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「あれ、東條さん、来てたんですかー」
 夏目純が、少し大げさな声を出す。
 鏑谷プロの撮影所。
 こっそり来たつもりだった聡は、少し慌てて口元に指を当てた。
「ちょっと偵察……撮影時間が変更になったから」
 予定されていたバラエティのロケが、ロケ先の都合で急遽中止になった。それはそれで後の帳尻あわせが大変なのだが、ひとまず何時間かは時間が空いた。
 空き時間を無駄にするのがもったいなくて、つい、タクシーでここまで来てしまったのだ。
 今は――ものすごく興味がある。自分の出番のあるなしにかかわらず、こうやってひとつの作品を作っていくという過程そのものに。
 今日、予定されている撮影は、第八話、尾崎智樹がメインの回だった。
 ミラクルマンセイバーは、聡のスケジュールの都合から、尾崎をはじめとするGANのメンバーのエピソードが頻繁に織り込まれた構成になっていた。
 ファンから「出番が少なくて悲しい」と手紙をもらうこともあるが、そこがまた、このドラマの面白いところだと聡自身は思っている。
 グリーンバックの前で、助監督と打ち合わせをしていた尾崎が、いぶかしげに顔をあげて聡のいる方を見た。白地にブルーラインの入った隊服が、スタイルのいい体躯に嫌味なほど決まっている。
「よっ、」
 と、軽く手を上げてはみたものの、尾崎は冷ややかな目で顔をそむけ、聡のアピールはあっさりと無視された。
―――き、嫌われてんだなぁ、俺……
 へこみそうな気持ちを奮い立て、聡は開き直って、部屋の隅にあるスタッフ用ベンチに腰を下ろした。その横に、ちょっとためらった風に、夏目純が腰掛けてくる。
「今日、携帯のニュースで見たんですけど、加藤美穂ちゃん、離婚したんですって」
「あ、そうなんだ」
「びっくりですよねー、あんなに大騒ぎして結婚したのに。相手の作家さんってこれで二回目の離婚じゃないですか、相手が悪かったのかなぁ」
「ふぅん」
 あまり突っ込みたくない会話――というより、今は、目の前の現場を見るのが忙しくて、適当な相槌を打ってしまっていた。
 撮影セットの前では、まだ尾崎と助監督が話している。その傍に、今日の監督降木庭の巨体が近づく、と、どこかから、神田川も長髪をなびかせながら走ってきた。
 何をもめているんだろう。聡は少しびっくりした。ライターの神田川まで出てくることなんて、めったにない。
「あーあ、結局かなわないのよねぇ、あのオジサンたちには」
 ふいに夏目純がつぶやいて立ち上がった。
「え…え?」
 意味不明の言葉に聡は戸惑って顔を上げる。
「いいの、どうせサトシ君は純のことなんか忘れちゃって、セイバーの世界にのめりこんでいくんだから」
「………?」
「東條さんにも判るわよ、すぐに」
 どういう意味だ。
 聡が何か言いかけた時だった。
「東條君、ちょっと出れるか」
 いきなり、降木庭の声がした。


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「時間がないから、カメリハはなしだ。一発撮りでいく」
 降木庭の声に、緊張がにじんでいる。
 聡は、手書きで書き直された尾崎の脚本を再度見直した。
 ぎっしりとト書きが書かれている。手垢で汚れ、余白はすべて細かい書き込みで埋まっていた。すごい代物だった。尾崎がいかに熱心に、この役に、ドラマに入れ込んでいるのかが一目でわかる。

○ トモヤ「じゃあ、俺が行ってきて、あのヤローをひきずりだしてきますから」
○ レイラ「あいつ……出てくるかな」
○ 大黒「出てこなければ、サトシ自身が壊れてしまう、いってやれ、トモヤ」
 (尾崎、コマンドルームを飛び出す)

 変身することを拒否したサトシは、そのせいで大勢の人が死んだことに、激しい自責の念にかられる。引きこもりのように自室に閉じこもったサトシを、大黒が基地まで連れて行く。それが、この場面の前提。
 この場面、シーン27は、基地で、与えられた部屋から出ないサトシを、仲間たちが引っ張り出してくるという場面である。
 ここまでの展開はまだ撮っていないが、この時点で、トモヤ、レイラはすでにミラクルマンの正体がサトシだと知っている。これは従来のミラクルマンシリーズから言えば、革命的にすごいことなのだという。
 今まで、ミラクルマンの正体が判るのは、すべてのシリーズで最終話のひとつ前だった。それはもう水戸黄門の印籠と同じお約束のようなもので、ミラクルマンセイバーの革命的試みは、ドラマ開始十分で水戸のご隠居が印籠を出し、助さんが「この方をどなたと心得る」と啖呵を切るのに等しいのだという。
 この展開に持っていくにあたって、神田川と降木庭が、相当激しくやりあっていたのを聡はよく覚えている。
「ファンの期待を裏切ってどうすんだ、そんな作品、誰が見たいと思うんだ」
 プロデューサーと企画スタッフ、ライターチームが出した結論に、降木庭は最後まで反対していた。ミラクルマンの正体は、お約束のとおり隠しておくべきだと主張した。
 それに、神田川はこう反論した。
「僕は、従来の常識をくつがえしたヒーローを描きたいわけ」
 降木庭も負けてはいなかった。
「ファンの支持を失ったヒーローに、存在意義なんてねぇんだよ、ファンの期待を無視して、好き勝手にヒーロー作ることだけはやっちゃいけないんだよ」
 その言葉が――妙に忘れられなかった。結局降木庭は納得したが、聡だけは、その言葉が別の意味で忘れられないでいた。
 シーン27。もともとの場面が、今は手書きでこう変更されている。

○ 聡「……俺、行きます」
○ 大黒「行けるのか」
○ 聡「はい、行きます、行かせてください」
(大黒、少しためらってから、きっぱりと顔をあげる)
○ 大黒「よし、行け、レイラ、お前がガンファィターで援護しろ」
○ レイラ 「了解」
(サトシ、出て行こうとして足をとめ、ぎこちなく敬礼して、コマンドルームを走り出る)


 尾崎の出番が削られている。
「………」
 聡は、苦い気持ちで、黒ずんだ脚本に視線を落とした。
 もともとここは、尾崎の見せ場のようなものだった。それが。
 すでにこの現場から、尾崎の姿は消えている。
 光と、そして影。
 それがこの世界の現実で、明日にも聡が味わうことになるかもしれない辛酸。
「シーン27、本番いきます」
 照明が灯り、カメラが回る。何台ものカメラが動き出す。大黒役の真鍋さんが、レイラ役の遠藤諒子さんが立ち居地に立つ。カチンコが鳴った。夢が、刹那の現実になっていく境界。現実の世界から夢幻の世界に入っていく瞬間。
 暗い闇の中、そこだけ浮き出したようなスポットライトの中心に、聡はゆっくりと歩み出た。闇から光へ。歩き出した刹那、ぞくっと背中に鳥肌が立った。
 どうしてここに、俺は立っているんだろう。
 足元の下は無限の暗黒だ。一歩踏み外すと、底なしの闇が待っている。
 でも今は。
 まぶしいほどのライトに照らされた自分がいる。
 それが現実で、それが全てだ。
「……俺、行きます」
 サトシを見つめる大黒隊長の目が、厳しくて、そして温かかった。
「行けるのか」
「行かなきゃいけない、……行かせてください」
 セリフをミスったというためらいさえなかった。
「俺……行きたいんです」
 そこは大黒が、ためらう場面のはずだった。が強面のベテランは、何故かそこでにっこりと笑った。
「行け、サトシ、レイラ、ガンファイターで飛べるな」
「了解」
 きりっと引き締まったレイラの声がする。
 聡の気持ちも、同時にきりっと引き締まっていた。
「行ってきます!」
 ぎこちない敬礼のはずが、聡はめいっぱい気負った敬礼を返していた。
 がっときびすを返して駆け出す。
 気持ちがいきり立っていた。前につんのめるかと思った。
 いきなり目の前に壁が立ちふさがる。
 聡は驚いて顔を上げた。そこに立っていたのは、その場から消えたはずの尾崎だった。
「ほら」
 差し出されたものを見て、サトシは唖然として長身を男を見上げた。
 カメラはまだ回っている。誰もだめだしを出そうとしない。
 それは、サトシが頑なに着ることを拒んでいた、地球防衛局GANの隊服だった。
 そして、光り輝く新品のヘルメット。
「着ていけよ、お前はもう、俺たちの仲間だろ」
「…………」
 ぼんやりとそれを受け取る。まだ、真新しいビニルの匂いがした。
 それがふいうちのように滲んだ。うそだろ、おい。
「行って来い、ヒーロー」
 背中をばん、と叩かれる。
「カット!」
 降木庭監督の声がした。
 その途端、現場のすべての部所から一斉に拍手が飛んだ。
 聡は顔をあげられなかった。


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「それが演出?」
「まぁ、そういうことだったわけで」
 聡はぽりぽりと頭を掻いた。
「ふぅん」
 テレビ画面に目をやりつつ、片手で顎を支えている年上の人は、相変わらず聡の話に無関心のようである。
「で?」
 が、向けられる目は普段より優しい……ような気がする。
 聡はちょっと照れて、何杯目かのコーヒーを口に運んだ。
「最初っから、俺を孤立させるのが目的で、スタッフもほかの出演者も、わざとよそよそしくしてた……みたいで」
 それが降木庭監督と新藤プロデューサーの考えた演出だったらしい。
「私生活でも俳優を追い込む監督って、いるとはいうけどね。まさか特撮で、それやられるとは思わなかった?」
「まぁ……そうなのかな」
 人物なんて、適当に撮ってるだけだと思っていた。
 彼らの撮りたいのは特撮シーンで、ドラマではないのだと。
(―――降木庭君がね、デビュー当時の東條君のイメージで、サトシはいきたいって言ったんだ)
 あの日。
 手渡された隊服とヘルを片手に、ほとんど泣きそうになった聡の傍に、新藤プロデューサーが歩み寄ってきてこう言った。
(―――どうにも居心地の悪そうな雰囲気と、逃げたい逃げたいって言ってるような顔。で、その弱さから脱却していく力強さみたいなもの。で、スタッフとも相談して、現場では極力東條君を孤立させようってことになったんだよ)
(―――言ったろう、君の成長がサトシの成長だって。いい顔してたよ、今の君は。そのタイミングを逃さなかった降木庭さんも神田川君もすごいけどね)
 満場の拍手の中、手渡された上着を羽織ると、今まで不自然なほど聡を無視していた尾崎智樹が、はじめて笑顔で挨拶してくれた。
(―――むかついたでしょ、俺のこと。すいません、でも、天下のJ&Mのタレントさんに、こんな態度とる俺の身にもなってくださいよ)
 他の隊員たちも、せきを切ったように押しかけてくる。
(―――俺、Jのオーディジョン、三回も落ちてんです。今でもずっと、ダンスのレッスンしてるんですよ、今度、みてもらえませんか)
(―――実は、GANでダンスユニット作ろうって話もあるんす。東條さん、ぜひ参加してくださいよ!)
 聡は、はぁ…とか、それは……とか、そんな受け答えしかできなかった気がする。
(―――東條さん、一年間よろしく)
 と、中村レイラ役の遠藤遼子さんがさらりと言ってくれると、「純、レイラさんには負けませんから」と、夏目純が割り込んでくる。
 照明の影では、神田川がわずかに笑っていたし、鏑谷会長はカメラマンに小言を言っていた。オタク監督降木庭は、もう素っ気無い顔で台本に目を落としている。
「……ここ、いいわね」
 実加里が呟いた。
―――実加里
 麻生実加里。
 それが、聡が始めて聞かされた、阿蘇ミカリの本名だった。
 どうりで冗談社の人は、みんな妙な名前が多いはずだ。偽名だったわけである。他の人はどうか知らないが、実加里の場合は、出版関係者に本名を知られたくなくて、ずっとそれで通していたらしい。
 その実加里が見ていたのは、聡がスタッフから借りてきた第六話のラッシュだった。
 先日ロケで撮影した、夕焼けの河川敷シーン。
「どうして俺が、セイバーなんだ、どうして、どうして、どうして!」
 画面から響く自分の声。
 正直言って、うわっと思う。一人で見るのもつらいのに、それを、好きな人と一緒に見るなんて。
 聡は、それでも恥ずかしさを堪え、サトシである自分の姿を注視した。
 何度も地面を叩いていたサトシが、顔を上げる。
 険しくすがめられた目。充血したそれに涙がにじみ、悲壮さすら漂う顔。その表情が、ふっと穏やかなものになる。静かな視線が、染められた空の彼方に向けられる。
「この表情……すごくいいと思うよ、私」
「………」
 というより。
 ここは、もう「カット」がかかったはずの場面だった。
 なのに、いつの間に、こんなアップを撮られていたのだろう。が、そこに写っている顔は、確かに絶望から立ち上がり、ようやく腹を括った少年のまなざしだった。
「……この時、何を、考えていたの」
 エンディングを聞きながら実加里が呟く。
「わかんないっすけど……、もう、泣いてもしょうがねぇかなって、だって、俺がセイバーなんだから、俺がやるしかないだろみたいな」
「………」
「そんな気持ちになってました、ハイ」
「そんな気持ちにさせられたのね」
「………ハイ、」
 聡はきっばりと頷いた。
 たくさんの、光と、そして影に支えられて。
 だから、今、自分はこの場所に立っている。立たされている。
 よく判らないが、そんな気がした。
 これから自分が、その光の下で何をして――何のために頑張るのか、それは、うまく理解できないままだけど。
「がんばって」
 実加里はハスキーな声で囁き、空になったカップを持って立ち上がろうとする。聡は、その腕を掴んでいた。というよりもう飲めなかった。
 暗にそれを避けているのか、実加里は、ちょっといいムードになりかけると、すぐに席を立ってコーヒーのお代わりを淹れてくるのである。
「こ…、こっちも、頑張ってみたいんですけど」
「………ムードがないなぁ」
 カップを置いた実加里は笑っていたが、それはどこか寂しげな笑い方に見えた。


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「つけないでいいよ」
 え、と思って聡は顔を上げた。
 淡い暗がりの中で、白く浮き上がった顔は、普段の実加里とは別人のようだった。
「子供ならできないって言わなかったっけ、いいよ、慣れてないと面倒でしょ」
「…………」
 なんでもないように言う声。
 その声の裏に隠れた感情があったとしても、それは、多分、聡には想像さえできないものだろう。
「てゆうより、待ってる間に私が冷めちゃうかな」
「…………」
 実加里の気持ちはわからない。が、初めてセックスした夜も、彼女はどこか、蓮っ葉な風を装っていた気がする。
 まるで、わざとそんな言葉を口にして、自分はあなたとは違うのよと――そう言ってでもいるかのように。
「……ミラクルマンは、奇蹟の男ですから」
 聡は、そこだけは、心配になるほど痩せた肩を抱き寄せながら呟いた。
 体を寄せた途端、女の全身から、覆っていた殻が消える。
 本当に華奢で――今にも消えてしまいそうなほど儚いものに変わってしまう。
―――俺は、この人が好きだ。
 聡は、無抵抗の女の体を抱きしめた。
 結ばれた夜。
 はじめて見た表情も、声も、目も、頬に触れてくれた指先さえも、何もかも愛おしい。
 こんな感情を初めて知った。
 これから先、一時でも、離れて生きていけるのかと思うくらい、ここにいる人が愛おしい。
「奇蹟が起こるかもしれないじゃないすか、………それは、まだ、先の楽しみにさせといてください」
 

                  29


「聡君……」
 囁きが聞こえた気がした。
 まどろみに落ちかけていた聡は、泥の中から引き起こされるように薄目を開ける。
「……実加里さん……」
 連日のハードスケジュールで、実際身体はくたくただった。
 が、海の底のように静まり返った室内で、時計の秒針の音を聞きながら、聡は、自分が一人でないことの幸せを、生まれて始めて実感していた。
 何時だろう。
 どのくらい寝てたんだろう。
 そう思いながら、何度も何度も、寄り添っている人とキスを交わす。柔らかな布団が擦れ合う音。スプリングがわずかに軋み、互いに腕を回した身体と身体が、もつれあって反転した。
「………目、覚めちゃった……?」
 額をおしあてながら、実加里が小さく囁いた。
「まだ……半分、寝てますけど」
 半分は起きている。
 本当に半分夢現のまま、聡は、実加里の衣服の上から胸に触れ、そして何度も口付けた。眠たいせいか、こんなことしたら恥ずかしいだろうとか、ここでかっこつけようとか、そんな無駄な感情が飛んでしまっている。
 囁くようなかすれ声が聞こえる。
 耳元で乱れる呼吸が愛おしい。
 全然慣れていない聡の愛撫が、実加里を満足させるとは思えなかった。が、それが演技であっても、触れている内に、探っている内に、身体の反応とか、声の感じで、自然にわかってくるような気がした。
 まるで初めての冒険のようで、聡は好奇心の塊だった。もっと、もっと奥まで知りたくなる。何もかも、この人のすべてが欲しくなる。
 性急すぎたのか、実加里が苦悩するように首を振る。
 聡もまた、吸い込まれるような陶酔に、一瞬自我を手放しそうになっている。
「……聡君……」
 見上げてきた女の目は、いつものように涼しげにみえても、それがうっすらと潤んでいる。
「……実加里、さん」
 こんな表情は、絶対に――セックス以外では見られないだろう。
 むろん、自分が今している顔も、絶対に他人には見せられない。
 この人の、今の表情も、目も、声も、もう、絶対に、他に誰にも見せて欲しくない。聞かせて欲しくない。
「俺の……実加里…さん」
 まだ、ここで自分をコントロールするだけの余裕はなかった。聡は一気に、こみ上げてきた自分を解放した。


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「…………」
 規則正しい寝息をたてている。健康そのものの寝顔。
 なめらかな褐色の肌にそっと口付けて、ミカリはベッドから半身を起こした。
 よほど疲れていたのだろう。もう、何もしても起きそうもない顔をしている。
―――可愛い……
 つかの間、胸がしめつけられるほど感じた愛しさは、が、すぐに寂しさにも似た孤独にかき消される。
 リビングを兼ねた仕事部屋に戻り、ミカリはパソコンを立ち上げた。そして、携帯電話で会社に電話する。どんな時間でも、あの小汚いビルに住んでるんじゃないかと思うほど常駐している社員が一人いるからである。
「あ、ゆうりさん、今から原稿を転送するから、ええ、社長には電話しておくわ。どうせまた、唐沢社長と飲んでるんでしょ?」
 約束したスクープを直前で流してしまったことは、散々なくらい怒られた。
 それでも、次の瞬間には「とっとと取材に行ってきなさい、当分タダ働きだからね、あんた」
 と、豪快にお尻を叩かれた。
 辞表は目の前で破られて、記者として――というより、人間として最低のことをしようとしていたミカリは、その刹那、少しだけ涙ぐんでいた。
 会社への恩返し――と、考えていたのは、表向きの言い訳で、自分は――どこかで、逃げようとしていたのかもしれない。苦しいだけになりそうな恋愛から。
(――いい年した大人がさ、同等の立場で恋愛して、セックスして、いい思いいっぱいしてんだからさ、妊娠したら男が悪い、女がかわいそうってのもないと思うのよ、実際)
(――あんたも今度は、悩まなくていい相手と楽しい恋愛しなさいよ。恋はね、主導権を握った者勝ちなんだから)
 酔うと倍陽気になる九石から、耳にタコができるほど聞かされた言葉である。
 なのに、また。
「………」
 ミカリは、ソファに投げてある、もう恋人と呼んでもいいかもしれない男の上着を持ち上げた。
 いい香りがした。
 彼がいつもつけているコロンと、そして彼自身の持つ香り。
―――また、辛い恋をしてしまった。しかも、今度は極上級の。
 つきあう前から、確実に別れることが判っている恋。
(……現場で、監督とライターさんがケンカしてたんす、その時の言葉が、なぁんか忘れられなくて、なんなのかなぁって)
 寝物語に、まだ幼さを残した凛々しい横顔が、呟いた言葉だった。
(ファンの支持を失ったヒーローに、存在意義なんかない……、ファンの期待を無視して、好き勝手にヒーロー作ることだけはやっちゃいけないって)
 ミカリは眠ったふりをしていた。
(なんなのかなぁ……それがヒーローの存在意義っていうなら、ヒーローってなんだか、気の毒な存在だなぁって思ったりして)
―――その意味はね、聡君……。
 ミカリは窓辺に立ち、カーテンをそっと開けた。すでに街の明かりも半分消えかけた――暗い夜。
「……ヒーローとね、アイドルは同じなのよ」
 ミカリは独り言のように呟いていた。
 だから聡は、聞こえてきた言葉が、無意識にひっかかったのだろう。あれは、彼自身のことをまさに言われた言葉なのだから。
 やがて聡も、その意味に気づく時が来る。
 が、彼が現実に直面して悩む前に、ミカリは身を引くつもりだった。
 それが、一時、どれだけ彼を傷つけることになろうとも。
―――でも、今は……。
 作業を終えたミカリは、室内の電気を消し、暖かなベッドに滑り込んだ。
 起こさないように気をつけたつもりだったが、それでも寝返りを打った聡が、片腕を肩に回してくる。
 その瞼に軽く口づけて、ミカリは自分も目を閉じた。
 綺麗に締まった胴に両腕を回し、幼いようで広い胸に身体を預ける。
 印象は子供でも、彼の肉体はすでに完成された大人だった。この若さで、おそらく常人には理解できないほどの鍛錬を重ねているはずの身体。太ってはいけないことはもちろん、無駄な筋肉がついてもいけない。
 骨格から綺麗に保つため、整体に通いつつの筋トレ。それは聡だけでなく、成長期のキッズなら、誰もがやっていることである。
 彼らの年代が味わう普通の楽しみを、すべて捨てて。
「…………」
―――でも、今は……。
 ミカリは、閉じた目に力をこめて、今感じた悲しみを振り払った。
 今は、まだ、こうしていたい。感謝していたい。
 つかの間の恋を、幸せを。 
 すぎてしまえば二度と戻らない人生の一ページを。
 こうして二人でわかちあえることに――。











                  
英雄 (終)
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