「うーっす」
「……っす」
「よう」
 俺たちは、いつも通りのさえない挨拶を交し合い、モップを片手にぷらぷらとトイレに向かった。
 六本木にあるJ&M事務所。
 全六階の建物にあるトイレは、男女それぞれ合わせて七つ。
 それら全てを、俺と憂、それから将君、そして東條君の四人が、夏休みの間、毎日掃除することになっていた。
「……将君、おせぇな」
 溜息まじりに憂がぼやく。
「今ごろ着替えてるんじゃない?ほら、いっつもすごい格好だし」
 呑気な声で東條君が答える。
 たかがトイレ掃除に着替えもないだろう、と思うのだが、育ちがいい将君にとっては、マスク、手袋、防水エプロンは必需品らしいのだ。
 毎日、唖然とするほど完全防備で決めてくるのである。
「将君いいのかな、今年、受験なのに」
 少し心配そうに東條君が呟く。
「……ま、将君なら……推薦が決まりかけてるらしいし」
 そういいながら、俺も少し心配だった。
 週末だけならともかく、六本木までの、連日の通いはきつい。
 たかがトイレ掃除とはいえ、まるまる半日つぶれてしまうし、夏休みだから、午後からは連日のようにレッスンがある。
 それは――参加は自由だし、強制ではないのだが、俺たち四人は、なんとなく、そのレッスンにも毎日参加してしまっている。
「ま、将君なら、自分のことくらい自分で決めるだろ」
 さばさばした顔で言い、シンクにバケツを置いて蛇口をひねったのは憂だった。
「……だな」
 俺も、少しほっとしつつ頷いた。
「あー、クソたいぎっ」
「ま、今日一日だし、がんばろーぜ」
 で、今日が、夏休みの最終日。
 この、辛気臭いトイレ掃除から、ようやく開放されるわけである。
「あーでも、あれだよな、ここを緋川さんが使ったと思ったら……」
「ばーか、お前変態はいってっぞ」
 無駄口を叩きつつ、気合のこもらない腕で、ゴシゴシとモッブを使いながら、でも――俺は、多分憂も、東條君も、不思議な充足感を感じていた。
「しかし、将君もあれだよな、真面目な顔して、とんでもないっていうか……」
 雑巾を絞りながら、東條君がしみじみと言った。
「あいつこそ、ある意味真性のバカだった、俺、すっかり騙されてたよ」
 何気に手を抜いてさぼりつつ、憂も苦笑を浮かべて言う。
「でも、超受けたな」
「受けた受けた」
「で、ナオさんに叱られて」
「美波さんには、お説教だ」
 笑いながら、俺らはあの――たった七分の、俺たちのステージのことを思い出していた。
 夏コンは終わり、今週発売されたどのアイドル雑誌も写真週刊誌も、特集として組まれているのは主役のMARIAさんと、それから、立ち見客が溢れて交通マヒまで起こし、社会問題にまでなった、貴沢君と誓也がバックで踊った最終日の埼玉アリーナのことばかりだった。
 後日発売されるビデオ用の撮影は、無論その最終ステージで、俺らのステージは、記録としては、もうどこにも残っていない。
 でも、俺は知っている。
 憂も知ってるし、東條君も、将君も知っている。
 あの時――会場で、同じ空気を共有した全員が知っている。
「最高だった」
「しびれたよ、びりびりきた」
 あの――脳天まで突き抜けるくらいの快感を。
 一万人の観衆全てが、俺たちだけを注目している快感を。
 だから――なんとなく、判るんだ。
 憂が、ぶつぶつ言いつつも、毎日掃除の後のレッスンを欠かさない理由も。
 東條君が、夏のバイトを完全に諦めた理由も。
 将君が、受験にもかかわらず、やっぱり毎日、レッスンを続けている理由も。
 で―――俺も、その輪の中に加わっている理由も。
「ひゃー、終わったぁ」
 さすがにこれだけ毎日掃除していると、作業も慣れっこになってしまって、将君が最後まで来なかったのにもかかわらず、昼前には、全ての階の掃除が終わった。
 一階のトイレに、掃除道具を全て収め、俺たちは堰をきったように、手洗い所で蛇口をひねる。
「あっちー……」
 流水でばしゃぱしゃ顔を洗いつつ、たまりかねたように憂がうめいた。
 今日は祝日で、会社自体は休みだから、四階以下に空調はついていないのだ。
 俺のTシャツも汗でべとべとに濡れているし、東條君の髪も、普段つんつんしているのが完全におじぎしている。
「将君……あいつ、今日のランチおごりの刑だな」
「つか……俺、疲れすぎて、何も食えねぇ」
「凪ちゃん、今日は来なかったなー。休みの日は手伝ってくれんのに」
 憂がそう言った時だった。
 ぱたばたという足音がしたのは、その時だった。
「あ、ごめん、そこ?」
 一応男子トイレにいたのだが、それにも関わらず、ばんと扉を開けて顔をのぞかせたのは、その、流川凪である。
「おっせーよ、凪ちゃん」
 憂が、タオルで顔をぬぐいつつ、ふてくされたように言う。
「ごめん、ちょっとコンビニで……これ」
 ごそごそとビニール袋を持ち上げて、流川はそこから、うすっぺらい雑誌を取り出した。
「あっ」
 即座に叫んだのは、東條君である。
「……ザ・スクープ」
 それは写真週刊誌だった。
 表紙は、貴沢君である。MARIA夏コンサート特集、と、でかでかとロゴが踊っている。
「そういや、ミカリさんに、今日発売って聞いてたんだ、俺」
「はーっ???お前、まさかまだ、あのナイスな人と連絡とってんのか?」
 憂が東條君の首を締めている間に、俺は流川から、その雑誌を受け取った。
「……今から、行くのか」
 俺は小さく囁いた。
 夏休み最後の日。
 俺にとっては、トイレ掃除からの解放日だが、流川にとっては、この事務所を去っていく日。
「……うん、今から、社長にあいさつに行くから」
「そっか」
 唐沢さんは怒るだろうか、俺は少し不安になる。
 まぁ――美波さんが、そこは上手く手を回しているのだろうが。
「お前、携帯みせてみろよ、メールの履歴見せろって」
「やだよっ、だめだって」
 俺たちの背後で、東條君と憂は、携帯を奪い合うようにしてもめている。
 俺は流川を促し、とりあえず、廊下に出た。
「雑誌読んで」
 と、流川はふいに笑顔になった。
「どーせ、MARIAさんと、貴沢君のことばっかだろ」
「メインはそうだけど、それだけでもなかったよ」
 そして、少し会話が途切れる。
 北海道コンサート以来、流川は、俺とは、完全に距離をあけている、というか、きちっと友達として接してくれている。
 これは後で知ったことなのだが、北海道、実は凪の兄貴、風も同行していたらしい。
 ホテルで、他のメンバーと風呂に入ったり、同室で寝たりしていたのは、凪ではなかったのである。
 凪はあの夜、別の部屋をあらかじめ予約していたらしいのだ。
 そういえば、空港のタクシー乗り場で、憂が目撃した「凪ちゃん」。
 あれが、風だったのだろう、今にして思えば。
「続ければいいのに」
 俺は、なんとなく、そんなバカなことを言っていた。
「あ……いや、結構おもしれーじゃん、双子で、入れ替わるっつーのも」
「夏休みしかできないよ」
 流川はそう言って、少しうつむいて苦笑した。
「小学校ではよくやってたんだ。……二卵性なのに、そっくりだから、私たち」
 うん、そうなんだろう。
 だって、俺、今でもどの場面の凪が風だったのか、どうしてもわからねぇから。
「北海道は、ひさしぶりにハラハラして面白かった。……いい思い出になったと思う、マジで」
「……そっか」
「さいっこーに面白かった。コンサート、本当に、面白かった」
「…………」
「参加できてよかった、……ありがとう、黙っててくれて」
 もう、流川の目は、何かをふりきっているようだった。
「…………」
「…………」
 俺は何も言えなくなる。
 好きなんだけど、それは、ホントにマジなんだけど、それを――今言ったところで、何も実行できることなんてない。
「……じゃ」
 流川は顔をあげ、ちょっと微笑して、片手を上げた。
 ああ、ちょっとまて。
 これでいいのか。
 ほんとうにこれでいいのか、オイ、自分。
「……俺、……今の仕事、」
 が、出てきた言葉は、胸中にこみあげた感情とは全く別のものだった。
「け……けっこう、マジで、がんばろうと思うから」
「うん、がんばって」
 あ、いや、そんなことが言いたいんじゃなくて。
「お……俺にとっては、全然たいしたことだったんだけど」
「……うん?」
「つか、大事件っつか、一生……忘れられない事件っていうか」
「…………?」
「お、お前にとっては……あ……あれくらいのこと、なんでもないことかもしんねーけど、その、……それだけは言っておくから」
 あーー……こんなんで、伝わったな。
 と、思ったが、目の前の流川の顔が、みるみる赤らんで、そしてちょっと……泣きそうな目になったから。
 ああ、伝わったんだな、と思っていた。
「……すっごいドキドキした」
 うん……わかってる。
「……あの日は全然眠れなかった」
 すいません、俺、次の日もそうでした。
「…………嬉しくて……ずっと、あんたのことばっか、考えてた」
 ……多分、俺もです。
 事務所のこと以外では、ずっと――。
「……け……携帯」
 二度目のキスの後、俺が言えたのはそれだけだった。
 流川が、自分の鞄から取り出したメモ用紙に番号を書く――それを、受け取って、ポケットに収める。
「じゃあ」
「……おう」
 結局は何も言えなかった。ストレートな言葉も、次の約束も。
 でも、きっと――これが、はじまりなんだって。
 俺は自分に言い聞かせる。
「お、凪ちゃん行っちゃった?」
 ようやく喧嘩を終えたのか、憂と東條君がトイレから出てきた。
「メシ、どうする?」
「俺、とにかく休みてぇ」
「んじゃ、屋上で一休みといきますか」
 憂がちょっと、意味深な眼差しを俺に向けた。
「バニラアイスでも食いながら」
 俺は少し憮然としつつ、丸めた雑誌で、その頭をぼこんと叩いた。


                   二


 屋上に上がった俺たちは、有り得ない人影を見て、さすがに唖然としてしまっていた。
「り……」
「りょう??」
 植栽に囲まれたフェンスの傍で、俺たちに気づいて、ひょい、と手をあげてくれた長身で華奢な男。
 その横には、トイレ掃除を完璧にほかした将君がいる。
 将君は、あっ、やべ、みたいな目に一瞬なるものの、それでもなに食わない顔で片手を上げた。
 むかついたが、今は、とにかくりょうである。
「りょう……っ、お前、どうしたんだよ」
「なに?夏休みだから、遊びにきたのか?」
 俺と東條君が、口々に言いつつ、その傍に駆け寄る。
 ロゴ入りのシャツに黒のジーンズを履いたりょう――片瀬りょうは、久々に見ても、やっばり、思わず見惚れるほどいい男だった。
 少し痩せたかな、とそれでも思った。痩せて――色白だった肌も、なんだか少し日焼けしたようだ。
 華奢な手首には皮紐が巻かれ、で、指には――こいつのトレードマークのようなごっついリング。
「みっともないけど、戻って来た」
 りょうは微かに笑い、そして冗談でも言うように、あっさりと言った。
「……って、お前……転校したんじゃ」
「住むとこないから、とりあえず今は、将君とこに居候」
 りょうはそう言って、傍らの将君に視線を向ける。
「こいつ、高校やめて、一人でこっち戻って来たんだ」
 続けて答えてくれたのは将君だった。
―――マジ?
「……家出も同然……唐沢社長も驚いてたよ」
 苦笑しながら将君が続ける。
 ということは、りょうの復帰は、すでに社長も公認しているのだろう。
 これは、一度事務所を辞めた者の扱いとしては異例なことだ。
「……色々あったけど……ま、それはおいおい話すよ」
 りょうは、どこか遠くを見るような眼で呟いた。
 ホントに――色々あったんだと、鈍い俺にも判るような言い方だった。
「なんだよ、じゃ、マジで、事務所に戻ったのか」
 東條君は単純に喜んで、りょうの肩をばんばんと叩いている。
「……つか、これからが大変だよな」
 俺の隣で憂が呟く。
 うん――と、俺もなんとなく思う。
 まだりょうは高校一年生だ。俺より若い。
 それで高校を中退した。で、家も出て、単身で上京した。
 多分、現実はそんなに甘くない。
 一度辞めて、半年近く表舞台から遠ざかっていたりょうが、再びデビュー候補として浮上する可能性は、俺や東條君より低いだろう。
 多分――それは、りょう自身が一番わかっていることじゃないだろうか。
「バカじゃん」
 と、禁句のようなことをあっさり言ったのは憂だった。
「りょうだけは頭がいいと思ってたけど、やっぱ、どうしようもないバカだった」
「……っせーよ」
 そう切り返すりょうの目は、どこか安堵したように笑っている。
 そっか……。
 俺はようやく、俺自身も安堵した。
 りょうは帰ってきた。
 戻ってきたんじゃない、自分の本来いるべき場所に、今、ようやく帰ってきたんだ。
 未来なんて、どうにでもなれ。
 俺は、初めてふてぶてしい気持ちでそう思った。
 そんなものに縛られて、今の時間を窮屈にしても仕方ない。
 多分、ここにいる五人全員が、今はそれを知っている。
「将君は真性だし」
「なんだよ、それ」
「雅は天然」
「……はっ?」
「東條君は、もはや偉大」
「???」
「まいったなー、まともなのは俺だけかよ」
 ふてぶてしくぼやく憂の頭を、俺と将君が同時に叩いた。
 りょうが、目を細めて笑っている。顔立ちは冷たいのに、笑うと、マジで可愛いんだ、りょうは。
「よっしゃ、叫ぶか」
 と、何を思ったか、ふいに東條君が、天に向かって顔をあげた。
「でっかくなるぞーーっっ」
 バ……バカじゃん……な、なんつー恥なことを。
 と、俺が唖然としていると、
「絶対に、デビューしてやるからなーーっ」
 と、東條君よりさらに大きな声で叫んだのは、普段寡黙でクールなりょうだった。
「アイドルをなめんじゃねーぞーーー!」
 と、次は将君。
 俺は、夢でも見ているような気分だった。
 てか、みんな、キャラが思いきし壊れてますが。
「まけねーぞーっっ」
 憂も叫ぶ。もう、その目は完全に今の状況を楽しんでいる。
「トップいくぞーーーっっ」
「てっぺんたつぞーーーーっっっ」
「貴沢なんかにまけねーぞーーーっ」
「緋川さん、待ってろよーっっ」
 俺もいつの間にか、そのバカ騒ぎに混じってしまっている。
「うるせぇっ。何やってんだっお前らっっ」
 すげぇ怒声が、屋上の下の方から聞こえてきた。
 多分、この下のレッスン室にいる誰かの声である。
「今の、……美波さんの声に、似てなかった?」
「まさか」
「いや、……ありえるよ、午前に社長室行ったらあの人もいたから」
「……な、この屋上、立ち入り禁止だって知ってたか……」
「…………」
「…………」
 一瞬の間の後、俺たちは互いを押しのけるようにして、出入り口に向かってダッシュした。
 東條君と将君が、足を絡ませて転等する。
「ばかっ、どけよっ」
「やだよ、俺だって怖いんだ」
「雅、てめぇ、笑いすぎ」
 だって、
 まるで――封印がとけたように、あの日から笑えるようになった俺は、逃げるのも忘れて、腹をかかえて笑っていた。
 最悪だよ。
 で、最悪だけど、最高の奴ら。
 全員クズ星かもしんねーけど、もしかして。
 もしかして、いつか、でっかく輝ける日がくるのかもしれない。


 



                                 
本編 終
act4 最悪だけど最高の未来
||next|| ||BACK|| > top
初日で魅せたキュートな演出
 さて、ここで当社記者の一押しシーンをご紹介。
 他誌では触れられていないが、コンサート初日、KIdsの綺堂君、柏葉君のパフォーマンスが最高だった。
 なんと、ロックナンバーにあわせて、クラッシックダンスを披露。
 で、柏葉君が綺堂君をお姫様だっこした時に、両サイドから、成瀬君と東條君がバク転で乱入。
 びたり、と扇形にポーズを決めて、会場は拍手喝采の大盛り上がり。
 こちら、実は、直前になって怪我をした綺堂君のために、柏葉君が発案した演出らしい。
 無許可のアドリブで、これは、上下関係の厳しい事務所では超異例なこと。
 後日、彼らは一夏のトイレ掃除を命じられたらしいが、なんとも将来が楽しみなキッズたちである。
 以下、本社が当日の会場でオフレコで入手したインタビュー。オフレコによりイニシャル表示。
リーダーM「あいつら、あほや」
大物H「……てか、あきれて笑いがとまらなかった、あんな奴らがいたんだ、うちにも」
会社関係者K氏「……ノーコメントだ」