三


 七月最初の土曜日。
 六階の特別レッスン室には、MARIAさんのコンサートツアー、その初日に同行する面子が集められていた。
 特別――というのは、五階にあるそれと違って、リハーサル室を兼ねたものだ、ということである。
 コンサートのリハもそうだが、GalaxyさんやMARIAさん、そういったメジャーな人たちは、必ずこの階で稽古する。
 レッスン室の隣には、振り付けさんとか外部講師用の控え室やシャワー室なんかもあって、美波さんもそこを使っているらしい。
 で、ツアーの面子、総勢13名。
 今日は、レッスン初日とあって、美波さんが特別に来る予定になっていた。
 そのせいか、どの顔ぶれも、いつも以上に緊張しているように見える。
 が、肝心の美波さんの姿は定刻になっても現れず、広いフロア、俺たち13名はその思い思いの場所に立ち、親しい者同士、なんとなくぼそぼそと話をしていた。
「……つか、莫迦じゃない、雅くん」
 壁に背を預けた憂也は、妖しげな目を細めて、心底あきれた声でそう言った。
 結局――何もかも憂也に打ち明けてしまった俺は、ごほんと、わざとらしい咳をする。
「……まぁ、……莫迦かもな」
「かもなじゃねぇよ、思いっきり、莫迦なんだよ」
 う……。
 と、俺は口ごもる。
「そりゃあ……まぁ、でも、しかたないだろ、お前も当時の写真見れば判ると思うけど、あれは、どう見ても」
「この……激天ボケ!」
 一声叫ぶと、憂也はぶんと腕を振り上げ、そのまま、思い切り俺の後頭部に振り下ろした。多分、拳を握った状態で。
 俺はつんのめり、あやうく前のめりに転びそうになっていた。
「いっ……てーな、何すんだ、いきなりっ」
「そういうこと言ってんじゃねぇだろ、ここまで聞けば、誰だってわかるじゃねぇか、凪ちゃんの好きな男って」
「なんか急だよなー、驚いたよ、いきなり北海道だろ」
 と、呑気な口調で言いながら、東條聡が歩み寄ってきたのはその時だった。
 憂也に反撃のパンチを返そうと身構えていた俺は、ちょっと気勢を殺がれて両手を挙げる。
 こんな風に空気が読めないのが、東條君のいいところでもあり、とぼけたところでもある。顔は、上品なお姫様顔なのに、どうしてどうしてなかなかの天然……。
 が、それを俺が言うと「雅くん、人のこと言えんの?」と、憂也には冷たい目で見られるのだが。
 東條君は、溜息を吐きながら、俺たちと同じように、壁際に背を預けた。
「俺、バイトキャンセルしたよ、せっかく時給いいとこみつけたのにさぁ、マジがっかり」
「…………」
 俺と憂也は顔を見合わせる。
―――つか、……すんなよ、アイドル予備軍がバイトなんて。
 その時、ばん、と扉が開いて、美波さんと、そして、唐沢社長が現れた。
 さすがに、一同、一気に水をぶっかけられたみたいに、しん、となる。
 黒の半袖シャツと、そして黒皮のズボンを穿いた美波さんは、本当に凛として美しかった。肌が白いから、黒系の服を着るとびっくりするくらいその玲瓏とした美しさが際立って見える。
 で、その背後に立つ唐沢社長。
 夏だというのに――びしっとダークなスーツで決めて、そしてネクタイも締めている。隙なく整えられた髪に、透明感のある縁無眼鏡。目がきれながですうっと細く、唇も薄い人だ。身長だけが際立って高い。並ぶ美波さんが、ひどく華奢に見えるほどに。
 そして、相変わらずの無表情。
 なんていうか……どんなことを言っても、感情が絶対に読めない人。そんな感じだ。
 その唐沢社長が、じろっと室内を見回した。そしてぴたっと止まってほしくない一点で止まる。
「成瀬」
 うわ、いきなり俺かよ。
「は、はいっ」
 爬虫類みたいな冷たい目が、じっと――遠目から俺を見つめている。
 俺、蛇に睨まれた蛙って……とこか?
「お前、髪型なんとかしろ」
「……は、い」
「ツアーまでには綺麗にしとけ、ついでに髪色も抜いてもらえ」
「…………」
 いや……学校が厳しくて、とは言えなかった。
 恐ろしかったが、こんな風に、唐沢社長からお声が掛かるっていうのは、実はKidsにとっては栄達の門がひられたのも同然の出来事らしい。
 大奥で言えば(この間ドラマを観た)将軍の前にお目見えするチャンスを与えられたに等しいんだと思う。
 その将軍が、この事務所では唐沢社長なんだから……ある意味、笑えない例えなんだが。
「それから、ついさっきのことだが、中條がここを辞めた」
 口を開いたのは、美波さんだった。
 中條―――中條亮。二年目のKidsである。年は俺よりみっつ下。
 で、このツアーの面子に入っていた一人。
 中坊のガキのくせに、勝ち気でプライドの塊みたいな奴で――つか、辞めるようなキャラには到底見えない奴。
 ざわっと、一瞬だけ場内がどよめく。
 だって、……ここで辞めるということは、デビューへのわずかな足がかりを確実に失うことになる……んだろう。憂也の予想通り、この秋にでも新ユニットが誕生するのだとしたら。
 俺は、無意識に憂也の顔を伺い見ていた、が、憂也は相変わらずしれっとしたまま、表情ひとつ変えてはいない。
「代わりに、新人をメンバーに入れた、しっかり指導してやってくれ」
―――ん……?
 俺は全く気づいていなかった。
 唐沢社長がでかすぎるのと、で――そいつが、小さすぎるのと、で。
「流川です」
 鈴を振ったような、でも低い、ちょっとハスキーな声がした。
「みなさんの足をひっぱらないように頑張ります。よろしくお願いします」
―――は…………?
「……へぇ、可愛い子だなぁ、いたっけ、あんなの」
 東條君の呑気な声を聞きつつ、俺は目を皿状にして、唐沢さんの隣で頭を下げる、小柄な人物を見つめていた。
 流川は――普段通りの顔で、とくに気負った風でも緊張した風でもない。
「……はぁ、これはこれは」
 俺の隣で、笑いと呆れを滲ませた声でそう言ったのは、憂也だった。
「どうすんだろうね、あの子、ツアーっつったら、五六人と相部屋で、しかも下手すりゃ、上なんて脱がされて踊らされるのに」
「……え、別にフツーだろ」
 と、事情を知らない東條君が不思議そうに口を挟む。
「ま、フツーだよな」
 くすっと笑って、憂也は壁に預けていた背を起こした。
「とっとと辞めさせた方がいいんじゃない?」
 そして、俺の肩をぽん、と叩いた。
「あんだけ可愛いんだ、何かあってからじゃ遅いっしょ。それに、もう雅くんにだって分かってんだろ?どうしたら、あの子を、辞めさせられるかは……さ」
 俺は何も言えなかった。
 なんとなく――そうじゃないかな、とは思っていたから……。
 そう、俺が、一言言えばいいんだろう。流川の兄の言葉を、そのまんまに受け取るなら。
 悪いけど……お前のこと、女だとさえ思ってなかったって。


                  四


 それから一時間後、俺たちは稽古場で、びしびし美波さんにしごかれていた。
 今回の振り付けは、美波さんが全て担当している。実際、この人のダンスはプロ級なのだ。教え方も筋金入りだ。
 頭もいいし、本当にすごい才能の持ち主なんだと思う。
 で、唐沢社長は――じっと椅子に座ったまま、足を組んで、その稽古の様子を冷たい目で見つめている。
 この人は、こんな感じで、現場にしょっちゅう顔を出す。暇……?なのかとも思ったが、つまりは、そういうスタンスで仕事をしているらしい。
 現場密着型――とでもいうのだろうか。そういうホットさが、この事務所を根底から支えているのかもしれないが……。
 もたもたと覚えたてのステップを踏む俺の隣で、こういうことには器用な東條君が、そして、本気になったら、結構恐い憂也が、すでに見事な踊りを見せている。
 で――。
 俺は、自分の意識が、踊りではなく、最前列で踊る流川凪にいっちゃってることを、認めざるを得なかった。
「そうじゃない、こうだ、足はこう」
 美波さんが――さっきから、つきっきりで教えている。それもそうだ。俺たちは全員、基本のステップを叩き込まれているけど、こいつは今日がはじめてだからだ。
「すいません」
 流川の声がする。
「いいよ、落ち着いてやってみろ」
 美波さんの声が、心なしか優しい気もする。
 つか、美波さん――腰とかケツとか、触りまくってねぇか?いや、それは……まぁ、相手が男だったら普通ってか……。
「………………」
 てか、平気なのかよ、あいつ。
 わかってんのかよ、男集団に混じって、北海道までくっついてくって意味が。
「なんか、雅くんの踊り、いつになく気合はいってない?」
 憂也の、からかうような声がする。
 実際、俺は少しだけ苛ついていた。
 なんていうか――意味もなく、苛立っていた。


               五


「おい、待てよ」
 案の定、流川凪が、五階にあるロッカールームに向かったのは、全員の着替えが終った、そのさらにあとだった。
 俺がそう声をかけると、扉に手を掛けようとしていた女は、少し驚いた眼で振り返る。
「……ちょい、話……あるから」
「…………」
 綺麗だが、無表情な眼差し。
 そうだ、俺はこの表情が恐かった。なんか――俺のこと嫌いってびしびし伝わってくるような気がしていたから。
 そのまま流川は動かない。
 口を開きかけた俺は、廊下でする話じゃないな、と思い直して、女の傍をすり抜けるように、ロッカールームの扉に手を掛けた。
 流川も、そのまま無言で、俺の後についてくる。
 扉を閉める。
 俺から距離をとりたいのか、流川は無言で隅の方まで歩いていってから――振り返った。
「…………」
「…………」
 向き合うと、何が言いたかったのか分からなくなってしまっていた。
 こいつの顔が、目が、表情が、何もかも昔のままだからかもしれない。
 このまま、「笑うな」と怒鳴られ、殴られそうな気がしたからかもしれない。
 薄暗い室内。閉じた扉の向こうから、一瞬賑やかな笑い声が聞こえて、遠ざかる。
「お前さ、……そ、そういうの、よくない……んじゃねぇか」
 最初に視線を逸らしてしまったのは、俺だった。
「……な、なめてるって……思われてもしょうがねえっつか、……ここの……事務所を、さ」
「なめる?」
 女の表情が、初めて翳る。
 俺は躊躇いながらも、口元を引き締めて、流川を見つめた。
「……みんな、マジでデビュー目指して、ちょっとのチャンス掴もうと必死こいてるのにさ、……お、お前はさ……なんのために……ここ、入ったんだよ」
 言いながら、自己嫌悪が込み上げてきた。なんだって俺、こんな言い方しかできないんだろう。
 それに、人のこと、俺がエラソーに言える立場だろうか。
「……それが、成瀬に何か関係あるのか」
 が、帰ってきた声は、意外なほど落ち着き払っていた。
「人がどういう理由で何しようが、お前には関係ないだろう」
 その、冷たいままの眼差しに、人を見下したような物言いに俺は、少しマジでむかついた。
 言っとくが、サッカークラブでは、お前が先輩だったかもしんねーが、ここじゃ、俺が先輩だぞ。
「関係ねぇよ、でも、なんなんだよ、お前―――女なんだろ?」
「…………」
「わかってんのかよ、コンサートの服なんて、ひらひらのすけすけだぜ?タンクトップきて、汗びっしょりになって、場所によっては、仮設のシャワー室で、二三人まとまってシャワー浴びることだってあるんだ、お前が」
「…………」
「何考えて事務所に入ったのかは知らねぇけどさ、無理だよ、不可能、どうやって誤魔化すつもりなんだよ」
 その――。
 と、自分の視線が、流川の胸元に行こうとするのを感じ、俺は慌てて視線を逸らす。
 重ね着のシャツの下。一体どういう細工になっているのだろう。今日――俺が見る限り、そこには、美波さんだけでなく、色んな人が触れたはずだ。
 が、流川は、俺の逡巡も知らずに視線を逸らした。ひどく強気な眼差だった。
「……なんとかなる、これまでもなんとかなった」
「つか、そういう問題じゃねーだろ!」
 と、いいつつ、俺にもどういう問題かわからなかった。
「……す、すす、好きな男が事務所にいるって、お前の兄貴から聞いたよ、電話あったから」
 ああ、言っちまったよ。
 これ、誤解か勘違いだったら、とてつない恥……だよな。
「……風が?」
 が、流川の声は、初めて聞くような動揺を浮かべている。
「そ、それを……お前の兄貴は、俺だって、そう言いたかったみたいから、言っておく。俺、お前のこと、そういう意味で意識したこと一回もねぇから」
 すいません、今朝まで男だと思っていました。
「あー、……こ、これからもないから、俺、……今は、そんな気持ちの余裕ねぇし」
「…………」
「そういうことだから」
 うわっ、恥。
 超恥。
 たのむ、なんか言ってくれ。
 それは誤解だとか、違うとか、頼むから言ってくれ〜〜〜。
 しかし、流川は無言だった。かすかにうつむいた横顔からは、否定も肯定も読み取れない。が、……流川は、何も反論しようとはしなかった。
「……お、俺の口から、ちくったりはしねぇよ、でも、庇う気もないから、……ばれて、みっともねぇことになる前に、さっさと事務所、出て行けよ」
 もっと別の言い方で、優しく言ってやりたかった。
 でも、……多分、俺は莫迦だから。
 そんな言い方しかできなかった。
act2 憂鬱な晴天
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