8

 
 八月十九日
 その日が来た。
 会場の熱気に、俺はただ気おされていた。つまり、来てしまったのである。ここ、広島グリーンアリーナに。
 正直、最後まで迷いに迷った。が、姉貴にいまさら駄目になりました――と言えなかったのが全てだった。
 今ならわかる。
 俺が奈緒を応援していたのと同様に、姉貴も、俺を応援してくれていたのである。
 自分だって決して多くはない小遣いから、惜しげもなく三万を渡してくれた。それを無にしたくない。
 それに、――少しだけ興味があった。
 奈緒が、あそこまでいれこんでいるアイドルグループというものに。
 現役アイドルを、生で見られるわけである。こんな機会は、奈緒にも言ったが、新幹線も通らないド田舎に住んでいる以上、そうそうはない。
 午後六時半。
 まだ真昼のように暑い最中、ようやく夜の部開場。行列を作っていた人たちが、どっと場内入り口に向かっておしよせる。覚悟していたが、オール女、女、女の世界。
 若いのもいれば、子供もいる。で、すんげーお年よりもいる。つか、来るとこ間違ってんじゃねーかと思うくらい。
 たまに男の子が、母親に手を引かれて混じっていた。が、高校生らしき人影は、見渡す限り俺くらい。
 俺は「あの人、男一人かしら」みたいな視線に耐えつつ、チケットに書かれた席を求めて、さざなみのようなおしゃべり渦巻く場内に入った。
 すげー。
 コンサートのステージってこんななのか。
 広いアリーナ。ステージはその真ん中にあって、最後尾にもあって、で、当然前にもあった。
 つまり合計三個のステージ。本来の舞台がある前のステージが一番でかくて、そこは紗のような薄いカーテンで覆われていた。紗の向こうには、宇宙船めいた巨大なカプセルが、淡い照明に照らされて、鎮座している。
―――ど、どういう仕掛けだよ。
 そのでかさとものものしさにおののきながら、俺は二階席の高みから、階下のアリーナを見渡した。
 アリーナの中を十字型の通路が横断している。三個のステージを繋ぐ通路。つまりそこをアイドルたちが通りすぎることになるのだろう。通路の傍の席の人たちは、じゃあ、相当間近で生芸能人を見られるってわけだ。
 無論、スタンド――つまり二階席の、しかも後ろの方の俺には、関係のない話だが。
 ほとんどの女の子たちが、写真入のうちわを持っている。もしくは、手製のロゴ入りのうちわ。
 りょう、ピースして
 将君、大好き
 憂也、愛してる
 等々。
 それらの文字が、毒々しい蛍光色でうちわの表面に貼り付けられている。
 あとは、星型のペンライト。
―――うわー、こ、これが、噂のペンライトかよ。
 俺は正直びびっていた。
 みんながみんな持っている。
 まるで、夏の課題を一人、忘れてきてしまった気分である。
 それにしても、ここにいる連中の、妙なハイテンションぶりはなんなのだろう。
 なんなんだ、一体どんなすごいもんが始まるんだ――てな気持ちである。
 席は――なかなか見つからなかった。うろうろしていると、黒のスタッフジャンバーを着たお兄さんが、即座に席を見つけてくれた。ジャンバーの背には「チーム・STORM」としゃれたロゴが入っている。
 で、俺は驚いていた。
 十四列というから、相当後ろだと思っていたのだが、なんと、それは、スタンドの最前列だったのである。
「うわー、すげー」
 下をのぞいてみて、さらに驚いた。真下に、いかにもここを通りますよ、みたいなライト付の通路が設けられていて、それが、そうとう高い位置にセッティングされている。
 十字通路からここに向かって階段がついていて、もしアイドルたちが階段を駆け上がってこの通路に出れば、なんと、スタンド最前列の俺は、アイドルを、ほぼ真正面、しかも一メートルたらずの近さで拝めることになるのである。
 これは、間違いなく、相当いい席に違いなかった。
 無論、隣の席は空席だ。
 ああ、ここに奈緒がいたら――どんなによかったろう。
 真下の通路、ここをSTORMの誰かが通ったら、柏葉将が通ったら。
 やがて――場内の照明がふっと消える。
 消えた瞬間、ほんとに間髪いれないタイミングで「きゃーーーっ」という悲鳴が上がった。俺は別の意味でびびってしまったが、それは、期待から来る女たちの悲鳴のようだった。
 静かな音楽。目を射るほど眩しいレーザー光線と無数の色つきライトが、場内を稲妻のように駆け巡る。
 このイントロ。
 あ、聞いたことがある……確か。
 イントロが終わったと同時に、ものすごい爆発音がした。
 音だけじゃない、実際、何かが、ステージの双方から爆発していた。火花と轟音と、そして白煙。
 目の前が白く弾け、うわっと思った瞬間、ステージの上の、巨大なメタルカプセルが中央から割れた。紗のカーテンはなくなっていた。いつなくなったのかも判らなかった。
 その中に立っている。
 スモークと逆光、シルエットになった5人の姿。
 悲鳴。
 悲鳴というか、これは――なんなんだろう。地鳴りのようだ。なんだ、この凄まじい雄叫びは。
 激しいビートに乗って音楽が流れ出す。
 いきなり会場全体が明るくなった。そしてレーザー光線がめまぐるしく飛び交い、シルエットだった影が、その全身をライトの前に現す。
 うわっ、
 俺はその刹那、耳をふさいだ。
 ものすごい歓声。
 悲鳴、嬌声。
 いっせいに振られるペンライト。
 まるで貴族のような白いタキシードか、軍服か、そんな衣装に身を包み、インカムを耳につけた5人の男。
 それが、正面のステージに立っていた。
 綺堂憂也
 片瀬りょう
 成瀬雅之
 東條聡
 柏葉将
 俺は正直、生アイドルが――こんなにかっこいいものだとは、夢にも思っていなかった。
 瞬間、ぞくっと鳥肌がたったほどだ。
 全員が、一般人とは明らかに違う。すらりと伸びた綺麗な肉体。信じられないほど小顔で、肌は女もびっくりするほど綺麗だ。で、遠目ら観ても、その顔立ちの美しさがはっきりとわかる。
 彼らのバックでは、巨大スクリーンが、その表情を一人一人アップで映し出している。
―――ほ……本当に、同じ人間なのかよ。
 曲に乗って始まる、一糸乱れぬ踊り、脚を上げ、腰を振り、ターンして止まる。腕を振る、視線を止める。その動作のひとつひとつが、信じられないほどかっこいい。ワイルドで男らしい。
 普段、バラエティやドラマで見るひ弱さや情けなさは微塵もない。
 彼らの肉声が流れた途端に、また歓声。
 やがて、綺堂憂也のソロになる。そこでまた歓声。
 今度は成瀬雅之。そこでまた歓声。
 次に、中央の階段下りながら、片瀬りょうのソロ。
 この時の歓声が、一番ものすごかった。
 そして東條聡。
 それから。
 最後に柏葉将が前に出てくる。
―――こいつか。
 俺は思った。
 同時に、バックのスクリーンが、柏葉将の顔をアップで捉えていた。
 かっこいい。
 顔だちは女みてーだ、しかも相当な美人顔。
 なのに目に、すごい力というか、男の色気みたいなもんがにじみ出ている。
 かなわない……つーか、はなから勝負できるような相手じゃないけどよ。
 ひときわ高まった歓声の中、5人が、見計らったように、ステージの最前列にジャンプして飛び出した。
 また割れるような歓声。
 力強いダンス。狂いのない見事なステップ。
 大音量の音響は、耳が痛いほどだったが、そうでもしないとこの大歓声には勝てないのだろう。
 歌はクチパクだった。あ。やっぱりな、とは思ったものの、そんなものはどうでもいいと思えるほどの迫力だった。
 曲が変わる。
 これは、俺の知らない曲だ。が、変わった途端、また歓声。
「広島!元気だったかーっ」
「おらおらっ、広島――っ最後までついてこいよ!」
 掛け声と共に、5人が通路に走り出てきた。アリーナを十字に区切っている通路。
 当たり前だが、アリーナのお客さんは大歓声をあげ、会場がそのせつなぶっ壊れるかと思ったほどだ。
 歌いながら、時に両手を上にあげ、場内に拍手を求めている。腰を振りながら片手を回し、観客に一緒に躍るように、声を出すように求めている。
 で、すでにクロアリの巣みたいな満員会場からは、今かかっている曲に合わせて大合唱。年末の第九もまっさおな狂いのないハーモニー。
 ものすごい熱気と歓声の中。STORMは走る。とにかく走る。会場すべてを回りつくすつもりらしい。その彼らの後をカメラを抱えた黒服の人が追っている。ようやく判った。そのカメラの映像が、巨大スクリーンに映っているわけだ。
「声小さいぞー広島」
「きこえねぇなぁ!」
 このワイルドなドスのきいた声が、普段物静かな片瀬りょうのものとは、俺は一瞬信じられなかった。
 彼らは笑顔を見せて手を振り、時に脚をとめ、踊る。
 無論、走りながらも、インカムで歌いっぱなしである。流れているのは歌入りの曲だろうが、音は拾われていなくても、実際に歌っていることだけは間違いない。彼らが脚を止めた付近では、スタンドもアリーナも、大騒ぎになっている。
―――こ、こんなんじゃ、まともに歌なんて……
 歌えないだろう。つーか、誰も聞いてないんじゃ……
 そりゃ、実際に歌ってないんだから、聞いて欲しいってのもないと思う。が、コンサートってのは、まがりなりにも歌を聞いてもらう場なのではないだろうか。
 と、思ったが、STORMの5人は、すごい楽しそうだった。笑っている。どの顔も笑って、開場のあちこちに手を振っている。
 ピースして、のうちわの前では、脚を止め、丁寧にピースサインを返している。
 ここまでしなくても――と思うくらい。
 場内を、まさに縦横に駆け回った彼らは、再び前面のステージに集結した。
「またきたぜー、広島」
 成瀬雅之。
「俺たちと一緒に楽しもうぜ!」
 柏葉将。
「ぼやぼやしてると、追いてっちゃうよー」
 綺堂憂也。
「この夏、最高の思い出を作ろうな!」
 東條聡。
「広島、これが本当に最後だからな、しっかり最後までついてこいよ、よろしく!」
 片瀬りょうがそう言い、場内の照明が再び落ちる。
 俺は――ようやく息をついて、椅子に腰を下ろしていた。いや、座る者は誰もいなかったのだが。
 正味三曲。イントロから息もできなかった。時間の感覚さえなかった。すげぇ。俺はマジで思っていた。すげぇ、すげぇじゃん、アイドル。
「座るの、早いよ」
 頭上から声がした。
 何時の間に――来ていたのだろう。
 つーか俺、そんなことにも気づかなかったのか。
「すごいね……私、もう泣けちゃったよ」
 奈緒の横顔は、実際泣いたことがはっきり判るほどだった。
「すごい……想像してたより、ずっとすごい……来てよかった、ありがとう」
 再び照明が一斉にステージを射るように照らし出す。
 わずかな間を空けて飛び出してきた5人は、ノースリーブのラメが入ったような色違いのシャツを着ていた。
 歓声。もう慣れたが、慣れてもすごい。
 アップテンポの曲にのって、5人が通路に下りてくる。歌いながら会場の四隅に散らばり、片瀬りょうが真ん中のステージに立つ。
 曲は――奈緒が、好きだと言って、何度も聞いていた曲だった。年上の恋人への、もどかしい恋心をつづった歌。
 俺らが座る席の真下に、成瀬雅之が立った。すっげー間近。朝礼の校長よりもろ間近だ。
 睫の長さまではっきり見えるほどだ。
 成瀬雅之は、テレビで見るより二倍も三倍もいい男だった。すらっと痩せていて、手足に綺麗な筋肉がついている。肌は、テレビだと妙に荒れて見えるのに、生は、むしろ女みたいになめらかだ。
 彼は顔を上げ、スタンド上部に向かって手を振った。むろん、俺や奈緒のいる方にも。
 視線が、マジであったんじゃないかと思ったくらいだ。
 そして、曲が始まると歌いながら踊りだす。ハードな楽曲で、踊りも相当激しかった。
 かっこいい。脚が長い。腰が綺麗に締まっている。
 体の線がめちゃくちゃ綺麗だ。笑う顔も、真剣な横顔も、どれも写真に残せるほど決まっている。
 で、すごい汗だった。汗で、髪がもう張り付くほど濡れている。首を振るたびに、水滴が飛び散っているのさえ見える。
 歌は口パクでも、このステップと、流れる汗は本物だ。どれだけ練習したのだろう。本格的かどうかは、俺にはさっぱり判らない。が、こんな複雑な振り付けを、俺だったら覚えられるだろうか――。
 激しく踊り、一生懸命歌う。なのに、曲の合間、客席に向けるのは底抜けに明るい笑顔だ。そして手を振り、ピースサイン。
 歌うより、踊るより、客を満足させることに、とにかく気を配っているのがよく判る。
 曲が変わる。たてつづけに三曲。その間、俺たちの席の前には、綺堂憂也と東條聡が来たが、間の悪いことに柏葉将だけは反対サイドに張り付いたままだった。
 やがて、全員が、片瀬りょうの立つ――アリーナの中央にあるステージに集まった。
「今から、МCなの」
 隣の奈緒が、そっと囁いてくれた。
「エムシー?」
「マイクコーナー、ちょっとしたトークショーみたいな感じ、ここは座っていいところ」
 説明されるまでもなく、会場のお客さんが座り始める。
 そうして始まった5人によるトークは、それは……奈緒のようなコアなファンには嬉しいものかもしれないが、俺にはちょっとついていけなかった。
「最近、東條君の視線が痛いのよ、俺」
 一番聞いていて面白いのは、綺堂憂也のしゃべりだった。
「なぁんか、ちりちりとさぁ、やっぱ、あれじゃない、俺と雅の仲を妬いてるんじゃないかと」
 と、そこで憂也が成瀬雅之の肩を抱いたものだから、きゃーっと嬉しげな歓声があがった。
「つーか、お前ら、そのネタいつまでひっぱんだよ」
 柏葉将。
 俺は、ついつい横目で奈緒を見下ろしていた。
 奈緒は、両手を口に当て、息をつめんばかりにして、目の前のステージに見入っている。
「いや、いつ返上してもいいんだけどさ、俺、これでも、りょうと将君のカムフラージュしてるつもりなんだよね」
「は?俺?」
「この二人の怪しさは、もうキッズ時代から有名だもんな、東條君」
「お、おう」
 東條聡のとぼけた受け答えに、会場は爆笑に包まれている。
 言っては悪いが、少し間の悪いトークだった。アドリブなのだろう。しかし、そうだとしたら、よく話題が続くものだとも思う。もう、かれこれ二十分近く、彼らは喋り続けている。
「ところで、今日は珍しく、若い男のお客さんがいるんだよねー」
 笑いが静まった後、そう切り出したのは片瀬りょうだった。
「スタンドのとこ、俺、一瞬キッズが座ってるのかと思った」
「あ、そういや、関西のさ、立花君にちょっと似てない?」
「あー、俺もそう思ってた、マジでコージが来たのかと思ったくらい」
…………ん?
 全員が見てるのって、こっち。
 俺は背後を振り返った。
 まさか……俺じゃないよな。
「コージは、美波さんがスカウトしたんだっけ」
「ここに美波さんいたら、ユーも声かけられるんじゃない?」
「それ、誰の物まねだよ」
 ステージの巨大スクリーン。
 俺は、そこに写っている俺と――そして、その横で、極力身を離している奈緒の姿を見つけて、ただ顎を落としていた。
「ちょっと聞いてみよっか、もしかして、マジで事務所入り狙ってる子かもしんねーし」
「じゃ、いきますか、今夜の突撃インタビュー」
 俺は信じられなかった。
 マイクを片手に、まだ汗も乾ききらない顔で――歩み寄ってくるのは、
「こんにちはー」
 伸ばした腕の先のマイク。それが、俺たちの席に向けられていた。
 黒目がちの凛々しい目が、それが笑いを帯びて、じっと下から見上げている。
「今日はなんで来たの、彼女の付き添い?」
 すげぇ。
 かっこいい。
 俺は、でも、ただ睨むように、柏葉将の顔を見下ろしていた。
「え……ってゆっか、俺、なんか睨まれてるんですけど」
 柏葉将が、おどけたように言い、場内の笑いを誘っている。
「将君が怖い顔してるからじゃねーの」
「いや、その滝汗が怖いんだよ」
 ステージの中央から、綺堂憂也と片瀬りょうがつっこんでいる。
 どこかから、別のマイクが、俺の鼻先に伸びてきた。俺は驚いて振り返る。見ると、スタッフジャンバーを着た人が、俺の背後にうずくまっている。マイクを持ってきてくれたのである。
 このコーナーでは、観客にインタビューする企画が最初からあったのだと、その時ようやく俺も気づいた。
「じゃ、もう一回聞くけど、隣が君の彼女?可愛いね、うらやましいな」
 隣では、奈緒が両手で口を覆っている。脚がこきざみに震えているのが俺にも判る。
 俺はただ、マイクを握り締めたまま、柏葉将を――睨み続けていた。
 この、奇蹟のような幸運がなければ、一生かかわることのない相手を。
「え……なに、君、ひょっとして俺に、何か恨みでもあんの?」
 妙な間に、さすがに柏葉将も戸惑っている。
 多分、こいつにとっては、軽い軽い幕間のトーク。
 なのに、多分、もうじき奈緒は泣くんだろう。
 そして今日のことは、奈緒の胸に一生残っていくんだろう。
「こいつ、柏葉さんのことが好きなんです」
 俺は、怒りともなんともつかない気持ちのまま、言っていた。
 自分の声が、大音量で会場に響いている。
 それは、不思議な感覚だった。
「柏葉さんに会いたくて、親の反対おしきって、一人でここまで来たんです。俺はただのつきそいだから」
 会場は、どう反応していいか判らない奇妙さでシーンとしている。
「ひょーっすげーっ、ひょっとして公開告白ってやつですか」
 その、ちょっと場違いな沈黙を、軽く破ったのは綺堂憂也だった。
「どうするよ、将君」
「つーか、りょう、お前に恋敵出現だろ」
 きわどい会話に、会場に悲鳴があふれ出す。
 中には、「将、私のほうが愛してるー」「やだー、告白なんてされないでー」という声もある。
 ちょっと驚いた風だった柏葉将は、すぐに楽しそうな笑顔を取り戻し、会場に向かって手を上げた。
「まぁまぁ、ここは俺らを愛してる人ばっか集まってんだから、チケット買ってくれて、で、うちわ持たれてる時点で告白されてるに等しいわけ」
 きゃーっと今度は歓喜の声が上がった。
「言うねー、さすが、男殺し」
「……なんなんだよ、さっきからお前は」
 そう言い返しておいて、柏葉将は優しいまなざしで、俺を――俺じゃなくて、奈緒を見上げた。
「ありがとう、わざわざ来てくれて」
 奈緒は多分泣いている。気絶しなきゃいいけど、と俺は少し心配になる。
「でも、君の彼のほうが、俺より何倍もかっこいいよ」
 さらりとそう言い、歓声と悲鳴の中、柏葉将は中央のステージに駆け戻っていった。


                    9


 ぞろぞろと、駅か、バス停か――に向かって流れていく人の波。
 初めての場所で、俺は正直、よく判らないから、人の波にそって歩いていた。
 奈緒はずっと無言だった。
 人ごみに押され、時に引き離されそうになる。俺たちは、自然に手を繋いでいた。
 奈緒がどういう事情でここまで来たかは知らないが、こうなった以上、無事に送り届けるのは俺の義務だと思ったからだ。
 コンサートの後半から、奈緒はずっと泣いていた。
 俺はそれが判っていたけど、何の言葉もかけてやることはできなかった。
 三度のアンコールにSTORMは答え、最後はトークで締めて、彼らのデビュー曲「STORM」の大合唱で、広島の夏のコンサートは終わった。
 最後のSTORMの歌のところでは、泣いているのはもう、奈緒だけではなかった。泣きながら精一杯声を張り上げて歌っている女たちの思いとは、一体なんなんだろう。
 何も知らない奴が見たら、普通に気味が悪い光景に違いない。が、この興奮と感動だけは――実際、この場にいない奴らには、多分何を言っても理解できないだろう。
 俺は――わかったのかな。
 しだいに人ごみが薄らいでいく。
 雲にかげった月を見上げながら、俺は、ちょっと感動している自分に気づいた。
 アイドル。
 その言葉だけで、俺はああいう人たちを、で、ああいう人たちのファンを、ひとくくりでバカにしていた。多分、俺と同い年かそれ以上の男なら、ほとんどが。
 俺が一番印象に残ったのは、柏葉将のソロだった。
 それが、アイドルらしくない本格的なラップだというのはすぐに判った。で、本当に歌っているというのも。
 ステージの後半近く、相当疲れていたから、悪いが歌は下手だった。声はかすれ、がなるようなラップだった。
 それだけではなく、聞いていて、あ、下手だな――と思えるパートは、大抵が柏葉将が歌う、楽曲の間に挟まれるラップ部分だった。多分、そこが唯一の生歌だったのだろう。実際、あれだけ動きながら、歌などまともに歌えるはずがないのだ。
 が、決して上手くはないのに、一番会場が盛り上がり、俺自身も浮き立つような高揚感を味わったのも、また、柏葉将のソロパートだった。
 柏葉将の、まるでアイドルらしからぬワイルドでファンキーな歌声を聞きながら、俺は――なんとなく判ってしまった。
 この人たちも、俺らと同じ世代なわけで、だとしたら、かっこいいと思えるものも結局は同じなわけで。
―――柏葉将は、本当はこんな歌が歌いたいんだ……。
 最後に柏葉将が、「アイドルをなめるなよ」と叫んだ。その声が、射るようなまなざしが、なんだか妙に忘れられない。
 一生懸命って、なんか、すげぇな。
 うまく言えない。
 が、俺は、必死に歌って、必死に踊る、彼らの姿に感動していた。
 なんのために――彼らは、自分のスタイルをアイドルという枠で縛りつけているんだろう。なんのために――歌って、なんのために踊るんだろう。
 まぁ、泣くまでの気持ちは理解できないけど、でも、そういう人たちを頭からバカにするのもんでもないな、と、今はそんな風に思えている。
 気がつくと、タクシー乗り場は目の前だった。ものすごい列ができている。
「どうする?あれだったら、ホテルまで送ってくけど」
 俺は、ちょっとためらいながら口にした。
 いずれにしても、今夜帰宅するのは無理だった。
「……うん、それが、キャンセルして、まだ取ってないの」
 奈緒は、少しためらってからそう言った。
「マジかよ」
「ごめん、……急に、思い立ったから」
「じゃあどうするよ」
 これは困った。
 俺は真面目に焦りを感じつつ、もう真っ暗になった空と、俺らの田舎だと信じられないくらいにぎやいだ夜の街と、そして人の波を見回した。
「朝までやってるファミレスか、漫画喫茶でも探そうか」
「ごめん、翔君、ホテル予約してんなら、そこいってもいいよ」
「バカ、一人でいけねぇだろ」
 言ってから気がついた。
 ん?
 今のは、俺一人で行けって意味だよな。私も行ってもいいって意味じゃねぇよな。まさか。
 繋いだ手が、にわかに汗ばんできた気がした。
「……てゆっか、私、コンタクトで、」
「はぁ」
 としか俺は言えなかった。
「眼鏡、家においてきたから、どっかで外さないと、ちょっと辛いかも」
「…………」













          
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