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「テレビ、つけてもいいですか」
 どうぞ。
 冷めた声がした。
 ミカリは黙ったまま、机の上のリモコンを取り、室内の隅に置かれたテレビをつけた。
 にぎやかなメロディが流れ出す。
 セットの会場につめかけた観客の歓声の中、今夜のゲストが次々に豪華な階段の上から降りてきた。
「STORM!」
 ひときわ高い歓声があがった。
 歓声というか、悲鳴にも似ている。今日のゲスト情報は、すでにテレビ番組の広報を通じて流れているから、抽選におしかけたファンの目的は、ほとんどこの――日本屈指の男性アイドル事務所に所属する、アイドルユニットたちのはずだった。
 無論、メインは、この後にビックサプライズとして登場する「ヒデ&誓也」なのだが。
 五人の少年が、各々手をあげ、会場の歓声に応えながら階段を下りてくる。
 黒のジャケットにジーンズ、着崩しているようで計算し尽くされたスタイルは、いかにも現代の王子様風で、アイドルたちの容姿にぴったりとあっていた。
「いやー、ひさしぶりですねー、STORM」
「コンサートやってましたから」
 司会の、超人気お笑いコンビと、柏葉将が会話している。
「君は、いつ見ても眉が濃いいねー」
 と、つっこまれているのは片瀬りょうだった。
「え、こ、これでも、カットしてんすけど」
「してるん?うそやー」
「りょうは、眉にはうるさいんです。太さとか長さとかちゃんと計算して、専用ものさしまで特注で作ってるから」
 と、しれっとした顔で口を挟むのは綺堂憂也。
「眉毛専門メイクさんがついてるし」
「憂、お前、嘘ばっかじゃん」
 あらかじめ打ち合わせがしてあるようなトークが続く。無理してはしゃいでいるのがなんとなく判るし、時折、ちょっと不自然な間がある。ベテラン司会者がうまく間を繋いでいるが、注視しているとよく判る。まだ、――STORMは、本当の意味で、会場の場を読んだテンポのいい会話というのはできないのだ。
「…………」
 ミカリはじれて親指を噛んだ。
 せっかく喋ろうとした東條聡の声が、司会者の気の利いたジョークで掻き消えてしまっている。成瀬雅之の天然ぼけた雰囲気が、うまく生きていない会話。
 柏葉将は、ただのすかした男に見えるし、片瀬りょうはトークが苦手なのがはっきりとわかる。ナチュラルさを保っているのは綺堂憂也くらいだった。
 この五人が、コンサートなどでは別人のように生き生きと楽しいトークを繰り広げる。その面白さの一端も、こういった場面では出し切れていない。
「ずいぶん、気になるみたいだね、このグループが」
 背後から柔らかい声がした。キッチンからは、芳醇なコーヒーの香りがする。
 いくつものベストセラーを生み出し、若い女性からカリスマ的な人気を誇る作家――新條直哉。彼がつかの間滞在するホテルは、超高級ホテルの最上階にあるコンドミニアムだった。
「デビュー前から、よく知ってる子たちだから」
 ミカリが、画面から目を離さないままにそう言うと、背後からかすかなため息が聞こえた。
「信じられないな。生粋の文学少女で、芸能ゴシップを毛嫌いしていた君が」
「…………」
「今じゃ、芸能記者なのか、正直驚いたよ、……あいつらが嘘ばかり書きたてるのは、君だって知ってるはずなのに」
「それも含めて」
 CMに入る。
 ミカリは、静かな目で、別れを決めたばかりの男を振り返った。
 昨夜、一晩共に過ごした男。
 ようやく気づいた。もう――決して、昔の二人には戻れない。
 男は納得していない。が、ミカリの気持ちはもう決まっていた。
「芸能界よ、嘘ばかりで固められた夢の世界」
 男の細い目が、ふっとすがめられた気がした。
「嘘を承知で書いてるのか、君は、そこまでプライドをなくしたのか」
「………」
「そんな仕事はもうやめろ、ミカリ」
 背後から歩み寄ってきた男の腕が、ゆっくりと肩から回される。
 ミカリは逆らわず、そのぬくもりに身を預けた。
「僕の傍にこないか、ロスで、僕の秘書をしながら、前みたいに小説を書いてみるといい」
「……そうね」
「直哉と呼んでくれ、昔のように」
「………」
「納得できない……今度こそ、僕は君を幸せにできる。美穂の時は、映画会社とスポンサーが許さなかった。本当は君と一緒になりたかった」
「………」
 それでも、あの時。
 信じていたはずの恋人は、美貌の女優を妊娠させた。
 彼の直木賞受賞作を映画化した作品で、その主役を演じた女優を。
 新條直哉という作家自身の転機ともなり得る場面で、彼の選んだ道は、人気絶頂の女優を自らの妻とすることだったし、それは、――ミカリが考えても妥当な結論だと思った。
 CMがあけて、再び番組が始まる。
 STORMの歌。
 アルバム収録曲で、人気の高い「ラッキーボーイズ」
 柏葉将のテンポのいいラップで始まる。口パクではない。歌い方は、日本人にしてはうまい部類に入ると思う。が、歌詞はSTORMらしい元気なもので、――大人向けとは到底いえない。
 所詮アイドルのラップはこんなもんだ、と馬鹿にされるだろう。


 ラッキーでハッピーな俺たち五人。
 世の中どこへ転がってこうと、やる時はやる、それだけさ。
 どうやるなら、本気でやるさ。オーケー、レッツゴー、ついてきな。
 we get chance
 いっぱい恋愛して、かっこつけて、けんかして
 そうさ僕らは、でっかく飛ぶさ、いつも、心はフライ、フライ、フライ。

 歌は――口パクだ。
 それは仕方ないと思う。彼らの持ち味は、このキレのいいダンスなのだ。足を上げる、跳ねる、回転する、腕を振る、止める。そのひとつひとつのステップは洗練されて、むしろ美しくさえある。
―――うん……、決まってる。
 ミカリは、右端のポジションで、誰よりも綺麗なターンを決めた男に安堵した。
 いつもより落ち着いて見える。収録の直前まで、セイバーの撮影、そしてラジオの仕事が入っていたはずなのに、その疲れは微塵も見せてはいない。
「………ミカリ…」
「待って」
 どうせ、来週にはロスのアパートメントに帰っていってしまう人。
 彼の気が済むまでつきあってもいいと思っていたミカリだったが、今だけは嫌だった。
「……いい年して、気味が悪いよ、今はアイドルに夢中ってことか」
 腕が離れ、嫌味と共にため息が聞こえた。
 不思議なことに、それは少しも気にはならなかった。
 ライトの下で、凛としたまなざしを見せ、ステップを踏み、そして歌う人。
 信じられない。彼が――あの、ミカリの前ではいつもおどおどして、ひどく気弱な少年だということが。
 そういう意味では、――本人はまるで無自覚だろうが、東條聡は、紛れもなくアイドルなのだ。燦然とオーラを放つ、しかもトップクラスの芸能人。そうでなければ、カメラの前でこんな表情ができるわけがない。
 再びCMが入る。
 ミカリはソファの上に押し倒されていた。
「どうして、スクープをふいにしたんだ」
 覆いかぶさるようにして、男がそう囁いた。
「……あなたの傍には、いられないと思ったからよ。恋人に戻れない以上、個人的な借りは作りたくないわ」
「会社は辞めるつもりなのか」
「辞めるわ、……さっき電話して、そう伝えたのは聞いたでしょう」
「だったら、何故」
 男の声が苛立っている。
 ミカリは無言で目だけをそらした。
 仕事を辞めることと、今から自分が抱かれようとしている男のことは、まるで無関係だった。が、これ以上、このプライドの高い男を傷つけるようなことは言いたくない。
 戻りたいと言えば、九石は何も言わずに受け入れてくれるだろう。
 が、自らが率先して企画した記事を、自分の勝手な意思で入稿しなかった。テープも写真も捨ててしまった。それは、一人の大人として許されることではない。
 しかもその動機ときたら、とても言い訳できるものではないのだから。
―――また、やりなおすわ……。
 首筋に唇が押し当てられるのを感じながら、ミカリは静かな気持ちで目を閉じた。
―――いつだって、どこからだってやりなおせる、私には……それを教えてくれた、仲間がいたから。
 テレビから笑い声が弾ける。
 ムードを壊されたことが癪に障ったのか、新條が、舌打ちして身体を離した。
 ミカリは、何気なく画面に視線を戻していた。
「……ま、」
 新條がリモコンを掴む。
「待って!」
 ミカリは身を反転させて、起き上がりざまにそのリモコンを奪い取っていた。
―――え……?
「な、なんなんや、お前ら、何つれてきとんや」
 爆笑しながら、司会者が指差している。
 その先には、歌い終えたばかりのSTORM。
 が、約一名、STORMではない…いや、人間でさえないものがまじっていた。
「いやー、実は、歌終わった途端、変身しちゃった人が約一名でちゃいまいまして」
 と、表情を変えずに、そう切り替えしたのは綺堂憂也だった。
「へ、変身って、なんや、これ、許可得てやってんのか、君ら、ほんまにJ&Мの人?」
「しょうがないんです。興奮すると、身体が勝手に変身しちゃうらしくて、この人」
 と、綺堂憂也が指差しているのは、初代ミラクルマンの着ぐるみを着た――消去法からいけば、東條聡としか思えない人物だった。その隣では、柏葉将が生真面目な顔で立っているし、成瀬雅之と片瀬りょうは、明らかに笑いをかみ殺している。
「な、ミラクルマン」
 と、憂也が呼びかけると、ミラクルマンの人が「デュワ」っと、意味不明の言語を吐いて決めポーズをとった。
「ほ、ほんま、このまんまトークすんの、君ら」
「ちょっとちょっと、顔見せてよ、そこの人」
 と、東條の前に歩み寄った司会者に、
「それが、ミラクルマンの正体は、一切秘密ってことになってるんで」
「そう、顔だけは勘弁してくださいって、ジャパンテレビさんから念押されてるんです、俺ら」
 憂也と将が、真面目な顔でそう言っている。
「成瀬君、君、立ち居地この人と近かったよね」
 ふいに話題を振られ、成瀬雅之がこわばった笑みを浮かべた。
「どう?みたん、変身シーン、どんなだったん?」
「い、いやぁ……なんつーか、急に光が、ばーっと」
 雅之は、しどろもどろになりながら返答している。
「で、東條君が変身って叫んで、おーって思ったら、もうこんなになってて」
「東條君って、今、名前ゆうとるやん、君」
 司会者の大阪弁を真似てつっこんだのは、綺堂憂也だった。
 会場は爆笑に包まれている。
「わけわからんでー、STORM」
「お前ら、事務所クビになるんちゃう?」
「つーか、これ、どういうアドリブやねんっちゅう話や、中、ほんまは誰がはいっとんねん」
 ミカリは立ち上がっていた。
「ごめんなさい、ちょっと……行かなきゃ、私」
「行くって、どこへ」
 新條の声も戸惑っている。
 が、今のミカリには、かつての恋人の繊細な心を思いやるゆとりはなかった。
「取材よ、判らない?これ、すごいハプニングだもの!」
 

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「テレビ、いいですか」
 乗り込んだタクシーで、ミカリは開口一番きりだした。
 仕事柄、車内テレビを置いているタクシー会社は押さえている。
「ニュースですか」
「いえ、エフテレビのHaiHaiHai」
「は、……はぁ」
 ミカリの口調があまりに真剣だったせいか、タクシーの運転手の声も戸惑っている。
 薄暗い車内に、すぐに小さな液晶画面の光がともった。
 ほかの出演者のトーク場面だった。すでに歌い終わったアーティストたちはスタジオの背後に設けられた席で、そのトークを見守っている。
 画面の端に、いやでも目立つ、赤と白のミラクルマン。
 それが、明らかに、自分に向けられたカメラを意識して手を振っている。
「おまえらなぁ」
 司会者が、笑いながら振り返った。
 まだ、ここにきても、その場の主役はSTORMだった。
 今日の主役であるはずの貴沢秀俊と河合誓也よりも、断然、カメラに写る頻度が違っている。
「番組の最後には、顔出せよ、そこに小泉でも入ってたら、ゆるさへんど」
 内輪ネタ。スタッフの笑い声がそこにかぶさる。
「やべーよ、どうする小泉君」
 と、憂也がしれっと、隣のミラクルマンに声をかけている。
 さらに観客が沸く。
 立ち上がったミラクルマンが、大慌てで逃げようとする。それを、左隣に座っている将が止め、腕を掴んで椅子に座らせた。
 これが計算された演出だとしたら、成功だ。
 ミカリはわずかに眉をひそめた。
 デビュー以来、ここまでSTORMらしさが出た出演番組もないだろう。
 が、
「…………」
 出演を契約した番組で、もし、当のタレントがその場にいなかったら。
 小泉と東條の体格は、後ろから見ると見分けがつかないくらいよく似ている。
 常識で考えても、エフテレビがミラクルマンセイバーの宣伝になるような演出を許可するはずがなかった。だからあえて、初代ミラクルマンのスーツなのだろうが。
 しかしそれも、著作権者である鏑谷プロの使用許可がいる。
 放送キー局であるエフテレビの許可。
 そして、「STORMの東條聡」に、極力特撮のイメージをつけない方針を出しているJ&М事務所の許可。
 それらひとつでも欠ければ、後々大問題になるだろう。
 下手すれば、STORMは、テレビから干されることになるかもしれない。
「今、社長と大森が、東條君とこに押しかけてるみたいだけど」
 電話の最後に、高見ゆうりが小声で言った言葉。
 まさかと思った。そんなはずはない、でも――まさか。
 番組のエンディングが近かった。
 ユニットとしてはテレビ初出演の貴沢秀俊と河合誓也が、センターで手を振っている。画面の下に番組スタッフのテロップが流れ出す。
「こらぁ、逃げるな、小泉」
 と、いきなり司会者のだみ声がして、画面右端から、司会者に腕を引かれたミラクルマンが飛び出してきた。カメラがパンしてその後を追う。
「そのマスク取ってみろっ、コラっ」
 タクシーが止まる。
「お客さん、つきましたよ」
 振り返った運転手が、いぶかしげな顔になる。
 ミカリは息をつめたまま、動くことができなかった。


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「これ、どういうことっすか」
「理解できないですよ、黙って演出変えられたんじゃ話が違う」
 廊下の向こうから声がした。
 光と、影。
 ミカリは黙って、番組プロデューサーにくってかかっている「ヒデ&誓也」のマネージャーを見送った。
「まぁ、まぁ、おたくの会社の内部の問題じゃないですか」
「これじゃ約束が違う、メイン扱いだっていう約束で、エフさんに初出演させることをオーケーしたんです、それなのに」
「実際、メインだったじゃないですか。進行は司会の二人にお任せのところがあるんです。そこは理解してもらわないと」
 エフテレビのプロデューサーの中でも、押しが強いので有名な男は、相手が天下の「J&M」でも、一歩も引く気配はないようだった。
 むろん、ヒデ&誓也のマネージャーも一歩も引かない。
「しかしですね、これは問題ですよ」
「とにかく、唐沢さんと話をしてみてもらえますか」
 言い争う彼らの背後を、今をときめく新世紀のアイドル、貴沢秀俊と河合誓也がついて歩いている。
 さすがにミカリは緊張した。
 貴沢秀俊。
 Jの――いや、日本の新時代を担うといわれ続けてきたアイドルである。
 離れていても、輝くばかりのオーラを発散しているのがよく判る。
 言っては悪いが、STORM5人の誰一人として、この貴沢の存在感には勝てないだろう。いや、いまや、緋川拓海でさえしのぐ勢いが、この貴沢秀俊にはある。
 貴沢と河合。
 二人のビックアイドルが、ミカリの傍を通り過ぎていく。
「ったく、あいつら、何考えてんだよ」
 そう呟いた河合は明らかに不満げだったが、貴沢は貴公子然とした表情を微塵もくずさず、ただ、わずかに微笑しただけだった。
「ま、いいじゃない、楽しかったし」
 成功が約束された来春のデビュー、貴沢単独のカウントダウンソロコンサート、新年に予定されている大作舞台「薔薇の掟」の初座長、ドラマの主演、ひいては再来年の大河の主演。
 光に包まれた道が用意されている貴沢秀俊には、今日程度のことはさほどの躓きにさえ思えないのだろう。
 が、今日。
 デビュー前ユニットとしては初のテレビ出演で、彼らはその主役の座を、ほんの座興にすぎなかった存在に奪われた形になった。
 三年前のデビュー自体、彼らの座興と思われていたグループに、とって食われる形となった。
 それは、貴沢がどう思おうとも、おそらく瞬間視聴率という結果が教えてくれるだろう。
「いやー、なんかもう、サイコー」
「あれ、マジで怒られる紙一重ってやつだったよな、こんなにハラハラしたの、キッズのコンサート以来だよ」
「将君は、真面目な顔して、考え付くことがくだらねーっつーか、しょーもねーっつーか」
 楽しそうな笑い声が、階上から響いてくる。
 ミカリは、とっさに階段の影に身を隠していた。
 はからずも今日、光の下に立った彼らは、さきほど通り過ぎていった影には気づかないようだった。
「あ、」
 最初に気づいたのは、片瀬りょうだった。そして彼は、すぐに背後を振り返る。
「東條君、」
 彼らの中央。
 首から下を、まだ紅白のスーツに覆われている男が、はっとした顔になった。
「……柏葉君の考えた演出なの」
 ミカリは、軽く片手を挙げると、普段とおりの口調で言った。
 階段の途中に立ったままの聡は、何も言わない。
「いくらなんでも、本番抜けさせるわけにはいかないので」
 どこか気まずい沈黙の中、言葉を繋いだのは柏葉将だった。
「本番でバカやったら、ミカリさんの方が、絶対に来てくれるって……つーか、マジで来るとは思わなかったけど」
 綺堂憂也がそう続ける。
「本当にきちゃったんだ……スゲー」
 成瀬雅之がつぶやき、
「行こう、みんな」
 その背を、片瀬りょうがそっと押した。
「謝って回るとこいっぱいあるだろ、貴沢君とこにも行かないといけないし、会社にも、他の出演者にも」
「貴沢君とこには、今、小泉ちゃんが言ってるよ」
「小泉ちゃん半泣きになってた、あそこのマネージャーこええからな」
 四人の楽しそうな声が遠ざかっていく。
 漏れ聞いた不仲の噂など、信じられないようだった。もしかして今日のステージがきっかけで、何かが、いい風に変わろうとしているのかもしれない。
―――ばかね、私も。
 ミカリは表情を変えないまま、内心笑い出したい気分だった。
 信じられない、まんまと5人の子供に騙されたわけだ。私としたことが――取るも取らずにここまで駆けつけてしまうなんて。
「鏑谷さんの了解はとったの」
 聡が階段を下りてくる。ミカリは横顔を見せたままで言った。多分、ひどく素っ気無い風に、男の耳には届いているだろう。
「……うん、電話でだけど、会長が出てくれて、正体ばらす演出じゃないなら、好きにしなって」
「エフテレさんは」
「将君が掛け合ってくれた。……セイバーって名前を出さなかったら、とりあえずはオッケーだって」
「事務所はどうなの」
「………それは……ちょっと、まだ」
 テレビでは、結局オンエア中にミラクルマンの素顔がさらされることはなかった。
 計算か、偶然か、絶妙なタイミングで生放送が終わった。
 司会者のリアクションも、あるいは事前に計算されていたのかもしれない。
 それにしても、事務所に了承を得ていないとは―――
 さきほどのヒデ&誓也マネージャーの怒りっぷりが気になる。眉をひそめて顔を上げたミカリは、しかし、次の瞬間、うっと息を飲んでいた。
 そこに、すでに東條聡の「顔」はなかった。
「ミ、ミ、ミラクルマンは」
 マスクの下から、くぐもった声が響いた。
 顔をマスクで覆った東條聡は、どこから見ても、ちょっと貧弱なミラクルマンのスーツアクターである。
「ひ、人の、心がですね、よ、読めるっていうか」
 階段の上から足音が響いてくる。
 ミカリは慌てて、まだ何か、もごもごと喋っている聡の腕をひっぱると、踊り場から非常口に続く扉をあけ、その中に押し込んだ。
 非常灯だけがともる、薄暗い非常階段。
 防火扉を閉めてしまえば、外の声は聞こえないし、中の声も聞こえないはずだった。
「………セイバー」
 向かい合って、初めて素直な気持ちになっていた。
 無論、聡の表情は判らない。
「ヒーローの恋人はね、もうちょっとまともな方がいいと思うよ」
「…………」
「私はね、……以前、」
 ミカリは言葉を詰まらせた。
 もう癒えたはずの心の傷が、今、こうして口にした途端、ぶりかえしてしまいそうな気がした。
「……自分の子供を殺してるの。その意味わかる?」
 とっさにうつむいていた。が、ミカリはすぐにその顔を上げた。
「……なんとなく」
 ぼそっと声が返ってくる。
 マスク越しだから、感情が読めない声。
「この人と結婚できないって理解した時に、だったらいいやって、私ってそんな奴」
 新條に土下座され、相手の女優のマンションに呼び出され、そこで金銭を手渡された。すでにミカリの妊娠は、一部週刊誌で情報が漏れており、この状況で出産だけはしてほしくない、ということだったのだろう。
 それでも、最後に決めたのはミカリ自身だった。産むという選択肢もあったのに、それを――結局は、身勝手な都合で選ばなかったのは、ミカリ自身の意思だった。
 術後の経過は思った以上にひどかった。もう二度と子供はできないと言われ、その時にはじめて、ミカリは自分の失ったものの大きさを理解した。
 どんなに泣いても、悔いても――絶対に戻らない。
 号泣したベッドの傍では、新條と加藤美穂の、海外挙式の映像が流れていた。何度も結婚しようと囁いた男が光の中にいる、そしてミカリは一人、闇の中にいた。
 人生の暗黒へ続く淵を、当時のミカリはふらふらと放浪していたようなものだった。もし、あのどん底の中で、九石ケイに出会わなかったら――冗談社の仲間に出会わなかったら――。
「ミカリさんは、……違う」
 重苦しい沈黙の中、聡が低くつぶやいた気がした。
「俺の知ってるミカリさんは……違う、それで、十分っす」
 ミカリは苦笑して、首を振った。
「あの時の私はね」
 本当にひどい女だった。
「傲慢で、うぬぼれが強くて、世界は自分のためにあるって思ってるような女だった。大手出版社に入社して、花形部署で、有名な作家の担当を任されて、……いい気になってたの。光の下の影の存在なんて、考えてもみなかった」
「…………」
「自分より容姿も学歴も劣っている友達を、心の中じゃバカにして……自慢気に、自分から格好のスキャンダルを話したわ。そういう意味じゃ、全部、自分の身からでたことなのよ」
 返ってくる言葉はない。
 ミカリは、かすかに笑い、目の前のスーツの、胸のあたりをぽん、と叩いた。
「じゃあね、ヒーロー」
 がんばって。
 さよなら。
 好きだったけど。
 それは、恋とは違う次元の感情だから。
「―――お、俺が、強くなりますから」
 背を向けた直後だった。
 ミカリは足を止め、それでも歩き出そうとした。
「お、俺が、もっと強くなりますから、ミカリさんがいつも笑ってられるよう、俺が強くなりますから」
「……なぁに、それ」
「さ、支える男になるっていうか、なんていうか」
「………」
「ほ、ほかに……言葉が、思いつかないんすけど」
 この、どうにもはっきりしない言葉の数々に。
「す、……大好きなんです!」
 それでも、胸を打つ響きを、いつも感じてしまうのは何故だろう。
 絶対に、うまくいきっこない。
 年も立場も、そして過去も。
 いつか、確実に、お互いを傷つけるだけなのに。
 振り返り、ミカリはマスクに包まれた顔を見上げた。表情はわからなくても、真剣な視線だけははっきりと判った。
「セイバー……」
 ミカリは思わずつぶやいていた。
 呟いた途端に、涙がこぼれた。
「……私の心を読んでみてよ」
「お、俺のこと……」
 一歩歩み寄ってくる。額だけを少し冷えた胸にあずけ、ミカリは黙って目を閉じた。
 肩を抱いてくれる手が心地いい。
 この子は――本当に、一緒にいるだけで、人の心を優しくさせる。本人は、その魅力にまだ気づいていないのだろうか。
「す、好きだって、言ってます……ような」
「ハズレ」
 ミカリは苦笑して顔をあげ、マスク越しの唇に口づけた。
「……大好きだって言ってるのよ」







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