10

 
 浴室の影では、奈緒が携帯から、家に電話を入れている。どう説明して、どう謝っているのだろう。が、さしもの厳しい両親も、まさか広島くんだりまで追いかけてはこないだろう。
「………まいったなー」
 俺は呟き、狭いソファに仰向けに寝そべった。
 どれだけビジネス――もしくは普通のホテルで二部屋取ろうと思ったかしれない。が、地理もよく判らない初めての街、二軒のビジネスホテルで「満室です」と断られた時点で、それはもう断念した。
 ラブホテルが安くて、で、俺にそういう下心がないことを、なんだか言い訳がましく説明して、結局、通りすがりの、なんとなくシティホテル風のラブホに泊まることにしてしまった。
―――ね、寝れるかな、俺。
 ようやく電話を終えた奈緒が戻ってくる。すでに入浴を済ませた奈緒は、Tシャツの上に、ホテルのガウンをまとっていた。つーか、これ、マジで目の毒なんすけど。
「………今日は………ありがとね」
 声だけが頭上でした。
 寝たふりをしようとした俺は、うん、と、もごもごと曖昧にうなずいた。
「本当はさ……怖かったんだ」
 奈緒は呟いて、俺が寝ているソファから少し離れた場所にある、ダブルサイズのベッドの端に腰掛けた。
「翔君の言うとおり、行こうと思えば、いままで行ける機会はいっぱいあった。怖かったの、私。……逃げてたの、多分」
 逃げる?
 俺は、さすがに、半身を起こしていた。
「……それって、親にしかられることから?」
 奈緒はかすかに笑って、首を振った。
「本物の柏葉君に会うことから」
「………はぁ……」
 なんだ?そりゃ。
 深刻な話だと思ったら、またそっちの方面かよ。
「夢の中でも現実でもねー、彼は、ずっと私の王子さまだったの。私、中学まで女子高で、親もきびしくて、本当に自由がなかったから」
 が、奈緒の顔は、普段の夢見るいっちゃってる乙女ではなかった。
「雑誌やテレビで、笑ってる将君みて、それだけで、大満足だったの。夢の中では、私は彼の彼女で、恋人で、その夢を、ずーっと大切にしておきたかったの」
「…………」
「実際に、会っちゃったりしたらさ……コンサートで、本当にアイドルしてる将君、みちゃったりしたらさ……」
「…………」
「さすがに私にもわかるじゃない、私なんて、たかだか大勢のファンの一人で、将君が、星よりも遠い存在だって」
「そんなことも、ねぇだろ」
 俺は……また、慰めを口にしていた。ああ、俺は、とことん奈緒には弱いんだ。
「今日、わかったじゃん、あいつだって普通の人間じゃん。汗もかくしさ、トークですべったりもしてたしさ、歌も結構下手だったし」
「……ひどいなぁ」
 奈緒はなぜかムキにならず、かすかに苦笑しただけだった。
「それにさ、可愛いって言ってたじゃん、奈緒のこと。芸能人とパンピーなんて、しょせん紙一重の差なんだよ。あきらめなきゃ、チャンスはあるよ」
「…………」
 奈緒は何も言わないまま、ちょっとだけ俺を見て、そしてまた視線をそらした。
 つーか。
 この状況で、沈黙ほど気まずいものはないんですけど。
「ショウ君だから、行けたんだ」
「………?」
 そのショウが、俺のことなのか、柏葉将のことなのか、俺にはちょっと判らなかった。
「ショウ君だから、私、行こうって思った。ショウ君と一緒なら大丈夫かなって、そう思った」
「………??」
 どっちのショウだ?
「……だから、すごいショックだった………ショウ君が、他の子とデートしてるの、見たときは」
「…………」
 ん?
「相手の人、私に気づいてたんだと思うよ。私、ずっと二人のこと見てたし、その人、後ろにいた私に聞こえるような声で、翔君に私のこと聞いてたもん」
 俺のことか!
 夏休みのバイトまがいのデートのことだ。
 俺は慌てて跳ね起きた。
「え、いやー、いやいや、あれは、まぁ、色々な理由が」
 つーか、え、マジで?
 マジで?
 俺、あんなみっともない所を奈緒に見られちゃったのか?
「ほんと、全然意味なくて、ただの義理っていうか、姉貴の命令っていうか」
「………………」
 疑心に満ちた目が見上げている。
 俺は、何も言えなくなった。
 つーか。
 どういう意味だ?
 なんでそこで――奈緒がショック受けるんだ?
「そっち、行ってもいい?」
 奈緒が呟くまで、俺はただ、ほうけたようにソファに座ったままだった。
 いや――いくなら、俺が。
 とか思っているうちに、俺の隣に奈緒が座った。
「……………」
「……………」
 やべぇ。
 心臓が暴走してるし。
 ちょっと立てなくなってきた。これは、若さと、そして我慢し続けてきた時間が思いっきり比例している。
 いやまて、自分。
 奈緒には、今までさんざん肩透かしをくらわされてきた。ここで本気になって、それが勘違いだってみろ。何もかも台無しじゃないか。
「……家の人、怒ってた?」
 俺はせいいっぱい普通っぽく言ってみた。
「目茶苦茶怒ってた。お父さんカンカンだし、お母さん泣いてたし」
 奈緒は――特に苦にした風もなく、まるっきりの普通だった。
「明日、やばいだろ、じゃ」
「うん」
 しかし奈緒は、楽しげに笑って、俺を見上げた。
「でも、最後には、行ったもんは仕方ないから、気をつけて帰ってきなさいって。なんか、信じられなかった。あ、こんなにあっさり認めてもらえるもんなんだって……目からうろこが落ちた感じ」
「…………」
「……ありがとう……本当に」
 初めてのキスは、そのまま、すごく自然な感じだった。
 唇が離れて、奈緒が身体をあずけてくる。心臓が、ドキドキいっているのが判る。本日二度目のキスは、そんな奈緒の顔を引き起こすようにして、俺から強引にしてしまった。 
 俺は――なんだかもう、夢中で、柔らかい唇に何度もキスして、それから震える手を握り締めていた。
―――…それ以上のキスってできんのかな。
 俺には――悪いけど経験がある。が、奈緒にはないだろう。
 と思いつつも、余裕がないから、それなりのキスをしてしまった。奈緒はただ、震えていて、噛み締めた歯を開けてくれようとはしなかった。
―――……胸、触っていいかな。
 さ、触りたいな。
 でも、これ以上はまずいだろうな。
 とか思いつつ、結局余裕がないから、いつの間にか胸に手を持っていってしまっていた。
 奈緒は身体を硬くしているが、嫌がったりはしなかった。
―――い、……いいのかな……。
 でも。
 やっぱ、まずいかな。
 とか思いつつ、ああ、俺、今、余裕ゼロの男になっちまってる。
 ソファに仰向けに抱き倒し、俺は何度も閉じた唇にキスをした。それから、色んなところを触ってしまった。
 はじめて奈緒が声をあげる。
 その、かすれたような甘い声に、俺のアレは、一瞬でマックスになってしまった。
 声をあげた奈緒の口に、被さるように口づける。
 ぎゅっと閉じた目の、まつげだけが俺にも見えた。
 もう、抑制もへちまもないくらい、時間の感覚さえぶっ飛ぶくらい、俺は目茶苦茶興奮していた。
 が、
「翔……君……」
 ふいに、奈緒の声が聞こえた。
 俺の髪に、奈緒の手が触れている。
 初めて呼んでくれたのか、何度か呼んでいてくれたのか。
 それさえ判らないほど、俺はテンパってしまっていた。
「……翔……く、ん」
 かすれた吐息が、耳元で何度も繰り返されている。
「奈緒……」
 俺の声も、相当かすれてしまっている。
 俺の膝の下。
 しっかりと閉じた奈緒の脚が、小刻みに震えている。
 もしかして怖いのかな――俺はふと、というか、相当遅ればせながら、我に返った。
 俺が奈緒の顔を見下ろすと、奈緒は、おずおずと閉じていた瞳を開けた。
 今の状況を、嬉しいというより、不安に感じているのがはっきりと判る、おびえたようなまなざしだった。
「わ……私のこと、」
 あえぐような囁き声がした。
「好き……?好きだから……してるん……だよね」
「……………」
 好きじゃなくてもする。
 それが男だ。
 でも奈緒のことは好きだ。
 本当に大好きだと、俺は今、結構心の底から実感している。
「……好きだ、から……」
 断腸の思いとは、こういうことを言うのかもしれない。
 俺は額に汗しつつ、相当無理をして身体を起こした。
「今日は……こ、これだけにしとくかな……はは」
 奈緒が、乱れた髪と衣服を直しながら、疑心に満ちた目で俺を見上げる。そうだ、笑う場面じゃないんだ。ここは。
「だ、……大事に……したいんだ」
 俺は――相当赤面しながら、それだけを言った。
「今夜、やばいことしたら、俺、奈緒のお母さんに顔見せられなくなるじゃないか」
 奈緒がようやく笑い、そして「そっか」と、実に嬉しそうに、俺の身体に抱きついてきた。
「翔君、大好き!」
 うー、だから。
 そうされると、決心が鈍ってしまうわけで………。


                    11


「何やってんの?」
 俺がそう聞くと、
「んー、整理、あんまりたまっちゃって、もう置く場所がないから」
 と、さばさばした口調で言い、奈緒はふぅっと額の汗を手の甲でぬぐった。
「ふぅん、」
 と、俺は所在無く髪をかきあげ、買ってきたチーズケーキを奈緒の机の上に置く。
 きちんと片付いた学習デスクの上には、奈緒が今学期に入ってから入部した、合唱部の冬定演のリーフレットが置かれていた。
「あ、それもらって、来てくれるよね、来月の二十日」
「うん、オーケー」
 俺はそのリーフレットを持ち上げる。
 実際、高校に入ってはじめて部活を始めた奈緒は、なんだか毎日生き生きしているようだった。
「最近、なっち、なんだか雰囲気変わったよな」
「そうそう、明るくなったっていうか、つきあいやすくなったっていうか」
 と、ますます野郎どもの注目度もアップして、「彼」である俺は、ちょっと内心面白くないのだが。
 で、俺は――信じられないことに、奈緒のおふくろさんに紹介なんかされたりして、一応、限定つきながら、お屋敷への出入りも許されるようになったのである。
「今日、いないの?」
 俺は、背を向けたまま雑誌を梱包している奈緒を見ながらそう言った。
「うん、七時までお弟子さんの家に稽古に行ってる。お父さんは出張中」
 あ、じゃあ。
「丁度いいから、この作業、翔君に手伝ってもらおうと思って、あと」
 奈緒は振り返る。少し短くなった髪は、まさにモーニングガール風にカットされて、マジでキュートさアップって感じだ。
 もう、つきあいはじめてかれこれ四ヶ月になるのに、俺は、またもや胸を打ち抜かれてしまった。
 奈緒はそのまま立ち上がり、俺の傍に歩み寄ってきた。
「……最近、翔君が、少しいらいらしてるのがわかったから。……ごめんね、忙しくて」


 恋愛って不思議だ。
 俺の指をぎゅっと握り締め、かたくなに目を閉じている奈緒。
 でもその身体は、最初の頃のように、がちがちになってはいない。
 柔らかくて――あったかくて。
 抱いている俺が、逆に抱かれているんじゃないかと、思ってしまうことがある。
 短いプリーツスカートが捲くれ、綺麗な腿がほとんどあらわになっている。で、そんな奈緒の上に膝をついて覆いかぶさっている俺の手は、スカートの影に沈んでいる。
 奈緒の部屋のベッドの上。
 おふくろさんが見たら、一瞬で卒倒して、俺は訴えられてしまうかもしれない。
「……みないで……」
 消え入りそうな声がした。
 まだ夕方には間があって、いくらカーテンを閉めても、部屋の中はどこか明るい。
「見てないよ」
 と、俺は嘘をつき、本当は、そこにもキスしたいくらい――可愛い、俺を受け入れてくれる部分にもう一度触れてみた。
 奈緒がもどかしげに息を吐く。 
 俺は、もう、切ないやら愛しいやら、そんな突き上げるような感情がごっちゃになって、奈緒を抱きしめ、目茶苦茶にキスをする。
 かっこよさとは無縁のキス。ただもう本能と情熱に任せたまま、唇を奪う。奪うっていうより食らうって感じ。
 奈緒の言うとおり、俺は確かに最近のご無沙汰をいらいらしてた。久しぶりだから――多分、かなり余裕がない。
 奈緒の反応を確かめるより早く、自分の欲望を優先してしまう。
「翔……くん……」
「奈緒……」
 うつむいた俺の額から、汗が伝う。
 それを奈緒の指が払ってくれて、今度は奈緒のほうから俺を引き寄せるようにしてキスしてくれた。
 今度、切なげな声を漏らしたのは俺の方で、
「翔君……好き……」
 あー、言うな、今。もたなくなる。
「好き……大好き、」
 理性も抑制もぶっとんじまう。
 互いの呼吸が、ちょっと獣じみてきて交じり合う。
 奈緒のこんな顔も声も、知ってるのは俺だけで、で、俺の今してる顔とか声も、もう奈緒しか知らなくて。
 それが、すごく不思議な気がする。
 付き合う前は、まるっきりの他人で。
 付き合いだしてからも、どこかこいつは異星人で。
 なのに今は、もう俺の中の心の一部になっている。一時でも離れたくないし、離れたら苦しい。
 愛しくて、大事にしてやりたくなる。守ってやりたいって素直に思える。俺のすべてをささげます、奈緒。
「奈緒……」
 一瞬、我を忘れてすべてを捧げた……じゃねぇ、出し切った俺。さすがに少し照れて、その目を見ないままにキスをした。
 俺の首を強く抱きしめ、耳元で奈緒が囁く。
「大好き……翔君」
 うん、今なら、もう飽きるまで言ってくれ。
 多分、一生飽きねぇけど。


                   12


「何も焼かなくてもいいだろ」
 俺が言うと、奈緒は何も言わないまま、マッチをこすって火をつけた。
 奈緒の家――その敷地面積の広さは、むしろ家っつーよりお屋敷なんだけど、広い庭の片隅に焼却炉みたいなものまでついてて、奈緒は、その前のコンクリの上に雑誌の切り抜きの束を重ね、今、それに火をつけたのだった。
「いいの、お気に入りだけ選んで残したから……」
 背をむけたままの奈緒が呟く。
 めらめらと、色彩豊かな衣装を着たアイドルたちの姿が、赤い透明な炎に包まれていく。
 そのほとんどが、柏葉将の笑顔だった。相当若い頃から、今の最新のものまである。
 もう奈緒は、毎月恒例の雑誌のまとめ買いをやめた。
 何をさておいてもSTORMが出る番組があれば飛んで帰る――こともなくなった。
 部活を始め、友達も増えたようだった。
「卒業……したんだ」
 奈緒が呟いた。
「うん、」
 俺も、そこに立ったまま、立ち上る煙を見上げ、うなずいた。
「コンサートの後半くらいから、すとんって、胸の中に何かが落ちてくるみたいにね。ああ、これで終わりになるんだな……こんなに苦しいほど好きだったのに、これで終わるんだなって」
「………」
 奈緒の指が、自分の目元を払うのが判った。
 俺はそれを、煙のせいだと思ってやることにした。
「裏切って、ごめんね、将君」
「…………」
 そのショウ、まさか俺の翔じゃねぇよな。
 そして、ようやく奈緒は立ち上がる。目は少し赤かったが、泣いている風ではなかった。
 綺麗な唇を色づかせている仄かな朱。それは、俺がバイト代でプレゼントしたリップだったが、買った状況を見られていただけに、なかなかつけてはもらえなかった。そのせいか――ひどく大人びて見える横顔。
 俺たちは手を繋いで、秋晴れの空を見上げる。
「友達もさ、そろそろSTORMファンやめよっかな、って言ってた。応援はするからファンやめるっていうのも変なんだけどね」
「うん……」
 多分それは。
 思春期で――まだ、どっか大人になりきれなくて、現実が見れない子供が、一度はかかる熱病みたいなものなんじゃないだろうか。
 俺もモーニングガールに相当のぼせあがってた時期があった、が、それは、いつくらいからだったか、熱が冷めたみたいに関心がなくなった。
 テレビの中で歌うアイドルより、現実の女の子に、俄然興味が出てきた。
「………あんなにね、一生懸命歌ってね、誰も歌なんて聞いてないのに、いやな顔ひとつしないで、ファンのみんなに手を振ってね」
 空を見上げた奈緒の横顔に、はじめてひとすじの涙が伝った。
「ファンを喜ばせるために、いろんなこと犠牲にして、あんなに頑張ってるのにね、……いつか、私みたいにさ、どんなに好きでも、いつかファンは彼らから離れていくんだって……そう思ったらね」
「うん………」
 もちろん、そこにビジネスが絡んでいる以上、彼らの存在は、奈緒が思うほどピュアなものではありえない。が、俺は、それでも奈緒の言ってることは、ある意味納得できていた。
 ファンはいつか現実を知り、そして、一時夢をもらった存在を過去の思い出に変えていく。が、俺らにとっては夢の存在でも、アイドルは実際に生きていて、年とって、人気なくなっても、その後の人生ってやつが続いていく。
 その時、彼らには何が残るんだろうか。
「……アイドルってかわいそうだなぁって………」
「そうでもないよ」
「そうかな」
 うん、きっと。
 奈緒には言えないけど、あんなにかっこいい奴らに、女がいねーなんて思えないもん。
 今日俺が感じたみたいな幸せを、きっとあいつらも、特別な人とわかちあってるんだと思うよ。
 でないとさ。
 生きていけねーんだよ、人ってさ。
 ま、俺みたいな子供が悟ったように言うことでもないけどよ。
「勉強、がんばろうね」
「お、おう」
 俺はちょっと言葉を詰まらせる。
 まったく女は現実的だ、今泣いたと思ったら……。
「大学、同じところにしたいもん。翔君には頑張ってもらわないと……」
「わ、わかってるって」
 俺たちの明日も、どうなるか判らないけど。
 繋いだ手があったかかった。
 少し日が翳ってくる。
 もう秋だねー、奈緒の横顔が、やはりどこか寂しげにそう言った。
 柏葉将の笑顔が、最後の炎に包まれている。
―――あばよ、ライバル。
 俺は、心の中で、そう呟いた。














          アイドル追っかけ事情(終)
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