指先で伝えたい 2
一
「え?は?ちょっと待って、な、なんだって私が」
末永真白は驚いて声を上げた。
今、耳にした言葉が信じられなかった。
「頼むよ、真白」
ぱん、と手をあわせる大柄な男の顔を、ただ、唖然として見上げてみる。
男は――子供の頃からよく知っている一つ年下の生意気な後輩は、合わせた手のひらを離し、にっと笑った。
一応、真白の「彼氏」ということになってる、唐渡尚哉。
S県の県庁所在地にある県立誓桐高校。その校庭のはずれにある、二階建てのプレハブ建物。
男子バスケット部は、その二階の一番外れにあった。
真白がそこに寄ったのは、男子バスケット部に所属する後輩、そして先月から「彼」になった男、唐渡尚哉に携帯で呼びだされたからである。
狭い部室で、素っ頓狂にあげた真白の声に驚き、隅の方で日誌をつけていた一年が驚いて振り返っている。
―――あ、やば……
真白は、さすがに恥ずかしくなって視線を伏せた。
強引な尚哉に呼ばれ、再々出入りしている真白は、もうこの部ではマネージャー扱いされている。が、正式な部員ではないから、やはり、どこか所在無い。
そして、本当の意味で、尚哉が「彼」かどうかは判らないと、真白は内心思っている。はっきり返事をしないまま、思い込んだら引かない後輩に、既成事実を重ねられ続けた――という感じだ。
「俺、助けると思ってさ、あの莫迦と話してやってくんないか」
尚哉はそう言って、もう一度手を合わせた。
あの莫迦――。
片瀬澪。
今年の5月、東京から転入してきて、バスケ部に入部した一年生のことである。
最初、「みお」と読むのだと思ったら、澪と書いて、読み方は「りょう」、と読むらしい。
「幽霊部員ほっとくなんて、他の一年に示しがつかねぇじゃないか、あいつが部に出るよう、お前から話してやってほしいんだよ」
「だから、なんだって私が」
「お前、元女子部のキャプテンだろ、ちょっとは後輩の手助けしろよ」
「……それ、なんの関係があるのよ」
ちょっと閉口し、苦い気持ちで真白はうつむいていた。
確かにその通りで、つい数ヶ月前まで、真白は女子バスケ部の主将をしていた。
この春三年になった真白は、一足早く退部を決めた。
三年が退部するのは、だいたい秋のはじめだから、仲間がまだコートで闘っている中、主将である自分一人がひょい、とリタイアしたことになる。無論、それには理由があった。
「とにかく片瀬には、早く部に馴染んで欲しいんだよ」
真白が黙っていると、尚哉は熱心に言葉を繋げた。
コンクリート敷の狭い室内には、ロッカーと折りたたみ椅子しかなかった。 夏の初め、窓も扉も開け放してあるが、それでも汗が滲むほど暑い。
尚哉は、その簡易チェアに腰を下ろし、思案げに腕を組んだ。
うつむくと日焼けした浅黒い顔に、影のような暗さが滲む。
この、一つ年下の尚哉と真白は、小学校のバスケ部時代からの腐れ縁で――
そして、この強引な後輩に、昔から真白は逆らえなかった。
だから、返事をはっきりできないまま、ずるずる、今に至っているのかもしれない。
今は……それを少し、真白は後悔しているのである。
「でも話すって何を……、私、あの子のこと余り知らないし、話したことも殆んどないのに」
それを言うと、尚哉は不満気に片眉を上げた。
「そんなこと言うなよ、そもそもお前が、この部室に、片瀬を連れてきたんじゃないか」
「またそれを言う」
「なかなかいい感じで話してたろ。責任取れよ、お前が入部させたも同然だからさ」
笑いを含んだ、悪戯っぽい目で見下ろされる。
それは――たまたま、職員室で会った顧問教師に頼まれただけなのだ。 バスケ部に入部希望の転入生を、部室まで案内してやってくれと。
真白はそれを口にしかけて、そして溜息と共に飲み込んだ。
いったん言い出したら聞かない尚哉と、ついついその強引さに引きずられる、優柔不断な自分。
(なぁ、真白、片瀬にさ、夏の間部活に出るよう、話してみてくれないか?)
尚哉が、一体何の意図でこんなことを言い出したのかは知らない。
が、小学校の時から変らないその関係に引きずられ、結局は引き受けることになるんだろうな、と、思っていた。
※
片瀬澪は、今年の五月、いきなり東京の高校から転校してきた一年生である。
誓桐高校では、学則で部活参加が義務付けられている。
片瀬澪もまた、学則に従って、バスケ部に籍を置く事に決めていたようだった。
「そもそもお前が、この部室に、あいつ連れてきたんだろ――」
と、尚哉が言う通り、確かに、顧問教師に頼まれるままに、この部室に転入生を案内したのは真白だった。
片瀬澪。
職員室で引き合わされたとき、実は真白は、真面目に言葉をなくしてしまっていた。
正直、戸惑うほど綺麗な顔をした男だと思った。
大きな瞳の殆んどが黒目である。
影のある眼差しに、白く透き通った肌。
少し癖のある黒髪に、バランスのとれた長い手足。
東京からの転校生と聞いたが、確かに田舎には絶対にいないタイプの、――言ってみれば、頭の天辺からつま先まで洗練され、一部の隙もないような男に見えた。
が、その一見完璧な美貌には、不思議なほど覇気がなかった。
部室にたどり着くまでの何分か、真白は、背後をついてくる男に、あれこれ話し掛けてあげた覚えがある。
返答は、あー、とか、はー、とか、溜息のような声ばかりで、振り返ってみても、端からバスケなどやる気のなさそうな目をしていた。
案の定、学則どおり入部届けを出して三ヶ月、七月になった今でも、まだ数回しか部に顔を出したことがないらしい。
が、片瀬澪。
時節はずれの転校生の噂は、あっという間に狭い田舎町に広がっていった。
単に転校生、そして人目を引く美貌の持ち主ということだけが、その理由ではなかった。
真白はまるで知らなかったが、片瀬澪は、転校前の東京で、一時、テレビ出演や雑誌のグラビアなどの、いわゆるタレント活動をしていたらしいのだ。
(J&M事務所にいたんだって、すごいよ、それってマジアイドルじゃん)
(あれでしょ、Galaxyとか、貴沢君のいる……じゃあ、あの子ってJams,キッズだったんだ)
(結構有名でさ、テレビとかにもレギュラーで出てたってきいたけど、なんで辞めちゃったの?)
(お父さんの会社が倒産して、それで、こっち戻って来たんだって)
そんな華やかな経歴もあってか、一時は、町中が注目していた片瀬澪。
が、当の本人は、そもそも最初から、田舎の人間などには興味がないようだった。
男子内では常に孤立していて、話し掛ける女子には見向きもしない。
結局のところ、都会から来た元アイドルは、この田舎町の人間を莫迦にしている――今ではそれが、周囲の者の共通の認識になりつつある。
(――あんな態度で、よくボコにされないな、と思うけどさ、あいつの実家が船元で、東京から戻って来たオヤジが、この学校の名誉理事だろ?だから、みんな遠慮してるんだろうな)
尚哉は、冗談まじりにそう言っていたが、確かに小さな港町、生徒の親の大半は、地元住民で、何らかの形で漁業に従事しているのが実情である。
そんな校内で、彼の家が古くからの名士で、大きな船会社を経営している――というのは、何よりも強い後ろ盾なのだろう。
五月に転校してきて、もうすぐ三ヶ月。来週には夏休みが始まる。
片瀬澪は、この町の人間に無関心のようだし、この町の人間もまた、彼に無関心になりつつあった。
※
つまり――要するに、その片瀬澪に、
「何故部活に出ないのか」
「在籍しているなら、夏休みは真面目に部活に出るように」
と、説得する役目を、何故だか真白が頼まれているのである。
「唐渡、いつまでも話してないで、とっとと体育館に集合しろ!」
と、部室にふいに顔を出した男バスの副主将――真白と同じクラスの荒神原が、苛立った声でそう言って出て行った。
が、「はい、すぐ行きます」と返事をしたものの、まだ、尚哉は、椅子から立ち上がろうともしていない。
塾の時間を気にしつつ、真白も仕方なく、まだ尚哉と向き合ったままでいる。
「部活ももちろんだけど、今年の誓桐祭りさ、……どうしてもあいつに、参加してほしいんだよな」
渋面を作った尚哉はそう言い、伸びかけの前髪を手で払った。
「ほら、いい機会だろ、出店の準備なんかもあるし、一年同士が仲良くなるにはさ」
「誓桐祭りねぇ……」
真白は呟く。
誓桐祭り――とは、その名のとおり、誓桐高校主催の夏祭りのことである。
毎年七月最後の日、校庭を借り切って行う、生徒会主催の、ちょっとした学祭のようなもの。
学祭と言えば聞こえがいいが、どちらかと言えば、町内会の関与が大きく、目的は地域振興と貢献――つまり、町内の夏祭りを学生が手伝う――という感覚に近い。
そんな場所に……あの都会の空気を絶対脱がない気取った男が、来るはずがないと思う。
「やっぱ、無理だよ、夏休みだしさ……ほら、あの子、東京に彼女いるんでしょ」
真白がそう言うと、
「ああ、そういや、ちょいちょい来てるよな、妙な女が」
と、尚哉も思案気な顔になった。
片瀬澪の、東京の彼女。
それも、もう校内では公然の噂だった。
信じられないが、校内などにも平気で入り込むらしく、もう、学校中がその存在を知っている。
「……ま、なんつーか、とにかく頼むよ、あいつだって同じ一年の連中と仲良くなれば、部に出やすくなると思うしさ。何事もきっかけなんだよ」
きっかけ、と尚哉は最もらしく繰り返す。
思わず真白は溜息を吐いた。
「………尚って、そんなに部員思いの性格してたっけ…」
元来がオレ様の尚哉は、基本的に、他人にあまり関心がないはずだ。
案の定、尚哉は、あっさりと頷いた。
「俺、多分、今年の秋から主将になるんだ。それもあるしさ、一年、びしっと締めときたいんだよ、一人だけ無断で休んでる奴がいたら、しめしがつかないだろ」
「…………」
「な、」
手を合わせ、再度じっと見上げられる。
はぁ、と真白は再度溜息をついた。
「……どうして、自分で説得しないのよ」
「だから〜、最初の時、真白といい感じで話してたじゃないか」
「……それはねぇ」
「俺のカン、あいつ、真白に興味持ってるよ」
「…………」
「でも、浮気はゆるさねーから」
尚哉らしい、独りよがりで勝手な理屈だと思っていた。
まいったなぁ……と思いながら顔を上げると、部室の中、さきほどまで隅の方で話していた一年生の姿が消え、いつの間にか二人きりになっていた。
「…………」
ちらっと尚哉を見る。
ようやく真白は、尚哉が部活時間ぎりぎりまで、話を続けていた理由を理解した。
「……とにかく、私、……今日は塾で、急いでるから」
やばい……と思って、即座に背を向けようとした。
「待てよ」
が、それより早く立ち上がった尚哉は、素早く周囲を見回して、そして再び、視線を真白にぶつけてくる。
悪い予感が的中したのを知り、真白は一歩、後ろに下がった。
「……やだ」
「いいだろ……みんな体育館行ってるし、誰もいないよ」
照れ隠しなのか、ちょっと怒ったような声でそういい、距離を詰めてくる。
その分だけ後ずさった真白の背が、ロッカーに当たった。
「ちょっと、尚、」
大きな影に覆われる。
身長差のある恋人にこうして迫られると、いつものことだけど、結構萎縮してしまう。
逃げようとすると、両手をつかまれ、そのまま壁に押し付けられた。
唇が迫ってくる。無駄と知りつつ、顔を背けてしまっていた。
かすかに、苛立った溜息がする。
「……なんだよ、それ。……そんなにヤなのかよ」
「そんなんじゃない……部室とかで、そういうのって、恥ずかしいじゃない」
「だって、他に一緒にいれるとこなんてないだろ」
「そりゃ……だけど」
「お前が、逃げてばかりだから」
「…………」
そのまま、口を塞がれるように、覆われる。
(――― 一度キスしたら、後はずるずるだよ。)
とは、尚哉に初めてキスされた後、それを打ち明けた親友に言われた言葉だった。
その通りかもしれない、と唇にぬくもりを感じながら真白は思った。触れるだけだったキスは、今、なんだか――妙なことになってきている。
その意味を理解しないでもないけれど、その先に進むのが嫌で、嫌というより、それを受け入れてしまったら、もう本当に後がないような不安がして、まだ――。
「真白、」
「……何」
「いいかげん、……口、あけねー?」
「……だめ」
「しょーがねぇなぁ」
でもそれが、真白のできる精一杯で、そして確実な抵抗だった。
ぐっと、歯と唇を引き結んでいると、尚哉は、それに報復でもするかのように、意地悪く身体をあちこち触り始めた。
「尚……やだって」
身体を波打たせて、逃れようとする。が、しっかりと肩で押さえ込まれて、動けない。
「人きたら、どうするの」
「大丈夫だよ」
抗議はあっけなくスルーされる。
「お願い、やめて」
「誰もこねぇから」
気持ち悪いのは感じている証拠、と尚哉は言うが、それは、真白の感覚では、拒否反応としか言いようがない。
尚哉は、多分経験豊富で、きっとこういうことになれている。だから、原因は間違いなく真白にあって、多分――よくは判らないけど、不感症、というやつなのかもしれない。
「や……っ」
無駄と判っても、真白は暴れる。でも、抵抗は、本当にあっけなく抑え込まれる、いつものように。
「こないだみたいにしないから、さ」
カチャ、という音がした。
はっとして顔をあげたその先で――薄く開いた扉が閉まった。
「……やだ!」
見られたんだ――。
その羞恥が引き金になって、思わず、初めての激しさで、男を突き飛ばしてしまっていた。
「な、尚の莫迦っ、サイテー」
「……な、なんだよ、……ここまで拒否しなくても……」
尚哉は――背後の気配に気づかなかったのか、腰をついたまま、唖然とした目をしている。
真白は耳まで赤くなっていた。
誰に見られたんだろう。部員だろうか、それとも――。
いずれにしても、狭い校内で、町で、目撃されたラブシーンが、いつ噂にならないとも限らない。
「ぶ、部室とかじゃ、絶対にヤダ。前もそう言ったじゃない、莫迦!」
尚哉だけが悪いんじゃなくて、拒みきれない自分にも非はあるのは判っている、でも。
ぱぁっと憤りが込み上げて――少し強い口調で言って、真白は素早く部室を飛び出していた。