26


「………言ったか、」
 唐沢直人は、思わず腰を上げて呟いた。
 はぁっ、と、背後に立っていた片野坂イタジが肩を落とすのが判る。
 ひゅっ、と場違いな口笛を吹いたのは、ただ一人楽しげに足を組んでいた真咲しずくだった。
「あらま、逆効果だったわねぇ」
「あのねぇ、真咲さん、あんた、本当に止める気あったんすか!」
 片野坂の泣くような声。
 だから俺は言ったんだ、社長、止めたんです、俺はせいいっぱいやったんです。と、つらつらと続く片野坂の言い訳を聞き流しつつ、唐沢はラジオから聞こえてくる、所属タレントの声に耳を澄ませていた。
―――バカが……早まりやがって。
 こうなったらもうどうしようもない。
 これで、冗談でしたは通用しない。唐沢の頭の中に、今後のめまぐるしいスケジュール調整、マスコミ対応のことが浮かんでいく。
 なにより肝心なのは、このスキャンダルを、来春社運をかけてデビューさせるヒデ&誓也に影響させないことだった。
 電波が悪いのか、妙にノイズの混じった声が淡々とスピーカーから流れる。
 つい数分前に帰社した真咲しずくに、呼び出され、いきなり聞かされたラジオ放送がこれだった。正直、まだ悪い夢を見ているようだ。
『……色々あって……最後は、自分で決めました。これからは、一般人として、……やっていこうと、思ってます』



『俺が辞めることに関して、色々……これから、言われるかもしれないけど、それは、俺個人の、人間としての責任っていうか、……そういうものだから、もう言い訳もする気もなにもないんだけど』
「片瀬君?」
 イヤフォンを耳に当てていた片瀬りょうは、はっとして顔をあげた。
「どうしたの、怖い顔をして」
 エフテレビのメイクルーム。
 メイク係の女性が、少し驚いて立ちすくんでいる。
「すいません、ちょっと……あと、十分、待ってください」
―――言いやがった……
 手を振って女を制しながら、りょうは苦しくなって目を閉じた。
―――莫迦野郎……
 本当に、マジで辞めるつもりなのか、雅。
『……最後に……って、俺、今、なんてゆっていいかわかんなくて、頭ン中、真っ白なんだけど』
 沈黙。
 りょうは手元の音量を少しだけ上げた。
『デビューして三年で、……辛いこと色々あったけど、今思うと、びっくりするぐらい楽しい思い出ばっかで』
 声がかすれて、時折詰まる。
『年取って、振り返ったとき、ああ、あん時が俺の一番楽しい時だったって、俺、ずーっとそう思えるような気がして………うまくいえないけど、宝物みたいな三年だった。いや、それよりずっと長く、ストームのメンバーとは一緒に……やってきてたんだけど』
 雅之が泣いているのが、りょうには判った。
 ひとつ年上のくせに、どこか子供っぽくて、感情的で、騒いだりへこんだり、感情表現が人一倍オーバーな奴。
『すっごい幸せな三年だった。……みんなに、感謝したいし、すごくしてる。こんな時間を生きることを、俺に……くれた、すべてのみんなに』
 わかってんじゃん。
 りょうは自分も、目の奥が熱くなるのを感じた。
 俺が余計なことしなくても、お前ももうわかってんじゃん。
 辛いけど、いいことばっかじゃないけどさ、
 ここが、俺たちの最高の場所なんだよ。
 幻みたいな、あのステージのライトの下が。
『りょう、………いつも、ストームのこと、………真面目に考えてくれて、ありがとう。俺……年上のくせにいつも頼ってて、ゴメン。りょうは超かっこいい、これ本気、俺、マジで憧れてるし、ずっと応援してっから、』
「片瀬君、本番」
 と、現実の声がりょうをさえぎる。
「はい」
―――いますぐ、
 りょうは、感傷を振り切って立ち上がった。
 いますぐ行って、その頬をなぐって、抱きしめてやりたい。
 でも、それは、到底叶わないことだった。
 今は――ただ、将を信じて待つしかない。


        
『東條君……今まで、本当にありがとう』
 耳に響いてくる声を聞きながら、東條聡は、両手で顔を覆っていた。
―――本当に……言っちゃったよ………。
 どこかで、雅之がそうしないことを信じていた。
 どこかで、まだ――どこか子供っぽいところのある雅之が、びびって翻意するんじゃないかと思っていた。
『何も言わないけど、いっつも、他のメンバーのこと、守ったり庇ったりしてくれて、本当にありがとう。そのボケっぷりが大好きだった。俺、今、セイバーにはまってるし、毎回ビデオ撮って、何回も見てっから。……超かっこいい、………俺が困ったら、飛んできてって……、俺………』
「………雅……」
 聡は呟いた。堪えていたものが、あふれ出しそうだった。
『俺……いっつも、頼ってた、……ごめん、……ありがとう、本当に感謝してる。すごく楽しい三年だった』



『将君のことは……、最初は、実は怖くて、結構苦手だったんだけど』
 柏葉将は、無言で音量を大きくした。
 走行中の車内は、時折音声が聞き取りにくくなる。
 助手席に座っている女は無言だった。その無表情な横顔からは、何の感情も読み取れない。
『すぐに、あ、同じレベルで莫迦できる奴って気がついた。……こんなこと言うと、将君ファンはびっくりするかもしんねーけど、ある意味、………将君が一番バカだと思ってる』
―――なんなんだ、それ。
 将は思わず苦笑していた。
 他の連中はほめちぎっといて、俺はこれかよ。
『………キッズのラスコン、すっげー楽しかったよな。勝手にナンバー作って、俺と東條君が目茶苦茶びびってたのに、将君と憂也はしれっとしてさ、あとで、美波さんにバリバリ怒られたじゃん。それでひと夏トイレ掃除してさ、』
「…………」
 思い出が。
 不覚にも、別の場所から胸をいっぱいに埋めていく。
 将は目をすがめ、楽しかった数年前の夏を思い出していた。
『あの夏で……将君、本当は事務所辞めるつもりだったんだろ。東條君も辞める気だって後から聞いた。俺も……続けてく意味がよくわかんない時期だった。多分、憂也も迷ってて、りょうも一人で苦しんでた』
 そうだ。
 あの夏が、思えば5人の転機だった。
 一人では、輝くことさえできないクズ星5人の。
『俺思うんだ、なんの偶然で、俺たち5人がストームに選ばれて、それで、ずーっと一緒だったのかなって』
「こんなによく喋る子だったっけ」
 女が呟く。
 将はただ、前を見つめた。
『運命ってあるのかな、あったらすげーなって、ずっと思ってた。俺、そういうの信じないタチだけど、こんな運命なら信じてみてーなって』
「………信じろよ」
 将は呟いた。
 信じてみろ、俺が、最初に信じたように。
『……なのに、結局俺、尻尾まいて逃げるんだ。……ごめんな、でも俺いなくても、ストームは大丈夫だよ。りょうはかっこいいし、東條君は歌が超上手いし、将君は存在感がすげーし、憂也は天才だし。……ほんと、俺が一番みそっかす、俺いなくても、全然平気、全然大丈夫だから、お前らなら』
―――ダメなのか……
 わずかな絶望を感じつつ、柏葉将はアクセルを踏みこんだ。最後の最後は、雅之を信じるしかない賭けだった。
 もう、雅は、二度と戻ってはこないのかもしれない。



「最後に、」
 言いかけて、雅之は言葉を詰まらせた。
 何故だろう。
 どうして、憂也のことになると、こんなに気持ちが重くなってしまうのだろう。
「………最後に、」
 もう一度呟いた。
 憂也に、最後に、ありがとうって言わなきゃ……いけない。
(―――俺?綺堂憂也、お前も合格組?ま、テキトーに頑張ろうぜ。)
 最初から、いつも憂也とは一緒だった。
(―――ここ、いいだろ、ちょっとした穴場。空がピーカンで気分いいだろ、レッスンなんてさ、真面目にやるだけソンだよ、ソン。)
 と言いつつ、いったん覚えたステップは、いつも憂也の自己流にアレンジされていて、それが、びっくりするほどかっこよかった。
 J&Мの屋上で。
(―――緋川さん、かっこいいよなぁ、)
(―――そうかぁ?俺、どっちかっつったら、雅が好みよ。)
 レッスン抜けては、莫迦なことばっか言いあってた。
(―――憂也は好きな子とか、つきあってる子とか、いねーわけ?)
(―――真面目になるのが苦手でさ。今は雅しか見えないよ、俺。)
 今思い出しても、笑えるよ。
 風が気持ちよくて、汗で濡れた髪がすぐに乾いていったっけ。
 意外に頭がいい憂也は、夏の課題とか、結構まめに手伝ってくれたけど。後で答え合わせたら、全部数字が一つずつずれてたことがあったよな。
 いや、あれは絶対わざとだった。
「……………」
 戻れたら。
 もっかい……あの日に戻れたら。
「………憂也、」
 意地悪だけど。
 性格は最悪だけど。
 本当は優しくて、傷つきやすい奴で。
「……去年…………お前が、一人で苦しんでた時」
 心無いゴシップと、会社同士の無情な対立で、一人の女の子の人生が、その夢ごと狂ってしまった――去年の夏。
「俺……憂也が、本当は相当きつかったの、わかってた。憂也は……優しいから、そういうの本当はマジダメで、でも……何もできなくて、本当に辛かったの、よく判ってた」



 莫迦野郎。
 そんなこと、今更言うなって。
 なんだって、そんな忘れられたゴシップ、今になってひっくり返すんだ、てめーはよ。
 ベンチに背を預けたまま、憂也は無言で額を押さえた。
『……俺、何もしてやれなかった。いつも助けてもらってたのに……俺、俺が一番わかってたのに、何もしてやれなかった』
 んなもんいいよ。
 誰も雅に、そんな期待してねーから。
『………ごめんな……ごめん』
 謝んなよ。
 頼むから、そんなことで謝るなよ。
『携帯に……いっぱい、電話してくれたよな』
 今は、別のセリフを聞かせてくれよ。
『全員すごかったけど、憂也は毎日、何回もだろ……マジ、ストーカーかと思ったし』
 そんなことどうでもいいよ。
『出なくて……ごめん、……話したら、決心、鈍っちゃいそうで』
 そんなお涙頂戴のセリフじゃなくて、もう一回、俺たちとやりたいって、
 一言でいい、今はそう言ってくれ。
『ありがとう………さよなら』
 目をすがめ、憂也は唇を噛んで立ち上がった。
 雑誌撮影の、打ち合わせの最中だった。対面に座るカメラマンとスタイリストが驚いた目をしている。
「すいません、ちょっと」
 それだけ言い捨て、憂也はきびすを返していた。
 あと一分で放送時間が終わる。
―――悪い、将君、
 もう、待ってられねぇよ、俺。


                 27


 エンディングの音楽が流れ始める。
―――終わった……
 何か喋られないといけないのは、わかっている。
 が、雅之は、何も口にできないまま、呆けたように、目の前の時計が進んでいくのを見つめていた。
 もう、終わった。
 スタジオを出れば、引退に向けてのあらゆる準備が早急に進められるだろう。
 家族にも説明しないといけないし、テレビ局にも謝って回らなければいけない。
 ふいに、背後の扉が静かに開いた。
 収録中。音は拾われていないが、しっと指で唇を押さえ、入ってきたのは安藤克子だった。
「これ」
 唇で囁いて、そっと携帯電話を手渡される。
 見覚えのない機種――誰の?
 けげんに思って耳に当てる。
「言え、このクソ莫迦野郎!」
 一瞬、誰の声だかわからなかった。
「最後くらい本音でいいやがれ、てめぇ、俺とその人、一体どっちを選ぶんだ。俺の方が大事だって嘘でもいいから言ってみろ!」
「ゆ、……」
 憂也?
 この声――拾われてるんだろうか。
 どういうことなんだろう。
「言えってんだ、すっとこどっこい、どうせ辞めるんなせら、最後は本音で言いやがれ!」
「……憂也、」
「てめーがいないとダメなんだよ」
「………」
「お前みたいな莫迦がいねーと、俺が引き立たねーじゃないか、お前がいないとダメなんだよ。誰のためでもねーよ、戻れ、雅」
「…………」
―――憂也………
「俺のために戻れ、――戻れ、雅!!」
 憂也、
「戻りてぇよ!」
 叫んだと同時に、エンディングテーマが切れた。
 放送終了。
 段取りも何もない、提供企業さえ言わないままの、目茶苦茶なオンエアだった。
「俺だって戻りてぇよ、もっかい、お前らとやりてぇよ!」
 感情が、
 はじけて溢れて止まらない。
「だったら戻れ!」
「ダメなんだよ!」
「何が怖い、なにびびってんだ、この腰抜け!」
 憂也……
 雅之は唇を振るわせた。
「ダメなんだよ……戻ったって、お前らに迷惑かけて、最悪、ストーム解散になっちまうかもしんねーんだ……」
 うつむいた途端、ずっと耐えていたものが零れ落ちた。
「俺、覚えてんだ。あの日、みんなで叫んだじゃねーか、でっかくなるって、てっぺんいくって、緋川さんみたいになるって、貴沢君超えようって」
「…………」
 あの、人生最高の一日。
 俺のせいで。
「俺のせいで、みんなの夢、…………台無しにしたくねえんだよ」
「言えよ、雅」
 憂也の声が、少し優しくなっているのが判った。
 雅之は、自分の視界がほとんどゆがんでいるのに気がついた。
「お前にとって、一番大切なものはなんなんだ、恋人か、俺たちか」
「………お」
 雅之は、うつむいたまま、机の上で拳を握り締めた。
「お前だよ、お前らだ、……ほかに、大事なものなんて、あるわけないじゃないか……」


                     28


―――終わったな。
 唐沢直人は、静かになった室内で、一瞬息を吐いてから立ち上がった。
 これでジ・エンド。事務室は、今、問い合わせの電話に追われ、恐慌状態に陥っているはずだ。
―――あの……バカが。
 まったくこの忙しい時期に、余計な仕事を増やしてくれる。
「じゃ、そういうことで」
 が、唐沢より、身軽に立ち上がってきびすを返したのは真咲しずくだった。
「よかった〜、今夜は、ジャガーズのライブに行く予定なの。間に合わないかと思っちゃった」
 この女。
 ぴきっと、額に青筋が立った気がした。
「では、約束どおり、お嬢さんには、この会社から一切手を引いてもらいます。株式譲渡の件は、榊に一任していますので」
 怒りを抑えてそう言った時だった。
「なんのこと?」
 しずくは、実に意外そうに眉を上げた。
 なんのこと?
「なんの……ことって」
「だって、今、この子続けたいっつったじゃん、一週間以内に翻意すれば、やめなくてもいいんでしょ、だからゲームは私の勝ち」
―――は………?
 唐沢は、本気で顎を落としていた。


                   29
  

「いつから判ってました?」
 無言でオーディオのボリュームを下げた女を、将は横目で見ながらそういった。
 目的地の病院は目の前だった。
「さぁね、どのあたりからだったかしら。ま、普通気づくんじゃない?CМも提供もない番組なんて、製作の常識ではあり得ないから」
 ラジオからは、賑やかな音楽が流れ出す。
 ストームビートの後番組が、何事もなかったように軽快なポップを流している。
「ラジオジャック……したいとこだったけど」
 将は苦笑して、胸元につけた装置のスイッチをオフにした。
「本当の番組は、別に撮った録音放送でいつも通り。今日の雅のトークは、集音機と聴音機を通じて、世界でたった六ヶ所にしかオンエアされてません」
 ドラマ撮影中のりょうと。
 雑誌取材中の聡と。
 写真撮影中の憂也と。
 事前に了承を得た、美波涼二。
 そして、真咲しずくと、一緒に聞いているはずの唐沢社長。
 それから。
「随分手のこんだバカをしたのね。このこと、雅君は知ってるの」
 言いかけて、女は自分で苦笑した。
「……知るわけないか、役者としては、ほとんど大根だもんね。あの子」
「本当に聞かせたかったのは、うちの社長と、あなたですよ。梁瀬先生」
「………ふぅん」
 興味なさげに女は自分の爪をはじく。
「で?」
「タイムリミットは今日一日。どうしても今日中に、雅を翻意させて、で、それを唐沢社長と、あなたに聞かせる必要があったので」
「私に聞かせてどうするの?」
 女は挑発的な笑みを浮かべた。
「甘いわよ、坊や。こんなことで、私が手を引くとでも本気でおもってた?」
「………ダメですか」
「ダメね」
 前を見つめる横顔は、何を考えているのか掴みにくかった。
「雅は、あなたを大切だと言わなかった」
「本気じゃないでしょ、友達の情に流されただけ」
「それでも、言わなかった。最後の最後で、あの言葉が本気ではないと思いますか」
 思いのたけを吐き出すような――あの叫びが。
 女の横顔が、わずかだが笑んだ気がした。
「そんなことどうでもいい。私には彼が必要なの、大事なのはそれだけ」
「大事な人の、人生を踏みにじってまで欲しいのは、お金ですか、知名度ですか」
「全部よ、両方、私って贅沢な女なの」
「……………」
「……無駄よ、柏葉君、この世の中にはね、」
 将は無言で、暮れかけていく空を見上げた。
 この一点が残っている以上、雅之は悩み、苦しみ続けるだろう。
「まっすぐなものや真っ白なものが、たまらなくむかつく人間がいるのよ。夢を持って、清く明るく正しく生きてる人間が、だまらく妬ましい人間がいるの」
「……あなたが、そうとは思えないな」
「君より人間の地獄を知ってるわ」
「…………」
「君もいつか判るわよ。柏葉君」
 最後に女は、初めて将を見上げて微笑した。まともに見たら最後、飲み込まれてしまいそうな青みを帯びた目をしていた。
「この世界にはね、光と影が存在するの。影はね、いつでも光を憎悪して、自分たちのいるところにまで引きずり落そうとしているの」
「…………」
「あなたたちは光よ、いつだって誰かに狙われてる。それを忘れないことね」
 車が止まる。
 女はあっさりとドアの取っ手に手をかけた。
「じゃ、送ってくれてどうも」
「あなたの娘さんは、光ですか、影ですか」
 その言葉に最後の希望を託し、将は言った。
 女の目が、いぶかしげにすがまる。
「娘さんの夢は、あなたの書いた小説のヒロインを演じることなんだそうです。僕は、心からその夢が叶えばいいと思う。同じ役者を志すものとして」
「…………」
「応援していると、伝えてください」











    

 >>next >>back