指先で伝えたい11 





                二十二



 電車の中で、澪はよく喋ってくれた。
 白いシャツに、七部丈のズボン。素足にサンダル、という無造作なスタイルだが、それでも、どこにいても人目を引くほど目立っていた。
「やっぱ、浴衣はやめとけばよかった」
 胴回りが窮屈なのと、身体を動かすたびに背後の人に帯が当たり、崩れる事が心配なのとで、真白は少々閉口していた。
「なんで?似合うよ」
 座れない真白につきあって、澪もまた立ってくれている。目の前に陣取る他校の高校生が、時おり澪を見上げているのがよく判る。
「なんかすぐに着崩れしそう、私大股だから、嫌だって、お母さんに言ったんだけど」
 結局無理に着せられた。今年、母が仕立てたばかりの藍色の浴衣だった。
「着崩れたら、俺がなおしてやるよ」
「また、そんなこと言って」
 冗談かな、と思っていたら、笑いながら、澪は軽く帯に指を当てた。
「浴衣くらい着付けできるよ、……俺、小学校まで、日舞習ってたから」
「……マジ?」
「って言っても、お袋が開いてる教室だけどね、その時、着付けなんかも習ったから、つか、あの頃は習い事だらけだったな」
「……他には、何習ってたの」
「……劇団入ってたし、ピアノもやってたかな、声楽も少し」
 さすがに、そのラインナップには驚いていた。それで――バスケもあんなに出来るなんて、澪は元々、何をやらせても器用にこなせるタイプなのかもしれない。
「それで、バレエやったら、宝塚入れるじゃん」
 冗談まじりにそう言うと、
「いいとこつくね、お袋の若い頃の夢が、それだったから」
 肩をすくめ、澪はうつむいて前髪を払った。
「……親の反対で、オヤジと結婚して、夢は終り……それを何時までも根にもつのって、俺的にはどうよって感じだけど」
 自嘲まじりの声だった。電車は、もうじき目的の駅につく、アナウンスが、ざわめきに紛れてかすかに聞こえる。
「……片瀬君は、根に持たない?」
「何を?」
 停車した電車。一気に溢れ出る人の波。自然に手を繋いでいた。
「……夢をあきらめたこと」
「誰に? 自分で決めたことなのに」
 くすっと横顔が笑っている。
「……だから、自分に」
 真白は、その横顔から目を逸らしてそう言った。
 繋いでいた手が、わすかに強張るのが、真白には判った。
 遠くで、小気味良い音が弾けている。ほの暗い駅構内から、垣間見える空は、早くも群青色に染まっていた。
「急ごうよ、もう花火始まってるよ」
 けれど、次の瞬間、澪は楽しそうにそう言った。


                二十三


 大きな音が、ずっと頭上で弾けていた。
 白い肌が、あでやかな色に染まっていた。手に、缶ジュースを持ったまま、ただ無防備に空を仰いでいる澪の横顔は、真白には――
 あの日、初めて澪と映画を観にいった、あの日の横顔と同じに見えた。
「……マジで、……いいの」
 花火が終って、手を繋いで帰途につきながら、二人になりたいな……と、言ったのは真白だった。
 澪は何も言わなかったが、駅とは逆の方向に、手を引いたまま歩き続けた。
 真白には初めてだったが、澪は、そうでもないのかもしれない。無理をしていたのかもしれないが、先に料金を払うのも、部屋を選んでエレベーターのスイッチを押すのも、澪は何も言わず、全部一人でやってくれた。
 そして、今、まだ電気もつけない部屋で向き合っている。
―――マジで、いいの。
 それが、澪がようやく発したセリフだった。
 真白は頷いて、男の冷たい指先を包みこんだ。繋いでいる時から、ずっと冷たかったてのひらを包み込んだ。
「……真白さんの指、あったかいね」
「……片瀬君、もしかして、末端冷え性?」
 言葉が出れば、緊張もわずかに解ける。正直、真白はがちがちに緊張していた。落ち着いている澪を見るのが、悔しいくらいに。
 多分、澪も、それは気づいているのだろう。手を離して、そのまますいっと身体を離すと、部屋の電気をつけてくれた。
 薄暗いと妙にエッチな雰囲気がしたが、こうして明るみで室内を見ると、逆の意味で安っぽくて笑えてしまう。
 自分の部屋には絶対揃えたくない色彩が、ちらちらと眩しい。
「なんで、また片瀬君に戻るわけ?」
 ベッドの傍の椅子に腰掛け、澪はようやく彼らしい笑みを浮かべた。
「あの日は、澪って呼んでたのに」
「そうだっけ」
 そう言いながら、真白にもそれがどの日なのかは判っている。
 いや、あの日だけではない、本人を前にすると、どうしても名前を呼べないが、最初から、心の中ではずっと澪、と読んでいる。
「漢字で書くと、子供っぽい名前だけど、」
 真白は窓辺に向かって歩きながら、そう言った。無論、カーテンはしっかり下りているし、開ける気もない。それでも、無意識に外の空気を求めてしまっている。
「りょうって、ひらがなで書くと、大人っぽい感じがする。不思議だね」
「お袋は、本名でいけって煩かったんだけど」
 澪が、ソファに肩を預けている。
 手すりに掛かった長くて綺麗な指には、今日もリングは嵌められてはいない。
「これだけは、俺の抵抗。事務所入って、名前の登録、<りょう>にしたんだ。当て字ってさ……なんか、不自然な気がしない?」
「そんなもの?」
「身の丈に合わないもの、いつも要求されてるような気がしてた……俺の勝手な解釈だけど」
 澪はそう言うと立ち上がる。
 少し真白はたじろいで、硬くなる。
 が、澪は、そのまま冷蔵庫の方に向かう。腰までしか高さのない、小さな冷蔵庫の前にしゃがみ込む。
 その背に真白は声を掛けていた。
「……お母さんのこと、嫌いだった?」
「なんで?」
「……だって……」
 澪は、ばたん、と冷蔵庫を開けて、また閉める。そして、すっと立ち上がってから肩をすくめた。
「何か、買ってくればよかったね」
「ううん……おなか、きついから」
「解く?」
「えっ……ううん」
 反射的に赤くなってそう言うと、
「解かないで、何すんの」
 なんでもないように言ってから、澪はからかうように笑い出した。
 そして、ぽん、と弾みをつけてベッドに腰を下ろす。
「つか、真白さんが嫌なら、何もしないよ、俺」
 真白は黙って、帯のあたりに手を当てる。見上げる澪の目は優しかった。
「頼むから、そんなに硬くならないでよ、俺……知ってるよ、女の子の二人になりたいは、イコールエッチとは違うんだよね」
 笑顔が逸らされて、天井に向けられる。
「男はそうだけど」
 それきり澪は、真白から興味をなくしたように、室内をめずらしげに見回し始めた。
「オケる?って言いたいとこだけど、俺、歌って駄目でさ」
「マジ?アイドル目指してたくせに?」
「……あー、下手なんだ、聞かせたくない」
「そう言われたら、ますます聞きたくなるじゃない」
 ようやく笑って、真白も同じように、少し離れた場所に腰を下ろした。座ると、ますます締まる胴回りが苦しい。
 澪はそのまま仰向けに倒れ、しばらく、子供のように足を上げたり下げたりしていた。
「……おふくろ、入院してんだ……もう、半年くらい」
「そう……なんだ」
「……神経、病んでるんだ……、軽い鬱病。入院するほどでもないけど、オヤジが、体裁気にする人だから」
 どう相槌を打っていいかわからない。代わりに、わずかに澪との距離を縮める。
「オヤジは、ずっと、俺に事務所辞めさせたがってた。……お袋が入院してからは、ますますそう」
「……それも、原因?」
「でも、結局決めたのは自分だから」
 顔だけで、こちらを見て、澪は唐突に起き上がった。
「やっぱ、解こう、帯」
「えっ」
「大丈夫、下に紐があるから、それだと、全然休んだ気になれないだろ」
「う……うん」
 少しこわごわと立ち上がる。
 澪は正面に立ち、生真面目な顔で、ゆっくり距離を詰めてきた。
「両手、あげて」
「こう……?」
「うん」
 正面から伸びた腕が、背後の結び目に回される。
 上げたままの両腕が、澪の肩に触れないよう、精一杯上に上げる。
 すれすれまで触れ合う頬と、互いの首筋。
 息をすると、澪の耳に触れてしまいそうだ。
「きついね……けっこう」
 その声とともに、澪の吐息が耳をかすめる。
「ね……澪」
 顔を背けて、それを避けるが、自然に顔が熱くなっていた。
「これって、普通に背中から解いてくれればいいんじゃ……ない?」
「あ、それもそうだ」
 その声は笑っている。知ってて、わざとそうしたな、と真白は思ったが、咎める気にはなれなかった。
「……今、言ったね」
「……え?」
「俺の名前……」
 上げている腕が痛い。疲れて――自然に下がってしまう。
 澪が前かがみになっているから、それを避けようと背を逸らす形になる。背後にはベッドがあって、今にも背中から倒れてしまいそうになる。
「も、一回……呼んで」
「……ん……」
「呼んで、名前」
 耳元を、くすぐるような吐息がかすめる。
 多分、自分の耳が熱を帯びている。それを見られていると思うと恥ずかしくなる。
「……呼んで……」
 囁きと共に、唇が触れて、そのまま柔らかくキスをされた。
 ようやく、腰周りが楽になったのはその時だった。締め付けていたものが解け、するり、と床にすべり落ちる。
「りょ……う」
 キスが深くなる。腕は澪の肩に回したままで、真白は、立っているのがやっとだった。
 いつの間にか、腰紐さえほどけていた。支えを失った浴衣は床に垂れ下がり、襟が開いて、スリップの胸元まで露わになる。
 その襟元に手が差し込まれて、肩から浴衣が滑り落ちる。
「嫌なら……しないから」
 思わずそむけた耳元で、囁くような声がした。
「触れるだけ……だから」
 重みがかかり、真白は自然に背後のベッドに倒されている。
 視界が、白い天井だけになる。
 ベッドが、澪の膝できしむ。
 真白は、自分の中に湧きあがってきたものに、戸惑って目を閉じた。
 

 冷たくて、温かくて、自分どこか、遠い場所に運ばれて行くような感覚――。
「真白さん……」
 ふと気づくと、いつの間にか、澪の手が止まっている。
 おそるおそる薄目を開けると、思いのほか不安気な瞳がのぞきこんでいた。
「どうしたの?」
 不安になって、真白はつい訊いている。
「ん……人形みたいに動かないからさ」
 寂しげな微笑を浮かべた澪が、真白の額にかかった髪をそっと払った。
「一人でとまんなくなってた……ごめん」
 ――澪……。
 不意に暖かなものが、胸いっぱいに流れ込んできた。
 真白は手を伸ばし、澪の頬に手を当てた。
 いつも自信満々で、他人を拒絶しても自分が拒絶されるなど思ってもいないような、傲慢な目をしているのに――。
 今の澪は、二つ年下の、ただ自分が受け入れられないことを恐れるだけの、愛しいほど頼りない子供に見える。
 頬に添えた手を取り、澪はそっと唇を寄せた。
「本当にやだったら、止める……傷つけるつもりじゃないんだ」
 真白は微笑し、無言で、首を横に振る。
 それでもまだ、不安気な澪の額に、半身を起こして唇を当てた。
「私が不感症なだけだよ」
「不感症?」
 初めて綺麗な目に笑いが浮かぶ。
「それ、意味判って言ってんの?」
「馬鹿にしないでよ。澪より二つもお姉さんなんだから」
「そいうや、そうだったね」
 心が解けた途端、互いの身体を阻んでいた壁のようなものも、同時に解けたような気がした。



 やがて、耳に響く吐息が乱れはじめる。
 それが、自分のものか、澪のものか、真白にはもう判らない。
 時間の感覚さえなくなってきて――互いの境界が溶けるほど、澪を近くに感じ続けていた時、唐突に、真白は再び一人になった。
 腿に触れた澪の手が、そこで躊躇うように止まっている。
 迷いを帯びた目が、探るように真白を上から見下ろしている。
 真白は首を横に振り、澪の肩に添えた手に少しだけ力を込めて、引きよせた。
 この時がきたのだと思っていけむた。莫迦みたいだけど、事前に七生実に電話までしたこの瞬間が。
「……いいよ……やめなくて」
 無言で髪を撫でられる。それでもなお、澪が迷っているのがよく判る。
「……前みたいに、気、使わなくていいよ……もう怖くないの。平気だから」
 意味を理解したのか、髪に当てられた手が、一瞬びくりと強張った。
「言えなかったけど……ごめん、今日が初めてってわけじゃないから」
「…………」
 ここで、言うつもりじゃなかったのにな、と真白は思っていた。
 澪が、躊躇って、そして気を使っているのがわかったから、つい口にしてしまった。
 あの日から、二週間あまり。
 澪が、心のどこかで、その疑念をずっと捨てきっていなかったことを、それが、彼自身をひどく苦しめていたことを、真白は知っていたつもりだった。
 わずかな間があって、真白は再び目を閉じていた。
 今、澪がどんな顔をしているのか、と思ったら、状況が状況だけに、それを確認するのが恐ろしくもあった。
「……ごめん」
 そんな呟きが聞こえた気がした。


                  二十四


 澪が、着ていたシャツを脱ぎ捨てる。
 仰向けのまま、目を閉じていた真白の視界が暗く翳った。
「……本当に、平気……?」
 さぐるような声が聞いてくる。それには、無言で首を振る。
 もう、自分を覆っているものは何もない。
 本当は怖くて、不安で、素肌になった澪の影に覆われた途端、身がすくんでしまうほどだった。
 真白はうつむき、消え入りそうな声で呟いた。
「いちいち訊かなくてもいいよ……。平気だから、……早く、しようよ」
 見下ろす人が、少し驚いたのが判る。構わずに、真白は顔を背けていた。
「言ったじゃない、初めてじゃないんだって」
 早く。
 心の中では、必死で叫んで、震えている。
 早く、この緊張と不安から、解き放ってほしい。
「…………」
 返事の代わりに、腿を押さえつける澪の手に力がこもる。性急な動作には、微かな苛立ちが感じられる。
「……あっ……」
 真白はかすかな声を漏らした。
 気が遠くなるようだった。もう、何も考えられない。頭と身体の中を、痛みを伴う暴風が吹き荒れている。
「真白さん……」
 気がつくと、真白は半ば泣いていた。抱き合った互いの身体が、わずかに汗ばんでいる。
「大丈夫だよ」
 そっと囁かれ、瞼に唇が寄せられた。
 真白は、息をあえがして、澪を見上げた。
 怒っているはずなのに、不思議なくらい、澪の眼は優しく見えた。
「辛かったら、もう少し、力抜いて……本当に大丈夫だから」
 いたわるように抱き支えられ、髪を何度も撫でられる。
 違う。
 我にかえった真白は首を振る。
 そんなこと、もう、心配してもらう必要などないのだと。
 目で、表情で、吐息で、必死に澪に伝え続ける。
 それでも嵐はいつの間にか消え、澪の温みと鼓動が、真白を穏やかに、時に激しく包みこむ。
 やがて、死ぬほど長いようで、あっけないほど短い時間が終わる――。
 終わってしまえば、躊躇いも不安も畏れも、全ては二度と戻れない過去だった。
 大きく息を吐いた澪は、そのまま上向いて倒れこみ、熱の余韻を残したまま、真白は不思議な寂しさを感じている。
 その寂しさを振り切るように、真白はあえて明るく言った。
「終電って、まだ、大丈夫だよね」
 シーツを引き寄せようとした手に、澪の手が重なった。大きな手、指を絡めるようにして、しっかりと握り締めてくれる。
 澪は何も言わない。
 真白も何も言えなかった。
 天上を見上げたまま、ただ、繋いだ手の温かさだけを感じている。
 自分は決して一人で、この変化を乗り越えたのではないと――深い、確かな所で、初めてそう理解した。
「真白さん……」
 囁いた澪が、肩を抱いて引き寄せてくれる。額に、瞼に、何度もキスを繰り返す。
 真白は眼を閉じ、澪の肩に頬を預ける。
「……好き……」
 声に出さずに、囁いた。
 本当に、本当に今、この瞬間、泣きたいほど澪が愛しかった。












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