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「バカ野郎!!!」
 覚悟はしていたものの、唐沢直人の怒りは、話の途中からいきなりマックスになってしまった。
「成瀬、貴様、アイドルの自覚があるのか、なんだってそんなバカな女に引っかかった!」
 容赦ない叱責。
 覚悟はしていたつもりでも、一瞬ぐらつきそうになる。
 が、事前に将に言い含められていた通り、雅之は沈黙と謝罪を繰り返した。
「とにかく、出来る限り手は打ってみる。それが上手くいかない時は、覚悟しろ、成瀬」
 最後に冷ややかに言われ、雅之は退室を命じられた。
 覚悟。
 それが、解雇なのか、それともグループ自体の解散なのか……。
「しばらく謹慎。本の動向が決まるまで、仕事はさせるなですってさ」
 社長室の外で待っていると、同じく呼び出され、少し長く室内にとどまっていた真咲しずくがぺろっと舌を出しながら出てきた。
「……すいません、ご迷惑おかけして」
「いいのいいの、それよかなんで気にすんのかねぇ、たかが暴露本のひとつやふたつ」
 平然と呟き、しずくは先に立って歩き出す。
「……それは、まぁ、」
「どうやってもみ消すつもりか知らないけど、ゴシップくらい、乗り越えられなくてどうすんだっつーの、ねぇ」
「……は、はぁ」
 本気なんだろうか。
 それとも、ただ、適当に言ってるだけなんだろうか。
「つまんない仕事ね、アイドルなんて」
 冷めた声でそう言って、真咲しずくは「じゃあね、ベイビー」と、自分のオフィスに消えていった。
 もう、腹は括っている。
 が――。
 雅之は、唇を噛んだまま、見慣れた事務所の天井を見つめた。
 この先訪れる嵐を、俺は――どうやって受け止めればいいのだろうか。
 そして本当に、それにみんなを巻き込んでしまっていいのだろうか。


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「いやぁ、またきてくれるなんて、なんだかもう、夢みたいだよ」
 先を歩く神崎琢磨は上機嫌だった。
「すいません、へんなことお願いしちゃって」
「いいのいいの、これで凪ちゃんが、少しでも前向きになってくれたら」
「はい、考えておきますね」
 にっこり笑顔で答えつつ、二度と来るか、と、凪は思っていた。
 仕事中、わざわざ呼び出されてくれたこの男には気の毒だが、これくらいしても罰は当たらないだろう。
「こんにちはー、東邦の神埼です、いつもお世話になってまーす」
 と、平然とテレビ局内を歩いている男は、あっさりと目的地に凪を導いてくれた。
「これはこれは梁瀬先生、いつ見てもお綺麗ですねー」
 神崎の肩越しに見える人に、凪はそっと頭を下げた。
 にっこり笑って頭を下げている美貌の女の目が、明らかに敵意を抱いて光ったのがはっきりと判った。
 この人は私を知っている。
 それは、明確な確信だった。そして、その理由まで、今、凪は知っているつもりだった。
「いやぁ、うちの新人がね、どうしても梁瀬先生に挨拶したいと言うもんですから。いやいや、生意気なことですいません。なにせ若いもんで、先生みたいなキャリアのある人に憧れといいますか、そういうものを抱いてる年頃なんですかね」
「少しいいですか」
 凪は、神崎の饒舌をさえぎるようにして前に足を進めた。
 一瞬笑って、梁瀬恭子は、冷ややかに凪を見下ろした。
「いいわよ」
 凄みさえ漂う瞳だった。凪は、わずかに、こんなところにまで来た自分を後悔した。
 そして思った。
 あのバカ――こんな人に引っかかって、相手になるはずないじゃない。一体どうするつもりだったのよ……。


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「別れてくださいって前置きならいらないわよ」
 喫茶店で、頼んだコーヒーが運ばれてくる間、煙草を取り出した女はそう言ってライターで火をつけた。
「セリフとしては、最低に陳腐。聞いてる方が恥ずかしいから」
「別れてください」
 凪は、低い声ではっきりと言った。
「彼を自由にしてあげてください。あんな本、出版しないでください」
「彼は自由よ。しょせん人に人は縛れないわ」
 女の声には抑揚がない。
 テーブルの一端を見つめたまま、凪は同じセリフを繰り返した。
「彼とつきあってたの……?」
 囁くような声がした。
「セックスはしてないのよね。それとも、もうした?」
「…………」
「あの時の声、聞いたことある?いく時の顔、見たことある?」
 き、聞いてる方が恥ずかしい。
 想像さえしたくない。
 凪は無言のまま、呼吸を整えて唇を噛んだ。
「オーラルセックスが好きなのよ、あの子、意味判る?ここ、ここで愛してあげるの」
 女が自分の唇を指し示すのがわかる。
 凪はただ黙っていた。
 もう一度、あの能天気男に会うことがあれば、今度は逆の頬をぶん殴ってやろうかと思いながら。
「……あなたのこと、彼から聞いたわ」
 女の声は、ますます楽しげなものになった。
「昔、ちょっと好きだった女の子だって。でも、子供すぎて忘れちゃったって。綺麗な青春の一ページ、ただの思い出。どうでもいい過去。それがあなただったんだ」
「…………」
 いや。
 今、こいつを殴りたい。
「あいつのこと、今、私もどうこう思ってるわけじゃないし」
 凪は感情を殺した声で呟いた。
「ほっときゃいいって思ってますけど、……正直」
「そんな顔してないわよ」
 はぁっ。
 凪は息を吐き、怒りの感情をそこで流した。
「………昔から、あのバカの夢知ってますから」
「幼馴染だったっけ、そういえば」
「あの男が輝いてるから、私も……色々、頑張れたと思ってますから」
「女の子の思い込みって怖いわねぇ」
 くすくすと笑われる。
「私、医者になるんです」
 凪はきっぱりとした声で言った。
「今は何もできないし、貧乏だけど、この借りは、ブラックジャックみたいな名医になって、絶対にお返ししますから」
 バカなこと言ってるよ。
 自分でも思う。
 女は無言のまま、ふっと煙草の煙を吐き出した。
 凪は顔を上げた。
 それまで、どこか凪に無関心だった女の目に、初めて明確な怒りが浮かんだ気がした。
 その変化の理由が、凪にはわからなかった。
「……それも彼に聞いた?」
「え……?」
「なんでもないわ」
 病気の子供がいる――。
 凪は、冗談社で、九石ケイという人が言っていた言葉をようやく思い出していた。
 いけない、これ、この人にとっては、禁句だったのかも――。
「……医大生?」
 運ばれてきたコーヒーから、いつの間にか湯気が消えている。
 凪は気まずさを感じてうつむいた。
「……いえ、まだ、推薦で合格決めた……ばかりですけど」
「随分先の話になるのね」
「…………」
 ふっと煙が吹きかけられる。
 耐え切れずに、凪は何度か咳き込んだ。
「私にとってはね、あの子が人生のすべてなの」
 あの子。
 それが、雅之のことだったらすごいけど、多分そうではないだろう。
「あの子が私の人生を天国から地獄に叩き落したのよ。憎んで、憎んで、なのに苦しいほど愛してる。あの子を失ったら私も死ぬわ。その気持ち、あなたにはまだわからないでしょうけどね」
「………失礼なこと、言ったのなら」
「ねぇ、あなたにとって、大切なものは何?」
 ふいに、女の目に楽しそうな色が戻ってきた。
 ひじを突き、少し下の目線から凪を見上げる。
―――大切な、もの。
「家族……」
「それ以外」
「………夢、です」
 少し迷ってから凪は言った。
 ずっと頑張ってきた、追い続けてきた夢。
「じゃ、それ捨てて」
 女はわずかに笑ってあっさりと言った。
「私にも、娘にも、彼は大切でとても必要な存在なの。それを諦めるんだから、あなたも何か諦めてくれなくちゃ」
「…………それは」
 凪はさすがに言葉を詰まらせた。
 そんなこと、できない。できるはずがない。
「小説家として再起することは、私の長年の夢だったわ。今からキャンセルするとなると、大変な騒ぎになるし、違約金だって払わなきゃいけない、なにより、私の信用がゼロになる」
「……………」
「あなたはね、それを私にしろって言ってんの。なんの関係もないくせに、それだけの覚悟もないくせに、ただの正義感から、そんなこと頼みにきてるの、ねぇ、ずぅずぅしいとは思わない?」
「…………」
「一生諦めろとは言わないわ。その推薦とやらを蹴りなさい。それで、成瀬君のことも、本のこともチャラにしてあげる」
 凪はさすがに何も言えなかった。
 黙っていると、かすかな笑い声が頭上から聞こえた。
「できないわよね?できるわけないでしょ。ね、私の気持ち、わかってくれた?」
「…………」
 女の綺麗な指がレシートを掴む。
 凪は、立ち上がることも出来なかった。
「誰だって、自分が一番可愛いのよ。どんな綺麗事並べたってね」
「………」
「もっと人生勉強しなさい、お嬢ちゃん」
 それが最後の言葉だった。
 凪は黙ったまま、目の前で冷えてしまったコーヒーを見つめていた。


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「冬源はうんと言いませんね」
 美波涼二は嘆息しながらそう言った。
「…………」
 回転椅子を所在なく回しながら、唐沢直人は怖い顔で唇に指を当てている。
「逆に、リソースをしつこく聞いてきました。どうも、社内のネットワークに不正アクセスされた形跡があるらしく」
「……………」
 唐沢はまだ黙っている。
 美波は嘆息して肩をすくめた。
「ま、元々業界の圧力が一切効かない会社です。説得は無理でしょう」
「作家先生の方は手を回してるのか」
 ようやく唐沢が重い口を開く。
「それは私が」
 のっそりと歩み出てきたは、藤堂戒――この会社の常務取締役で、別名「別れさせ屋」。
「梁瀬恭子からは、弁護士を通じて、謁見も電話もすべて拒否されました。まぁ、用意周到で、取り付く島もありません」
 美波は無言で、隣立つ男を見上げた。
 藤堂戒。
 身長百八十以上もある、巨漢である。
 薄い眉にあばたの浮いた顔。どうみても普通の人相ではない。
 そして、その過去も、無論平凡なものではない。
「来月には、全国の書店と、雑誌、そして電車の帯び吊りに、全面的に広告をぶつそうです。現役アイドルとの赤裸々な愛の日々。多分そこで、マスコミにも成瀬のことだと割れるでしょう」
「……テレビは押さえられる、しかし」
 唐沢の苦衷が、美波にはわかるようだった。
 雑誌。
 そして、現在急速に普及しつつあるインターネットだけは押さえられない。手のつけようがない。
「梁瀬恭子は未婚だったな」
 唐沢は目をすがめ、藤堂を見上げた。
「出産当時も、私生活を暴露した本を書いて話題になったはずだ。その線で、ワイドショーを通じて攻めてみるか」
 美波は軽く息を吐いた。
「それは、申し訳ないが逆効果でしょう。梁瀬恭子の知名度が上がり、テレビへの露出度が増えれば、成瀬のことが泥沼のように取り上げられるだけだ」
「………どうすればいい」
 さすがにお手上げなのか、唐沢は疲れたように立ち上がった。
「来春の新ユニットお披露目前には、こんなバカなゴシップはもみ消したい。やはり、成瀬は脱退させるか」
「それが無難でしょうね」
 あっさりと藤堂が口を添える。
 美波は何も言えなかった。
 そして、再び黙り込んでしまった唐沢を見下ろし、ふと思った。
 何を迷っているのだろう。
 この男にとって、ストームは貴沢のデビューを引っ張るためのコマにすぎないはずなのに。
 来夏には解散させると、以前からそう言っていたはずなのに。
―――そして俺も、
 何故、ここにいる藤堂のように、あっさりとそう言えないのだろうか。
 一番いいのは、成瀬の首を切り、事務所から追い出すことだと。
「……仕方ないな」
 ようやく意を決したように唐沢が立ち上がった。
 机の上の電話がなったのはその時だった。
 唐沢が即座に電話に出る。
「……なに?ファックス?わかった、転送してくれ」
 同時に、机の横にあるファクシミリが動き出す。
 美波は眉をひそめ、珍しく焦った所作でファクシミリの前に歩み寄る唐沢を見つめていた。


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『……久しぶりね』
 本当に久しぶりだ。
 関係を持ってから、ほとんど毎日声を聞いていたはずの女の声。
「……すいません」
 雅之は、深呼吸してから、言葉を繋げた。
「俺……なんていっていいか、わからない、……けど」
『そうね、女を弄んで、飽きたら連絡の一切もくれない、冷たい卑怯な男ですものね、君は』
 冷めた声は、抑揚がなく、怒っているかからかっているのか判りにくい。
 が、その刹那雅之は、胸が刺されるようにきりきりと痛むのを感じた。
「………俺………」
 受話器の向こうからは、沈黙しか返ってこない。
「あなたを捨てて……夢を、選んでしまいました。最低で……卑怯な男だと……」
『いいわよ、弄んだのは私の方なんだから』
 女の声はさばさばしていた。
『君もそれ、知ってたんでしょ、ただ君は、私と麻友を逃げ場にしていただけ、そんな男、こっちから願い下げ』
「…………」
 そう言いつつ。
 この人が、内心、傷ついたことを、雅之は理解しているつもりだった。
「……麻友ちゃんに、あの」
『二度と会わないで、電話も贈り物も寄こさないで』
 病院に送った本は、即日返送されてきた。
 自分の名を呼ぶたどたどしい声を思い出し、雅之は息苦しい切なさを感じた。
『人のことなんて気にしないことよ』
 わずかな沈黙の後、ため息まじりの声が聞こえた。
『私だって雅君の事務所から、相当のお金もらったしね、そういう意味じゃ、みんなうまいことやってんだから』
 それは、判っている。
 でも。
『人のことなんて気にしてちゃだめ』
 再度恭子が言う。少し強い口調だった。
『他人の見せ場なんて、いちいち気にしてちゃだめ、前に出るの、前に、前に、一秒でも多くテレビに映って、一言でも多く喋りなさい』
「……………」
『オンエアを見なさい、すりきれるほど見てみなさい。カメラがどんな表情を欲しがって、司会者がどんな間でどんなセリフが欲しいか、体が覚えるまで何度も見なさい。教えてもらうんじゃないの、待ってるんじゃないの。あなたが、自分であなたのポジションを掴むのよ、奪い取るの』
―――恭子さん………。
『がんばって、……それから』
 声はどこか寂しげだった。
 本の出版が取りやめになった。
 そのお礼を言いたかった雅之は、それさえ――いえないままに、涙ぐんだ。
『あなたの可愛い恋人に伝えて……どんだけバカなのって』
「……こい、びと……?」
『本のお礼ならその子に言って、まさか、本当に推薦蹴るなんて思ってもみなかったから』
 なんの話だ。
 なんの――ことだ?
『光を支えることで存在できる影もあるのね。……意地の張り合いで、負けたわ、私。いい人生勉強したってね』


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「そ、そうなのよ……凪ったら」
 まだ階下では、ぐすぐずと泣き声が聞こえる。
「信じられない、一言も相談せずに、……なんて勝手な娘なんでしょうねぇ、親の気もしらないで、ええええ、担任の先生からご連絡いただいた時は、天地がひっくりかえる気持ちでしたよ」
 うるさいなぁ。
 凪は、はあっとため息を吐いて、薄く開いた扉を閉めた。
 そして気づく。
 母親は煩くても、隣の部屋は静かなままだ。
 あれから――風汰も受検勉強を真面目にやりはじめた。ブランクがあるから、今年の合格は無理かもしれないけど、もう、心配する必要はない気がした。
(―――凪が一から頑張ってんのに、俺が何もしないわけにはいかないだろ。)
 推薦を蹴って、本試験を受けると言った翌日。
 風汰はそう言い、凪の部屋に参考書を借りに来た。
―――ま、終わりよければすべてよし、よ。
 凪は、さばさばと髪をかきあげた。
 幸い、学校から大学に連絡が行く前だった。
 推薦は補欠の生徒で決まり、凪は再度、志望校の本試験に挑むことに決めた。
 ショートカットなんて、そもそも邪道だったのよ。
 そう思ったら、気持ちは――びっくりするほどあっさりと切り替えられた。
 失敗したって、何度だってやり直せばいい。それだけのことだ。
 母親だけが、いまだに立ち直れないでいるのが気がかりだが、それはもう、本試験で結果を出して安心させてやるしかない。
 梁瀬恭子には、神崎を通じて連絡してもらった。数日後、その彼女から小包が届いた。
 詳細はわからない。が――それが、答えだとしたら。
「…………」
 あのバカ。
 今は――楽しくやってんのかな。
 一番大切な、仲間と一緒に。
 いつもの時間、無意識のようにテレビをつける。
 かつて、その中で、ひどく存在感を失っていた人は、今は、声を立てて笑っていた。
 まだ、どこか間が悪い。
 が、積極的に喋ろうとして、それが時々、スマッシュヒットになっている。
―――前より、いいじゃん。
 カメラに写る頻度も、以前より多い。他のタレントからも絡まれるようになっている。
―――がんばってんじゃん……。
 多少の寂しさを振り切って、凪はテレビのスイッチを消した。
 もう終わったことだ。
 私は私で、頑張らないと。
 卓上の携帯が鳴ったのはその時だった。
 なにげなく机の上のそれを持ち上げ、着信の名前を見て、凪は思わず立ち上がっていた。


                 40


「……よ」
 電信柱の影に隠れるように立っていた男は、ちょっと気まずそうに手を上げた。
 黒いジャケットに深くかぶったキャップ。
 顔は影になって判らなかったが、その、くせのある滑舌と、背格好ですぐに誰か判る。
「何しに来たの」
 風が少し冷たかった。
 慌てて出たので、上着も羽織らずつっかけ履き。凪はわずかに身震いして、その風よりも冷えた声でそう聞いた。
「………うん、」
 男は、困ったように言いよどむ。
 距離にして二メートル。
 その距離を互いに埋められないまま、向かい合っている。
 帰宅途中のサラリーマン二人連れが、けげんそうに視線を向けて通り過ぎていく。
「用ないなら、帰るよ、私」
 凪は、自分の足元を見ながらそう言った。
 そういえばここで。
 三年前の夏も、待ち合わせして、会ったんだっけ。
「……ごめん」
「なに謝ってんの」
 あの時、初めて手を繋いで。
「………ごめんな」
「なんで謝るの」
 それが、
 凪は、自分の視界がゆがむのに気づいた。
 信じられない、バカじゃん、私。
「………本当に、ごめん」
「だからいちいち謝んないでよ、あんたのためにしたんじゃないから」
 それが、
「私があの女に負けたくなくてしたことだから、あんたは全然関係ないから」
 それがキスした時よりうれしくて。
 あの交差点で信号渡るたびに。
 思い出して嬉しくて、ドキドキして。
「あんたなんか、ダイキライ」
「………」
「卑怯者、スケベ、意気地なし、根性なし、最低、最低すぎて顔も見たくない、大嫌い」
「ごめんな」
 凪は腹立ちまぎれに歩み寄り、立ったままの男の胸を拳で突いた。
「なんで来たのよ」
 よろめいて、数歩後退した雅之は、何も言わない。
「こないでよ、もう二度とこないで、いらいらする、むかつく、人生後悔だらけになりそうだから」
「………ごめん」
「だから、もう」
「ごめんな……」
 謝んないでよ。
「……………」
 なんで抱きしめるの。
 なん泣いてんの……私。
 それでも凪は、しばらく肩を震わせたまま、動けなかった。
「写真、持っててくれたんだ」
「……あんたが、欲しくもないのにくれたから」
 三年前。
 別れ際に交換した互いの写真。
 それを、捨てきれずに、小さく切ってお守り袋の中に入れていた。
「俺も……持ってた」
「…………」
「捨てられなかった……持ってる資格なんて、もうねーって思ってたけど」
「…………」
「ずっと持ってた……ずっと、なくしたと、思ってたけど」
―――知ってるよ……。
 それは、今、凪のポケットの中にある。
 梁瀬恭子から送られてきたもの。
 すりきれて、ぼろぼろになった定期入れのようなビニールケース。
 中には数枚のセリフが書かれた紙切れと共に、三年前に手渡した写真が裏返しに収められていた。
「………大嫌い………」
 凪は呟いた。
 もう止まらなくなった涙が、あとから後から頬を伝った。
 なんで、人って。
 三年もほっとかれたバカを、今でも好きでいれるんだろう。
 抱いてくれている腕が温かかった。
 首筋から鼓動が聞こえた。大好きな匂いがした。昔と――少しも変わっていない匂い。
「………大好き………」
「……うん」
「………大嫌い……」
「うん……」
「でも、」
―――大好き……。
 もう一度呟き、凪は男の背中に腕を回した。
「俺も……好き……」
 耳元で、夢のような声がした。
 凪はうなずいて、それから、いっそう強くその体を抱きしめた。
 いきなり、拍手がしたのはその時だった。


「な、な、な」
 なんなのよ、これ。
 凪もびっくりしたが、慌てて身体を離した雅之の方が、さらにびっくりしているようだった。
「ひ、ひでー、絶対のぞかないっつったのに!」
 口をばくばくさせたまま、向かいのマンションの影から現れた四人の男を指さしている。
「だって、俺もやられたもん」
 コートに両手を突っ込んだまま、しれっとした声で言ったのは片瀬りょうだった。
「俺もやられたに等しいし」
 と、楽しげに言ったのは東條聡。
「まぁ、これくらいは楽しませてもらわないとな」
 苦笑しているのは柏葉将で、
「王子様役は、パンチ力抜群の凪ちゃんに譲るしかねぇなぁ」
 思いっきり笑っているのが、綺堂憂也だった。
「そうそう、あれにはびびったよ」
「俺、腰が抜けそうだった」
「雅がずーっとトラウマだったの、実感したよ、理解した」
 と、勝手なことを言い合っている。
 いや………ていうか。
 こんな普通の住宅街に、アイドルが全員集合してていいのだろうか。
「俺たちのお姫様をよろしくな」
「俺も騎士の座を返上するしかないか……」
「ふ、ふざけんなっ、なんだよ、それ」
「俺も……好き……って、かーっっ俺にも言ってくれよ、そんなセリフ!」
 抵抗もむなしく、ばんっと背を叩かれている。
「ご、ご、ご、ごめん、その」
 雅之は泡を食った顔で、凪に救いを求めるような目を向ける。
―――どこまで、いじられキャラなのよ。
 凪は半ばあきれ、そして次の瞬間吹き出していた。
 ま、いっか。
 終わりよければすべてよしで。
「ライバルじゃん、俺たち」
 と、憂也がからかうように囁いてくる。
「負けないですよ」
 凪は笑顔で答えていた。
 全員が笑っている中、雅之一人が引きつった顔をしている。
 月が綺麗な夜だった。












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