指先で伝えたい10






                  十九



 盆明けから始まった夏期講習。今日がその初日だった。
 真白は教室を出て、炎天下の下、校舎裏の体育館に向かった。
(―――ごめんね、お盆までは忙しいから。)
 そう言って、電話とメールだけでやり取りしていた恋人の顔を見るのは、実に二週間ぶりになる。
「あー、こんにちは、真白さん」
 体育館に行くと、明るい声が出迎えてくれた。
 先週からマネージャーになった、一年生の高柳愛梨。小気味よく動く大きい目、可愛いのに、どこか理知的な雰囲気が漂う女性である。
(―――片瀬君ってヤな奴だと思ってたけど、なんだか、タコ焼きマンが可愛かったからー。)
 と、いう理由で殺到したマネージャー希望者。
 荒神原の厳正かつ厳しい振るいにかけられ、結局残ったのが、愛梨だった。さすがは荒神原……というべきか、実際、非常に機転が聞いて人当たりのいい、好感の持てる女である。
「今日、もう女子部はあがってますよぉ、いるのは男子だけ」
 愛梨は気安げに真白の傍に駆け寄ってきて、そう声を掛けてくれる。
「そうなんだ」
 本当は、それを知っていたから、体育館に寄っていた。
 正直、今、誰よりも会いたくないのは、あれから一度も連絡を取り合っていない七生実だった。
 多分――七生実も、もう真白の気持ちに気づいているに違いない。
 コートからは、バスケットシューズが床面を擦る音が、忙しなく響いてくる。
 一際背が高く、体格のいい男が、コートの中央、ドリブルをしながら見事なスピードでスリーポイントラインに切れ込んでいく。
 尚哉だと、一目でわかる。端正で、研ぎ澄まされた眼差し。こうしてコートの中で、野獣のように闘争心を剥き出しにする姿は、やはり、いいな、と思う。
 フリースロー内には、三年の荒神原が構えている。センターポジション。部内で一番長身の男は、抜群のリバウンド獲得率を誇る。
 顔ぶれとゼッケンで判った。今、三年と、二年一年の合同チームが、練習試合をしているのだ。つまり、尚哉と荒神原は、敵同士、ということになる。
 尚哉が、ドリブルを続けながら、視線を走らせる。そこへ、右サイドからカットインしてきた小柄な――あくまで尚哉と荒神原に比べたらだが、華奢な体躯をした男が飛び込んでくる。
 少し日焼けして、髪が短くなっている。片瀬澪。
「片瀬君って、結構上手いんですよ、どっかで、本格的に習ってたんじゃないかなぁ」
 と、隣に立つ愛梨が感嘆したような声で言った。
 その言葉に被さるように、尚哉が右にバウンズパスを出す。床で一度バウンドする難しいパスだが、それを、駆け込んできた澪は、なんなく捉える。
 その前に、荒神原が立ちふさがる。澪は、軸足を固定し、フリーになった足を素早く前後させ、三歩目で大きく外側に踏み出す。同時に――視線をゴールに向け、いったん踏み出すと見せかけて――次の瞬間、その細い身体は、荒神原の脇をすり抜けている。
 ウォーキング・ステップ。 
 愛梨に言われるまでもなく、真白にもわかった。多分澪は、中学でバスケをやっていたに違いない。それも、相当ハイレベルな。
「すっげー、片瀬」
「行け行け〜」
 コート脇に陣取っている、一、二年生から喚声が上がっている。
 澪はドリブルしてフリースロー内で振り返り、そして、今度は左からカットインしてきた二年生に、素早くパスを送った。
 シュート。が、それはポストに当たって弾ける。ゴール下で、荒神原と尚哉が巨体を競り合わせている。零れ玉をかろうじて拾ったのは尚哉で、
「片瀬っ」
 尚哉は、体制を崩しつつ、アンダーハンドでパスを送る。
 ボールをキャッチした澪は、スリーポイントラインに、申し合わせたように立っている。
 きれいに伸びた体と正確なスナップ。見事なワンハンド・セット・ショット。
 ボールは荒神原の手を越えて、綺麗なラインを描いてゴールに吸い込まれていった。
「片瀬、やるじゃん」
「つかさ、お前、まともに部活出て来いよ」
 夏の最初、明らかに片瀬澪を嫌悪していた同級生たちが、今は、澪を受け入れている。
 笑顔で彼等とじゃれあう澪は、もう東京から来た転校生ではなく、昔からここにいる仲間のようだった。
「片瀬君、夏の間、一人でボール磨きとか、体育館の掃除とかしてたじゃないですか」
 愛梨が嬉しそうな声で言った。
「最後の方、結構他の一年とか手伝ってたんですって、……二年には内緒で。なんか、見ててわかるんですよね。彼の誠実な性格っていうか、優しいとこ。みんなも、それが判ったんじゃないかなぁ」
 尚哉はむすっとしたまま、けれど、どこか、かつてとは違う目で澪を見ている。
「ま、来年はいいチームになるかもな」
 そう呟く荒神原も、表情は変えないが、どこか穏やかな眼になっている。
「…………」
 コートの中、真白に気づいた澪が、笑顔になって片手を上げる。
 もう、その指にリングはなかった。


                二十


「会いたかった」
 更衣室に入ると、すぐに澪は、腰に腕を回し、額を寄せてくる。
 体育館の女子更衣室。誰かが入ってこないという保証は何もなかったが、とりあえず無人の密室で、自然に身体を寄せ合っていた。
 汗の匂いがした。澪の綺麗な首筋に、薄く汗が浮いている。
「……ごめんね、忙しくて」
「受験だしな、仕方ないよ」
「……それに、まだ、尚に……」
 うつむいてそう言うと、澪の綺麗な眉が、かすかに歪んだ。
「言いにくかったら、俺、言おうか、唐渡さんに」
「ううん、それはいい」
―――私、ちゃんと話すから。
 交わした言葉はそれだけで、後はキスを交わしていた。
 時間を気にした忙しないキスだったが、それでも、澪が抑制していて、優しさだけを示してくれたのがよく判った。
 唇を離して、視線だけになると、ようやく真白は恥ずかしくなった。
「……男臭い……」
「え、マジ?」
 澪は、ちょっと慌てたように身体を離す。
「嫌じゃないよ」
「そっか?」
「前は、シャンプーみたいな……そんな匂いしかしなかったから」
「……そうだっけ」
 もう一度視線が絡む。
 黒い、水晶のような綺麗な瞳。
 くらくらと……眩暈さえ感じるほど、熱を帯びた眼差し。
 求められるままに、もう一度唇を重ねる。
 今度のキスは優しくない。声にならない吐息を、思わず真白は漏らしている。
 澪の胸に手を添えて――それに、すがるようにもたれかかる。てのひらを通して、薄い布越しに、どくどくと脈打つ鼓動が伝わる。
 その鼓動の早さに、体温の熱さに、自分まで飲み込まれてしまいそうになる。
 深く、性急なキスを続けながら、澪の手は、真白の髪を撫でてくれている。髪から、うなじ、うなじを撫でて、また髪に戻る。
 それは、必死で、それ以上の行為を我慢しているようにも感じられる。
「……もう、戻んなきゃ、俺」
「……うん」
 細いようで、骨格のしっかりした腰に腕を回し、真白は、その胸に額を寄せた。
―――澪……。
 そして、目を閉じたままで囁いた。
「……今夜、会える……?」
「……いいの?」
「港祭り……知ってる?花火大会みたいなものだけど、こっから電車で二駅あるけど」
「……知ってるよ、親父が実行委員だから」
「行こうか、一緒に」
 返事の代わりに、強い力で抱き締められる。
「痛いよ、澪」
 笑いながら、その背を叩く。そして、まるで、子供だな――と、思っていた。
 取り返しのつかないいたずらをして、でも親の愛を失うまいと、必死になって媚を売る子供。澪が何を不安に思っているか、真白には判っている。
 でも、それを――口にして、安堵させてやるつもりはなかった。


               二十一


「いい、絶対に浴衣、着ていくのよ」
 しつこく繰り返される母親の声を背中で聞きながら、真白は、ぼんやりとテレビ画面に見入っていた。
 姉、葉月の友人から借りたビデオの数々。なんとなく気がついたらスイッチを入れていて、――もう、全ての曲を暗譜できるほど見てしまっている。
 コンサート会場。澪の出番は、編集を繋げてはいるが、実際は殆んどない。
 暗い画面の中、時おり滲むように浮き出しては、あっという間に他の人の影に隠れて、消えてしまう。
 が、SAMURAI6のコンサートにもかかわらず、よくよく見れば、会場に「りょう」「片瀬」という団扇も少しだけちらほらしている。
 今よりさらに線の細い、その華奢な全身を使って、懸命に踊っている澪。目一杯の笑顔。ステージを駆け抜けて、SAMURAIのメンバーの一人、岡村準とハイタッチを交わしている。
 それが、今日の、バスケでゴールを決めた時の澪の表情と重なって見えた。
「…………」
 澪は、この町で生きようとしている。
 もう、それを決めて、過去の習慣を、染み付いた過去の匂いを捨てようとしているのが、なんとなく真白にも判る。
 そんな風に思ったきっかけは何だったのだろう。思い当たるような気もするし、まるで判らないような気もする。
「……唐渡さん、か」
 今日、澪は確かにそう言った。
 姉。葉月の説明によると、事務所のメンバーは先輩後輩にかかわらず、大抵「くん」付けで呼び合っているらしい。だから澪は、最初「唐渡君」とか「荒神原君」と呼んでいたのだ。でも、それも意識してやめている。
「………私って、何よ」
 ビデオを止め、真白は、ひとり言のように呟いた。
 地元で生まれ、頭の先からつま先まで、この町の匂いが沁みこんだ女。
 ここで――生きていこうと決めた澪にとっては、手始めに付き合う相手としては、多分、格好の相手だったのだろう。そんな気がする。
「………………」
 テーブルの上で、開きっぱなしにしている雑誌。その中では、まだ中学生くらいの幼い澪が笑っている。何人かの仲間に囲まれ、思いっきりVサインをしている。
「……莫迦」
 苦笑しながら呟いて、私に……できるかな、と思っていた。
(あんたさ、りょうのこと説得してくれないかな)
 あんなひねくれた男に説得なんて、えらそうな真似、そんなことは絶対にできないけれど――。
「…………」
 ぼんやりと、畳に投げたままの携帯電話を引き寄せる。
 表示された時間を見る。待ち合わせの時間まで、もうあまり余裕がない。
 黙ったまま、真白は、メモリーから登録された電話番号を呼び出した。
 三度、呼び出し音が鳴って、相手が出る。多分、こちらの名前がディスプレイに表示されているから、相当慌てて、電話に出ている。
『……もしもし』
 ためらいがちな声が受話器から響く。
「ごめんね、急に」
 真白は、冷静な声で、そう切り出した。








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