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 深夜二時。
 普通に友達の家を訪ねるにしても、相当常識ハズレの時間だった。
 一度だけ引越し祝いに行ったことがある――という憂也のナビでついた雅之のマンションは、幸い、冗談社からさほど離れてはいなかった。
「お前、よくこんなとこ覚えてたな」
 と、運転していた将があきれ混じりに呟いた通り、狭い路地を何本か入ったところにある、相当判りにくい建物である。
「俺、前世は、どうも伝書ハトみたいだったんだよね」
 と、憂也は笑って切り替えしていたが、その笑い方は、いつもの憂也らしくなかった。というより、ずっと沈黙している憂也が、今何を考えているのか――聡には判らなかった。
 帰宅していなければお手上げだったが、部屋の主はいた。
 扉の前に立ち、将がベルを鳴らす。
 エントランスですでに本人の入室許可を得ているから、雅之にも、今、扉の外で、将をはじめとするメンバーが勢ぞろいしているのはわかっているはずだった。
 ただ、凪のことだけは言わなかったのだが――。
 扉が開く。
 その軋む音を聞きながら、聡は息を呑んでいた。
 昔からよく知っている友達に会うだけなのに、なのに――まるで、初めて会う見知らぬ男の部屋を訪れたような気がする。
 今まで、どこかで、無意識に逃げ続けていた部分に、今――初めて、正面からぶつかっていくような気分がする。
「………よう」
 最初に呟いたのは、長袖のシャツに、黒のスポーツジャージ姿で出てきた雅之だった。
 最後に見た日より、わずかに頬が痩せていた。
 髪も少し伸びていて、カラーリングした部分が、色違いになっている。
 というより、目にまるで覇気がなかった。それはこんな時間だから、仕方ないのかもしれないが。
 聡はようやく思い出していた。
 ここ数ヶ月、ずっと――雅之がこんな目をしていたことを。
 みんなでいても、いつもうつろな目で、ぼんやりと外を見ていたことを。
「起きてたのか」
 不自然な沈黙を破り、ようやく将が口を開く。
「……まぁ、あがって」
 雅之が呟いて、扉を大きく開けた時だった。
 聡は、自分の隣に立つ憂也から、ふいに緊張が伝わってくるのを感じた。
―――あ、
 と、思った。本能のようなものだった。
「ゆ、」
 殴る!
「成瀬!」
 が、
 それよりも俊敏に、雅之の前に躍り出た人がいた。
 正直、聡は、この場に凪を連れてきたことを、ずっと後悔し続けていた。
 車の中で、お守りのようなものを握り締め、黙ってうつむいている華奢な横顔は、今にも崩れてしまいそうに儚かった。今にも、泣き出してしまいそうにもろく見えた。
 なのに。
 なのにである。
 一瞬信じられない、という目になった雅之の右頬あたりに、ひねりの効いた拳が炸裂した。
「なっ、」
「はっ?」
「ちょっ……っ」
 聡だけでなく、全員が、本日一番凍りついた瞬間。
 ガンっと、派手な音がして、雅之が玄関に腰を落す。
 ばっと顔をあげたその顔は――まるで、夢でも見ているような、いや、初めて夢から覚めたような目をしていた。
「あんたが頑張るって言うから」
 聡の前に立ちふさがった凪は、両手を握り締めて、それをわずかに震わせていた。
「あんたが輝く場所見つけたと思ったから、私も負けてたまるかって思ってたのに」
「………」
 雅之が、わずかに唇を開いた。
 それは、凪の苗字を呟いているように見えた。
「ふざけないでよ、何がやめるよ、今更逃げんの?そんな中途半端な奴だったんだ、あんた、昔と全然かわってないじゃん、卑怯者、ズル、サイテー男」
 な、凪ちゃんって……こう、寡黙で、冷静で、大人しい子じゃ……なかったっけ。
「あんたなんかのために」
 声がわずかに途切れて震えた。
「がんばってた私がバカみたいじゃん、つーかバカじゃん、こんなものまで大事に持ってて、あんたなんかのために、あんたなんかのために!」
 もう一度腕を振り上げる。雅之の頭に、ばしっと赤いお守り袋が当たって弾けとんだ。
「凪ちゃん、」
 と、憂也が少し声をひそませてその肩を抱く。
 時間も場所も、内容も、こんな所で喋っていいようなことではない。
 雅之は、まだ呆けたように腰を落としたままである。
「……私、帰ります」
 が、凪は黙って首を振っただけだった。
「タクシー拾って、冗談社さんまで戻りますから、心配しないで」
「俺、送ってくから」
 即座に将が、その後を追った。
 すり抜けざま、ぽんと、憂也の肩を叩く。
「……雅を頼む、なんだかんだ言ったって、お前が一番よく判ってんだから」
 憂也は何も言わなかった。
 聡に判っているのは、凪の行動が一瞬遅かったら――間違いなく、憂也の拳が、雅之の頬に炸裂していただろうということだけだった。


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「悪いとは思ってるけど」
 雅之が台所に立とうとする。
 一LDKだったが、各部屋は比較的広く、室内は簡素だが、それなりに片付いていた。
 というより、あまり生活の気配がしなかった。ただ、寝るために借りた部屋――そんな気がする。
「……辞める気持ちに変わりはない」
「いいよ、何も出さなくて」
 フローリングの上に申し訳程度に絨毯が敷かれ、小さな折り畳み机が置いてある。
 絨毯の上に腰を下ろした憂也は、そう言って、机の上に冗談社から持ち出した紙を投げ出した。
「結構やるじゃん、お前も」
 持ち上げた紙面に、ちらっと目を通した雅之は、眉ひとつ変えなかった。
 聡は、内心ショックを受けて、そのまま雅之から目をそらしていた。
―――雅は……知ってるんだ。
「バカじゃねぇの」
 憂也は冷えた声でいい、そのまま壁に背を預けた。
「お前、利用されてんだよ、それ書いた人に。ただ、売名行為の相手にさせられてっだけ」
「…………」
 雅之は何も言わない。
「お前の誕生日に発売だとさ、すげーな、最高のバースデープレゼントじゃん」
「………」
「あ、俺からもプレゼントしてやるよ。書店でそれ買って、売り上げに貢献してやんの。感謝しろよな」
 辛らつ。
 そこまで言わなくてもいいのに、と思うほど。
 が、雅之は、顔色ひとつ変えてはいなかった。
「で……?」
「雅、俺たちな」
 りょうがたまりかねたように口を開く。
 それを憂也が、腕を上げて遮った。
「お前、こんな女のことが、今でも本気で好きなのか」
「好きだよ」
 返事は即答で、よどみなかった。
「……本のことは、知ってる。偶然だけど、……仕事部屋で、編集の人と電話してるの、聞いたことがあるから」
 初めて表情を変えた憂也が、言葉を詰まらせるのが判った。
「それでもいいと思った。俺、その人が本出したいの知ってたし……ずっと、小説家として、再起したいのも知ってたから」
「だから、てめぇの夢捨てんのかよ!」
 憂也が立ち上がる。雅之の襟首を掴みあげる。
 止める暇も何もなかった。
「だから俺たちを捨てんのか、そんなもののために、そんな、くだらねー女のために!」
「………俺が」
 雅之は辛そうだった、が、憂也から目を逸らさなかった。
「一番……きつい時、支えてくれたの、その人だから」
「………………」
「その人……未婚で子供生んだんだ。相手の人認知もしなくて……俺、」
「…………」
「か、仮にも……そういう関係になって、……子供できるとかできねーとかじゃなくて、自分が抱いた女の人のことは……ちゃんと、責任とるべきだとおもってっから、」
「…………」
 憂也が、力なく雅之から手を離した。
「………前の人みたいに、その人のこと裏切りたくないんだ、……男として」
「バカじゃん、つーか、………てめーが裏切られてるっつーのに」
 うつむいた憂也の横顔は苦しげだった。
「こんなもの書く人が、雅のこと大切に思ってるとは思えないよ、悪いけど」
 ようやくりょうが口を挟む。
「……金がいるんだ」
 雅之は、それでも表情を変えなかった。
「麻友ちゃん、心臓病で、成人するまでに、あと三回手術しないといけないんだ。金がいるんだ、……それも、半端じゃなく」
「んなもん、てめーがアイドルやって稼げばいいだろ!」
 憂也の苛立った声、が、雅之は何も答えなかった。
「あの子さ」
 そして、壁に背を預けて、初めてかすかな笑みを浮かべた。
「お母さんの小説の、ヒロイン演じるのが夢だって言ったんだ。……俺、あの子の夢が……叶えばいいと思ってる」
「くだらねーエロ小説のヒロインか」
 憂也の嫌味も、すでに雅之には響いていないようだった。
 バカだよ。
 聡も口の中で呟いていた。
 雅之が、バカで、結構お人よしなのは知っていた。でも。
 でも、ここまでバカだとは思ってもみなかった。
「お前、本当に何もかも知ってたのか」
 苦しげな声で、憂也が言った。
「その女がお前のこと小説に書いてるのも、それが、お前の誕生日に発売されるのも」
 雅之は、それには答えずに、膝の埃を払うようにして立ち上がった。
「ごめん……今の俺にとっては、彼女と、彼女の子供が一番大切なんだ。理解してほしい、どんな綺麗ごと並べたって」
 雅之は覚悟を決めた目で、この場にいる全員を見回した。
「俺、お前らより、その人のこと選んだんだ、ごめん……」


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「……ごめん、か」
 話を聞き終えた将は、それだけを呟いて、唇に指を当てた。
「もうダメだね、あれは、頭に血が上ってて、手に負えない」
 憂也が肩をすくめる。その目が寝不足のせいか、わずかに充血して疲れて見えた。
「一週間のタイムリミットは今日いっぱい、どう考えても、何もできない」
 現実的に、それはその通りだった。
 聡だけでなく全員。
 今日は過密スケジュールで埋まっている。
「解散のことは、言わなかったんだ」
 ミカリがコーヒーを出してくれながらそう言った。
 それには――誰も答えられなかった。
 聡自身も、あの場で、何度それを喉まで出したか判らない。が、最後の最後でそれは言葉にならなかった。
 解散という選択で、雅之を――いや、雅之ではなくほかの誰かを縛ることが、どうしても自分にはできない気がした。
 それは言い換えれば、自分の人生のために、相手の人生を変えさせようとするに等しいからだ。
 美波の言うことは正論だ、が、どうしても、自分はそうは思えないし、行動もできないだろう。
「ま、言っても無駄だよ、あれは」
 憂也がさばさばと言う。
 おそらくりょうは、最初にそれを口にしようとしたのだろう。が、それを憂也が止めた。憂也の胸底にあるものはわからない。ただ、判るのは、誰よりも憂也が、雅之に近い立場にいるということだけで。
 誰よりも――今、その憂也が傷ついているということだけだった。
 そのりょうも、後半はずっと黙っていた。
 で、聡も、結局は何も言えなかった。
 解散すれば、どうあがいても頑張っても、貴沢秀俊という巨大な才能には叶わない。この芸能界で、大成することなく終わっていくかもしれないのに。
―――結局、俺も、憂也も、りょうも……
 聡は、似たもの同士のメンバーたちを、多少の苦笑と、寂しさと共に見回していた。
 この世界でやっていくには、お人よしすぎるのかもしれない……本当に、美波さんの言うとおりだったのかもしれない。
「一番、大切なものか……」
 タバコをふかしながら、黙って話を聞いていた九石ケイが呟いた。
 凪は、このビル内にある仮眠室で眠っているという。
 明け方の三時半。
 五時からセイバーの撮りが入っている聡はすでに徹夜を覚悟していたし、他のメンバーも、似たり寄ったりのようだった。
「そっか、あの子は知ってたか、そんな気はしたけどね」
 そしてケイは苦笑して立ち上がった。
「ミカリとも言ってたの、あの若さで恋愛が原因で仕事やめたりするもんかねって、他に理由があるんじゃないのって」
―――え……
 聡は、少し驚いて、隣に座る恋人の横顔を見下ろしていた。
「彼、恋人のことが、君たちより大切だって言ったんでしょ……?」
 ミカリは優しい目で聡を見あげて言った。
「言いやがったよ、あっさりと」
 憂也が苦笑して言う。
「……そうかな、私には、その逆に聞こえるけど」
 ミカリの呟きに、憂也が眉をわずかに上げた。
「彼、君らを守りたくて引退するって言ったんじゃないかな。あんな本が出ちゃえば、成瀬君だけでなく、グループそのものも致命的なダメージ受けるでしょ」
 聡は、あっと、思っていた。
「直人のことだから、騒ぎが大きくなれば、そこで解散させるかもしれないしね、貴沢秀俊のデビュー前に」
 ケイがそこで口を挟む。
「あの子……多分、優しいのね」
 ミカリの声も優しかった。
「大切な彼女の立場も、友達の立場も、両方守ろうとしたんじゃないかしら……私には、そう思えたわ、すごく可哀相な選択だけど、もうそれしかなかったんだなって……」

 
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 両手で顔を覆ったまま、雅之はしばらく動くことができなかった。
 憂也が最初に立ち上がり、りょうが続き、聡が続いた。
 玄関で、靴を履いている音を聞いている時も、
 ドアが開いて、そして閉じる音を聞いた時も、
 いや、出ないままの携帯が、何度も何度も着信を告げている時も、
 どれだけ飛び出したかったか判らない。
 どれだけ――助けてくれ、と、言いたかったか判らない。
「…………ごめん……」
 でも。
 自分で決めてしまったことだ。
 こうするのが正しいと、過ちから目を逸らしてはいけないと――自分で決めてしまったこと。
 頬に火のような鈍痛があった。
 それが不思議におかしくて、ようやく雅之は、目から手を離し、天井を見上げた。
―――やられたよ、思いっきりやりやがった。
 どう見ても女の子になってたのに。
 パンチ力だけは、逆についたんじゃないだろうか。
 そういや、受験はどうなったんだろう。最初は毎日気にしていて、だんだん思い出さない日が多くなって、最後には、もう、思い出すことから無意識に逃げていた。
 二度と……会うこともないと思っていた。
―――俺……笑ってたのかな。
 痣になってるかもな、と思い、もうそれを気にする必要もないと思い直した。
 顔を洗うために立ち上がり、ついでに玄関の鍵を閉めに行く。
 今日が本当にお別れだろうな、と思っていた。
 さすがに――憂也も、りょうも、いや全員があきれ返っているだろうから。
「…………」
 玄関。
 足元に、見慣れないものが落ちていた。
 雅之は眉をひそめ、その赤い袱紗袋を持ち上げた。


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「………夜が明けるな」
「最悪な夜明けだよな、ストームとしての最後の一日かもしんねーし」
 前を行く、りょうと憂也がぼそぼそと呟いている。
 青く白んだ空に、明けの明星が輝いていた。
 最後。
 本当に最後になるのか。
 本当に――俺たちは、ここで終わってしまっていいのか。
「俺、」
 違う。
 やっぱりダメだ、それがエゴだと、自分のためだと言われても。
「俺、雅のとこにもっかい行く」
 聡は顔を上げて言っていた。
「行くってどうすんだ、あと三十分で、撮影だろ」
 振り返った憂也が、眉をひそめる。
「それは、――なんとかする」
 今、行かないと手遅れになる。
 今、行かないと、多分一生後悔する。
「ぶん殴って、泣き落として、土下座してでも続けさせる。俺たち、5人でなきゃダメなんだ。俺のためじゃない、雅のためだ、雅だって判ってる、本当は5人でいたいって、絶対に思ってるはずなんだ」
「………」
「俺、上に行きたいとかそんなんじゃない、でも、今尻尾を巻いて逃げたくないんだ、雅にだって逃げてほしくない、事務所のコマみたいに、勝手にくっつけられたり、離れさせられたり、そんなの、ただの人形じゃないか!」
 しょせん事務所のいいなりのアイドル人形。
 てめーに、セイバーなんてやって欲しくねーんだよ。
 あんなこと思ってる奴らに。
 俺たちは違うって、俺たちはすごいんだって、
 そう判らせてやりたいから。
「………雅を翻意させても、本の発売は止められないだろ」
 苦しげにうつむいたりょうが呟いた。
「そこをなんとかしてやらないと、………雅が苦しいばっかりだ」
 それはそうだ。
 でも、
「一人じゃねぇよ、俺たち5人で受け止めればいいじゃないか」
 聡は全員を見回して言った。
「俺、その程度の覚悟くらいあるよ。事務所クビになったって、5人でもう一回やり直せばいいじゃないか!」
 それが、どれだけ甘い、子供じみた考えかというのは判っている。
 いったん事務所をクビになれば、どこの事務所も拾ってはくれない。どんな仕事も回ってはこない。それは――聡も知っている。
「………やってみるか」
 それまでずっと黙っていた将が、ふいに静かに呟いた。
 顔をあげた憂也が、初めてかすかな笑顔を見せた。
 まるで、この瞬間を待っていたように。
「おいおい、俺たちの一休さんが、またくだらねーとんちを思いついたらしいぜ」
「今度は何させるつもりだよ、将君」
 りょうの声はあきれている。
 将は、難しい顔で、髪を何度か掻きあげた。
 迷っている時の将の癖、だが聡も、なんだか妙にわくわくしていた。
「今度ばかりは自信がない、下手すりゃ、取り返しのつかないことになるかもしれない……ただ、いずれにしても崖っぷちだ」
 が、次の瞬間、将は割り切った目で顔を上げた。
「ま、いっちょ、やってみるか」
 いつだって取り返しのつかないことばっかやってるじゃん。
 いや、やらされてんだよ、将君に。
 夜明けは、まだ少し先だった。
 が、聡は、妙に明るい気持ちで、三人の後に続いていた。










    

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