1


「なるほどな、うちの次代を担う、看板スターが」
 唐沢直人は、静かに呟いて立ちあがった。
 六本木。
 J&M事務所本社。
 時刻は深夜を回っている。
 四階にある社長室に、今いるのは唐沢一人ではなかった。
「同じ事務所の、まさかSTORMごときに足をひっぱられるとは思ってもみなかった、これがあなたのやり方というわけですか、お嬢様」
 冷ややかにそう言い放ち、対面に座っている来客――昔からよく知っている女を見下ろす。
 女はにこっと微笑んだ。年より随分若く見える顔に、子供のようなえくぼが浮かぶ。薔薇色のスーツに、同色の帽子。そこにも、真紅のバラのコサージュがついている。
「ノーノー、それは計算外、今夜のことまでミーは知らない」
「…………」
 で、相変わらずふざけた喋り方。
「Hai Hai Hai」の録画放送が終わる。
「あー、面白かった。あ、そうだ、唐沢君、ここに初代ミラクルマンのビデオある?」
「ありませんし、あってもそんなもん、家に帰ってお1人で見てください」
「ちぇっ」
 ソファに座る、この巨大なカンパニーの創業者を父に持つ娘は、大げさに肩をすくめる。そして、すっくと立ち上がった。
―――いつ見ても、嫌な女だ。
 唐沢は眉をひそめ、父親譲りの華やかな美貌と、日本人離れしたスタイルを持つ女を見下ろした。
 上も下も、影ができるほど長い睫。シルクの肌に整いすぎた目鼻だち。肩甲骨の下あたりまで伸びた栗色の豊かな髪。―――実際、これほどの美貌を持つ女は、トップ女優でもちょっとお目にかかれない。
 立ち上がった女は、その美貌とスタイルを誇示するかのように、腰に手を当てて唐沢を見上げた。玲瓏と青みがかった瞳は、彼女が生粋の日本人ではないことを如実に示している。
 真咲しずく。
 J&Мの創業者、真咲真治の遺児にして、この会社の筆頭株主。
 しかし、この美貌の笑顔の下に潜む底意地の悪さを、唐沢は身をもって知っている。
「それにしても、驚いたなぁ」
 かつて、唐沢を召使同然にあしらっていた女は、楽し気な声でそう言って、窓の外の、暗いオフィス街に視線を転じた。
「ミーがジャパンを離れている間に、ここはすっかりユーの王国になっちゃったんだ、唐沢君」
「城之内会長が、まさか病に倒れられるとは思ってもみなかったのでね。これも必然の流れです。僕一人の意思ではない」
「オー、ユー、アー、ザ・ラッキーマン!」
「そして!」
 女の口調に苛立ちをかきたてられながら、唐沢は少し声を荒げた。
 真咲しずく――ここ数年、海外に行っていたとはいえ、生まれも育ちも日本である。しかも、学歴は日本最高学府の英文学科。このみょうちきりんな喋り方は、絶対に相手を小ばかにしているに違いない。
 理数系の唐沢が、唯一苦手だったのが英語だった。英語など喋れなくても生きていける。これが唐沢の持論である。
 が、自分よりいくつも年下の女に、その一点が、微妙なコンプレックスになっているのもまた、事実だった。
「もう、ここに、古い時代の思い出をひきずった人間は必要ないのですよ。お嬢様。あなたも覚えているでしょう。八十年代のアイドルブーム終焉以来、この事務所は凋落をたどる一方だった。金をかけて育てたタレントは、軒並み東邦に引き抜かれ、地方公演は空席ばかり、最悪の赤字経営だった」
「………」
 女の横顔は動かない。
 あの――最悪の時期を乗り切った。
 実際、当時のJ&Mは、いつ潰れてもおかしくないほど落ちていた。
 当初の経営陣がしでかした致命的な失敗。それは、平成の今になっても尾を引いている。そして、何よりも大きな弊害だったのが――
 日本芸能事務所の草分けであり、最大手、芸能界のドン「東邦EMGプロダクション」。
 J&M創立時から続く、執拗な嫌がらせを、唐沢自信が押さえ込み――そして今、どの事務所にも決して横槍を入れさせない、年商数十億を誇る不動の王国を作り上げたのである。
「それを、血の滲むような努力でここまでにしたのは誰です。海外で、呑気に遊学していたあなたではない。この僕です!」
「そうかもね」
 信じられないほど素直にうなずき、女は初めて振り返って唐沢を見上げた。
「ワンダフォーと言っておくわ、唐沢社長。でも勘違いしないで、私は何も、動物園の園長の座から、あなたを引きずり落とすために帰国したんじゃないんだから」
 辛らつな嫌味をにっこりと笑顔で言い、女は可愛らしいえくぼを浮かべた。
「…………本気ですか」
 唐沢は苦く呟いた。
 昔からそうだ。この女の気まぐれだけにはついていけない。
 どこまで本気で、どこまでがゲーム感覚なのか。
「本気も本気、全然本気」
 女は楽しそうにハミングして、消えたばかりのVTRの再生ボタンを押した。
 画面では、STORMの5人が笑顔で手を叩いている。
「私を、この子たちのマネージャーにして」
「…………」
「半年で、あなたの秘蔵っ子、貴沢秀俊より有名にしてあげる。この事務所を代表するドル箱スターにしてあげるから」
「無理ですよ」
 唐沢は、即座に舌打ちして首を振った。
「すべてのデータを見て、あなたも理解したと思いますがね。彼らは、個性がなさすぎる。自分をアピールすることも、場をもりあげることもできない。グループの人気がまだあるうちに、俳優として独り立ちさせるべきだ」
―――しょせん……貴沢効果と、事務所のブランドで人気が出た連中だ。
 彼らがもし、個々のタレントとして、単独でデビューしていたら。
 Jではなく、他の事務所からデビューしていたら。
 彼らの姿は、ものの半年でブラウン管から消えていただろうと、唐沢は思う。
 GALAXYが、MARIAが、SAMURAIが、そしてスニーカーズが、単に女子高生のアイドルではなく、お茶の間の人気者になれた要素が――STORMには、致命的に欠けているからだ。
「グループの人気ねぇ」
 かすかに、女の笑い声が聞こえた気がした。
「というより、ぶっちゃけ、GALAXYや貴沢秀俊の人気が衰えない内に、じゃないかなー」
 その皮肉を、唐沢は無表情で受け流した。
 日本の芸能界が広いようで狭いのは、キー局の絶対的な少なさに起因している。
 その、わずかな枠。J&Mのような、若手男性タレントを抱える事務所なら、喉から手が出るほど欲しいドラマ枠の出演をめぐって、どれだけ熾烈な争いが水面下で繰り広げられているか――。いくらJ&Mとはいえ、そこに介入するのは至難の業だ。
 実際、テレビ局が欲しいのは、GALAXY。そして個別で言えば緋川拓海、貴沢秀俊。
 このメンバーの出演権を得るためだけに、局側は、Jの意向を最大限に考慮してくれる――それが、裏の実情だった。
 だから、事務所の他のタレントを、人気ドラマ枠に食い込ますことができるのだ。
―――この女、そこまで知って言ってるのか……。
 重い嘆息を飲み込んで、唐沢はあえて素っ気無く言った。
「あなたのゴリ押しで、東條聡を、ミラクルマン役に割り込ませましたがね。視聴率は下降しているし、アイドルを使ってこれくらいかと、雑誌でも叩かれている。うちも、色物のイメージがついていい迷惑だ」
 その挙句の、新曲リリースの延期。
 Jの脅しに、鏑谷プロが最後まで屈しなかった。リリース中止は、唐沢の最後の切り札だったが、それでもいいと言い切られた。もう、後には引けなかった。たかがマニア向けの特撮会社が――今思い出しても胸糞悪い。
 そこに至るまでのごたごたがすっぱ抜かれたら、イメージダウンもいいところだ。
「柏葉将が、責任を感じたようで悩んでましたよ。まさか、あなたのせいでこんな騒ぎになったとは、知らないのでしょうが」
 女は、その問いかけには答えない。
 そこだけが、いつ見ても怖くなるような――ガラス玉のような無機質なまなざしを、じっと目の前の闇に向けている。
 新曲にクレームをつけたのは柏葉将だが、無論、唐沢は、それを黙殺するつもりだった。若手タレントに仕事を選ぶ権利はない。それも、唐沢の持論である。
 しかし、その柏葉のクレームを後押しし、鏑谷とジャパンテレビに直接交渉し――話をややこしくさせた人間がいた。
 J&Mの筆頭株主。つまり、――この女、真崎しずく。
「無理は承知だってば、唐沢君」
 ふいに女は、茶目っ気たっぷりの目で唐沢を見上げた。
 まるで女子高生時代、彼女の運転手をしていた男を見るように。
「結果が出なければ、私はすべての株を唐沢君に譲ってこのカンパニーから手を引くっていうのはどう?ユーにとって、何も損はないゲームのはずだけど」
「……僕のリスクはなんです、リスクのない賭けは、むしろ危険だ」
「ユーのリスクは……そうねぇ」
 女は愉快気に笑って、ソファの上のバックを持ち上げた。
「Arrow in one's own side、それを、胸元で飼っていること」
「…………………」
「意味が判らなかったら、辞書をお引き」
 高笑いと共に扉が閉まる。唐沢は両手拳を握り締めていた。



                   2


「おまたせ」
「いいえ」
 定刻丁度。
 美波は腕時計から目をあげ、親しみをこめて目礼した。
 直接会うのは、随分久し振りになる。
「変わってないなー、つか、前より若くなってない?」
 ウエイターの引いた椅子に腰掛けながら、約束の時間に来てくれた女は、底抜けに人懐っこい笑顔でそう言った。
 昔からそうだった。年齢でも、立場でも、まったく人の壁を感じさせないのが、この女の持って生まれた天性なのだろう。
「注文はすませておきました」
「サンキュ、さすが涼ちゃん」
 真咲しずくは微笑して、テーブルの対面に座る男を見上げた。
 美波もまた、微笑して、まだこの女が少女だった頃、一緒に遊んでやった記憶に思いを馳せる。
(多分、もう、戻らないから)
 そう言って、真咲しずくが日本を出たのが、父親が死んだ翌年のことだった。経営にも芸能界にも興味がないはずの女は、父親の遺言と遺産相続により、なんら経営に口を出さない、形だけの筆頭株主となった。
 よりによってこの時期の、ふいの帰国。それは、美波にとっても、ひとつの想定外のサプライズだ。
「正式に決まっちゃった」
 ボーイが冷えたワインをクーラーに入れて運んでくる。
 美波が、テイスティングを済ませると、しずくは、グラスに注がれた緋色を見つめながらそう言った。
「今日から私は、正式にアイドル君たちのチーフマネージャーってわけ」
「社長は、昔から、あなたにだけは逆らえませんからね」
 そう言い差し、美波は探るような目で、目の前の美貌の女性を見つめた。
 ふ、と女の目が、愉快そうにすがまる。
「なぁに、ひょっとして今日のお誘いは、唐沢君の命令だった?」
「何故?」
「日本に帰国した目的はなんなのかって、さっきからずっと、そんな目で私を見てるから」
「個人的には、気になってますよ」
 なにしろ、死んだ真咲さんに、くれぐれも娘を頼むと念を押されましたから。
 そう続けると、真咲しずくは、口に含んだワインにむせるように吹き出した。
「あら、パパが娘と結婚してくれって、何度も涼ちゃんに頼んだのに、それを無げに断った人の言うセリフ?」
 今度、苦笑するのは美波の方だった。
「あなたは、いい意味でも悪い意味でも、事務所にとってはキーマンですからね。……で、本当に目的はなんなんです」
 それには答えず、しずくはただ、目だけで微笑した。
「飽きたのよ、向こうに生活に、フードにも、男にも、ファッションにも――退屈で、死んじゃいそうだった」
「それで?」
「それだけ。たまには、くだらないことをやってみるのも面白そうじゃない」
「……STORMで、何をするつもりです」
「……………」
 ふいに、女の目が無機質なガラス球に変わる。
 長い付き合いだが、いまだに美波にはわからない。まるで猫の目のように変化する、気まぐれな性格と表情の持ち主が、その実、何を考えて生きているのか。
 そして思う。まっとうな精神の持ち主なら。
 亡き父の創り上げたものを奪い取った、唐沢直人と――自分、この二人を、決して許しはしないだろうと。
 テーブルの上で指を組み、美波は軽く嘆息した。
「あなたにどう見えたかは知らないが、STORMの商品価値は、とうの昔に頭打ちです。GALAXY、スニーカーズは無論、MARIAやSAMURAIの記録さえ破れないままに、彼らは二十代を迎え、来春にはヒデ&誓也がデビューする」
「……で?」
「常識的に、ティーンの関心は二十歳代のアイドルには向かいません。立花、久住などの十代半ばの関西キッズがデビュー前から爆発的な人気を誇っているのはそのせいです。そして女子大生、ヤングミセスといった世代は、いまだGALAXYショック、緋川信仰から抜け出せていない」
 運ばれてきた前菜は、甘海老とアボガドをフルーツソースで和えたものだった。
 グラスの中で煌く半透明のオレンジを見つめながら、しずくは肘をつき、両手で頬を抱いて支えた。
「でも、その緋川君も、もう三十をすぎてるじゃない。アイドルって言うには無理がない?」
「そのあたりは唐沢社長もちゃんと計算している。だから、その受け皿が、貴沢秀俊なんですよ」
「そっか、じゃ、STORMは弾け損ねたアイドルってわけだ」
「そう、だから唐沢も、あっさりあなたに手渡したんでしょう」
「実は病気なんだ、私」
 唐突にしずくはそう言い、目をきらきらと輝かせた。
「………はぁ」
「向こうで診断されたの、治すには、アイドルのマネージャーでもやってみるしかないでしょうって」
「…………………」
 それは、さだめし名医だったんでしょうね。
 そう答えながら、美波は心底ほっとしていた。数年前、恩人でもある真咲真治の願いを「無げ」に断ったことに。
「ま、お手並み拝見といきますよ」
「……あなたは、何を考えているの」
 ふいに、切り替えされる。美波が眉を上げると、しずくの食い入るような眼差しが目の前にあった。
「何のために、まだ、事務所に残っているの」
「他に、何も取りえがないので」
 女の目がわずかにすがまる。
「Arrow in one's own side」
「………………」
「さてさて、どっちが毒虫かしらね」
 美波は、わずかに考えて苦笑した。初めてしずくが、意外そうな顔になる。
「それは、一匹だとは限りませんよ」
 今度、考え込んだのは、美貌の女の方だった。
 美波はグラスを持ち上げ、目線のところでそれを止めた。
「乾杯……J&Mの未来に」


                    3


「うーっす」
「なんだよ、ひでー顔」
「寝不足なんだよ、ほっとけよ」
 互いに好き勝手な挨拶を交わし、5人は、広いクの字型のソファに、どこか所在無く腰を下ろした。
 少しだけ、気まずい沈黙があった。
 東條聡は、わずかに顔をあげ、残る4人の表情を伺い見る。
 ずっと――しこっていたものは、先日の事件で消えたような気がする。が、いざ5人で改めて向き直ると、すぐにバカを言うのが気恥ずかしい。
「なんだろな、社長の話って」
 聡は、沈黙を破る意図もあって、わざとおびえた風に呟いてみた。
 即座に、その隣に座る綺堂憂也が応えてくれる。
「決まってんじゃん、こないだのHaiHaiのことだろ、貴沢君のマネージャー激怒してたって話だし」
 朝が弱い憂也は不機嫌そうだったが、今日の態度には、嫌味な感じはまるで感じられなかった。
「貴沢君は怒ってなかった」
 片瀬りょうが、口を挟む。
「でも、河合君は相当怒ってた、口聞いてもらえなかったもん、俺」
「それが普通だろ」
 りょうの隣で、腕を組んでいた柏葉将が初めて口を開いた。
「俺は、むしろヒデの反応が怖かったよ。それとも、大物っていうのは、あんな風に人ができてんのかな」
「同じ大物でも、緋川さんはすぐキレるぞ」
「テレビでも、あ、今、怒りのギアに入ったっ――てのが、すぐにわかるし」
 一度解けた会話は、尽きることなく弾けていく。
―――よかった……。
 聡はほっとしながら、楽しげに緋川のことや、GALAXYのことを話すメンバーを見回した。が、
「雅、何黙ってんだよ、お前の得意の緋川さんトークだぜ」
「……あ、……おう」
 一人。
 まだ、心が戻っていないメンバーがいた。
 もともとが表情がない男だったから――黙っていると、不機嫌なんだか、ただ何もかんがえていないのか、判らない。
 成瀬雅之である。
「なんたよ、緋川さん恋しさに、ついにここに来ちゃったのかよ」
 ふざけてつっこむ憂也の口調も、どこか精細を欠くものだった。
 案の定、雅之は、少し困ったように笑っただけで、すぐに目をそらしてしまう。
―――なにもかも、昔のままじゃないって、ことか。
 聡は、ふと寂しくなって、ひざの上に置いた自分の手に視線を落とした。
「とにかくさー、首謀者は今回も将君だから」
「一番乗ってたの、お前じゃねぇか」
「それはもう、将君怖さに」
 ふざけている憂也にしても、一時、明らかにおかしかった。
 柏葉将と対立しているようで、その実、自身が抱えた何かで、自棄になっているようにも見えた。雅之に関しては、もうずっとおかしいままだ。
 将にしても――新曲リリースの一件以来、はっきりと聡と距離を開けている。
 それぞれが何かを抱え、一人で解決しようとあがいているのかもしれない。
―――俺ら……本当にこのまま、やっていけんのかな。
 対立していた頃よりも、むしろ、今、ぬるま湯のように仲良くしている方が、聡には不安な気がした。
「東條、」
 ふいに、低いがはっきりとした声がした。
 聡は、それが将の声だとすぐにわかって、大慌てで顔をあげる。
 全員がしんとした。
 将は、静かになったメンバー全員を見回し、そして溜めていたものを吐き出すように、息をついた。
「いや、………東條にだけじゃない、みんなに謝らないといけない。新曲のことは、本当に俺が悪かった」
「いいよ」
 即座に憂也が答え、そして慌てて付け加えた。
「いや、どーでもいいってことじゃなくてさ、別にいいじゃん、また次の機会を待ってれば」
「それ、どうでもいいって言うんじゃないの?」
 りょうが突っ込んで、将の表情も、その時わずかに和らいだ。
 が、それはすぐに、どこか険しいものになる。
「……次は、ないかもしれないんだ」
「え?」
 笑ったまま振り返った憂也と、りょうの表情が、そこで止まる。
 聡もまた、眉をひそめて将の端整な横顔を見つめていた。
「次、ないって……?」
「俺……、それ聞いたから、今回だけは事務所が作ったイメージじゃなく、俺たち自身の、」
 そこで言葉を詰まらせた将が顔をあげ、何かを言い出そうとした時だった。
 重たい扉がようやく開いた。
「そろってるか」
 あまり機嫌がよくないな、と、聡はひやっとした気持ちで肩をすくめた。
 J&Mの社長、唐沢直人である。
 ダークスーツに、ひとすじの乱れもなくそろえられた髪。
 長身痩躯の美貌の男である。苦みばしった男前で、そのまま俳優に転進してもいいんじゃないか、と聡はいつも思ってしまう。
 が、怖い人には違いない。この事務所の最高権力者で、聡たちを生かすことも殺すことも簡単にできてしまう男。
 が、入ってきたのは一人ではなかった。
 苦虫をかみ殺したような唐沢の背後で、一人の長身の――唐沢の耳元まで身長があるから、百七十以上はある女性が立っている。ブラックスーツにまとめ髪。白い肌に赤いルージュ。
 きれいな人だ。新しい女優さんかな――。
 が、華やかな顔立ちと合判するようなその目の冷たさに、聡は唐沢以上の怖さを感じ、慌てて視線をそらしていた。
「最初に紹介しよう、彼女は」
 と、唐沢が、どこか素っ気無く切り出した時だった。
「社長!」
 いきなり、びっくりするような大声がした。
 聡は驚いて振り返った。無論、全員が。
「お、俺………」
 立ち上がっているのは成瀬雅之だった。
 今の状況も、唐沢の不機嫌さも、何も見えていないような、思いつめた顔をしている。
 握り締めた拳が震えている。そして雅之は、声を震わせながらこう言った。
「俺、事務所やめます。引退します、ごめんなさいっ」










            波紋(終)





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