指先で伝えたい8
十三
「え、マジでこんなもの着るの??」
差し出された向日葵色の着物を見て、真白は唖然、として尚哉を見上げた。
「どうよ、どうよ、演劇部から借りたんだけどさ、当日の売り子の衣装」
よほど嬉しいのか、尚哉はいつになく、いや、いつも以上に上機嫌である。
着物を広げ、それを戸惑う真白の肩に合わせてくれる。
「衣装って……タコ焼きマンの着ぐるみなんじゃ……」
「それは、ヤロー。真白は綺麗にしててくれればいいんだよ」
「…………」
真白は、少しだけ視線をずらし、斜め後ろで作業している、一年の集団を見た。
食券や、紙袋、ビニルケースなどを大慌てで整理している。
誓桐祭りは明日だった。
今日だけは早めに部活を切り上げて、校舎一階、一年生の教室を借り受けて、部員全員が明日の準備に追われている。
―――澪……休んでるのかな。
夕方、尚哉に呼ばれてしぶしぶ登校した真白だったが、内心では、澪と合う口実が出来たことで、すこしだけそわそわしていた。
あんなことがあって。
あの日――目もあわさず、会話もなく、逃げるように別れてから。
澪とは、まだ、一度も会っていない。
さすがに、尚哉に「片瀬君は?」とも聞けず、部員全員が気ぜわしく立ち働く中、他に誰かに彼のことを聞くこともできなかった。
―――とにかく……手伝わなきゃ、
ダンボールを避けて、足元のゴミを拾おうとした時だった。背中に、どん、と人の温みがあたる。
振り返って、ぎょっとした。副主将の荒神原始である。
ひょろり、と見上げても余りあるほど背が高く、肌色が蒼白い、寡黙だが、妙な迫力がある男。
じろっと三白眼の眼で真白を見て、荒神原はついっと顔を逸らす。その眼が、露骨に「部外者」―――と言っているような気がした。
さすがに嫌な気持ちになって、うつむきかけた時、
「……末永」
低いテノールの声で呼びかけられた。
真白は、強張った顔で、その声の主、荒神原を振り返る。
「……お前、一年の片瀬と、親しかったよな」
ほとんど白目じゃないか、と思えるほどの三白眼。肌色と同化してみえる薄い唇。
真白は、どう答えていいものか判らなかった。
「片瀬から何か聞いてないか、……煙草のことで、だが」
「…………」
はっとして目を見開きかけたとき、
「あれ、真白、来てたんだ?」
ふいに、背後から、聞きなれた声がした。
あ、と声がした扉の方を見ると、女子バスケ部の主将で、親友の七生実が立っている。前の入り口から顔だけ出し、ひらひら、と手を振っている。
七生実に手を振り返し、慌てて真白は振り返ったが、もう荒神原の姿はそこにはなかった。目で探すと、教室の隅で、三年の輪に混じってしまっている。
―――……なんだったんだろ、今の……。
「なおー、あんたのとこ、ガムテ余ってない?」
七生実のハスキーな声がした。
七生実は、教室の扉から半身を乗り出すようにして、尚哉に向かって手を振っている。
尚哉は、教室の後部で、机にビニルのカバーを被せている最中だった。
「ガムテ?ああ、誰か、取ってやれよ」
立ち上がった尚哉が、一年の集団に向かって声を張り上げる。
「ほんっと、面倒だよねぇ、毎年毎年、忙しい時期に」
七生実は、ひとり言のようにそう言うと、背を扉に預け、溜息まじりに肩をすくめた。
女子バスケ部は、毎年、手作りケーキとクッキーの店を開く。今、女子部の方も、作業が佳境なのだろう。
「ちょい、ここ、釘出てる、誰か金槌借りてこいよ」
「えーっ、さっきテニス部の奴らが持ってった、当分使うって言ってたけど」
一年生たちが言い合っている。ひょい、とその中に、足を踏み入れた七生実が混じって、しゃがみこむ。
「金槌なら、部室裏の倉庫にあったよ、誰か行って、取ってきたら?」
「は、……はぁ」
美人の七生実にのぞきこまれ、一年生たちは、どきまぎしているようだった。
「おい、ガムテ」
尚哉が、その前に立ちはだかる。
「サーンキュ」
と、立ち上がり、尚哉の手からガムテープを受け取って、そして七生実は、視線だけで、真白にちょっと、と手招きした。
丁度、所在ない思いをしていた真白は、少しほっとしながら、親友を見上げた。
「……何?」
教室を出て、頭ひとつ背の高い七生実の顔をうかがった。妙にいたずらっぽい、何かを企んでいるような眼をしている。
「……片瀬、一人で部室にいたよ」
七生実は、ちらっと教室の方を伺うと、声をひそめて、真白にそう囁いた。
「えっ……」
「ホントは、尚に言おうと思ったけど、あんたがいたからやめた。また一人でボール磨いてんの。そりゃ、ボール磨きは部活後の日課だけどさ、こんな日に、ちょっとかわいそうじゃない?」
さすがに、それには驚いていた。
「……なんで、そんな」
そう聞くと、七生実は、しっと目配せして、真白の背を抱いた。
祭りの準備のために、廊下は人で溢れていた。体育会系の部は基本的に何処も忙しいから、結局いつも、ぎりぎりになってしまうのだ。
「だから、荒神原とか、二年の連中がいじめてんじゃない?私が口だすとやっかいなことになるから……言えないけど」
そう言って、七生実はちょっと眉をしかめた。
「尚は、知ってるの?」
真白は呟いた。
「さぁ?……ま、知ってても、どうこういう奴じゃないしね」
それはそうだ。
「……どうする、真白」
―――どうする……?
真白は、戸惑って、上背のある親友を見上げた。
七生実の、その表情に、目線に、何か――含みがあるような気がするのは、気のせいだろうか。
「助けてあげないの?可愛い真白の後輩君を」
「……私が?」
そう言うと、ちょっと笑って、七生実は、ついと顔を上げた。
そのまま、元の教室に戻って、開け放たれた扉の前に立つ。
「ちょっとアタシ、倉庫に用あるから、ついでに金槌とってきてあげるよ」
少し離れて立つ、真白にも聞こえるほどの、大きな声だった。
「いいよ、もう暗いし、あんな寂しい場所、一人でうろつくの、危ないだろ」
尚哉の声だ。
「平気平気、校庭にはいっばい人いるから、じゃ、少し待っててね」
そう言って、平然と戻って来た親友に、さすがに真白は非難がましい眼を向けた。
「もちろん、行くのは、真白一人」
大きな唇で、七生実はにっと笑いを浮かべる。
「……ちょっと、どういうことよ」
「まぁまぁ、いいじゃない。ついでに顔くらい見てあげれば。だってかわいそうでしょ、片瀬君」
七生実は、そう言うと、先立ってすたすたと歩き出す。
その背中が、ふいに囁いた。
「……真白、そう言えば、煙草のこと、何か判った?」
「……あ、あれは……冗談だったみたい、で」
荒神原に言われた言葉を思い出し、真白は眉をひそめていた。
荒神原が知っている――ということは、……やはり、部内の誰かが喫煙している、ということなのだろうか。
それを言おうかどうか躊躇した時、
「もしかして、荒神原に何か聞かれた?」
七生実の方が、先にそう言った。
「えっ、七生実も?」
さすがに真白は、ただ驚く。
「……あいつさ、うちら女子部を疑ってるみたいなの……なんでだろね」
「……え?」
じぁあね。
七生実は、それだけ言うと、薄闇に包まれた踊り場に消えていった。
十四
部室があるプレハブ建物は、さすがに静まり返っていた。
校庭には煌々と照明が灯り、校舎にもまだ、活気が滲んでいるのとは対照的だ。
普段は逆で、校庭も校舎も真っ暗な中――部室だけが、ほんのりと明りが灯っているのが常なのに。
真白は、少しだけ距離を置いて、二階を見上げた。
確かにバスケ部の部室から、微かな明りが漏れている。全ての体育会系の部が使う建物だが、電気がついている部屋はバスケ部だけだ。
―――あそこに……澪が……?
一人きりでいるのだろうか。
今さらだが、それは――いくらなんでも、不自然な気がした。それでも、確かに電気だけは点いている。
少し考えてから、最初に裏の倉庫に行ってみることにした。
ここに来た、そもそもの目的は金槌を探す事だ。
裏手には、校庭の明りが少しだけ延びていた。壁に沿って進み、角を曲がった時だった。
「真白さん」
「―――!!」
背後から声がして、ぎょっとして立ちすくむ。
正直――心臓が止まるかとさえ思っていた。
その真白の反応を見て、声をかけた相手もまた驚いている。
「……びっくった……、なんだよ、幽霊でも見たような顔して」
振り返らなくても声だけで判ったが、校庭の照明が仄かに差し込む中、薄闇から滲み出てきたのは、やはり澪だった。
白い半袖のシャツに、学生服のズボン。眉をひそめ、ポケットに手をつっこみながら、歩み寄ってくる。
「か、……片瀬君こそ、なんだって、こんなとこに」
「……ま、色々」
薄く笑う。その笑い方に、単に説明するのが面倒だという以上の含みがあるような気がして、真白は、わずかに眼をすがめた。
「みんな、あっちで作業してるよ」
「……知ってる、今から行こうと思ってたから」
「…………」
なんだろう。
少し距離を開けたまま、立ったまま動かない男。
さすがに、薄気味悪くなり、真白はその横を通り過ぎようとした。
「黙ってて」
通り過ぎる間際、澪が低い声で囁いた。
「……え?」
―――黙ってて……?
「あいつ」
ひょい、と親指を立てる澪。
その――先に、白い人影が滲んでいる。
倉庫の前。立ったまま、こちらに軽く会釈する女。
すらりとしたシルエット、長い脚。長い髪。
一目でそれが誰だか判り、真白は足を止めていた。校内にちょくちょく入ってくるとは知っていた。でも――まさか、こんな時間に、こんな場所で。
「……煙草、吸ったのあいつなんだ……丁度この辺で、二人でいた時、……それ、三年の荒神原さんに見られちゃってさ」
初めて聞くような、言い訳がましい声がした。
「…………」
「つか、荒神原さん、こいつには気づかなかった……俺が、咄嗟に倉庫の中に閉じ込めたから」
「…………」
真白は眉をひそめながら、自分の足元を見つめた。
つい先ほど、荒神原に言われた言葉。
(―――片瀬は、何か言ってなかったか、煙草のことで)
七生実の言葉。
(―――荒神原、うちら女子部を疑ってるみたいなの、なんでだろね)
真白が黙ったままでいると、澪は所在なげに、自分の髪に指を絡めた。
「……その時の罰としてやってる、……ボール磨きも、体育館の掃除も」
「じゃ……片瀬君が吸ったことにされてんの」
「…………」
澪は、さすがに決まりが悪いのかうつむいている。眼もあわせないままだ。
「……それ、いつ」
真白は、無感動な声で聞いていた。
「え……?」
澪が不信気に顔を上げる。
「いつ……荒神原君に、それ、見られたの」
「…………終業式」
真白はようやく理解した。
澪が――夏休み、連日部活に出ている理由も。
一人だけ掃除やボール磨きをさせられて、三年の誰もがそれを黙認していた理由も。
そして――あの日、ふいにキスされた理由も。
「……で、懲りずに、また彼女と倉庫にいたわけだ、二人で」
真白は聞いた。だから、あの時、煙草が床に落ちていて、澪は、それを慌てて隠そうとしていたのだ。
澪はもう応えない。
「ねえー、もういい?まだ帰れないの」
甘ったるい声がした。
東京の彼女。
校内中が知っている噂だったし、真白も見たことがある女。その声は、外見を裏切るように子供じみていた。
「もう少し……悪い、先行ってて」
澪は、振り返りもせずに言う。
「……いっけどー」
白とピンクのキャミソールに、黒っぽいミニスカート。
長い髪を煩げに払いながら、女は挑発的な眼で、真白を見上げつつ、通り過ぎていった。
「じゃ、いつもんとこで待ってるから、アタシ」
それだけ言い捨て、女は闇の中に消えていった。
「……よく、来てるの」
「…………」
「なんで、わざわざ校内で会うの?莫迦じゃない?」
澪は、それには応えずに自分の髪に指を絡める。
真白はうつむき、胸に込み上げる、不可解な感情を振り払った。
「私……倉庫に、探し物、」
「俺、取ってきてやるよ」
「いいよ、別に」
棘のある声が出た。
それが――妙に気恥ずかしくて、無言のまま、澪の横をすり抜ける。
「怒ってる?」
背中から、澪が追ってくる気配がする。
「なんで私が怒るのよ!」
「…………」
「…………」
薄闇に包まれ、距離を開けて立つ男の表情が判らない。
「……あっちいってよ」
こみあげる憤りで、息も苦しいくらいだった。
―――結局澪は、
誰にでも、ああいうまねが出来る男なんだ。そうなんだ。
倉庫に入り、手探りで電気を探す。見つからなくて、苛々と探す。その手を覆うように、澪の腕が伸びてきて、指先からわずか先の電気のスイッチを押してくれる。
またたいて灯る電灯。
澪の顔を見たくなくて、それより早く眼を背けていた。
「……何、探してんの」
「…………」
無視。
真白は無言で、足元のダンボールやガラクタを踏み分け、壁際の棚に眼を向ける。
「……言えよ、大抵の場所なら判るから」
入り口の方から、澪の声。
「そうよね、ここでいつも彼女と会ってたんだもんね」
「……じゃなくて、こないだ俺、そこ整理したばっかだから」
さすがに、その声はあきれたものを含んでいた。
「…………」
何で、ここで、私が腹を立ててるんだろう。
何で、こんなに悔しくて、情けないんだろう。
気がつくと、真白は立ち止まったまま、自分の足元を見つめていた。
「……あいつとは、東京にいたころ、……一回だけ、遊んだことあって」
「…………」
一回、だけ。
その言い方が妙に、躊躇っていて、それは、単に遊ぶという言葉どおりの意味よりもっと、深いものを含んでいるような気がした。
「あいつも当時はモデルやってて、……俺が事務所辞めたから、……心配して来てくれたんだろ、別に彼女とかってわけでもないし」
「…………」
「俺も、寂しかったから……つか」
その声が苛立っている。
「こういうこと、言い訳する必要、ある?」
「…………ない」
うつむいたまま、真白は呟いた。
「ないから、……あっち、行って」
もっと、最低だ。
再び棚に視線を向けながら、真白は暗い気持ちでそう思った。
まだ、彼女って言われた方がマシだった。澪は――そんな風に、好きでもない子と。
デートでもキスでも、それ以上のことでも、平気でできる男なんだ。
まだ、澪は出入り口に立ったままでいる。
「金槌、どこ」
背を向けたままで、真白は聞いた。
「……その棚の……上から三段目。引き出しの中」
「…………」
「真白さん、」
ふいに、男の何かが切れたような、そんな思いつめた声がした時だった。
「片瀬、お前……何やってんだ、こんなとこで」
意外そうな声が、それに被る。
真白は、はっとして振り返っていた。
「……真白……?」
入り口を覆う大きな影。声は、尚哉のものだった。