指先で伝えたい4





                 四


「ふぅん……ふたまたねぇ」
 話を聞き終わった瀬戸七生実は、そう呟いて眉根を寄せた。
「どう思う?二つも年下の子供にさ、なんだって私、あんなこと言われなきゃいけないわけ?」
 中味を飲み干した紙カップを握り締め、真白は腹立ち紛れにそう言った。
「あいつさ、端から自分が断られるなんて思ってないの、超自信過剰。ばっかじゃないの?」
「……さぁ、……まぁ、いいんじゃない」
 しばらくあっけに取られたように黙っていた七生実は、ようやくそう言うと、意味ありげに、にっと笑った。
 目も鼻も、輪郭も繊細で小作りの七生実だが、唇だけが、それを裏切って不自然に大きい。その唇を差し、以前尚哉が「七生実さんの口って、妙にエッチだよな」そう言っていたのを思い出す。
「いいってなによ、……それに、何がおかしいのよ」
 真白はさすがにむっとした。
 七生実は、高校一年の夏にこの町に転校してきた。以来、ずっと親友で通しているし、どんなことでも相談してきた。なのに、その七生実が、……真白のことを一番よく理解しているはずの親友が、今、場違いに楽しそうに見えたからだ。
「だって、真白が、他人のことで、そんなに興奮してるのって初めてだから」
「……は?」
「尚には、犬みたいに従順なのにね」
「…………」
 そ、そんなものかな、と真白は思った。
 確かに、尚哉には逆らえない。性格の悪さも我儘なのも全部わかって、それでも――尚哉からは、なんとなく離れられない。
 多分、それは子供時代の、尚哉にいじめられた経験が、トラウマになっているからだろうな、とよく思う。
 その時からしみこんだ主従関係。それが今でも消えていない、という感じなのだ。
 唯一 ――それでも、真白が強情に拒んでいるのは、セックスだけだ。それだけは、どうしても気持的に受け入れられないままでいる。
 退部した真白に変わって女バスのキャプテンになった七生実は、すらりとした長身と、肩までのストレートヘア――そして、驚くほど繊細な顔をした美少女だった。ただし、口だけが、くっきりと大きい。
 性格もさっぱりして、何事も相談しやすい。で、おまけに結構経験豊富だったりする。
「あ、今夜、ご飯食べに来なよってお母さん言ってたよ」
 ふと、今朝母に言われた言葉を思い出し、真白は言った。
 真白の実家は定食屋で、―――そして七生実は母子家庭である。あまり詳しくは聞いていないが、母親は夜の仕事で、七生実は、大抵一人で夕食を食べているらしい。
「ん、サンキュ、でもいいよ、今夜は彼氏とお約束〜」
 性格が男まさりで、あっさりしている七生実は、自分の母親のことや、境遇を、しめっぽく話すことは絶対にない。
「今度は誰よ」
「ひ、み、つ」
 東京から転校してきた七生実と、地元育ちの真白。
 高校に入ってからの付き合いだが、同じバスケ部ということもあって、不思議とすぐに仲良くなった。
 どこから見ても美人で完璧な七生実は、その気になれば、女王のように振舞ってもおかしくないのに、性格は意外に控えめで、目立つことを極端に嫌う。「友達なんて真白以外にはいらないよ」、といつも冗談めかして言ってくれるし、真白にしても、一番――居心地のいい場所だ。七生実の隣に座るのは。
 今日も二人は、いつものように、昼休憩、校舎裏のベンチでジュースを飲みながら、食後の時間を過ごしていた。
 話のついでに、真白は昨日の――片瀬澪とのいきさつを話してみたのだ。
「いいっていうのはさ、あれよあれ、ふたまたって意味」
 紙コップをくしゃっと握り締めた七生実は、にやっと笑いながら、そう言った。
「……ふたまた?」
「そう、尚哉と片瀬、年下の可愛い僕ちゃんズ」
「――――はぁ??」
 唖然として、顎が落ちんばかりに口を開けていると、七生実は心からおかしそうに笑い出した。
「いいじゃん、いいじゃん、そういうのもスリルあって。どうせまだ、尚と一線超えてないんでしょ」
「……そ、それとこれとは」
「あんたはさー、まだ心が子どものままなのよ。頑なっつーか、がちがちに閉ざしてるっつーか」
 大きな、そして尚哉の言う通り、どこかセクシーな唇が近づいてきて、こん、と額を指先で弾かれた。
「キスの時の歯と同じ、ぎゅって強く噛んだまま、相手を受け入れようとしてないの」
「……そ、そんなこと」
 ぎょっとして周囲に視線を向ける。そんなこと、そんなに大きな声で言わないでよ、と思う。で、なんだって、そんなことまで、七生実は知っているんだろう。
 真白の動揺ぶりがおかしかったのか、七生実は、さらに目を細くして微笑した。
「言っとくけど、片瀬の方が、尚よりしっかりしてるかもよ」
「……何よ、それ」
「ま、後腐れなさそうな相手だし、遊んでもらうには最適なんじゃない?いいチャンス……だと思うな、私」
「……チャンスって何よ」
「尚とのこと」
 七生実はすらっと立ち上がり、テーブルの上に置いてあった空のランチパックをダストボックスに投げ込んだ。
「真剣に考えてみるいいチャンスってこと。片瀬と遊んでみれば、尚のいいとこ、……嫌なとこ……どっちも、はっきり見えてくるかもしれないでしょ」
「…………」
「いつまでも、中途半端ってのは、よくないと思うな、あたし」
「中途半端」
 真白は、ただ、繰り返す。
「そうよ、男って、案外怖いこと考えてるからね、甘く見てると、マジでやられちゃうよ」
 七生実の眼が、少しだけ真剣になっている。
「…………」
 真白は口ごもり、さすがに黙った。
 尚哉のことは嫌いじゃないけど――あの行為だけは、やっぱりまだ、受け入れられない。
 二人きりになるのを、露骨に避けているのは、そのせいだ。
 最近の尚哉の目が、妙に怖いと思うのは、多分、自分が無意識に抱いている罪悪感のせいだろう。尚哉が――色んな意味で限界を感じていて、ふたりきりになれば、途端にセックスに思考を持っていくのも知っている。
 そして、それをはっきりと拒否しない真白の態度を、七生実があまりよく思っていないことも知っている。
 真白も、自分の態度がよくないとは判っている。が、どうしても、きっぱりと嫌とはいえない。
 休憩時間が、もうじき終る。二人して階段を降りていると、校門の方から校舎裏の駐車場に向かって、一台の黒塗りの車が走りこんでくるのが見えた。
「片瀬パパじゃん」
 と、その方を見ていた七生実が呟いた。
 真白もつられて、停められた車の後部座席から降り立つ黒服の男を見た。
 遠くてよく判らない、が、時おり、こんな風に校内に滑り込んで来る高級車。それが、片瀬澪の父親のものだと言うことは、校内の誰もが知っていることだった。
「すごいよね、名誉理事だかなんだか知らないけど、東京で事業失敗しても、こっちじゃ殿様扱いなんだから」
 七生実が、彼女らしい辛らつな口調で言う。
 スーツに包まれた長身が、校舎の方に消えていく。
 この町では誰でも知っている大きな船会社の次男坊だという男は、美貌の息子を持つ親らしく、遠目から見ても非常な美丈夫に見えた。
「性格悪いに決まってるよ」
 真白は、自分の父――始終魚ばかりいじっていて、荒れたがさがさの手に、海のにおいが染み付いた父のことを思い出していた。食事処末永、とボディにプリンされたバンで、いつも魚河岸に出かけていく父のことを思い出していた。
「息子があんなだもん、親だって、性格悪いに決まってる」
 その理不尽な憤慨ぶりを悟ってか、七生実はくすっと大人びた笑みを漏らす。そして、ひとり言のように呟いた。
「……ま、可哀相な奴だとは思うよ」
「誰が」
「……ひとりぼっちで転校してきて、家のことも過去のことも、何もかもみんなに知られてるっての、どんな気持ちなんだろね」
 片瀬澪のことを言っていると知り、真白は少し驚いていた。
「……別に、このへんの近所の人のことなら、誰だって知ってるじゃん」
 自分のことだって知られている。町内でも有名な定職屋の娘、姉一人。尚哉にしても、父親は魚河岸の人で、一人っ子。
 狭い町――小学校から一緒だった学友の情報なら、大抵全員が共有している。
 意味が判らず、瞬きを繰り返す真白の額を、七生実は、いたずらっぽく、指で弾いた。
「ま、地元育ちのあんたには判んない感情よ」
「何よ、それ」
「気にしない、気にしない」
 あっさりと七生実は笑い、そして、少しだけ真面目な眼になって、視線を空の方に向けた。
「なんにしても、喫煙って話だけは、穏やかじゃないわね」
「え……ああ、うん」
「片瀬のはったりってこともあるけど、どこから出てきた情報か――それと、対象が誰なのか、はっきり特定する必要はあるかもね」
「ま……そだよね」
 去年、剣道部が、一年生の喫煙で、半年の活動自粛に追い込まれている。校則は緩い方だが、今年から職員室まで禁煙になったこともあり、喫煙に対する締め付けはかなり厳しい。
 いずれにしても、部内に喫煙者がいるならば、事前になんとかしなければならないことだけは確かだった。
「私も、女バスの連中にそれとなく聞いてみるよ。だから真白も、色仕掛けで聞き出しな」
「うん…………はっ?」
 うっかり素尚に頷いて、はっとして顔を上げた。
「あはは、なんだか面白くなってきたねぇ。真白が尚とつきあいだした時は、まさか、って思ったけど、こんな楽しい展開になるとは思わなかったなー」
 七生実はそう言って、愉快そうに目をすがめた。


                 五


―――何が楽しいんだか。
 そう思いながら、真白は、前を歩く男の背中を見つめていた。
 一学期最後の週末。
 日曜の朝、まだ九時にもならない時間である。
 だらだら歩く真白の前に、片瀬澪の背中がある。
 尚哉よりは背が低い――ま、尚が高すぎるから、比べるのもなんだけど……。
 考えるともなく、そんなことを思っていた。
 肩のラインは繊細で、腰も折れそうなくらい細い。
 アイドルタレントとしてはそれでよくても、こうして背中を見ていると、男としては、なんとも頼りない体型だと思う。
 足は、とにかく長い。で、これぞさすが芸能人……と思うのだが、脛が、女性のように滑らかで綺麗だ。ユニフォーム姿の時もそう思った。もしかして永久脱毛でもしてんじゃないの。と疑ってしまうほどに。
「休みの日でも、制服着るんだ」
 それまで黙っていた、その背中がふいに言った。
 休日に、学校以外の場所で、今日、初めて待ち合わせして会った男。
 トップはカットソーと、ヘンリーの白シャツを重ね、ボトムはダークブラウンのワークパンツを穿いている。素足にトングタイプのサンダル。
 あまり流行に詳しくない真白にも判る。多分―――結構おしゃれな服なのだと思う。
 黒い髪が、潮風に揺れていた。のびた襟足。無造作に散らしているようにみえて、きちんと計算しつくされたヘア。右手の指に、シルバーの指輪が光っている。
「悪い?休日の外出は制服なの。校則でそう決まってるから」
 真白は、不機嫌なことを隠そうともせずに、そう答えた。
 何を着ようか迷うのも面倒で、少し意地悪い気持ちで制服を選んだ。
 デートしようよ……と言い出した男が、何処に自分を連れて行くつもりか知らないが、狭い田舎町、安っぽいセーラー服は、嫌な意味で、よく目立つ。
 自分が、男の立場だったら、こんな女、連れて歩きたくないだろうな――と、真面目に思う。
 が、
「驚いた、そんな規則、守ってる奴がマジでいるんだ」
 振り返った片瀬澪は、今日会って、初めて微笑をみせてくれた。
 不愉快どころか、むしろ、楽しげな目をしている。
 商店街を抜け、気がつくと駅は目の前だった。普段は、比較的賑やかな駅前繁華街だが、日曜日の早朝、定休日の看板ばかり出ている通りは、閑散として人気がない。
 歩いているのは、澪と真白の二人だけだった。
 駅――片瀬澪の目的地は、どうやらこの駅らしい。
「まさかと思うけど、電車乗るの」
「うん」
―――マジ?
 まさかこんな女を――澪みたいな男が、遠方まで連れ歩くとは思えなかった。
 何処へ、とも聞けないまま、仕方なく真白は後について歩く。歩きながら、あ、この辺で……そう言えば見たな、と思っていた。
 片瀬澪と、東京の「彼女」という派手目の女性が寄り添って歩く姿を。
―――何考えてんだろ、この子。
(―――今日一日つきあって、)
 それが昨夜電話をくれた澪の要求で、真白は、それを了解した。それと引き換えに、喫煙者の名前を教えて貰う事になっている。
「そっかぁ、校則しらない後輩君に、親切に教えてくれてんだ、真白さん」
 先を行く背から、からかうような声がした。
「昨日聞いてりゃ、俺も制服で来たんだけどな、ざ〜んねん」
「…………」
「制服デートってのも悪くないよね」
 その声は、なんだか本気で楽しそうだった。逆に、真白の戸惑いだけが大きくなる。
―――わかんない、こいつ、一体何処まで、本気なんだろう……。
 駅に着くと、澪は当然のように、切符を二人分買って、それを一枚投げてくれた。
 行き先を見て、真白は眉を寄せていた。
「……こんなとこまで、何しにいくの」
「デートって、何するわけでもないでしょ、ただ一緒にぶらぶらするだけ」
「……だったら近所でいいじゃない」
 駅にして七駅分。時間にして一時間。殆んど県境にある町が、彼の買った切符の行き先だった。
「だめだなぁ、真白さん、肝心なこと忘れてる」
 ホームで煩げに髪を払いながら、澪は楽しげに苦笑した。
「真白さん、ふたまたしてんだからさ。……こういうの、誰かに見られて噂になっちゃまずいっしょ」
「…………」
「だから、早い時間に待ち合わせしたのに……判ってなかった?」
 それは―――本当に判ってなかった。
 というより、ふたまたなんて、そんな気が最初からないから、意識さえしていなかった。
 確かに、これを尚哉が知ったら、どうなるだろう。今さらながら怖くなった。あの直情型の尚哉が知ったら、絶対にただではすまない気がする。
 真白としては、尚哉に頼まれたことの延長として、澪につきあっているだけのつもりだが、もし……そうは取ってもらえなかったら。
「それより、本気なんでしょうね」
 電車に乗り込みながら、真白は半信半疑で男を見上げた。
 尚哉なら、話せばわかってもらえるだろう。当面の問題は、喫煙のことだ。
「今日一日つきあったら、」
「部活にも出るし、喫煙情報も開示するよ」
 真白の言葉を奪うように、澪が続ける。
「あ、そうだ、誓桐祭りの手伝いなんかも出てもいいかな」
 それがあんまりあっさりしている。
「……言っとくけど、」
 それがあまりあっけないので、返って不信になって、真白は男から目をそらした。
「……エ……は、絶対に、やだからね」
「え……?」
「……エ、……は、エ、よ」
 唇が上手く動いてくれない。
 こんなセリフも、七生実なら、さらっとかっこよく言えるんだろうけど、経験のない真白には、ものすごい抵抗がある。
 ふいに、澪が吹き出した。
「はいはい、判ったよ、エ、ね、エ」
「マジで判ってんの?」
「それはもう、――俺、基本的に無理強いは苦手な人だから」
「…………」
 疑わしい。
「信じられない?」
 からかうような声でそう言い、澪は、空席だらけの座席に座った。
「……脅迫まがいのやり方で誘ったくせに……」
 立ったままの真白が、恨みがましく呟くと、
「そりゃそうだ」
 男は、あっさりと笑顔になった。
「あれには俺も驚いてるよ」
 そして、まだ笑みの滲む横顔を車外に向けた。





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