「真白……、真白!」


 どこか遠くから、自分の名を呼ぶ声がする。
 母親の声。
 最近は、電話でしか聞いていない声。

「大学生にもなっていつまで寝てるの、いい加減起きなさい、下に七生ちゃんが来てるわよ」

「……もうちょっと……寝かせて……」
 末永真白は、低く呟いて寝返りを打った。
 夢にしては、やたら頭に響くのは何故だろう。
 島根に住む母の声が、大阪のここまで届くはずがないのに。

―――私……電話繋ぎっぱなしで寝てたっけ。

 そんなことを考える内に、次第に目も覚めていく。
 仰向けになって、ぼんやりと目を開け、ようやく真白は我に返った。

―――あれ、ここ……

 ここは、いつも一人で寝ているアパートじゃない。
 仰臥した視界に映るのは、怨霊が棲みついていると信じていた天井のしみ。壁のあちこちに残る、ポスターを貼ったテープの跡。

「…………」
 ここは――真白の実家だった。
 高校を卒業した後、県外の大学に進学した真白が、久しぶりに帰省した家の二階。
 驚くほど昔と変らないままの、自分の部屋。
 がばっと跳ね起き、壁に掛かった時計を見上げる。
 そっか、もう――こんな時間なんだ。
 二年ぶりに会う高校時代の親友と、出かける約束をしていた時間だ。
 それにしても暑い。顔をあげた途端、汗が額を伝って落ちてくる。
「……てゆっか、なんで窓しまってんの?」
 いつの間にか、扇風機も止まっている。
 真白は膝で這って窓際に向かった。
 ようやく、ベッド脇の窓を開け放つと、深呼吸する間もなく、すぐに、かすかな潮の匂いが流れ込んできた。
 そっか。
 真白は、ようやく気が付いた。
―――……私、この匂いが嫌で、窓、閉めてたんだ。
「………………」
 海の匂い。
 郷里の匂い。
 どうしても思い出してしまうから。
 もう、手の届かない存在になった彼のことを。
 あの夜を。
 最高に汚い手段で傷つけて、大切なものを永久に失ったあの夜のことを。

(―――真白さん)

 この二年間、ずっと忘れたかった匂い。
 忘れたかった声。
 なのに、どんなに忘れたくても、ブラウン管や雑誌、店先のポスターなどから、それはふいに飛び込んでる。

(―――俺が、着せてやるよ)
(―――来年も再来年も、俺が、真白さんに浴衣着せるから)

 すっかり暮れた空。
 街灯の薄明かりの下、階下の路地を、浴衣を着たカップルや親子連れが、ぞろぞろ列をなして歩いている。
 窓辺に立ったまま、真白は黙って目をすがめた。
 なんで、こんな日に帰省してしまったのだろう。

(―――ねぇ、どうしても、港祭りの日に帰れない?私、バイトがあって、あの日しか帰省できないんだ。それに、港祭り、真白と一回行ってみたかったから)

 先月、ふいに電話をくれた親友の、そのハスキーな声と共に、真白は、思い出していた。


 もう何をしても戻らない、彼と過ごしたたったひと夏の日々のことを。
 









||NEXT|| ||BACK|| > top


指先で伝えたい1〜プロローグ