PM11:00 NKKホール


「うそ、中止?」
 衣装を替えたばかりの貴沢秀俊は、背後から聞こえる小さな声に眉を上げていた。
 舞台袖の通路、パイプ椅子の上に置かれたパソコン、そこに集まっているスタッフから聞こえてきた声である。
 東京、渋谷、NKKホール。
 午後11時。年末の日本最大の音楽イベント、紅白歌合戦は、後半の山場にさしかかろうとしていた。
 袖で出番を待っていた貴沢は、あらためてここから先の流れをイメージしていた。
 わずかなミスも許されない後半戦。睦月ひろし、天童よしこから、トリの和多アキ子、オオトリの北山三郎まで、日本芸能界のドンともいえる重鎮たちが、互いの歌を競いあう。
 ここから先の時間帯、平均視聴率はどう見積もっても三十パーセント以上を叩きだすに違いない。もちろんラストは、涙と笑顔。これ以上はないほどの見せ場を作り、最高の好印象で、この年末の大舞台を締めくくらなければならない。
「本当にどうにもならないの?」
「もう照明もついちゃったし、どう見ても中止だろ」
 背後からふいに背中を叩かれたのはその時だった。
「ヒデ、これが終わったら、すぐにホテルプリンスに移動するからな」
 甲高いだみ声がヒデの耳元でがなりたてる。雑音の中、かろうじて聞き取れていた声が遠ざかる。
 立っていたのは、進行表を手にした貴沢専任マネージャー貝野元。貝野は東邦マネージャー陣にあってはエース的存在らしいが、貴沢に言わせれば、殺意を覚えるほど無神経な男だ。
「仕事ですか」
 ヒデは笑顔で、眉を寄せた。
「困ったな。僕、この後、飲みにいく約束をしてるんですよ」
 また接待かよ、ふざけんな、死ね。
 その内心はおくびにも出さず、むろん、さわやかな笑顔も絶やさない。
「何言ってんだ、ヒデ」
 ずうずうしいだけが取り柄のマネージャーは、馴れなれしく肩に手をかけてきた。
「いまさ、真田会長が、テレビ関係者集めて大掛かりなカウントダウンパーティをやってんだよ。知ってるだろ、ヒデも」
 汚い手でさわんな、デブ。
 貴沢は微笑して、自分よりかなり目下の男を見下ろした。
「じゃ、もしかして、僕もそこに呼んでいただけるってことなんですか」
「東邦の、2006年のスターは君なんだよ、ヒデ」
 満足気に貝野はうなずく。
 どうでもいいから、早くそこをどいてくれ。後ろの声が聞こえないだろ、この低能。
「行きますよ。ぜひお供させてください。紅白が終わったら、すぐに車に戻りますから」
 にっこり笑って、貴沢は、やんわりと貝野の腕を押しやった。
「ストーム、もう引っ込んだの」
「まだ中央のステージから降りない。でも、客席がすごい騒ぎだから、これ以上続けるのって無理なんじゃない?」
 スタツフの囁き声が、ようやく耳に届いてきた。
「貴沢君」
 遠ざかった貝野に代わり、柔らかな声が背後から聞こえた。
 はっとして貴沢は居住まいを正す。紅組司会、森歌子。大のJ&Mファンとして知られる芸能界の大御所で、67歳にして現役の舞台女優。
 今夜のイベントでは一番のVIPとあって、テレビ局の気の使いようもハンパではない。
 豪華な友禅を身にまとった小柄な大女優は、ゆったりと貴沢の傍に歩み寄ってきた。
「あと一時間、お互いがんばりましょうね」
「はい、がんばります」
 上品な微笑で見上げられ、貴沢もまた、控え目かつ女性の心を捕らえて離さない笑顔で、それに応える。
 その森の目が、ふっと背後のスタッフの輪に向けられた。
「大変みたいね」
 まさかと思うが、ストームか。
「このまま中止なんて可哀想。なんとかならないものかしらね」
 どうでもいいだろ。
「私、J&Mの子は、基本的にみんな大好きだから、ストームのこともずっと応援していたの。残念ね、ここまできて中止だなんて」
 なんだって、どいつもこいつもストームなんだ、バカバカしい。
「そうですね、無念だと思います」
 それでも神妙な顔で、貴沢は相槌を打っていた。
「紅白さえ決まっていなかったら、僕も何かの形で協力したかったんですけど、そうもいかなくて」
 わずかに視線を伏せて、寂しげな横顔を作って見せる。
 どうでもいいんだよ、そんなこと。それが一体、俺の人生になんの関係があるっていうんだ。
 返事がない。
 貴沢が振り返ると、森は、静かな、けれどひどく不思議そうな眼で貴沢を見上げていた。
―――え……?
 俺、何かミスったかな。
「ずっと思っていたけれど、あなたって本当に、可哀相な子ね」
「………………」
「あなたの言葉にも、表情にも、少しも本当がないんですもの。そういう訓練を受けているの?それともそれが、あなたの癖?」
 ナチュラルな人ほど、厭味が効くって本当だな。そう思いながら、貴沢は笑った。
「ひどいです。誤解ですよ、森さん。僕はそんな冷血漢じゃないですよ」
「あなたの素顔って、なぁに」
 え?
 素顔?
 森はわずかに目をすがめ、そしてそのまま首をかしげた。
「まるでアイドルという仮面を二十四時間つけて生きているみたい。はずしちゃいなさいよ。たまには」
 やわらかく背を叩かれる。
「森さん、貴沢さん、出番です」
 ADの声が飛ぶ。
 何言ってんだ、この婆ぁ。
 仮面を外した俺に、一体なんの存在価値がある。
「ご忠告、ありがとうございました」
 にっこり笑んで、貴沢はそのまま歩きだした。
 時間が押している。貴沢は小走りに、けれど客席が視界に入る頃には余裕の笑顔で、ステージに立つ。
 世界に誇るNKKオーケストラが、盛大な生演奏で司会2人の再登場を盛り上げる。
 贅をつくしたステージ、眩しいほどのライト、ホールをぎっしり埋めた観客。
 そしてステージに終結した、この一年日本歌謡界で最も輝いた48組。
 客席最前列に陣取る15名の特別審査員は、2005年、日本でもっとも活躍した各界の著名人たちだ。
 間違いなく、ここは、日本最高峰のステージ。
「さぁ、ここで気になる視聴者投票、その途中経過の発表です。リードしているのは赤か、白か」
 国営テレビの専属アナウンサー町田俊之が、馴れた口調で会場を煽る。眼鏡に七三分けのやぼったいヘア、南瓜のような頬。貴沢にとっては最高の引き立て役だ。
 客席に座る特別審査員にマイクが回され、お定まりのコメントが流れ始まる。
 いや、今年は赤でしょう。女性の年ですからね、心なしか女性陣の方に活気があったような気がします。いや、白ですよ。なんといっても今年のオオトリは北山さんですから、後半に期待していますよ―――どうでもいい。
 貴沢はただ、カメラを視界の端に捕えたまま、微笑している。
 モニターなど見なくても判っている、最高の笑顔だ。
 若輩らしく控え目で、公共放送らしく上品に、それでいて、一番自分に注目が向くように、最上級の華やかさで。
「ではここで、ゲスト出演のYUKAさんに訊いてみましょう」
 ふいに町田アナウンサーが、貴沢が故意に意識から除外していた女の名を呼んだ。
「どうですか、ゲストということで、赤も白もYUKAさんには関係ないと思いますけど、どちらが勝つと思いますか?」
「白、応援してます」
 女の返答は即座だった。長いストレートヘアと彼女が抱えたギターだけが、貴沢の視界に入っていた。つい先ほど出番を終えたばかりの、口コミで人気が急騰したストリートシンガー。
「私、アイドルが大好きなんです。今回はJ&Mさんがいなくて、本当に残念でした」
 多分、台本にない答えだったのだろう。生放送に馴れた町田アナが、カメラに隠れて眉をひそめるのが見えた。しかしそれは、正面に向き直った途端、満面の笑顔になる。
「そうですかー、これはYUKAさんの意外な一面を聞いてしまいました。では、中間発表です!赤か、赤か、いや、白だ、白がどんどん伸びていく。それでも赤には届かない」
 あっか組、あっか組、しっろ組、しっろ組。
 貴沢は笑顔で、背後のきら星のような出演者たちを煽る。
「おーーっ、これは僅差で白組だ、白組勝利、貴沢君、やったね!」
 背後の出演者たちから、段取り通りの歓声があがる。
「ヒデ、赤組の森さんを押さえて前半の勝利、今の気持ちはどう?」
 マイクを持って、貴沢はカメラに向き直った。
 この段取りも、全て衣装替えの時に聞かされている。セリフも頭に入っている。
「いやー、最高ですよ。なんといっても今年の、」
 白組は――
 初出場が五組もいて、みんなフレッシュだから、絶対いけると思ってました。後半は、日本が世界に誇る歌手のみなさんが勢ぞろいします。激戦になると思いますが、白組は若さで乗り切ります。あら、じゃ、私たちは年の甲でのりきりましょうか。赤組、ファイト!
 次に続く森歌子のセリフまで、完璧に暗記している。
 なのに、言葉は一言も出てこなかった。
 計算した笑顔を浮かべたまま、貴沢は凍りついたように、その場に立ちすくんでいた。
 俺……何やってんだ?
 仲間なんだよ、俺たちは。
 仲間?
 それが俺に、なんか与えてくれんのかよ、誓也。
 同じ場所で、同じパッションをわけあってきた仲間だ。どこにいったって、それは絶対にかわんねぇんだ。
 そんなものはいらない。そんなものは必要ない。
 やっと判ったよ、確かに俺たちは特別なんだ。アイドルっつー現実にはあり得ない存在の、辛さも怖さも楽しさも素晴らしさも、やってる俺たち以外には絶対に理解できない。ヒデ、俺たち以外の一体誰が、今のストーム助けてやれるよ!
 俺には……関係ない。
 忘れないで、ヒデはね、私の光なんだ。
 いつまでも、キラキラ、王子様みたいに輝いていて。それが私の、私を照らす光になるから。
 俺には……。
 まるでアイドルという仮面を二十四時間つけて生きているみたい。はずしちゃいなさいよ。たまには。
 顔をあげた時、自分が泣いていることに、ようやく貴沢は気づいていた。
 会場が静まり返り、司会者が、呆然としたまま立ちすくんでいる。
「僕の、」
 絞り出すような声がでた。
 再度あふれた涙を、貴沢は子供のように手の甲で拭った。鼻水も拭った。
「僕の、大切な、友だちが……、今、」
 あとは言葉にならなかった。顔をそむけ、そむけた顔をくしゃくしゃにして貴沢は唇を震わせた。
「すいません、」
 行きたい。
「すいません……」
 いけるものなら、いますぐドームに飛んで行きたい。
「行っちゃいなさいよ」
 あり得ない声がした。
 森歌子。
「行っちゃいなさいよ、東京ドーム」
「も、森さん、またまた冗談を」
 泡を食った町田アナが、大慌てでこのアクシデントを誤魔化そうとカメラに笑顔で向き直る。
「さて、ではいよいよ後半です。白組の」
「あら、いいじゃない。みんなも、もう知ってるんでしょう?」
 やんわりとした森の声が、それでも有無を言わせないタイミングで町田の饒舌を遮った。
「東京ドームで、ストームさんが、大変なことになってるって。客席から発煙筒が投げ込まれて、コンサートが中止かどうかの瀬戸際だって。だからヒデは泣いちゃったのよ。あら、これテレビで言っちゃいけないのかしら」
 確信犯。
 全国に向けてオンエアされている生放送、この発言にもう、取り返しはきかない。
 町田アナももちろん、正面のカメラ、スタッフ全員が青ざめている。
 森は首をかしげ、可愛らしい笑顔で、反応に窮している背後の出演者たちを見回した。
「ストームもJ&Mも、同じ芸能界の仲間ですもの。コンサートが妨害で壊されるなんて、私たち歌手にとっては、他人事じゃない、大変な事件です。絶対に許してはいけないこと。みんなで応援して、なんとか助けてあげましょうよ」
 それでも、出演者たちは戸惑っている。客席にもざわめきが広がる。
 しかし森は、生き仏のような邪気のない顔で、にっこりと微笑んだ。
「いいじゃない。年末の紅白ですもの。このくらいのサプライズがあったって」
「行って来い、ヒデ」
 沈黙の後、最初に口を開いたのは和多アキ子だった。
 紅白のトリかオオトリを常につとめる常連中の常連。芸能界のご意見番と言われた和多に逆らえるタレントはまずいない。
「普通なら許されることじゃないけど、今回は特別にあたしが許す。移動用のヘリがあるから、それ使っていきな」
 北山三郎が頷いて手を叩いた。それが静かに広がっていく。
 貴沢は初めて素になって笑った。
 わかった。
 芸能界の連中って、基本的にバカしかいねぇんだ。
 その中で、一番のバカがこの俺だったってのがなんとも言えないオチだけど。
 この行為は、年が明ければ激しく非難されるだろう。国営放送からは干されて、東邦プロからは――確実に、解雇だ。
「行ってきます!」
 満場の拍手が貴沢を見送る。最後に由果の笑顔が見えた。
 俺が行くまでに終わってたら、ただじゃおかねぇからな、クソ柏葉。
 見えない未来に向かって、初めて貴沢は全力で駆けだしていた。



















 

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