指先で伝えたい7 




                 十一


―――なんにしても、これってイジメ入ってるんだろうな。
 と、黴の匂いに閉口しながら、真白は思った。
 部室裏にあるこの共用倉庫は、基本的には誰も掃除などしない。
 真白も、女子バスケ部に丸二年いたが、一度も入ることはなかった気がする。たまりにたまった埃と湿気が、それを何より雄弁に物語っている。
 片瀬澪に、看板書きと同時に掃除を言いつけたのは、副主将の荒神原ではなく、どうやら二年生の控え組みらしい。
 一年のほかの生徒は、夏祭りの買出しに出てしまって、三年と尚哉たちレギュラーは、練習試合で他校に行ってしまったようだ。
 結局、澪が一人で、厄介な仕事を任せられている。
―――これ、ほっといていいのかな……。
 と、箒を持ちながら真白は考えていた。
 荒神原に抗議しても無駄だろう。
 尚哉は、基本的には、こういう人間関係には無関心だから、気づいても、問題になるまでは気にも留めない。
 他の一年の顔色で、なんとなく真白にもわかった。手伝うな、と言われているのだ。
「…………」
 不思議なのは、何故、澪のようなプライドの高そうな男が、そんな嫌がらせを諾として受けているか、ということなのだが――。
 暗い奥から、箒でゴミを掃き出していく真白の傍らで、澪も、同じように箒を動かし続けている。
 かすかな――ハミングが聞こえる。
―――歌……歌ってんのかな……。
 澪は、少なくとも、この掃除を嫌々しているのではないのだろう。ようやく、真白は少しだけほっとした。
「軍手、もう一個持って来ようか」
 澪が、ふと気づいたように言う。真白は素手だったが、澪は両手に軍手をつけていた。
「女なのに、気にならない?俺、やだけどなー、リングとか爪が痛むのは」
「……別に、」
 半ばあきれてそう返しつつ、この子は、やっぱり、普通の感覚とは違うんだな、と真白は思った。
 そう言えば、看板を書く時も、軍手を嵌めていたことを思い出す。
―――アイドル、か……。
 身体と顔、それが澪にとっては唯一の武器であり、資本なのだ。それが、芸能人というものなのかもしれない……。
「ん……?」
 ふと、真白は手を止めていた。
 明るみに出てきたゴミの中に、
「……片瀬君」
「んー」
「……ちょっと、……」
「なんだよ」
 不信気に眉をひそめ、澪が傍に寄ってくる。
 真白は、まだ真新しい煙草の吸殻を指差した。
「……ああ、」
 澪の眉が、わずかに上がる。
「……こないだのアレ、冗談って言ったよね」
「…………」
 澪はそれには答えず、無言で軍手を外し、それで吸殻を包み込んだ。
 不安を感じ、真白は重ねて聞いていた。
「ねぇ、マジで、うちの部の人じゃないよね」
「知らないよ、……不安なら、唾液から調べてみたら?」
 興味なさそうに澪は肩をすくめる。
「なによ、それ」
「よく刑事ドラマとかであるじゃん、煙草についた唾液から、本人かどうか、確認するの」
「そんなの、できるわけないじゃん」
 何を無責任なこと言ってんだろう、と、さすがにむっとした。これが、万が一教師に発見されたら、このプレハブに部室がある、部全体が疑いを持たれることになる。
「……あ、待って」
 澪が投げ捨てようとしたそれを、真白は軍手ごと奪い取ろうとした。
「よせよ、汚ねぇな」
「なんか、口紅ついてた気がした、もしかして、女の」
 その手を、ふいに掴まれていた。
 それがあんまり急だったから、真白は、何が起きたのか、咄嗟に理解することができなかった。
「……俺なんだ」
「え……?」
 きつく掴まれた手首。煙草が軍手ごと足元に落ちる。
「実は俺、俺が吸ったんだ、コレ」
 真白は、驚くほど近距離から、自分を見下ろす男を見上げた。
 暗くて――澪の表情が判らない。
「……嘘、」
「確認する?」
「どうやって」
「唾液」
 一瞬意味が判らなかった真白は、ただ、間の抜けた瞬きを繰り返した。
「…………」
 腕を掴む手の力が強くなる。なのに、不思議なくらい、脚も手も動いてくれない。
 顔が。
 くらくらするほど綺麗な眼が、呼吸が触れるほど間近に寄せられる。
「……大丈夫」
 吐息が唇に触れる寸前、男の唇が囁いた。
 真白はただ、顎を引く。
「……目、つむって」
 そこからの数秒が、まるで永遠のように長く感じられた。
―――っ……。
 言われるまでもなく、間近に迫った顔を見る事ができなくて、きつく目を閉じていた。
 ようやく動いた肩――というより、澪に押されて、そのまま背後の壁に押し付けられた肩。手も脚も、硬直したように動かない。
 冷たい唇が、自分の唇に、強く押し当てられている。
―――マジ?
 まだ、今の状況が信じられない。
 マジで私、この子と……キスしてるの?
 心臓が、轟音を立てている。胸が殆んど密着しているから、その鼓動を、多分、澪も感じている。
 澪の前髪が、自分の額に触れている。微かに甘い、柑橘系の香。
―――キスって……。
 目も、手のひらも、同じように思いっきり閉じながら、真白はそう思っていた。
―――こんなに……怖かったっけ、こんなに、ドキドキするものだっけ。
 肩を抱く腕が、そのまま滑って、腰に回される。
 引き寄せられて、キスは、今度は少し角度が変わって、触れ方が優しくなった。
―――ちょ……。
 真白は戸惑って顔をそむけた。
 こんなのは、初めてだ。尚哉はいつも強引で、貪るように吸い付いてくる。痛くて、で、悪いけど気持ち悪い。
 でも、澪のそれは全然違う。
 柔らかく唇を包まれて、その生々しい感触に、心臓が締め付けられそうになる。
 自分の足から、どんどん力が抜けていく。身体の底の方から、不思議な感情が滲み出てくる。
 澪が、ようやくわずかに唇を離した。
「……口、開けて」
「…………」
「それじゃ、わかんないだろ」
「…………」
「大丈夫、怖くないよ」
 首を振る、横に振ったのに――でも、次の瞬間、少し強く割り込んでくる唇に応じてしまっていた。
 初めて澪のキスが荒々しくなった。
「……、……っ」
 頭の中が白く霞む。
 抵抗する代わりに、真白は澪のシャツを強く掴んだ。そうしないと、体ごと崩れてしまいそうな気がした。
「……も……やだ」
 これ以上、こんなキスを続けたら。
「も……わかったから」
 もう、後には戻れなくなる。もう、澪と、今まで通りの関係ではいられなくなる。
「わかったって、何が」
 それでも、澪はやめるつもりはないようだった。
 再度被さってくるそれを、真白は拒むことができないままに、受け入れる。
「……真白さん」
「や……澪……」
「澪って、呼んだね」
 額をあわせ、澪は不意打ちのように笑みを浮かべた。
「ずっと、そう呼んでてくれた?」
「…………」
 そのまま、唇が塞がれる。
―――私……
 だんだん、何も考えられなくなっていく。
―――何やってんだろ、こんなとこで……こんな奴に……
「……真白さん……キス」
「…………」
「……上手くなった……判る……?」
 真白は首を横に振った。が、決して、一方的にされているわけではない、という自覚もあった。
 尚哉の時は――あんなに嫌で、早く終わって欲しいとさえ思っていたキスなのに。
 澪が身体を寄せてくる。真白は顔を背けたが、指で頬を抱かれて引き寄せられた。
「もう……やだ」
「大丈夫」
「お願い、許して、……やだ」
「……大丈夫」
 キスを続けながら、澪は囁くように繰り返す。
「怖くないよ」
 背中を撫でていた手が、腰のあたりに下がって行く。スカートに裾にかかって、それから。
「……やだ……澪……」
 涙で目が潤む。瞬きをすると雫が溢れ、初めて澪の動きが止まった。
 顔を離した澪が、わずかに息を引くのが真白には判った。
 そんなにひどい顔になっているのだろうか。真白は片手で涙を拭って顔を背ける。
「……ごめん」
 低い声がした。黙っていると、澪はもう一度、同じ言を繰り返した。
「いいよ、……私だって、悪かったんだから」
 いやだ、と言いながら、真白ははっきり拒否することなく、澪のなすがままになっていた。
 さっきもそうだ、尚にされた時は、胸を衝いて逃げ出したほど嫌だったのに。
 怖ささえなければ、あのまま身を任せていたのかもしれない。あのまま――もっと澪の鼓動と吐息を感じていたかったのかもしれない。
 私……どうしちゃったの。
 もう澪の顔が見れない。この先二度と、まともには見れないかもしれない。
 そう思うと、引き結んだ唇が震える。
 今日、この刹那、自分の中で何かが変わってしまった気がした。永遠に、取り返しのつかない何かが。
「ごめん……」
 澪の呟きは、どこか掠れていた。
 真白は、ただ、首を横に振った。
 むしろ、自分の涙を見て傷ついた澪の心を、慰めてあげたかった。澪を拒絶したわけじゃない――それを伝えたくて、そっと細い腰に手を回した。
 まるで壊れ物でも扱うように、澪もまた、真白を抱いて引き寄せた。
「もうちょっと……こうしてたい、……もう、少し」
 初めて聞くような、心もとない声。
―――澪……
 真白は否定も肯定もしないまま、ただ、身体の力を抜いた。
 ため息のような――男の呼吸が聞こえる。その髪を抱き、ごく自然に真白は撫でた。



                十二


―――あれ……って、なんだったんだろう。
 こたつで、ぼんやりと頬杖をつきながら、信じられないな、と真白は思った。
 まだ、信じられない。
 昨日――部室裏の倉庫で起きてしまった出来事が。
 テレビの中で、激しい喚声と嬌声を浴びながら踊っている男。
 熱狂する観衆。手に手に蛍光塗料で名前を書いた団扇と、そして、ペンライトを持ち、必死で声を出している女の子たち。
―――アイドルねぇ……。
 真白が肘をつくテーブルの上には、手付かずの蜜柑の山とともに、DVDのケースが置いてある。その表面には、きちんと印字された文字で、
『片瀬りょうくんスペシャル』
「…………」
 ちょっと、腰が砕けてしまいそうなタイトルだった。
 無論、販売されているものではなく、姉葉月の友人の手で、スペシャル編集されたものらしい。
 どういうタイトルをつけようと勝手だが、くんってのは、ないだろうと思う。
―――いや、いいんだけどさ……。
 画面で、メインに映っているのは、アイドルグループSAMURAI6である。
 去年、大阪アリーナで行われたコンサートを収めたもので、小気味よいビートに乗って、歌い、踊る6人のバックで――。
 白い上下の衣装を着て、数人の線の細い男の子たちが、踊っている。
 上の服は、ひらひらのすけすけで、汗で張り付いた素肌が、結構エロティックである。
 で、その中に――澪がいる。
 細い手足を精一杯のばして、思いっきり笑顔を振り撒いて。
 さんざめく光の渦の中、降り乱れる団扇には、「賢」とか「準」とか「ピースして豪」とか、様々な文字が煌いている。
 それが、バラエティやドラマに出てくる「SAMURAI6」のメンバー、市原賢、岡村準、高沢豪のことだと、もう真白でも知っている。
 実際夏休みに入って数日で、真白は結構アイドル事情に詳しくなってしまっていた。
 コンサート会場の遠景。ぎっしりと埋まった観客、ほとばしるライトとスモーク、激しいビート。怒号にも似た喚声。最前列で握手され、感極まって泣いている女の子。
 汗で、額に張り付いた髪。殆んど半裸で、そして、笑顔で会場中に手を振っている男の子たち。ステージを駆け回り、バク転し、通路を通って会場中を巡り歩く。クレーンで、二階席にもサービスしている。
 こんなに激しく踊って、動いて、無論、歌なんてまともに歌えるわけはない。口パクだというのは、素人にも判る。でも――。
「…………」
 観客の熱気が、興奮が、感動が、画面を見ている真白にも伝わってくる。
 何故か――ふいに、胸が苦しくなっていた。
 こんなにも、沢山の女の子たちを熱狂させ、嘘だとわかっても、夢を見させてあげる仕事。
 もしそんな仕事に――好きな人がついてしまったら。
 ふいに澪の顔が、アップになる。
 茶色い髪は、今とは別人のようにふわっとしている。
 笑顔――今なら何となく判る。それは、無理しているのとは、少し違う。
 多分、澪は、本当に楽しんでいるのだ、と真白は思った。
 本当に――この仕事が好きなのだと。
 この世界が、澪のいるべき場所なのだ。
「…………」
 ぱつん、とテレビを消していた。
 そのまま、テーブルの上に、頬を寄せる。
 あの日の出来事。それは絶対に――尚哉にも、七生実にさえ言うつもりはないけれど。
 ひとつだけ、どうしても真白には不可解なことがあった。
「…………」
 はぁ……。
 何度目かの、憂鬱で、それでいて恍惚にも似た溜息が溢れ出た。
―――別に、
 別に、あんなことされたくらいで。
―――あいつのこと、好きになったわけじゃ、ないんだけどな……。






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