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「二時から記者会見があるらしいよ」
 囁き声に、椅子に座って書面を見ていた逢坂真吾は顔を上げる。
「じゃ、次の人、入って」
 振り返ろうとしたのと、自分の順番が来たのが同時だった。
 ジャパンテレビ。正社員の社会人採用試験、その最終面接である。
「はい」
 逢坂は、後ろ髪を引かれる思いで立ち上がる。
 ここ数日、マスコミ関係者で囁かれていた、都市伝説のようなあり得ない噂。火元がどこだか確かめようもないが、逢坂にとっても、おそらく誰にとっても、鼻で笑って聞き流すしかない噂。
 あのストームが、再結成する。
 しかも、暴力事件を起こして芸能界を完全引退した柏葉将を擁して。
 まさかね――と、その噂を耳にしたとき、元J&Mで成瀬雅之担当だったマネージャーは、ただ苦笑するしかなかった。
 まぁ、あり得ない。
 結局真相はやぶの中だが、暴力事件を起こしたアイドルがわずか二ヶ月程度の謹慎で出てくるなど、この業界では最悪のタブーだ。
 成瀬雅之、東條聡には、すっかり「常識がない、女好きの最低男」の印象がついた。
 綺堂憂也は別の意味で、すでに国内にとどまるような存在ではなくなり、片瀬りょうにいたっては、百パーセント再起不能。
 無理というより、あり得ない。
―――唐沢社長の記者会見……か。
 面接官の前で自己紹介をしながら、それでも逢坂の心は別の方に向いてしまっている。
 すっかり表舞台から追いやられた過去の人が、何を今さら、発表することがあるのだろう。芸能界では、あの人はもう負け犬だ。今さらどうあがいても這い上がってはこられない。何を、今さら――。
「J&Mに入る前は、トヨダの営業だったそうですね」
 面接官の声に、逢坂はようやく我に返る。
「あ、はい」
「この業界に入ろうと思った動機を教えてください」
「……何か、名前が残る仕事がしてみたくて」
 少しためらってから、逢坂は言葉を繋いだ
「名前ですか」
「人間なんて、所詮死んだら終わりじゃないですか」
 言葉遣いが不遜だったせいか、居並ぶ面接官たちが顔を見合わせている。逢坂は慌てて居住まいを正した。
「自分のような平凡な人間には、後世に名前が残るような大きな仕事はできません、それはよく判っていますので、まぁ、多少のリスクはあっても、せめて夢を作り出す現場に携わってみたいと、そういう動機です」
「J&Mでは、夢ではない現実も、多々見られたと思いますが、それはどうですか」
「どうでしょう、……それでも夢だったと思います」
 在籍したのは、たった数年だったけど。
 嫌なものも見たし、知らなくていいことも沢山知ったけど。
「色々ありましたし、色々言われていますけど、あそこはやっぱり、夢しかない職場ですよ。上手くは言えないですが、僕はそう思います」



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「じゃ、もう日本には戻らないんだ」
「まぁな」
 そっけなく答える旧友の肩を軽く叩き、植村直樹は「頑張れよ」とだけ言った。
 矢吹一哉。
 元キャノンボーイズのメンバーで、そしてJ&Mでは、取締役の一人に名を連ねていた男。
 成田空港の待合ロビー。
 あと数時間後には異国へ旅立つ盟友の目は、不思議なほど冷めている。
 黒いスーツを身にまとった男は、まるで今日が、自身の葬送であるような物憂さで、何本目かの煙草を唇に挟んでいた。
「プロードウエイのオーディション、受けるんだろ」
 隣に座る植村は、重ねて言った。
「やぶっちゃんなら大丈夫だよ、実力なら折り紙つきだ」
「…………」
 矢吹は無言で、薄い煙を唇から吐き出す。
 キャノンボーイズの解散を決めた時から、その目が何を考え、何を求めているのか、植村にはまるで判らない。
 ここ数年、国内での矢吹の仕事は殆どなかった。
 唐沢の犬だの、名ばかりの役員だの、社内では常に批判の的だった矢吹は、若い頃と少しも変わらない冷たい眼と、傲慢な態度を上にも下にも崩さなかった。それがますます反感を買っていたのだろう。
 本来なら、どこかの時点でJ&Mを解雇されていただろう、と、植村は思う。矢吹も、そして自分も。
 すでに会社の路線でもあるアイドルとは程遠い年齢、そして、仕事面でも、キャノンの解散以来、殆ど貢献していない。なのに、毎月のサラリーは、当時売れていたギャラクシーの緋川より上だった。年功序列といえばそれまでだが、そこに、それだけではない事情があったのを、植村も、そして矢吹も知っている。
「……後悔、してんだろ」
「なんの話だよ」
「いいよ、ごめん」
 苦笑して、植村は手にしていた缶コーヒーを口に含む。
 若かった。
 野心もあったし、将来の不安もあった。
 でも、その時背負った荷の重さが、ここまでとは思わなかった。
 どれだけ後悔しても、過去は絶対に戻らない。ただ、美波の前から逃げないことが、唯一の贖罪だと思った。多分、矢吹も同じだと、植村はそう信じている。
 決して投げ出すことが許されない荷物。
 それを今も、二人は背負い続けている。
「美波、彼女ができたみたいなんだ」
 それでも笑顔で、植村は言った。
「すごく可愛い子なんだ、……少し、愛季ちゃんに、似てるかな」
「…………」
「……また、三人で会えるよ、絶対」
「…………」
「絶対に、いつか……同じステージにたてるよ、三人で」
 何も答えない矢吹は、冷ややかな目を自分の膝に向けている。
 口にした植村もまた、それが、絶対にあり得ない夢だというのは判っていた。
 ふと、二人の前で、何人かの待ち客が足を止める。
 気づかれたかな、そう思って顔をあげた植村は、彼らの視線が、ホール中央の備え付けられたテレビに向けられているのに気がついた。
 大画面の液晶には、おなじみのワイドショーのアナウンサーが映っている。
「唐沢って、元J&Mの社長?」
「へぇ、なんの記者会見だろ、今さら謝罪でもすんのかな」
 立ち止まっている客の間から、そんな声が聞こえてきた。
 唐沢社長?
 植村は、思わず矢吹の顔を見ている。顔をあげたのは、矢吹もまた同じだった。
 唐沢社長なら、あれからずっと、行方をくらましていたはずだ。
 あくまで噂だが、残務整理の最中、社内でなんらかのトラブルが起きたとも聞いている。
「えー、ただいまより」
 ワイドショーの記者の声も、やや面食らっているようだった。
「元J&M社長、唐沢直人氏の緊急記者会見が行われる模様です。この会見は、今朝マスコミ各社あてに送られた一斉ファックスにより告知されたもので、一体どういった趣旨の会見なのか、全貌が一切判っておりません」



「会見の内容によっては」
 真田孔明は、椅子を軋ませて、背後の耳塚を振り返った。
「我が社の正式発表をそれにぶつけろ」
「よろしいので」
「そろそろ、潮時だ」
 準備は全て整った。あとは、舞台の幕を開けるだけだ。
「油断は禁物ですな」
 耳塚が背後で囁くように呟いた。金属がこすれあうような独特な口調。
「なにしろ、我々の計画が変更を余儀なくされたのも、あの女の手腕だといってもいいでしょうから」
「…………」
 真田は無言で目をすがめる。
 真咲しずく。
 ハリケーンズの頭脳だった、真咲真二のたった一人の遺児。
 父親に譲られたのは美貌だけではなかった、なみはずれた行動力と冷静な判断力、そして、本能的に核心を見極める勘の鋭さ。
 いかにして、静馬から真咲真二を引き離すか、ハリケーンズ全盛期、それに随分苦心したことが、どこか苦く思い出される。
「元々J&Mは、そのままの形で東邦の傘下に入るはずでした。それが、ニンセンドーの参戦で想定が狂った」
 耳塚の言葉を、真田は手をあげて遮った。
「まぁ、いい、うちはそれで、巨額の資産を手に入れたんだ」
 しょせん今となっては、なんら後ろ盾を持たない、利口なだけの小娘だ。
「それに、油断などはしていない」
 真田はいい差して、薄く笑った。
「唐沢が何を打ち出してきても、うちが出すニュースで吹き飛ぶだろう。それが想定したとおりストームの再結成なら、徹底的に潰すまでだ」
 揺さぶる要素はいくらでもある。
 将、君は本当に、それに耐えられるのかね。



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「本日は、お集まりいただきまして、誠にありがとうございます」
 静かな第一声から、その会見は始まった。
 押しかけた記者の数は、予想したキャパよりはるかに多かった。唐沢直人、引いては崩壊した旧J&Mへの関心の高さが伺われる。
 部屋の隅までぎっしりと記者で埋まった会見場。
「一体なんの会見なんだ」「まさか、しょうもないことで、わざわざ呼び出されたんじゃないだろうな」会見前は、そんな不穏な声も飛び交っていた。
 おそらく噂されているストーム再結成の否定会見だろう。それが大筋の見方だった。言ってみれば殆ど記事にはならない内容。が、集まった記者の大半の目的は、表舞台から失墜し、濡れ落ち葉になったかつての帝王――唐沢直人の、落ちぶれた姿を捕らえることにあった。
 その唐沢が入ってきた瞬間、どよめきと共に、一斉にフラッシュが瞬かれた。
 事故にでもあったのか、その片方の足は不器用に引きずられ、腕には補助杖がつけられている。しかし、そういった質問は一切受け付けないまま、定刻、冒頭の唐沢の挨拶から会見はスタートした。
「本日、私は、新しい芸能会社を立ち上げたことを、ここにご報告いたします」
 ひそやかなざわめきが場内に満ちる。
「会社名は、Jauny&MarverasWarldCorporation」
 早口で言われた横文字を、即座に理解できる者は誰もいなかった。
「略しまして、J&M」
 ざわめきの声が大きくなる。
「男性タレントを中心に、世の女性たちに夢と希望を与える、そんな会社にしたいと思っております」
 今にも飛び出しそうな質問を遮るように、唐沢はゆっくりと言葉を繋いだ。
「当社の初イベントは、今年の大晦日、東京ドームにおきまして、再結成したストームの復活コンサートを行います」
 おおーっと、怒号のような驚きの声が上がった。空気が一気に爆発した。
「冗談だろ」
「何いってんだ、この人」
「頭おかしくなったんじゃねーの」
 背後に控えていた片野坂イタジが前に出た。声を張り上げる。
「申しわけありませんが、時間がありませんので、質問は、端的に願いします!」
「ストームってどういう意味ですか」
 最初の質問が、最前列の女性誌記者から飛んだ。
「柏葉将はもちろんのこと、片瀬りょうも引退したと聞いていますが、彼らを含めた五人という意味ですか」
「ストームはストームです」
 唐沢の声は冷静だった。「今は、それしか申し上げられません」
「そういうのは、汚いんじゃないっすかね」
 だみ声が、記者席の背後から飛んだ。
 不思議に貫禄のある男だった。黒い皮のジャンバーに、灰色の癖が強い縮れ髪。
 注目を集めたその男の名前は、古い記者なら誰でも知っている。
 筑紫亮輔。
 かつて、マスコミのドンと呼ばれながらも、壇上に座る唐沢直人との確執に敗れ、表舞台から消えた男だ。
「柏葉の復帰なんてあり得ないのに、それをエサに昔のファン引っ張るわけですか、あんた、昔と何も変わってないね、唐沢さん」
 ストーム崩壊の引き金となった片瀬りょうの劇場型スクープ。それを仕組んだのが、この男だということは、すでに業界中が周知している。
 因縁の二人の対決に、フラッシュが再び激しく叩かれる。
「繰り返しますが」
 しかし、唐沢の表情は、微塵も動いてはいなかった。
「今年の大晦日、復活するのはストームです。誰であろうとその構成員であるならば、当然12月31日にドームに立つことになります」
「そんなバカな」
「冗談だろ、有り得ない!」
 驚愕、そして怒号。
「それで、反省してるっていえるんですか、あんな事件おこして、それですむと思ってるんですか!」
「あの事件で、どれだけ多くの企業が損害をこうむって、どれだけ沢山のファンが悲しんだか、その責任をどう考えてるんですか」
「無責任でしょう、あんた!」
「金になればそれでいいのか!」
「ストームの解散により、被害を被られた企業及び製作会社、スタッフ、出演者各社様には」
 唐沢は静かな、けれど譲らない芯がこもった声で言い、立ち上がった。
「幾重にもお詫びし、また、金銭にかえられるものではないと承知してはおりますが、私と、真咲取締役の個人資産をもって、十分な損害賠償をしたものと心得ております」
「じゃあ、ファンはどうなんですか」
「あんたら、ファンを裏切ったんじゃないか!」
「大変、申し訳ないことをしたと、私も含め、スタッフ、ストーム一同、猛省する日々です。けれど、これだけは申し上げたい」
 はっきりした 口調で言うと、唐沢は顔をあげた。
「我々は、夢を作る立場の人間です、だからこそ、ここであきらめてはいけないと思った」
 気おされたように、会見場が静まり返る。
「人間だから間違いはある、許してほしいとはいいません、だが、それを修正し、乗り越える若さと純粋さを彼らは持っています。その上で、どれだけ苦しくても、一人でも多くの方に夢と希望を与え続けることが、彼らの責務であり、反省の証だと思っております」
 片野坂が前に出る。
 それが、会見中止の合図だと悟った報道陣から、殺気ばしった空気がほとばしった。
 聞き取れないほど激しい質問の嵐が飛び交う。
 立ち上がった唐沢は、わずかな微笑を浮かべて、丁寧に一礼した。
「なお、本日の会見の模様は、当社と業務提携しております、株式会社ライブライフの動画コンテンツで全て公開する予定ですので、あらかじめご了承ください」
 仮に、悪意をもって映像に作為的な編集がなされても、これで、公正な判断を視聴者に求めることが可能となる。
「我々は、スタッフ及び提携企業を求めています。我々と志を同じくする方は、ぜひ、当社までご一報ください。よろしくお願いします」
 以上。
 怒号の中、会見終了。
 唐沢直人が、片野坂イタジに守られるようにして退室する。
 追いすがる記者の声を、扉を閉めて遮断する。
 控え室。そこに待機しているのは、インターネット関連のコンテンツだけに業務を縮小したライブライフ――なかば潰れかけた会社を、かろうじて生き残らせた社長、織原瑞穂。
「お疲れ様です」
「いえ、こちらこそ、これからよろしくお願いします」
 唐沢は丁寧に一礼し、まだどこか表情の硬い織原に手を差し出した。
「頼りにしています」
「それは僕の方が……いいんですか、僕らのような弱小企業が、なんのお役にたてるかどうかも判らないのに」
「もちろん」
 唐沢は笑った。
「なにしろ、これからは、テレビなど誰も見なくなる時代が来ますからね」
「………………」
 あっけにとられた目になった織原の目許に、ようやく笑みが浮かび出す。
 握手を交わした所に、真咲しずくが戻ってきた。
「すっごい騒ぎ、外」
「だろうな」
「かっこよかったわよ」
 差し出されたしずくの手の平を、唐沢は強く叩く。
「ざまぁみろ」
 唐沢は呟いた。
 騒ぐだけ騒げばいい、この激震こそ想定内だ。勝負は――その先にある。
「宣戦布告だ」
 この瞬間から、闘いはもう始まっている。
 
 

                27


「い、言いましたねぇ、唐沢社長」
 固まっていた大森が、こわごわと口を開く。
 ケイは無言で煙草を吐き出し、リモコンを持ち上げてテレビを切った。
 中継が終わったばかりのワイドショーのスタジオ、出演者のあっけに取られた表情が、この会見がもたらす反応の全てを物語っている。
 やがてそれは、冷笑に変わり、そして批判に変わっていくのだろう。
異常といっていいほどの報道陣の数に、まずケイは驚いていた。それは世間の、いまだ変わらないJ&Mへの関心の高さを意味している。
―――オール、オア、ナッシングか。
 世界はめまぐるしく動いている。これが、一年先であったら、さすがにここまでの注目を集めはしなかったろう。強烈なリスクを伴いはするものの、確かに反撃するなら今を逃せばチャンスはない。
 そのことを本能で、真咲しずくも柏葉将も判っていたのかもしれない。
「ま、これからが大変よ」
 呟いた途端、大森が眉をあげて立ち上がる。
「大変なんてもんじゃないですよ、何ひとごとみたいに言ってんですか、言っときますけど、その台風の目が、う、うちのビルに入ってんですよ」
「取材は、ビルの所有者の許可を得るということで、一社あたり十万で、どうでしょう」
「ゆうりさん!」
「まぁ、好きにして」
 うんざりしながらケイは立ち上がる。
 いずれにしても、すでに船は動き出した。
 もう、誰にも止められない。止まるときは――沈む時だ。
 コーヒーサーバーの所まで行った時、背後で扉が開く音がした。
「あ、はーい」
 大森の声。来客だろうか、カップにコーヒーを注ぎながら、ケイは先ほどの会見のことを考えている。
「……あの、」
 戸惑ったような大森の声。
 近づいてくる人の気配に、ケイは思わず振り返っていた。
 長身の女が一人、ゆっくりと室内を横断しているところだった。ベージュの上着に格子模様のスカート、髪は無造作なストレート、一見して銀行のOLさん……という感じだ。
 顔立ちは控えめ、これといった特徴もなく、美人ではないが清楚な人という印象がした。奇異なのはその表情だ、能面のような無表情、多分、この部屋の主たちののことなどまるで眼中に入っていない。
 女はケイの前を無言で横切り、締め切ってある会議室をものも言わずに押し開いた。
「ちょっ……あの」
 大森が慌ててその後を追っている。
 会議室を見回した女が振り返る、そして室内を一瞥し、今度はトイレに向かおうとした。
「悪いけど、水流れないよ」
 コーヒーを一口すすってから、ケイは言った。
「昨日から壊れてんの、今、上の階を臨時で使ってるけど、そっちでよければ」
「隠すつもりですか」
 妙に抑揚のない声で、女が言った。
 むしろ、感情をこめて言われるよりも、その口調は恐ろしかった。
「ここにいるのは判ってるんです、隠してないで、早く出してもらえないですか?」
 表情があれば、誰かに似てる、とケイは思った。誰だろう、でもその先が咄嗟にはでてこない。
「……ゆ、ゆうりさん、略奪愛はいけませんよ」
「えっ大森じゃないの?」
 ゆうりと大森が目と目を見合わせ、その視線が自然にケイに向けられる。
「もしかして、唐沢社長のかくし妻」
「ありえないでしょ!!」
 三人のやりとりを、女は人形にも似た冷ややかさで見つめている。
「てゆっか、名乗ってもらえないかな」
 気を取りなおして、ケイは言った。
「ここには三人しかいないし、見ての通り人が隠れるスペースなんてないからさ。一体あんたが、何勘違いしてんのかしらないけど」
「アソウといいます」
 女は言った。その目は、ゆっくりと、まだ室内を見回している。
「姉がここで働いているのは判ってるんです、別に会う必要もないけど、伝えておいてもらえますか?」
 ミカリ。
 ケイはようやく、女の表情に滲む印象に気がついた。
 ミカリの妹。顔立ちは似ていないけど、目許の印象がよく似ている。
「もう二度と、家の周りをうろうろしないでください」
 他人事のような声だった。
「二度と、父の前に姿を見せないでください」
「ちょっと、あのですね」
 口を挟んだのは表情を変えた大森だった。
 その時には、すでに女は肩をそびやかしている。
「あの人は家族の恥なんです、父の身体を思うなら、二度と家族の前に顔をみせないで、とお伝えください」
 ブーツのヒールの音が遠くなる。
 丁寧に扉が閉められても、ケイも大森も、一歩も動けないままだった。
「……ミカリさんの、妹……?」
「確か、実家は九州だったよ」
 では、ミカリは今、九州にいるのだろうか。
 ケイは目をすがめ、眉をしかめる。
「……お父さんの身体の具合が悪いって、そんなことも言ってたね、確か」
 戻ったのかもしれない。
辛い結果になると判った上で。
 不倫報道、親友の裏切り、会社解雇、堕胎、そして相手の結婚。
 たった一人で地獄の底にいたミカリを、絶縁した家族のもとに。
「それでも、ミカリにとっては家族なんだ」
 優しい子だから、恨んだことなど一度もなかったろう。
「ミカリさ、なんであんな変な名前で通してるか、大森は知ってる?」
「……え?」
 ミカリはずっと帰りたかったんだ。
 大好きな家族のもとに。
 多分、一度でもいいから、病床の父の顔を見るために――。



                28


「澪」
 少し驚いた風に振り返った恋人は、まぶしそうに目をすがめた。
 海風が黒い髪をなぶっている。海を背にしたシルエットの向こうに、夕陽がきらきらと海面に反射して煌めいていた。
「また写真?」
「うん」
 真白は笑ってファインダーを下げる。
「すごくきれいだったから」
「海?俺?」
「……夕日」
 俺って言えるところがすごいよね、そう思いながら、真白はもう一度カメラを構える。
「今度は俺が撮ってやるよ」
「いい」
「脱げなんて言わないからさ」
 笑う澪は、シャツをそのまま脱ぎ捨てる。スニーカーも脱いで、腰までのジーンズだけになる。カメラを無視して海の方に向かうその背に、真白は焦点を定めてシャッターを切った。
 綺麗に引き締まった腰回り、バランスのとれた長い足、片腕に脱いだシャツを持ったまま――その腕にほどよくついた筋肉の躍動、横顔から見える睫毛と唇、どれひとつとっても美しい。
 いくら日に焼けてもごく淡い褐色にとどまる肌は、背後の海の輝きを受け、燦然ときらめく真珠の結晶のようにも見えた。まるで――
 真白は、黙ってファインダーを下げる。
 まるで、この世の人ではないような。
「来いよ」
「やだ」
「来いって、真白が行こうっつーから、こんなとこまで来てやったのに」
 振り返った澪が、水をすくって掛ける仕草をする。真白は閉口してカメラを収めた。
「海、来年はちゃんと夏にいこうな」
 肩を抱き寄せられる。
 足首を濡らす海水は、もう夏の終りの冷たさだった。
「何度も誘おうと思ったけど、七生実さんが、真白は絶対水着なんて持ってないって言うからさ」
 実際に持っていない。
 真白は曖昧に微笑して、澪の腰に両腕を回した。痩せているようで、毎日鍛練を欠かさない腹部には、締まった腹筋がついている。
「花火大会もいけなかった、十代最後の夏だから、もっと色んなことしたかったな」
 その目が、少し寂しそうに遠くを見る。
 眼差しの先にあるものを測りながら、真白は澪の乱れた髪に指を入れた。
「今日、観た?」
 答えない澪の表情から、答えを察し、真白はその肩に頬を預ける。
「J&Mの……元の社長さんの」
「見てなかったけど、他の講師さんたちに内容は聞いたよ」
 その時間、澪は臨時で福岡のレッスンに呼ばれていた。
「ネットで、いつでも見られるみたいだよ」
「今夜にでも、見てみるよ」
 優しい声。
 真白の髪に、大きな手が当てられる。
 真白は目を閉じ、その優しさに心を委ねた。
 海風が静かにそよぎ、柔らかな静寂が二人を包んだ。砂浜に伸びる重なり合った影が、少しずつ暮れる空、灰赤色に滲んでいく。
 その影を見つめながら、真白は言った。
「すごい騒ぎだった……気のせいかもしれないけど、社長さん、まるでわざと会見場で喧嘩売ってるみたいな感じで」
 澪は何も答えない。
 真白が運転する車中で、妙に明るく、から元気をふりまいていた澪。
 その判りやすさが、時ににくらしくなる。澪の頭の中には、今はJ&Mのことしかないはずなのに。
「これからすごいことになりそうだけど、大丈夫なのかな」
 目を閉じて、真白は呟く。
 澪はその髪を撫で続けている。
「柏葉君や、東條君や……綺堂君、成瀬君」
 肩を抱かれて引き起こされ、額に唇が当てられた。
「大丈夫だよ」
 自分に言い聞かせるような声だった。
「将君なら、大丈夫」
「……うん」
「みんななら、大丈夫」
「…………」
「ドーム、行こうな」
 真白を再び抱き寄せながら、澪は言った。
「みんなの晴れ舞台、絶対に二人で観に行こう」
 不思議なほど、その気持ちが手にとるように真白には判る。
 澪は、逃げたくないと思ってる。
 逃げないことが、何もできない自分にできる、唯一のことだと思っている。
 これから最悪の窮地に立たされるであろうストームに、何もしてあげることができない澪ができる――唯一のこと。
「日が暮れる前に、戻んなきゃな」
 夕日が海に呑まれようとしている。輝きの残滓が、水平線に未練のように広がっている。
「……いいのに」
 真白は思わず呟いている。
「え?」
 届かない言葉に、わずかに笑って首を振った。
「なんでもない」
 腰に腕を回す、少し強く抱きしめる。
 私だけの澪。
 今は――私だけの澪。
「もう少しいようよ」
「いいけど」
 いたずらめいて笑った澪の手が、真白のシャツを脱がそうとする。
「やだ、何するの」
「だって泳がなきゃ」
「無理、風邪引いちゃう」
 ストーム。
 笑って身をよじりながら、真白の耳には、午後に観たテレビ、唐沢が記者会見で言っていた言葉がいつまでも残っている。
 人間だから間違いはある、許してほしいとはいいません、だが、それを修正し、乗り越える若さと純粋さを彼らは持っている。その上で、どれだけ苦しくても、一人でも多くの方に夢と希望を与え続けることが、彼らの責務であり、反省の証だと思っております。
 今年の大晦日、復活するのはストームです。誰であろうとその構成員であるならば、当然12月31日にドームに立つことになります
 復活するのはストーム。
 その構成員であるなら。
 その構成員であるなら――。

















 新生J&M(終)
 ※この物語は全てフィクションです。




 ミカリを追って九州へ向かう聡。けれどその心は迷い続けている。
 行って、どうなる。会って、どうする。
 一方福岡の澪の元に、思わぬ人が訪ねてくる……
 夢と恋愛は両立しないのか、聡と澪が出した結論は。
 次回「君の光になると信じて」お楽しみに。


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