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 交差点の信号が青になる。
 歩きだそうとしたら、ふいに手を、暖かなぬくもりに包まれた。
「…………」
 流川凪は、少し驚いて、数歩前に立つ男を見上げた。
「恋人」ではない。
「友達」とも少し違う。
 小学校からよく知っていて、今は、見違えるほど高くなった背と、広い背中を持つ男。
 彼は、アイドル。
 いや、正式にはアイドル予備軍。
 男性アイドル専門事務所「J&M」で、正式なデビュー前ながら、人気を集めているJamKidsの一人である。
 成瀬雅之。
 凪にとっては、あまり認めたくないが、多分、初恋の男。
 肩を並べて歩く二人の背に、夕暮れが迫っている。
 横断歩道には他に人影もなく、車道には、一台のバンが止まっているだけだった。
 どこか暖かな赤紫の世界に、今は、凪と――今日、いきなり尋ねてきてくれた、成瀬雅之の二人だけしかいないような気がした。
―――手……おっきいな。
 うつむいた凪は感じていた。胸が、少しだけドキドキしている。
 この夏。
 初めてと、そして二度目のキスを交わした人。
 2人の変化は、たったそれだけのことなのに、繋いだ手から、今までにない何かを感じてしまう気がする。
 手の大きさとか、影の長さとか。
 彼が男だとか、自分が女だとか。
「……俺さ、」
 それまで、ずっと黙っていた成瀬が、ふいに、思いつめたように口を開いた。
 目の前には河川敷が広がっていた。紅い色彩が、静かに流れる水面に滲んでいる。風には、夕餉の香りが混じっていた。
「……高校、やめた」
 凪を見ないままの横顔は、暮れなずむ空を見ているようでもあった。
 凪は、今聞いた台詞を胸の中で反芻しながら、傍らの男を見上げた。
「デビューすることになったんだ。来月」
「…………」
「つーか、自分でも急すぎてびっくりしてる。憂也と、東條君と、将君と……あと、片瀬りょう」
 ふいに、明るい口調で指を折りはじめる。が、そのはしゃぎかたは、どこか無理をしている風でもあった。
「5人、で、ストーム、つか、ストームって、俺的にはどうよって感じなんだけど」
「いいんじゃない?」
 答えながら凪には、彼が今感じている――希望と期待を覆い尽くしても、なお大きい――、影のような不安が、少しだけ、判るような気がした。
 凪も立ったことがある。
 あの、嵐のような光の下。全ての闇を消し去った、まばゆいまでの虚構の世界。
 希望、絶望、喜び、悲しみ、祈り――光の下に立つものは、それら全ての、轟音のような感情の象徴であり、行き先だった。自分に向けられるもの全てを、決して失望させてはいけない存在。
 あの夏、凪は理解した。
 ここは、私の居場所じゃない。
 むしろ、ここは、「私」という個を殺してしまう。
 この先、成瀬は、その世界を、自らの意思で抜け出すことができなくなるのだろう。華やかなデビューの先に、たとえ何が待っていようと。
「東條君と憂也も学校辞めるって言ってた、……将君だけは、大学受験するって決めてたみたいだから、ガッコ行きつつで」
「………へぇ……」
「………ま、タイヘンだなっつーか、なんつーか…」
 声のトーンが下がり、会話が途切れる。
 成瀬はしばらく黙っていたが、ふいに、肩の力を抜いたように苦笑した。
「何?」
「いや、色々反応想像したけど、やっぱ、驚かねぇなって思ってさ」
「てゆっか、まだ、信じられないから」
「ま……俺も、何度も夢かと思ったんだけど、」
「……………」
 そっか。
 川から吹き上げた風が、凪の前髪を舞い上げた。
 そっか、デビューするんだ。もう、するって決めたんだ。
 じゃ、本当に。
 この人は、「アイドル」になっちゃうんだ。
 J&M事務所が、満を持してデビューさせるのなら。
 彼が「アイドル」として成功するのは間違いないんだろう、多分。
 GALAXY、スニーカーズ、MARIA、SAMURAI6。
 かつて事務所が送り出したユニットは、どれも全国的な知名度を誇る「アイドル」として芸能界で成功を収めているから。
「がんばって、……応援してるから」
 半分は本音で、半分は強がり。
 が、再び前を見た凪は、それでもわずかに微笑した。
―――そっか。
 そっか、私も……ぼやぼやしてられないじゃない。
 彼は、初恋の相手であると同時に、凪にとっては、絶対に負けたくないライバルでもあった。彼が、自身が輝く場所を芸能界で見つけたなら、凪も、自分が輝ける場所を、見つけなければならないと思う。彼の――後を、ただ追っていくだけではなくて。
「私、医者になるつもりなの」
 凪は、まだ両親にさえ打ち明けていない夢を、初めて他人の前で語った。
「マジ?」
 振り返った成瀬の目が、はじめて彼らしいものになる。
「な、なんか、こえぇな。何医者になんの?」
「小児科。近所の小児科のおじさんが、今にも死にそうだから」
「なんだよ、それ」
 かすかに笑う。
 その目が信じられないくらい優しくて、ふいに凪は胸がいっぱいになっていた。
「……自分でもよくわかんない。でも、やってみたいな、とはずっと思ってた。医者なんて、頭の悪い私には不可能だと思ってたけど」
 今年の夏が終わってから、凪は、なんとなく前向きになっている自分を発見していた。
 それが、この夏――J&Mで過ごしたひと時のせいかどうかは知らないけれど。
「……夏のさ、成瀬のくっだらないステージ見て、ちょっとやる気になってみた」
「ひっでー、どういう動機だよ、それ」
「あ、わかった、美波さんに励まされたからかも」
 J&Mの役員で、そして往年のアイドル――今は、若手の指導に徹している美貌の男、美波涼二。
 今は照れ隠しに言った言葉だが、実際、辞め際に「がんばれよ、どの道に進んだって、自分がここだと思う場所が一番だから」と、言われたのが、今でも胸の奥に温かく残っている。
「………美波さんね」
 と、成瀬が、どこかふてくされた目になって嘆息した。
「……?何よ」
「いや、別に」
「いや別にって顔してないよ」
「……別に」
「………」
 まさか嫉妬?と、あっけに取られながらも、それでも、少しくらい嫉妬させてもいいかな、と、凪はちょっと意地悪く思った。
 このひと時が終われば東京に戻って。
 そして、もしかしたら、二度とこんな風には会えないかもしれない人。
 それから二三言、くだらないというか、どうでもいいことを話して、自然に二人は、バス停に向かって歩いていた。
 歩きながら、凪はようやく、今日、成瀬がわざわざ千葉まで駆けつけてくれた意味を理解した。
 彼はデビューしたその瞬間から、誰か一人のものにはなってはいけない存在になってしまうのだ。
 全国の女の子たちを熱狂させるアイドル。
 ここにいるのは、小学校からよく知っている男で、この夏、一緒に過ごした頃と何ひとつ変わっていないのに――。
「も……もってきて、くれた?」
 バス停についた時、思いっきりぎこちない、明らかに照れている声がした。
 それを、どう手渡そうかと思っていた凪でさえ、照れてしまうほど照れているから始末に負えない。
「も……持ってこいっていうから、きた、けど」
「…………」
 黙って差し出すと、黙ってそれを受け取られた。
 そして雅之もまた、黙ってポケットから同じものを取り出す。
 私、欲しいって言わなかったぞ。
 そう思いつつ、凪も無言で、それを男の手から受け取った。
「時々……になるかもしんねーけど、電話する」
「……うん」
 自分を見下ろしてくれる目に浮かぶものが、恋なのか、何なのか、凪にはわからないままだった。
「ま、まだ……その、よくわかんねぇんだけど」
 で、多分、言っている本人も、判ってないに違いない。
「こ、こ、このまま、つきあっていけたら、いいと思ってるから!」
 繋いだ手が暖かかった。
 不器用な成瀬らしい言い方だと思ったし、今の凪にはそれで十分な気がした。
 やがてバスが到着する。
 暗いバスの窓越しに、乗り込んだ成瀬が、結構派手に手を振っているのが見えた。
「は、…恥ずかしいからやめてよ」
 と、呟いた声が聞こえるはずもないが、ちょっと周囲を見回した男が、手を振るのを止めて笑顔になる。
 あれが――二人で会った最後の日の記憶。
 今でも凪は、窓越しに見えた、成瀬の笑顔を覚えている。
 テレビやグラビアで見せるそれとは絶対に違う。自分だけ向けられた、最後の笑顔を。


                    ※


 彼の身体は美しい。
 張り詰めた弓のようでもあり、若い牡鹿のようでもある。
 十代最後の青さと硬さ、そして成熟途中の雄雄しさを同時に持っている絶妙な肉体。
 しなやかで、大胆。繊細で、無骨。
 まるで枯れない泉のように、あとからあとから欲望の情熱があふれ出てくる。
 その身体に抱かれる時。
 私は、まるで私自身が、彼を抱いているような錯覚に陥る。
 そして、極上のディナーを食べる前のような、ぞくぞくするような期待と興奮が、本能の部分からこみあげてくるのを感じるのだ。
 まず、私は彼の裸身を上から下まで観察する。
 綺麗な鎖骨。バランスの取れた肩。品よく張り詰めた上腕二等筋。
 なだらかな隆起を描く胸。それはなめし皮のように滑らかでもある。指で触れれば、はじかれてしまいそうな――若さ。
 その肌に浮かぶ鮮やかな血色に、私は刹那に嫉妬さえ覚える。愛しているから抱くのか、その若さをただ蹂躙し、汚したくて抱くのか、私にはいつもわからなくなる。
 が、淡く色づく乳首に視線を向けると、私の中から甘やかなものがあふれ出す。彼がそこを責められた時にあげる声――、それを連想するだけで、愛しくて、狂いそうになってしまうからだ。
 きれいに締まった胴体から、臀部にかけての芸術的なライン。
 腹筋が出ていては興ざめだ。私はマッチョは好きではない。男も女も、その肉体は、しなやかで、綺麗でなくてはならないと思う。
 彼はどういう鍛え方をしているのか、その肉体の作られ方は完璧だ。成長期の姿勢の正しさが、正しく美しい筋肉をつける。骨格から整えなくては、美しい身体というのは、絶対に出来上がらないようになっている。
 が、およそアイドルは、私のみたところ、誰しも綺麗な筋肉のつけ方をしている。プロの技だ。その中でも、この少年の身体は完璧だった。
 彼の肉体が、私を欲している証が、その下肢の翳りにある。
「来て……」
 私は囁く。
 私自身は、もう彼の身体を鑑賞するだけで、潤うほどに濡れているのだ。
 彼は獰猛に私を押し倒し、そして飢えたように奪い尽くす。
 私が悦びを得るのは、二度目のセックスから。
 満たされた彼は、けれどすぐに回復して、そして今度は、アイドルという形容詞を裏切る淫猥さで私の肉体をもてあそぶのである。







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