六


 とかなんとかやってるうちに、夏休みが始まった。
 8月1日のツアー初日、北海道公演に向けて、俺らはひたすらレッスンに励んでいた。
 稽古のポイントは、MARIAさんたちが着替える間、七分程度、Kidsだけで踊るダンスナンバーである。
 当初予定されていなかったが、美波さんによって、新たに加えられたナンバー。
 将君と憂也の二人が中心で、俺たちは、その背後で踊る。
 それだけで、ん?、と俺も――多分、みんなも思ってしまった。
 柏葉 将。
 綺堂 憂也。
 もしかしてこの二人は――いわゆる、デビュー候補組に、相当近いとこにいるのではないだろうか。
 今年の秋、ワールドカップバレーが日本で開催される。
 その独占中継を民放最大手のFテレビが大々的に行う。そのイベントとコラボして、事務所から一組デビューするのではないか……というのが、事務所内では、もっぱらの噂になっていた。
 何年か前、それと同じようなパターンで、SAMURAI6さんがデビューした実績があるからだ。
「しっかし、似合うのか似合わないのか、微妙だねぇ、雅くん」
 すっかり明るくなった俺の髪を見上げながら、憂也がシニカルな笑みを浮かべた。
 レッスンの合間の休憩時間、俺らは、なんとなく、いつも通り屋上に向かっていた。
「まぁ、明るく元気で可愛い男の子ってのが、唐沢社長の好みだからね。今までが暗すぎたし、丁度いっか」
「うっせえよ」
 と、俺は、俺自身違和感の残る髪をかきあげる。
「……で、いつも以上に、機嫌が悪そうに見えるのは、やっぱ、流川凪のこと?」
 にっと笑った憂也は、そう言っていきなり核心に切り込んできた。
「ぴたっと来なくなったね、あの子」
「…………」
「雅くんには、無理だと思ってたけど、案外きっぱり振ってあげたんだ」
「…………」
 そう、こない。
 夏休みに入って、連日のように、稽古があるのに――流川凪は一度も来ない。
 そのくせ、正式にメンバーから外されたようでもない。名簿には依然としてその名がある。
「こんなことになるなら、俺が手をつけりゃよかったな」
 本気だか冗談だかわからない口調で言い、憂也はいたずらめいた笑みを浮かべた。
「可愛い顔して気が強そうだろ、ああいうの、もろ好みなんだ。雅くんには悪いけど」
「……いや……」
 つか、なんでそこで俺が出てくる。関係……ないだろ。
 目の前の扉が開いたのは、その時だった。誰もいないと思っていた俺は、少しびっくりする。
 扉は――特別講師室。美波さんが使う部屋で、今日、美波さんの姿は見えなかったから――。
「じゃあ、今日は大丈夫だな」
「はい。すいません、お忙しいのにありがとうございました」
 柔らかな――俺からすれば初めて見るような優しい笑みを浮かべている美波さんと、それから。
「昼、よかったら一緒にいくか」
「え、いいんですか」
「いいよ、頑張ったご褒美だ」
 と言われて、ぱっと頬を赤らめている――流川凪。
 二人が、仲良く顔を見合わせながら、その部屋から出てくる所だった。
 二人とも、稽古で着るような服を身につけている。
 美波さんは、全身がびしっと締まるような黒の上下。
 流川は――相変わらずの重ね着と、七部丈のズボン。
 俺と憂也は、しばし唖然として、その場で足を止めていた。
 美波さんが、俺たちに気づく。その距離は、三メートルも離れていなかった。
「……綺堂」
 そして、美波さん、何故かふいに恐い顔になった。
 その目は、俺ではなく憂也に向けられている。
「はい、」
 憂也も、珍しく緊張している。
 いつも小ずるく危難をやりすごす憂也が、困惑しているのも珍しいが、ここまで美波さんが、怒りを露わにしている理由も判らなかった。
「お前……最近、手ぇぬいてるだろ」
「……はい?」
「お前、少しばかり役者で人気が出たからって、最近、ステージ舐めてるだろ」
「え……?」
 憂也は、俺の隣で、少しばかり驚いている。意表をつかれたような目をしている。
 そして、一瞬の間の後、もろ、反発した口調で切り返した。
「そんなことないです、俺、ちゃんと踊れてるつもりです」
「確かにそつなくやってるよな、でも、俺の目は誤魔化せねぇんだよ!」
 しん……とした廊下に、ものすごくよく響く美波さんの声。
 こうなったら、いかに憂也でも何も言えない。もう――人間の器っつーか、迫力が全然違う。
「いいか、綺堂」
 美波さんは腕を組み、高みから見下ろすように、憂也をねめつけた。
「俺らの仕事は役者じゃない、アイドルだ。顔と身体、歌って踊れてサービス売って、それでナンボの世界だよ」
「…………」
「俳優面してすかしてんじゃねぇ、事務所の看板あっての仕事だよ、お前の本業はサービス業、それが嫌なら、事務所なんて辞めちまえ」
 吐き棄てるようにそれだけ言って、美波さんは、ぽん、と驚いた眼で立ちすくんでいる流川の肩を叩いた。
「じゃ、12時に、下のロビーで待ってるよ」
「あ、は、はい」
 美波さん、それで何事もなかったように去っていく。
「……なんだよ、それ」
 そっけなく呟く憂也が――実は人一倍プライドが高いことを知っている俺は。
「それだけ憂が、期待されてるってことじゃない?」
 わざと明るく言ってやる。
「けっ」
 苦笑して肩をすくめる憂也が、実は、今、ひどく衝撃を受けているのも良く判る。
「あー、アッチイな、俺、コンビニでアイスでも買ってくるわ」
 で、今―― 一人になりたがっているのも、よく判る。
「俺、バニラ」
「オッケー、凪ちゃんのも買ってくる、何がいい?」
 俺はぎょっとして、目の前に立ったままの流川を見た。
 つか、フツーに凪ちゃんって言うなよ、憂!
「……バニラ……」
 が、戸惑ったように流川は答える。
「んじゃ、二人で屋上で待ってて、さぼってんのばれたら、また美波さんに大目玉食らうからさ」
 なんでもないようにそう言って、憂也は背をむけざまに片手をあげた。


              七


「……美波さんに、個人レッスン、受けてたのか」
 かんかん照りの夏の陽射しに目をすがめながら、先に口を開いたのは俺だった。
 沈黙に耐えられなくなった、というのが正解に近い。
「……夏休み入ってからだけど、今のままだと、みんなについてけないから」
 俺から少し離れてついてくる女は、ぼそぼそっと答える。
―――辞めたわけじゃ、なかったのか……。
 はぁーっと、深いため息が溢れ出た。
 それが、諦めなのか安堵なのか――実のところ、俺にもよく判らない。ただ、ずーっと後味の悪かった思いから、ふいに開放されたのは確かだった。
 が、今度は別のことが気になって、仕方のない俺がいる。
「……お前……」
「……え?」
 すっげぇ、美波さんと親しげだった。
 いや、そんなことはどうでもよくて。
 建物の影になっている場所に入り込み、俺は、所在なく、その壁に背をあずける。そして、思い切って聞いてみた。
「……ずっと、美波さんと、二人きりだったのか」
「……そうだけど」
「…………」
 美波さん、それでも何も気づかないんだろうか。
 あんだけ手取り足取りって感じで、べたべた身体さわりまくって、それでも、何も感じないものなんだろうか。
 よく――判らない。
「……なんだよ」
 見下ろすと、流川が、露骨に不審気な目の色になる。
 肌はすべすべして透き通るくらい綺麗だ。睫も長いし、唇もほんわかと赤みがある。
 喉なんかも、意識してみれば明らかに女で、胸は――見事にまっ平らだが、七部丈のシャツから伸びた手首はすんなりと細く、指の形がなんとはなしになまめかしい。
「…………」
……つか、俺、意識しすぎ?
「……事務所は……辞める」
 俺が目を逸らしたのと、流川が口を開いたのが同時だった。
「……え?」
「北海道のコンサート、……それ終わったら辞めることにした。それ……もう、美波さんに伝えてあるから」
「…………」
 そうなんだ。
 俺は、ちょっとビックリしすぎて……なんと言っていいのか判らなかった。
 じゃあ、美波さんは、それが判ってて、こいつ一人のために、夏からずっと個人レッスンしてたわけなのか。あの人が……あの、忙しい人が、なんだってそこまで。
「もっと怒られるかと思ったけど……優しい人なんだな」
 ふいに柔らかな口調になって流川は呟く。
 それ、間違いなく、美波さんを指してのことなんだろう。てことは、
「……じゃ、美波さん、知ってんのか、……えと、お前が」
「うん、だから謝罪した」
「………………」
「意外に驚かれなかった。……大人の人だから、かな」
「…………」
 そう言ってうつむいた首筋がふいに赤らんだような気がしたのは、俺の――気にしすぎってやつなのだろうか?
「……なんで、北海道行ってからなんだよ」
 うわ、俺、また何か苛々してるぞ。
「そんなの、いくら美波さん承知してるからって、不自然じゃねぇか、どうすんだよ、他の連中にも、自分は女だって言うつもりなのか」
「…………それは」
「や、辞めるんなら、今辞めろよ」
「…………」
 なんなんだ、俺。
 へんだ、俺おかしいぞ。さっきまでこいつが辞めてなくてほっとしたのに。
 今は――無償に腹が立ってる。
「……成瀬、」
「お、おう」
 な、なんで俺、真面目に動揺してんだよ。
 フ、フツーに名前、呼ばれただけで。
「わりぃ、わりぃ、雅くん、そこ?」
 と、その時、少し慌てたような憂也の声がした。
 非常階段を駆け上がり、大急ぎでこっちに駆けてくる、その手にはコンビニのビニール袋。
「わるい、俺、急に社長に呼ばれちまって」
「は?」
「すぐ行かなきゃまじーんだ、悪いけど、二人で食っといて」
「……はぁ?」
 俺の手に押し付けられる重量のあるビニール袋。
「ちょ、憂」
 と、俺が顔を上げるより早く、憂也はきびすを返し、来た時以上の勢いで駆け去っていった。
「…………」
 なんなんだ一体。
 俺は、仕方なく袋を開く。
 出てきたのは、棒付きの――袋に入ったバニラアイス、三個分。それが、この熱さで早くも汗をかいている。
「ちょ……どうすんだよ、これ」
 カップならともかく、こんなもの三個も――炎天下の下で渡されても。
 救いを求めるように傍らの流川を見下ろすと、女はなんでもないように手を伸ばした。
「ふたつ、食べるから」
「えっマジ?」
「うん」
「…………」
 そっか。
「なに、その目」
「いや、別に」
 そっか、女の子なんだ……こいつ。
 俺は――ひとまず、一本を流川に渡し、自分も一本持って、壁際のベンチに腰を下ろした。
 残る一本が入った袋をベンチの上に置き、そして、まだ立ったままの女を見上げる。
―――座れば?
 と、その一言が普通に出ない俺だったが、流川は、特に意識する風でもなく、開いたスペースに腰を下ろした。
 ぱりぱりとビニルを破き、甘ったるくて冷たい塊を口に含む。
 しばらく二人、無言のまま、同じようにバニラアイスを舐めていた。
「…………観たこと……あるんだ」
 ふいに、流川が呟いた。
「コンサート、観たことある。だから、最初から判ってた……いくらなんでも、無理があるってことは」
「そ、なんだ……」
 まぁ、それはそうだろう。
 衣装なんて、あってなきがごとし。最後はみんな半裸みたいな状態で踊る。
「じゃあなんで、……ついてくんだよ、北海道ツアー」
「…………」
 流川の横顔が硬くなる。
 ひょっとして、
 俺はふいに思っていた。
 こいつが俺を好き…………だっての、そもそも半信半疑にもほどがあったが、それ、風とかいう名前の兄貴の、とんでもない勘違いだったんじゃないのか。
 だって、そもそもありえねぇだろ。
 俺、明らかに嫌われてたんだ。
 最後には殴られて、それで泣かれたくらいなんだ。
 そう思ったら、ふいに肩の力が抜けていた。
「何観た?……ファンなの、そこの」
「SAMURAI……ファンっていうか、友達に誘われて」
「ふぅん……」
 SAMURAI6のツアーなら、何度か俺もついてったことがある。ようやくツアーの常連になり始めた頃で、楽しくて嬉しくてしょうがなかった頃だ。
「……成瀬、感じが、変ったね」
「……そうかな」
「うん、顔の雰囲気、きつくなった」
「…………」
 あのー、てかそれ、あなたのせいなんですが。
「……どっちかっていえば、」
 そう言いながら、流川の手が、早くもビニール袋を探っている。……って、はやっ、俺、まだ一本目食ってんですが。
 熱さのせいか、甘い雫が指先にまで垂れてくる。それを慌てて舌ですくう。
「前の方が好きだった」
「へぇ、……」
―――…………。
「…………えっ」
「うわっ、溶けてる」
 俺の驚愕は、流川の素っ頓狂な声でかき消された。
 流川がビニールから取り出したそれは、白い長方形が早くも変形しつつあった。
 綺麗な唇が、その塊に柔らかくかぶりつく。
「べたべた……」
 でももう追いつかなくて、滑らかな白が、指や棒を濡らしている。
「お前……きったねぇな」
「しょうがないじゃん、ハンカチ持ってない?」
「持ってねぇよ、……つか、こっちに持ってきてどうすんだよっ」
「膝に落ちる」
「ちょっと、まっ、わーっ」
 俺は条件反射で、滴るバニラを唇ですくい取る。
 なんで、ここで俺の心臓、ばっくんばっくんいってんだ?
 ここ、こういう場面じゃなくて、なんていうか、こう――。
 ぶっと、ふいに流川が吹き出した。
「な、なんだよ」
「ひどい顔になってる」
「莫迦、それはお互いサマだろ」
「……笑ってる」
「…………」
 あれ……?
 ちょっと……あとのことは、正直よく、覚えてない。
 俺よりも、流川の方ががちがちになっていたのは、なんとなく判った。
 記憶に残る初めてのキスは。
 脳天がしびれるくらいドキドキして。
 で、ものすげー甘い。
 甘いバニラの味がした。







                                    act2 終                            
act2 憂鬱な晴天
||NEXT|| ||BACK|| > top