6月23日の夜









                                     





 6月23日。
 居合わせたスタッフ全員が、その夜は、妙に浮き足立っていた。
 南青山にある完全会員制サロン。
 貴族の邸宅を改装して造られたという、純欧風二階建ての建物がそれである。
 高い天井には年代物の彫刻と、そして形ばかりの天窓。
 2階に続く階段はクラッシックな螺旋を描いている。
 真紅のビロウドが敷詰められた階段の下、予約客を待つ黒服のスタッフたちは、つい一分ほど前、彼らの前を通過していった人のことで、頭がいっぱいになっていた。
 まさか――今の時期、この男が日本に戻っているとは誰も思っていなかった。
 相羽匡史。
 日本では老若男女を問わず、殆どの人が知っているであろうプロサッカー選手。
 イタリアプロサッカーリーグ、フィレ―ナの所属選手で、日本サッカー界を象徴する男である。
 いまでこそ、日本人選手が海外チームで活躍することは珍しい話ではなくなったが、それも全て、相羽匡史というパイオニアの、あたかも奇蹟のような活躍があったからこそだ。
 サッカー後進国日本を、初めて世界の檜舞台に押し上げた男。日本で唯一、二度のワールドカップにレギュラーとしてフル出場した男。
 そして、つい先日、――まさに劇的なゴールアシストで、日本を三度目のワールドカップ出場に導いた男は、新聞やテレビなどの情報では、いまだ国際試合が行われているギリシャに留まっているはずだった。
 実は今夜、サロンのスタッフたちは、8時に予約が入っている、あるビックタレントの到着を待っていた。
 が、8時少し過ぎ、彼らが待っていた人の代わりに、唐突に現れたのが相羽匡史だったのである。
 黒のベルベットジャケットにベルボトムのジーンズ。コンバースのハイカットスニーカー。ジャケット以外は全てカジュアル。そんなラフなスタイルで現れた時の人は、すぐに現れた店長と一言二言言葉を交わし、それだけで赤絨毯の螺旋階段を昇ることを許可された。
 それは――この店では、絶対に有り得ない待遇だった。
「相羽さんって、近くで見るとすごいですね、肩とか腿とか、……普通の人と全然違う……」
 先月から、この店で働くことを許された女子大生は、隣りに立つ先輩スタッフにそっと囁く。
「スポーツ選手は沢山くるけど、全然風格っていうか……身体から出るオーラみたいなもんが違うよな」
 今年から正社員になったばかりの男もまた、職務を忘れ、興奮気味に囁き返していた。
 そして男は思った。相羽匡史は有名人であっても芸能人ではない。
 顔立ちは平凡で、むしろ無骨でさえあるのに、顔のラインも、首も、身体も、腕も脚も、立ち姿も―――全てが完璧以上に美しく見えるのは何故なのだろう。
 そして、店長と相羽の会話を耳にした彼は知っている。
 今夜、相羽匡史が、黒ビロウドのカーテンで仕切られた専用ルームで邂逅を果たす相手が誰なのか。
「やべ……なんか俺、ぞくぞくしてきた」
 実際彼は、身震いしながら呟いた。
 しっとりとしたメロディーが一階のフロアに流れ出す。
 新しい客の来店を告げる合図。
「ご予約の緋川様がおつきになりました」
 ドアボーイの声がする。
 その場にいたスタッフは全員姿勢を正し、今夜最大のVIPを迎え入れる準備をした。




「よう」
「おう」
 互いにわずかに手をあげる。
 それだけで、連絡もせずに過ごした数ヶ月の空白が埋まったのを、再会を果たした二人は理解した。
「たのむから」
 相羽匡史は苦笑して、一人で飲んでいたペリエのグラスを持ち上げた。
「こういう店で二度と待たせないでくれ、さっきから、居心地が悪くて仕方ない」
「何言ってんだ、お前さ、俺の何倍かせいでると思ってんだよ」
 そう言って、カーテンをくぐったばかりの緋川拓海は羽織っていたジャケットを脱いだ。
 ノースリーブの黒のカットソーにデニムパンツ。軍用ディティールのブーツをそれに合わせ、両手首には黒皮のリストバンドを巻いている。
 肩から二の腕にかけての、見事な稜線を描く筋肉。引き締まった腰。
 スポーツ選手とは別の意味で、日々身体を美しく鍛えていることがはっきりと判るボディ。
―――スターか。
 匡史は改めて、旧友の顔をまじまじと見ていた。
「なんだよ、気味わりーな」
 緋川拓海。
 彼は日本を代表するアイドルユニット「Galaxy」のメンバーである。
 脱いだ上着をソファに預け、そして相羽の対面に座るまで――その一連の所作のひとつひとつが、全て様になっている。
 スター。そう、緋川拓海は、日本の芸能界では、間違いなくトップポジションに立つ男だった。
「いや……拓海さんが、俺より三つも年上だとは思えなくてさ」
「うるせぇなぁ。匡がふけすぎてんだ。なんなんだよ、二十代でそこまでじじくさく落ち着くなっつーの」
 やがて二人の前に、食事の皿が運ばれてくる。
 ゆったりとくつろげるソファー。絶え間なく流れるフォーレ。
 シャブリをグラスに注ぎながら、緋川はしきりと、ワールドカップ予選の話を聴きたがった。
 匡史は、その質問のひとつひとつに丁寧に答えてやる。
 もともとは――数年前、日本が始めてワールドカップ出場を決めた年、雑誌の対談で知り合ったのが縁だった。
 匡史は気乗りがしなかった――あの当時、日本はサッカー狂想曲に包まれていた。誰もがサッカーブームに踊り、視聴率が稼げると知ったマスコミは、こぞって当時の日本代表メンバーのゴシップを拾い始めた。
 バラエティー、歌番組、まるでサッカーとは無縁の番組に、次々と代表メンバーが呼ばれ、女優やタレントは彼らとの恋をのぞんだ。
 そして――彼らは自然と慢心した。
 主要メンバーの殆どが20代前半。周囲の喧騒に自分を見失うな、という方が無理だろう。
 匡史は、仲間たちの堕落を割りに冷静に見つめていた。
 匡史の関心は当時も今も――常に、自己鍛錬しかない。いかに自分を、自分がイメージする所にまで持っていくか。それには、何をして、どこに力をつければいいか。それしかない。
 緋川拓海との対談は、そんな最中に企画され、匡史は断る選択肢のないままにそれを受けたのだが、三歳年上のトップアイドルは、匡史と初対面の挨拶を交わすやいなやこう言った。
「相羽君の今ってさ、十年前に、大人になったら自分はこうなりたいって、そう思ってた通りの今なわけ?」
 ちがいますね、と、匡史は迷うことなく即答した。
 もっと、上手くなっているはずでした。
 緋川は何故か爆笑した。
 以来、緋川と匡史は、急速に親しくなった。帰国の際は必ず会うし、緋川がイタリアに来てくれることもある。
 当然、今、匡史が一緒に生活している女性のことも知っているし――匡史もまた、彼が決して公にできない女性と、恋愛関係にあることを知っていた。
「いいよなぁ、匡はなんだか楽しそうで」
 緋川は、レモンを和えた鴨肉のローストをつつきながら、ぼやくように呟いた。
「俺らはさぁ、相変わらずたよ。最近わかった、しょせんは同じことの繰り返しだなんだよな、このままだと」
「そんなこともないだろ」
 緋川拓海が、近々本格的にハリウッドデビューする、という話は、海外で暮らす匡史の耳にも、メディアを通じて入っている。
 が、緋川はフォークを置き、少し考え込むような目になった。
「昔さ……丁度十年くらい前かな、すげえおっさんと、一緒にドラマの仕事させてもらったことがあってさ」
 両手を頭の後ろに組み、緋川は背中をソファにあずけた。
「今の俺と同じくらいの年だよ、なのにもう、プロデューサー。完全に人間できてて、日本のドラマ界をひっぱってるような人だった。なのにさ、その後すぐに退職して、小さいレコード会社はじめたんだ。俺、正直、この人はもう終ったなって思ったよ」
「……で?」
「それが、驚いたよ、今はそこが、業界有数のでっけーレコード会社になってんだ。アーベックス……聞いたことくらいあんだろ?」
「ふぅん」
「十年前……その人にさ、俺、十年後の自分を見ろって言われたんだ。で、見たね、すぐに見た」
 匡史が黙っていると、緋川はおどけたように肩をすくめた。
「その時見えたもんが……今、半分も達成できてないってどうよ」
「半分は達成したんだろ」
「………………」
 どうかな。
 そう呟き、緋川は初めて、寂しそうな笑みを浮かべた。
「……俺、かっこいいだろ」
「……まぁな」
 他にどう応えて言いか判らず、かといって、――笑うには、あまりに緋川の目が沈んでいたので、匡史は曖昧に相槌を打った。
「かっこよすぎるんだ。意味わかるか、俺みたいなキャラは、日本の芸能界じゃ絶対に大成しない」
 その意味は、漠然と理解できないでもない。匡史は無言で、手元のペリエをグラスにそそぐ。
「いつもくるのは同じ役、同じイメージ、何やっても同じだってよく酷評されるだろ、俺、でもそれが、周りが俺に求めてるものだから」
「壊しちまえよ」
「できねぇよ」
「……なら、頑張るしかないな」
「お前ならそう言うと思ったよ」
 自分の戦いは、自分で解決するしかない。冷たいと言われ、友人が寄り付かない所以だが、匡史はそれを信念として抱いている。
 突き放せば、大抵の友人は怒り出す――が、緋川に関しては、こういった理由で怒られたことは一度もなかった。
「…………あっちの映画に出るんだろ」
「かもな」
「かもなって、お前、そのために、昨日までロスに行ってたんじゃないのか」
 匡史の問いに、緋川は、何かを莫迦にしたように、大げさに肩をすくめた。
「噂だけが先行してたけど、俺には、なんのオファーもない。ただ事務所から、秋のスケジュールは空けとけって言われただけ。……いつもそう、今回、いきなりハリウッドでスポンサー回りさせられたのもそう、俺の意思なんてどうでもいいんだ、事務所の連中にとっては」
 緋川が、自身の海外進出に、なんら期待していないことが、匡史には少し意外だった。
 緋川は、対話相手の感情を読んだのか、自嘲めいた苦笑を浮かべた。
「事務所が全面的に金出して、製作する映画なんだよ。あっちから乞われて出るわけじゃない、緋川拓海のハリウッドデビュー?冗談じゃねぇよ、あれは、J&Mのハリウッドデビューだ。日本のアイドルが、そのまんまハリウッドで莫迦面さらすんだ、嬉しくもなんともねぇよ」
 匡史なら、即座に断ってるケースだろ。
 そう言って、最後のシャブリを飲み干した緋川は、ようやく気持ちが落ち着いたのか、何かを思い出したような目になって笑った。
「そういや、お前を初めて見た時に思ったんだわ、俺」
「何を」
「お前さ、あのおっさんに似てるんだ。今はアーベックスの専務やってるおっさん……。初めて見た時思ったよ、なんだろな、年は全然違うのに空気が似てるっつーか」
「…………」
「生き方の腹くくって、誰が何を言おうとそれを変えない強さみたいなもんを感じたよ。だから俺、お前とダチになりたいと思ったのかもな」
 そして緋川は腕時計に視線を落とす。
「電話しなくていいのか」
 匡史は、ちょっと意地悪い口調で聞いてやった。
「俺は別に……てめぇこそ、早く帰ってやれよ、たまの休みだろ」
 互いに苦笑し、そしてグラスを持ち上げた時だった。
 その緋川の上着から、微かな着信メロディーが流れ出した。
「……悪い、マナーにしてたつもりだったんだが」
 緋川は、閉口したように携帯を取上げて耳にあてる。
 匡史は――そんな友人から視線をそらしながら、自分とは違い、自由になれない緋川の立場を思い、わずかに眉をひそめていた。
 緋川拓海は、彼の所属事務所のドル箱タレントである。
 同じイメージで、人気が続く限り永遠に売り続けていこうというのは、まさに事務所の方針なのだろう。
 匡史が見る限り、緋川拓海の人気と、そして肉体的な美貌のピークは20代半ばだった。あの時、彼がハリウッドなり、大作映画なりに進出できていればどうだったのだろうか。
 彼の仲間たちは、彼ほど恵まれた造詣を持ってはいない、が、それゆえの個性と与えられる役の多用さで、すでに俳優としての実績は――残酷なようだが、緋川を軽く越えてしまっている。
 緋川が、それでも事務所を辞められないのには理由がある。
 大切な女性をマスコミから守るため。
 そして、事務所の後輩のため。
 緋川の契約更新と引き換えに、事務所は若手の年収のアップ、そして待遇改善を飲んできた。匡史には理解できないが、緋川には、そういった自己犠牲もいとわない正義感と熱さがある。
 それも――彼自信が決めたことだと思えば、匡史には「頑張るしかないな」としか言いようがない。
 今の、飼い殺しのような世界の中で。
「は……?ちょっと待てよ、それ、どういうことだよ!」
 深刻な声が聞こえたのはその時だった。
「とにかく、いったん俺、事務所に戻るから……ああ、また連絡する、じゃあ」
 匡史が振り返ると、忙しなく携帯電話を切った緋川が、眉を寄せたまま顔を上げた。
「ちょい……事務所でトラブったらしい」
 その顔は、まだ聞いた話が納得しきれていないのか、ひどくいぶかしげだった。が、そこには、匡史が初めて見るような、暗い陰鬱さが滲んでいた。
「トラブル?」
 ああ、と頷き、緋川は携帯をすべらせたジャケットに袖を通した。
「天野からの電話だった、速報だからよく判らないが、どうも事務所の奴が逮捕かなんかされたらしい」
「スタッフか」
「いや、……タレントみたいだ、今、事務所にはまるで電話が繋がらないから、確認しようがないってさ」
「………………」
 タレント。
 相羽匡史は、その意味の重要さに、さすがに足を止め、緋川の顔を見つめていた。
 緋川の所属事務所、J&Mは、男性アイドル専門の芸能プロダクションである。所属タレントのほとんどが、10代から20代前半、ターゲットは中高生、その事務所のタレントが、逮捕されるようなことをしでかした、ということになると……。
「今、うちは、新しいユニットのデビューを控えて大切な時だってのに……ったく、誰が何やったんだよ」
 緋川の口調は明るかった。が、その目はもう笑ってはいない。
「じゃあな、せっかく会えたのに、くだらねーことで水をさされちまった」
 最後に、緋川は、ようやく笑って手を上げた。
「また、うちに遊びに来てくれ、由那も楽しみにしてるから」
 匡史はそう言い、きびすを返して階段を駆け下りていく友人を見送る。
 そして、不思議な気持ちで確信していた。匡史にしてみれば、外れて欲しい予感だった。
 緋川の、あんな風に笑う顔を、もう――当分、見ることはないかもしれないと。
 



「すいません、ちょい、……ニュース、流してもらえませんか」
 乗り込んだタクシーの運転手に、緋川は小声でそう言った。時刻は10時丁度、ニュースの始まる時間である。
 無言のまま、運転手がニュース番組にチューナーをあわせ、そしてボリュームを高くしてくれる。
 キャップを被り、サングラスをかけたままの拓海は、焦れるような思いで、新内閣の組閣人事に関わるニュースを聞いていた。クソどうでもいいと思いながら。
 手元の携帯で、手当たりしだいに事務所のスタッフ――マネージャーにかけてみても、全て通話中である。
 何かが起こったのだけは確かだった。何かが――起きたのだ。この、たった数時間の間に。
 それでなくとも、ここ数ヶ月、事務所はマスコミの餌食になっていた。
 ゴシップのターゲットに絞られた「STORM」が、あることないこと書き立てられ、散々マスコミで叩かれた。
 それは、明後日デビューする新ユニット「なにわJams」のデビューに対する妨害なのか。それとも、もっと深い意図があるのか――
 長年トップの座に居続けた緋川からすれば、信じられないほど無防備だった若い連中にも問題はある。
 が、一方で、こうも思う。
 あまりに多くの敵を作りながら急成長を遂げた「J&M」という会社そのものに、今、マスコミ全体が報復を加えようとしているのではないかと――。
 だとすれば、たまたまスケープゴートに選ばれた連中は、不幸としか言いようがない。
 ニュースが切り替わったのはその時だった。
「では……ついさきほど、入りました速報です。東京六本木にありますJ&M事務所に所属するタレントKが、会社員に対する暴行傷害容疑で、今夜、9時35分、赤坂署に任意同行を求められ、その場で緊急逮捕されました」
 緋川は、心臓が凍りつくような気がした。
 嘘だろう――?と思っていた。
 これは、何かの間違いだろうと。
 暴行。
 そして、傷害。
 相手の出方にもよるが、ことアイドルの不祥事としては、薬に次いで最悪のパターン。
「本人は容疑を認めている模様です。詳細は、ニュースの中で判りしだいお伝えします」
 携帯電話が鳴っている。
 緋川はうつろな気持ちで、手元に置いていたそれを持ちあげだ。
 開こうとして――手を止める。
 ウィンドウには相手の名前が刻まれていた。
 美波涼二。
「………………」
 なんだろう、この胸騒ぎは。
 この――とんでもなく嫌な気分は。
 緋川は携帯を開いた。通話ボタンを押す。
「もしもし……」
 くぐもった声が流れ出す。
 タクシーが、交差点を右に曲がった。事務所はもう目の前だった。














                    
 「6月23日の夜」―終―
 







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