指先で伝えたい3




                 二



 ボールが……。
 綺麗な放物線を描いて、ゴールポストに吸い込まれていく。
 と、見えて、わずかに中心をそれ、枠に当たって弾かれる。
―――ああ、惜しい。
 真白は思わず、拳を握っていた。
 さっきから、ずっとそんな調子だ。何度繰り返しても、フリースローは一球も入らない。
 下手なのかな……フォームは綺麗なのに。
 そう思いながら、ようやく休憩時間も終わりに近いことに気がついていた。
「……片瀬君」
 声をかける。
 多分―――体育館の出入り口に見物人がいることを最初から知っていたのか、振り返った男の目に驚きはなかった。
「……誰」
 冷めた口調。ぽんっと片手でボールを掴み、軽く放り投げては、またキャッチする。
 実際――あらためて間近で見ると、片瀬澪とは、本当に綺麗な顔をした男だった。
 無造作にカットされた目立つほど黒い髪。
 殆んどの生徒がカラーリングしている中で、彼の黒髪はひどく綺麗で、凛とした美しさがあった。
 が、見惚れていたのは一瞬で、すぐに真白は憮然とした。
 誰――ってのはないと思う。
「誰って、……覚えてないかな。片瀬君、部室まで案内したの私なんだけど」
 そのせいで、妙な役目を頼まれる羽目になったのだから。
「ああ、真白さんね」
 が、澪は、にっこり笑ってそう言った。
 誰、と聞いたくせに、苗字でなく名前を呼ぶ。真白は一時言葉に詰まった。
「覚えてるよ、俺、美人は忘れない性格だから」
「…………」
「三年二組の末永真白さん、元女バスのキャプテンで、今は男バスのマネージャやってる人」
「……やってないよ、時々手伝ってるけど」
「そう?でもみんな、そう思ってるよ」
「…………」
「唐渡君が、自分の彼女を、マネージャー代わりに使ってるって」
「…………」
 なんだろう、この子は。
 妙に……その喋り方が挑発的だと思うのは、気にしすぎなのだろうか。
 それに――唐渡君?
 尚哉のことを、今、この子、そうは言わなかったろうか。
「で、その人が俺に何の用」
 センターサークルに立ち、彼はそう言ってドリブルをはじめた。まるでボールと遊んでいるような頼りなさで、ゴールマウスの下まで進んで――すうっと腕を伸ばす。
 カンッ、と硬い音を立てて枠に弾かれたボールは、そのままバウンドして真白の足元に転がってきた。
「……超ヘタなんだね」
「部活入んなきゃ、内申に響くんだろ。ヘタだよ、だって初心者だから」
「ふぅん……」
 初心者というフォームでもないけど……。
 そう思いながら、ボールを拾い上げ、それをゴールポストの下に立つ男に投げ返す。
「ひゅっ、強肩」
 口笛と共にからかうような声が返ってきた。
 が、そのパスを受けた澪は、即座に身体を反転させ、見事なフォームで伸び上がり――ようやく、シュートを成功させた。
―――なんだろう、この子。
 たまたま偶然決めた、というには、フォームが洗練されている。上手いのか、下手なのか判らない。
「で、何の用?部活なら、出ないよ、俺」
「…………」
「唐渡君に頼まれたんだろ。今の真白さんの立場って、マネージャー?それとも唐渡君の彼女?」
 なんだろう、この生意気な口の聞き方は。
 というより、先輩の尚哉のことを、さんではなく君づけで呼ぶ事がもう信じられない。
 少しだけ腹が立っていた。
「どっちもよ、唐渡君の彼女でもあるし、臨時マネージャーでもあるのよ、私は」
 実のところ、幼馴染で、どうしても「彼」という認識のもてないままの尚哉のことを、こんなに開き尚って口にしたのは初めてだった。
 しかも、自分で言っておいてなんだが、臨時マネージャーってのは、なんなのだろう。
「……靖国参拝したどっかの首相みたいな言い方だね」
 初めて彼はかすかに笑った。
 そのまま真直ぐに見つめられ、真白は、すこし、ドキっとしていた。
 目が綺麗だ。芸能人は目が命――って、どっかで聞いたことがあるけど、そうなのだろうと確かに思う。くっきりと切れ上がった形良い目に、黒目がちの瞳。じっと見つめられると吸い込まれてしまいそうな――なまめかしさと、男らしい爽やかさを絶妙に湛えた眼差し。
「どうして……唐渡、君が」
 その視線に戸惑って、顔を背けながら、真白は言った。
 男は、小馬鹿にでもしたように、かすかに笑う。
「無理して他人みたいに呼ばなくていいよ、普段は尚って呼んでるんだろ」
「…………あなたにこだわるのか知らないけど」
「出店に、女の子いっぱい呼びたいからじゃない?」
「…………」
 ボールを拾い上げ、片瀬澪は、再びそれを投げ返してきた。
「……そんなわけないじゃん」
 きれいに、胸元に落ちてくるボール。それを再び、真白は彼に投げ返した。
「だって、顔しかとりえないし、俺」
 ボールを受け取って――澪は、初めていたずらめいた顔になった。
「唐渡君のセックスって上手?」
「…………」
「結構、可愛い声出すんだね」
「…………」
 そのままの姿勢で、真白は凍り付いてしまっていた。
 そして、即座に理解した。わかった。昨日の放課後、男バスの部室で――見ていたのは、こいつだったんだ。
「俺さー」
 足元でドリブルをしながら、澪は冗談でも言うような軽い口調で言った。
「人の女、取るのが大好きなんだよね。特に唐渡君みたいなオレ様っていうか」
 言いさして微かに笑う。
 他人を見下した嫌な笑い方だった。
「プライドの固まりみたいな人から、大切な彼女取ったら、愉快だろうな」
 もう限界、と真白は思った。昨日、あんな所を見られたのだと思うと、無償に怒りが込み上げる。無論、それは理不尽な感情だとは判っているが、どうしようもない。
―――もう知るもんか、こんな奴。
「出ないんならもういい、言っとくけど私、あんたが部に出ようが出まいが、興味ないし、一応義理で話ししただけだから、じゃ」
「待てよ」
 振り返ると、再度胸元にボールが飛んできた。
 条件反射でそれを受け取る。
「真白さんがゴール決めたら考えてもいいよ」
「は?」
「夏の部活、……それでここまで来たんでしょ」
「…………」
 ボールを投げ返そうとした真白は手を止めた。
「ワンオンワンって……言いたいとこだけど、邪魔はしないから」
 どうぞ。
 からかうような口調で言うと、男はおどけた所作でゴール側に手をむける。
「…………」
 少し黙って、真白はボールを足元に転がした。
 澪がわずかに眉を上げる。その目が、なんで?と言っている。
「バスケやめたの、私、だってもう足が動かないから」
「……ケガのことは知ってるけど……別に、フツーに体育とかはできるんでしょ」
「後輩君、悪いけど勝ち目のない賭けはしない主義なんだ、私」
 真白は――生意気な後輩の口調を真似て、そう言い捨て、そのままきびすを返していた。


                  三


 なんだか、妙にむしゃくしゃしていた。
 校舎裏。
 真白は、共用洗濯機から出したユニフォームを一枚一枚広げながら、紐をかけた即席の物干し竿にひっかけていた。
 唯一のマネージャーが今年卒業して、今の男子バスケット部には、まだ、マネージャーのなり手がない。
 大抵は、一年がその代役をしているようだが、なんとなく、尚哉に請われるがままに、真白が臨時マネージャーをやらされているのである。
 悔しいけど、片瀬澪の言う通りで、真白のことを、最近では誰もが、正式な男バスのマネージャーだと思っているようだった。
 真白は受験を控えている、少なくとも手伝うのは一学期一杯の約束だったし、夏休み中には新しいマネージャーを見つけてよ、とは、いつも言っているのだが……。
「ああ……なんだろ、むかつく」
 思わず口に出して呟いていた。
 原因は判っている。片瀬澪。今日の昼休憩、生意気な後輩にからかわれたことだ。
 ただ、どうしてこうも苛立ちが収まらないのか、その理由は自分でもよく判らない。
「真白さん」
「なによ」
 振り返らずに答えてから――手を止めていた。
「ちは、後輩君です」
「…………」
 横目で伺うと、信じられないことに白のノースリーブのユニフォームを着て――片瀬澪が立っていた。
 すらりとした長身で、驚くほど均整がとれているのが、薄いユニフォームだとよく判る。
 むきだしの肩にも、脚にも、意外なほど滑らかな筋肉がついており、肌は、女性のそれのように綺麗に透き通っていた。
 あらためて……真白は、彼が普通の一般人とは違う存在なのだと、思っていた。
 こうして立っているだけで、見えないオーラを発散しているように見える。
「手伝おうか、どうせ暇だし」
 澪はそう言うと、ひょい、と手を頭の後ろで組み、そして歩み寄ってきた。
「結構です、せっかく着替えたんなら、さっさと体育館に行きなさいよ」
 が、その言葉も嫌悪を露わにした横顔も気にならないのか、澪はさっさと洗濯物を取り上げる。
 綺麗な長い指に、大きめなリングが光っていた。
「もう、いいって言ってるじゃない」
「俺さー」
「その、さーっていうのやめて、苛々するから」
「あはは、そんなこと、田舎のおやじがよく言うよね、方言抜けない奴のコンプレックス?」
 澪は明るく笑い、背後からのぞきこんでくる。
 さすがに――心の底からかちん、ときていた。
 無視、無視、と真白は自分に言い聞かす。
「ねぇ、今時茶髪がだせーって知ってる?」
「…………」
「こっちの奴ら、そろいも揃って髪色、ガンガンに抜いてんだよね。一昔前の流行、必死になって追ってやんの。そういうのってさー、すっげ、うざい」
「…………」
 こいつ、本当に最低だ。
 そう思いながら、真白は自分の作業に没頭した。勝手に手伝わせて、さっさと終わらせてしまえばいい。
「唐渡君さー、次の主将候補なんだって?」
 その言葉もやりすごした。
「今の主将が唐渡君気に入って推してるみたいだけど、副主将の荒神原君、彼、唐渡君のこと、嫌ってるよね」
「…………」
 さすがに一瞬、手が止まりかけていた。
 副主将の荒神原始。
 真面目を絵に書いたような男は、入部当初から尚哉のことを嫌っていた。 
 三年の間では有名な噂―――が、荒神原という寡黙な男は、そういった感情を表に出すような人間ではない。
「今の一年がだらしないのは、二年がしっかりしてないからだって……怒ったんだろ、荒神原君」
「…………」
 全く部活には出ないくせに、どこでそんな噂を聞いてきたのだろう。
 真白は、眉をひそめながら、手だけは洗濯物を干す作業に没頭するふりをした。
「……だから唐渡君、必死になってんのかな。だらしない一年って俺のことっしょ。俺みたいな奴を上手く操縦して、上級生の受けをよくしようって腹?」
「…………」
「で、いつも都合のいい時、真白さんを利用する唐渡君は、今度も真白さんに頼んだんだ」
 判ってるんだ――。
 と、真白は、そこでようやく、洗濯物を持つ手を止めていた。
 片瀬澪は、尚哉の本質を見抜いている。
 闊達でいかにもリーダ的に見える尚哉の本性が、実は結構軽薄で自己中だということを、見抜ける人はあまりいない。
 副主将の荒神原は、真白もよく知っているが、年の割りには大人びた、そして潔癖のきらいがあるほど生真面目な男である。だから――荒神原だけは、鋭い目で尚哉の本質を見抜き、そして嫌っているのだろう、と内心真白は思っている。
「……なんで、そこで、頼まれるのが私なのよ」
 真白は思わず呟いていた。
「さぁ?それは俺も聞きたいけど」
 背後の澪は、どこか笑いを含んだ声で言う。
「…………」
 意外と、頭のいい子なんだな、と思ったら、自然に言葉が溢れ出ていた。
「あなたねぇ、とにかく……その君づけはやめなさいよ」
「片瀬です。澪でいいよ」
 意を得たり、とばかりに、にっこりと澪は笑う。
「よく、みおって呼ばれるんだけど、りょうって読むから、当て字だけどさ」
 そう言って、するするっと距離を詰めてきて、真白の手から洗濯物を奪い取る。
「真白さんは……ましろ、面白い名前だね」
「…………」
 真白はようやく、近づきすぎた距離に気が付いた。
 ぷいっと顔を背ける。そう、こいつは嫌な奴なんだ、と言い聞かす。話しても、結局は腹が立つだけだ。
「髪、きれいだね。それだけで合格。俺、茶髪の子って好きじゃねーから」
「…………」
―――とは、思ったものの。
「……ねぇ、そう言うあなたは何様なのよ」
 なのに、悔しくて、やっぱり口を開いてしまっていた。
「……なんの話し?」
 澪は、きょとん、と瞬きをしている。
「何にも感化されないオリジナルな人間ってわけ?その髪型って、片瀬君が考え出したわけ?世界のどっかで流行り出したものを、たまたま東京の人が早く仕入れて、それが後から広がってくだけじゃない、エラソーなこと言わないでよ」
「………まさかと思うけど、……髪の色のことで怒ってんの?」
「あんたみたいな何も知らない他人に、この町の人のこと、とやかく言ってほしくないよ。……ごめん、言い過ぎたかもしれないけど」
 これが自分の気弱なところだな、と思いながら、真白は続けた。
 激情にかられつつも、あ、言い過ぎだ……という、後悔にも似た思いが別のところから湧いてくる。相手は、自分より二つも年下なのに。
 驚くほど綺麗な顔をした男は、ちょっと吃驚したような目をしたまま、しばらくの間無言だった。
 それからふいに相好を崩し――冷たい、作り物のような仮面を壊して爆笑した。
 真白は、今度こそ本気で吃驚していた。
「なっ、なんなのよ、そこで笑う?普通?」
「いや……ごめん、ごめん、」
 澪は――笑いすぎて咳き込んでいる。普通、ここまで笑うものだろうか、いや、笑うところだろうか。
「……だって、そんなとこで、怒ってたとは思ってもみなかったからさ」
 そんなとこって、どういう意味だろう。
「真白さん」
 知らない。
「あれ?マジで怒っちゃった?」
 もう――完全無視だ、それしかない。
「ねぇ、真白さんってば」
「うるさい、もうあっち行ってよ」
「ねぇ、真白さん、俺と唐渡君、ふたまたかけてつきあってみない?」
「…………?」
 言葉の意味が判らなくて、思わず、手を止めてしまっていた。
「俺、あんた気に入っちゃったよ、もっと深く知りたくなった」
「…………」
 何言ってんだろう。
 振り返ると、澪は、真白の手にしていた洗濯物を取り上げて、ぱんぱんとはたいた。
「悪い取引じゃないと思うよ。引き換えに部活でるくらいじゃ弱いから。……俺が握ってる秘密と交換……ってのはどう」
「…………は?」
 男の手が洗濯物を干す様を見ながら、ただ眉を寄せていた。―――なんの話だろう。意味が全く判らない。
「それとも、唐渡君のためにそこまでする?……俺とつきあってくれたら、部活くらいいくらでも出てあげるよ」
「……莫迦言わないでよ」
 交換って、なんの話だろう。
 そう思いながらも、男から目を逸らし、ようやく空になった籠を持ち上げた。
 澪が干したそれが、最後の一枚だった。
 無視したまま歩き出すと、当然のように澪はついてくる。
「俺さー、」
「だからさーは、やめなさいよ」
「結構裏話に通じてんだよね。どうでもいいと思ってたけど、こんなとこで役に立つとは思ってもみなかった」
「……それ、だから、なんの話よ」
「バスケ部の部員で、喫煙してる奴がいるって知ってる?」
「…………」
「俺も中学の時、少しはまったから、判るけどさ。あれってなかなかやめられないんだよね。俺が今、学校にチクったら、どうなるっしょ」
「どうなるっしょ」
 動揺を抑え、真白は澪の口調を真似た。
「やりたきゃやれば?……悪いけど私には関係ないから」
「はは、真白さん以上に、俺にはもっと関係ないから」
 澪は笑って、真白の手から洗濯籠を取り上げた。
「じゃ、言いま〜す。先輩の許可得たんで、目撃者の子も知ってるし」
「…………」
「これで部活は無期限停止?せいせいするなー、練習出ろって煩く言われることもないしー」
「……ちょっと」
「顧問に言えばいいのかな、それとも生活指導にしとこっか」
「ちょっと!」
「おっと」
 伸ばした手は、あえなく空ぶる。
 洗濯籠を高く持ち上げた男は――真白を見下ろして、微かに笑った。
「こういう時同じ部って好都合だね、電話番号、名簿見れば簡単に判るから」
「…………」
「また連絡するよ、じゃあね、真白さん」
 ぽんっと、胸元に籠が落ちてくる。
 それを抱いて――去っていく男の背中を見ながら、
「冗談でしょ、」
 真白は茫然と呟いていた。




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