夜景が一望できると評判のレストランに、彼はその日珍しく予約を入れてくれた。けれどもあいにくの雨で、私たちは夜景を眺めることもできず、さらに料理はあまり美味しくないときた。
絶対神様の陰謀よ、と思っているところにこれである。
「どうして、そんな、こと、するの」
震える唇を動かした私に、真はため息をついてこう答えた。
「だって、千姫は俺がいなくっても一人で全然平気だもんな」
真に平手を食らわせた私は、ハンドバッグを持ってレストランを飛び出した。
雨が降っていて一つよかったことがあって。
それは私がどれだけ泣いていても、ちっとも周囲にバレないということだ。
タクシーに飛び乗ったのだけれども、泣く段階になって私は運転手がひどく気になった。バックミラーに写りこんだ私の顔はまさしく「男に振られました!」というような顔をしていたのだ。家まで歩ける距離までくるとすぐに私は下車し、冷たい冬の氷雨にこれでもかというほど濡れながら、思いっきり泣いた。傘は折りたたみを一応携帯しているけれども、さす気にもならない。こんな惨めな日には、ずぶ濡れがお似合いでしょう。
我が家のマンションの前にたどり着くと、私は電信柱の根元に嫌悪の視線を送った。ゴミ捨て場でもないのに、たくさん黒いビニール袋が捨てられている。なんでこういうことするのだろう。モラルってものがないわ、ね?
「ね?ぇえ?」
通り過ぎようとした私は、慌てて引き返した。視界の隅に捉えた、パンパンに膨れたビニール袋の山に埋もれる"それ"を確かめるため。すると慌てていたせいか、それとも長い距離を歩いてきたせいか、右足のヒールが折れた。んもう、本当についてないったらありゃしない!
ひょこひょこと右足を引きずって"それ"の目の前に私は屈みこむ。つんつん、とつっついてみると、とても温かかった。
足。
そう、足だ。二本の足が、ビニール袋の狭間から突き出ていた。私はがさがさとビニール袋を押しのける。死体を発掘しているのではないかと怯えながら。
けれども第一死体発見者とか、そこまでの不幸はさすがの神様も勘弁してくださったらしい。幸いにもその足の持ち主は生きていた。なかなか綺麗な造作の整った、男の子だ。
いえね。立派な成人の体をお持ちでいらっしゃいますけれどもね。
二十八にもなると、ひがみもはいって若い人を男の子女の子って呼んじゃうのです。これって、私だけでしょうか……。
「ねぇ、起きて」
のんだくれのオジサンだったら放っておくけれども、相手は前途ある若者。しかもこの雨。私は懸命に揺り起こしたけれども、彼はちっともおきる気配を見せない。
このまま、放っておくわけにもいかないし。
私は仕方なく、ハンドバッグを肩にかけると、彼の首に腕を回した。
……とんでもないもの拾っちゃったかもしれない。
そう自覚したのは、ずぶ濡れの彼を床にとりあえず寝かせて、バスタオルで少し色の入った彼の頭を拭きにかかったときだ。
さっきは髪が頬だとか額だとかに張り付いていて、しかも視界の悪い大雨のせいで気づくことができなかった。けれども、部屋でまじまじその顔を確認すれば、見覚えがあることは否めない。私だけじゃない。おそらく日本全国の誰もが、名前と顔を知っているはずだ。
日本で現在、多数の男性アイドルグループを抱える芸能界屈指の大手プロダクション、株式会社J&M。
そこに所属する今やカリスマといっていい五人組アイドルグループ、Galaxyの一人、賀沢 東吾。
私は慌ててテレビマガジンを、マガジンラックから引っ張り出した。Galaxyの五人が一面を飾っているページと、今床の上ですやすや寝こけている男とを見比べてみる。どうみても同一人物で、そうでないというのなら、双子の兄弟に違いない。
どうしよう。腕を組んで唸ってみる。けれどもその思考は、むずむずっと湧き上がってきたくしゃみによって阻まれた。
「ふっちゅつ……うー。やだわもう風邪引いちゃう」
私は起きる気配の全くない男を見下ろした。テレビでみていても可愛い子ねーって思ってたけれど、実物は四割り増しだった。すっと通った鼻筋、長い睫毛、ととのったパーツ。芸能人は普通の人と少し違うっていうけれども、納得できる。
私はコタツのスイッチを入れて、彼の体をその中に押し込んだ。とりあえず水を吸って重たげな、身につけていたジャケットとセーターだけは脱がせて、はみ出た体の上に来客用の毛布をかける。
ジャケットはハンガーに、セーターは洗えるものであることを確認して洗濯機のなかに放り込み、私は熱いシャワーを浴びるべく、バスルームに駆け込んだ。
「……最悪」
朝体温計で体温を測れば案の定。
デジタル表示は酷薄にも、私の体温が三十八度あることを告げている。立ち上がるだけでふらふらし、体の節々がとても痛い。
けれども今日はどうしてもぬけられない会議があるのだ。新しい化粧品の広告企画についての、地方の支社からも担当者を招いて開かれる大事な会議だ。司会進行役である私が、欠席するわけにもいかない。
私は冷蔵庫からフルーツゼリーを取り出し、砂を噛むようにしてそれをお腹に収めた。薬を飲んで出勤の準備を整える。かなりどたばたしたと思ったのに、昨日の私の"拾いもの"は幻のようには消えうせず、むしろ私のこたつを占領して安眠を貪っていた。一度起きたのだろうか。私のベッドにあったはずのクッションを抱き枕に、すやすやと寝息を立てている。
私は広告の裏に、部屋はオートロックなのでそのまま出てくれればいいことと、トーストとコーンスープは食べてくれていいこと、ジャケットとセーターは干してあることを書き付けて、そのまま部屋を出た。
その日も、また不幸であったといわなければならない。
体調は激悪。しかも昨日に引き続き雨。精神的ストレスからの胃痛も加わった。部下が会議に必要な担当書類をコピーし忘れていて、コピー室へ走ったらトナー切れ。他のコピー機は運悪くどれも使用中であり、仕方なく替えのトナーをとりに行けば、備品室は事務の女の子が備品をばら撒いている状態で。
無事会議に書類を間に合わせれば、大雨のせいで飛行機が遅れたとかで一番の重要人物である企画部長が出席不可。急遽一部電話会議という形式をとることになり、回線を繋ぐために、奔走。一息つけば、後輩が彼氏と喧嘩してどうしたらいいのですかと泣きついてくるし、同僚が今度の飲み会の幹事になってくれと拝みこんでくるし。
私はかつてないほどに、精神的にも肉体的にも疲弊していた。
一人きりになってゆっくり眠りたい。忙しさと慌しさは、失恋の痛手を紛らわすにはもってこいであるけれども、翌日、という時間はお願いだからよして欲しかった。傷をなめる暇もない。血が噴出したままの状態で、仕事に出かけなければならなかった今日という日をようやく終えて、私は帰宅した。
「…………」
失恋の傷および風邪をゆっくり休んで癒したいと思っていた私は、玄関からの扉を開けてそのままの姿で硬直した。
「あーおかえりー」
大量の雑誌を抱えて、よれよれのジャージ姿で姿を現したのは、昨日の"拾いもの"である。彼はその雑誌をマガジンラックにきちんと収めて、ふぅ、と息を吐いた。
「もうすぐご飯できるからちょっとまってて。コタツに入って座ってて、せんひめさん」
真のものだったジャージの上下を身につけて、部屋をうろつく彼に私は絶句したまま動けなかった。書類鞄がぼとりと落ちる。その落下音を聞きつけて、彼は面を上げた。
「……?どうかした?」
「……賀沢、東吾、君?」
うわごとのように名前が唇から滑り出る。すると彼はテレビで目にすることができる、人好きのする笑顔をにっこりとその顔に浮かべて頷いた。
「ハイ、賀沢東吾です」
「……なんで、あたしの名前……」
「さっき郵便書留が来てましたから」
そういって彼はちらりとコタツの上に視線を投げる。私も釣られて目線を動かした。コタツの天板の上に、封の切られた茶封筒がある。私は怒りに息を呑んで、弾かれたように顔を上げ、賀沢東吾をにらみつけた。
「あんた、人の郵便物勝手に……!」
「悪いとは思ったんですけれども、中身鍵だけみたいで。その、この部屋の鍵かな、とかって思ったんです。やっぱり合鍵で、どうしても外に出たかったもんだから、あけちゃいました。ごめんなさい」
一度直立して、頭を勢い良く下げられる。なかなか上がることのない頭に私はたじろぎながら、口を曲げた。
なんだか、こうしていると私が悪いみたいに思える。
「な、なんで鍵が必要なの……。そのまま帰ればよかったじゃない……」
もごもごと口の中で言葉を転がす。すると彼は照れたようにはははと笑った。
「いやとりあえずお礼にご飯でも作っておこうかなーとか思って。で、勝手に冷蔵庫のなか漁って、下ごしらえして、気がついたんですよ。お醤油がない!って」
途方にくれていたところに天の助けとばかりに合鍵が届き、使わせてもらったのだという。
私はよろよろとその場に膝をつき、腕を伸ばしてこたつの上の封筒を手に取った。ひっくり返してみれば、もう二度と見たくもない名前。
言わずもがな、真だ――。
「ご飯食べます?あ、お風呂も今丁度沸いてますけど」
「……らない」
「……え?」
「……いらない。もう、寝たいの。お願い。出て行って」
普通、芸能人の男の子がここまでしてくれたら、手放しで感動するものだと、私も思う。
けれども残念ながら、私の精神状態はそんな余裕はなかった。相手が芸能人だろうが内閣総理大臣だろうが国連事務総長だろうが、誰だろうが御免だ。
私はただ、眠りたかった。どこまでも深く、泥のように。
「せんひめさん?」
賀沢東吾の声が遠くに響く。
私はそのまま、こたつに向かって倒れこむようにして崩れ落ちていた。
私はすこしも強くないわ。
一生懸命強くなろうとしたの。
誰かに頼っていきるのはいや。
男によりかかっていきるのはいや。
わたしはわたし。対等でありたい。
だから強いふりをしたの。
本当は、とてもあまえたかった。
「むちゃするなぁ、せんひめさん」
居間の入り口で倒れたはずの私の体は、いつの間にか寝台の上に横たえられていた。私の前髪を上げると同時に、労わるようにして私の頭を彼は撫でる。霞がかった思考。私はずきずきする頭を軽く押さえながら、低く呻いた。
「……せんひめ、じゃない。ちき、よ」
「ちき?」
「千姫、とかいて"ちき"って読むの。……友達は、姫って呼ぶ子が多いけど」
彼はきゅっと固く絞ったタオルを額に当ててくれる。部屋は暖房が効いているはずだ。なのに熱のせいで酷く寒い。その一方で額に当てられた冷たいタオルは、熱で朦朧とした頭に心地よかった。
「あぁ、じゃぁ俺も姫って呼んでいい?俺東吾でいーから」
いつの間にか口調は砕けた感じになっていて、けれども嫌な気分はまったくしない。これはまさしく、アイドルたる条件、人徳というやつだろうか。いやアイドルにも人徳ない方いらっしゃいますけど。本人が呼んでいいといったので、遠慮なく東吾と呼ぶことにする。
「でも珍しい名前だね。千姫、かぁ」
「……最初父さんが戦姫ってかいてせんひめって呼ばせようとしたらしいの」
「……すっごいネーミングセンス……」
東吾は一瞬噴出し、そのまま腹を抱えて笑った。犬っころみたいな笑い方はとても可愛いけれども、そんなに笑うことないでしょう。
「これから生まれてくる女は強くなければならない。これからは戦う姫君の時代だ!って。先見の明があるのはいいけれども、その名前だけはいただけないと思うわ……。母さんが間に入って、ちき、で落ち着いたらしいんだけど、でも私にしてみればどっちもどっち」
発熱で意識は曖昧なはずなのに、何故私はこんなに饒舌なのだろう。東吾がにこにこしてうんうんと相槌を打ってくれるからかもしれない。それだけではなく、東吾はこれしてほしいかあれして欲しいかと一つ一つ私に確認をとりながら、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
実際、焼きすぎなほどに。
たとえば、食事。
「……自分で食べれるよ」
目の前に突き出されたスプーン。その上に乗った雑炊。腕で頭を支えられる。上半身を起こした私に、東吾は無邪気に微笑みかける。
「病人は大人しく看護夫のいうことにしたがってください」
「……看護婦女の人じゃない」
「いや"ふ"の部分夫っていう字だから」
東吾はとっても不思議な子で。
その笑顔は人の心を安易に溶かす。熱が高くて逆に眠れなくなってしまっている私の気を、冗談を挟んで和ませようとしてくれることには感心した。
「ねぇ、鍵もらっちゃっていい?」
うとうとし始めた私に、東吾が真から送られてきた合鍵を翳した。豆電球に切り替えられた電灯は、暗いオレンジ色で部屋を照らしている。
私は浮いたり沈んだりする意識で、どうにか言葉を紡ぎだす。
「……泥棒するの?」
「避難所にしたいんだ」
そう答える東吾の声は静謐だった。酷く真剣な様子だ。私はくすくす笑って、いいよといった。
無論、正気だったのならこんな異常事態、受け止めることができなかったでしょうが。
朝起きると部屋は綺麗に片付いていて、しんと静まり返っていた。
今を時めく芸能人が、二晩泊まっていったという痕跡はどこにも残されていない。すっかり熱は下がっていて、頭の中もクリアだ。裸足の足をそっとおろす。冷えたフローリングの床の上に、Galaxyが大きく取り上げられたテレビマガジンが広げられている。
失恋の痛みと、熱とで、もしかして夢をみたとか?
私は雑誌のなかの、青年の笑顔を見ながら苦笑していた。やぁね。少女趣味な夢。大体芸能人の男の子が、ゴミに埋もれていた、だなんて、どういう発想しているの?私の頭。
とてもすっきりした気分で、私は思わずその写真に口付けていた。真のことは当然まだ胸に痛いけれども、下がった熱が一緒に膿を連れ去ってくれていったかのように、酷くはない。
さぁ仕事にいかないと。
私は一人で歩き出すために、身支度を整えにかかった。
「オカエリー」
「…………」
開いた口が塞がらないとはこのことだった。私はあんぐりと口を開けて平然とコタツに入って単語帳らしきものをめくっているジャージ姿の男を凝視する。夢の住人であったはずの男、賀沢東吾は、ん?と首をかしげて私を仰ぎ見た。
「どうかした?」
「……ど、どうかした、も何も……ど、どうして」
私が言おうとした言葉を悟ったのだろう。くすくす笑って彼はいう。
「避難所にさせてって俺いったじゃん」
「……ひ、な?」
「ひーめー。ちょっとこっち来て」
混乱状態に陥っていた私は、すんなりと彼の言うことに従ってしまう。手招きに従い、彼の傍らに膝をつくと、まるで犬がそうするように飛び掛られた。
「きゃ……」
バランスを崩すことをなんとかこらえる。東吾は私の腰に腕を回し、お腹のあたりに頭を押し付けるようにして、私の膝の上に頭を乗せていた。
そしてそのまま、動く気配はない。
「……東吾?」
「うーんさすが姫。いい匂い」
頬をすりよせられて、私は半眼で東吾を見下ろした。最初は殴りつけるつもりであったのに、まるで恋人がするかのように、ついついその頭を優しく撫でてしまう。気持ちよさそうに、東吾が笑う。
私は呻いた。
「……普通なら蹴り出すべきセクハラ不法侵入男をを許し、あまつさえ頭を撫でてしまうってアイドルの特権かしら、それとも私が警戒心なさすぎるだけ……?」
「姫が優しいからってことにしておいて」
「……一瞬の情から拾った犬に、予想外になつかれた気分」
「わんって鳴いてみようか?本物の犬よりはよっぽど可愛げある感じで犬を努められると思う」
微笑む彼に、私は困惑顔を浮かべる。実は未だにコレが現実なのか私の夢の続きなのか、判断が付きかねていたのだ。けれども私のそんな表情を見て取ってだろう、東吾はがばっと身を起こすと、私の体を離して言った。
「……ごめん。ちょっと甘えたかっただけ。ご飯できてるよ。食べる?」
「……食べる」
東吾はさっと私の横をすりぬけて、台所へと歩いていった。かちゃかちゃと響く食器の音。しばらくして、じゃじゃん、と自ら効果音をつけて、東吾が現れた。
「今日はふわとろ卵のオムライスでーす」
東吾がコタツの上に皿とスプーンを二つずつ並べる。小さなコタツに長い足を器用に折りたたんで、彼は入り込んだ。食べないの、と視線で尋ねてくる。
私はむーっとオムライスを睨みつけ、結局空腹に勝てず手を伸ばした。
それからというもの、東吾は頻繁に私のマンションに泊まりにきた。避難所、という意味は未だによく判ってはいなかったけれど、まるで子供のように甘えてくる彼をみていて、単に寂しいんじゃないかと思ったりする。私たちは一緒に夕食を食べ、深夜のテレビをみて、音楽をきき、本を読んで眠る。基本的に、私が甘えたの弟を甘やかしたり叱り付けたりする姉で、彼がふざけて悪戯を仕掛けてきたり甘えてきたりする弟だった。けれども時折それが逆転する。彼は兄のように私を慰め、私は彼の優しさに癒されるだけの妹になった。
一度、戯れに抱きしめて眠ったら、あまりにもお互いの寝つきがよくなって、それ以来セミダブルの私のベッドでずっと二人で眠るようになった。おかしなことにこれだけ頻繁に一緒に眠っているのに、男女のそれはない。一度体をつなげてしまったら、この不思議な現実が、泡のように消えてしまう気が、私はしていた。
雨が、ずっと降り続いている。
真に、別れを告げられてから、ずっと夢をみている気がする。
氷雨の中に閉じ込められた夢を。
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