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「なにやってんだよ」
 片瀬りょうは、ため息を吐き、髪に指を入れてうなだれた。
 テレビのない舞台控え室。頼りは、ラジオを通して聞こえるテレビ音声だけだった。
(――ちょっとひどい試合になってきましたねぇ。)
(――練習がきついせいでしょうか、身体が全然動いてませんね、崖っぷちサッカー部は)
 解説者の声が、ノイズまじりに聞こえてくる。
「めずらしいのね」
 そんな女の声が、頭上で響いた。
 りょうは目だけで相手を見あげる。
「休憩中に、ラジオ聞く余裕があるなんて、どうしたの」
「………これは、特別」
(――この得点差をくつがえすのは、難しいでしょうね。)
(――うーん、お客さんの中には、帰りだす人も出てきましたねぇ。)
 呆れたような一瞥だけを残し、りょうの前に立っていた人が姿を消す。
 いつもなら、一人でいるのが耐えられずに、その後を追っていた人だった。
 りょうは黙って、耳に入れたイヤフォンの位置を直した。
(―――あ、ファールです、キャプテンの成瀬君に、ここでイエローカード!)


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 イエローカードを突きつけられ、雅之は、かぁっと頭に血が上るのを感じていた。
 やってねぇし。
 足をひっかけてきたのは向こうで、なのに勝手にこけやがった。
 それで、俺がイエローカード?
「おいおい、素人相手にやりすぎんなよ」
「だって、ちょろすぎだし」
 審判が立ち去るとすぐに起き上がり、駆けていく敵フォワードが、そんな会話を交わしている。
「もう一点くらいで勘弁してやんねー?」
「あとは回して、時間潰せば、それでいいっしょ」
 余裕の会話が、ミッドフィルダー陣からも聞こえてきた。
「……………」
―――やめてぇ。
 雅之は、時計を見あげる、まだ前半だけで十五分以上あった。
 足は棒のようだった。走っても走っても、これが限界なくらい走っても、相手ははるか先にいた。どうしたって埋まらない、努力だけでは、絶対にかなわない距離。
 地獄の底か。
 これが、そうか。
 呆気なく点を重ねられるたびに、絶望感だけが募っていく。
 自陣に侵入されるたびに、足がすくむほど怖くなる。
 怖い。
 逃げたい。
 それでも、残り時間いっぱい、この場にとどまらなければならない。
 絶望と、自身の無力さを思い知らされるためだけに。
―――これが、現実か。
 視界が、わずかにかすんで見えた。
 相手ゴールが、幻のように遠く見える。
 これが、勝敗という結果が出る、スポーツという世界の現実なのかもしれない。運だけでは、気持ちだけでは、どうしても越せない高い壁。
 神尾は――最初からそれを知っていたのだ。ここにいる誰より強く、圧倒的強者と戦う怖さを知っていたのだ。
 雅之の周りから、しだいに音が消えていく。
 自分の心の声だけが、いやに耳に響いてくる。
 怖い。
 やめたい。
 この場から逃げ出したい。
 憂也、将君
 助けてくれよ――。
 「雅君!」
 背後のおはぎから声がした。
 雅之は、我にかえってはっとする。
 目の前には相手フォワード、雅之がマンツーマンでディフェンスする相手である。
 ドリブルをしながら猛進してくる相手を前に、咄嗟に足がすくんでいた。
 雅之の背後には、すでに神尾しかいない。
 その神尾の前には、イーグルスの選手が身体を割りいれ、ゴールアシストの体制を作りつつある。
 ここで雅之が抜かれれば、確実に一点だ。
 5対1。
 スコアとしては最低の、終わったも同然の試合になる。
 轟然とドリブルを仕掛けてくる相手フォワード。
 それでも、雅之の足は動かないままだった。


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「もう一点入った時点で、試合中継打ち切って」
「総集編の映像いって、ラスト五分だけ放送、スポンサーからの要請です」
 プロデューサーとアシスタントの慌しい声で、放送室はにわかに騒然となった。
「J さんの了解は?」
 そんな声が聞こえたので、
「承知しています」
 その場に唯一同席していた、J&Mの取締役、美波涼二は落ち着いた声でそう言った。
「うちとしてもこれ以上、全国に恥をさらしたくないので」
 現場に、気まずそうな雰囲気が流れる。
―――どこで、話がこんがらがったものだか。
 放送室を出た美波は、帰り支度を始める観客の間を縫って、元の席に向かった。
 あのバカ野郎。
 おぜんだてした筋書き通りのプレーをしていたら、今頃全国のヒーローだったはずなのに。
 今回の企画を、J&M取締役会の反対を押し切ってエフテレに持ちかけたのは、美波涼二だった。
 緋川拓海を召集し、緋川を通じて世界的サッカー選手までスペシャルゲストとして招待した。美波にしても、しぶる唐沢を説得しての、かなり大掛かりな仕込みだった。
 ストームは、ここが正念場だった。
 上にいけるか、いけないか。ここで勝負がつくと、美波なりに分析してのことだった。
 が、それも、結局は無駄骨だった――というより、そもそも
―――上に行く気がないのか、あいつらは?
 成瀬雅之。
 少しはまともなものを魅せてくれるんじゃないかと思っていたが、それも、しょせん、甘い買いかぶりにすぎなかったらしい。
 かすかな失望を感じつつ、美波は元の席に座る。
 案の定、最高に不機嫌な顔をした唐沢直人が、怒りのオーラを滲ませた眼で、美波を迎えた。
「スコアは、どうなりました」
「………ぎりぎりで持っている、まだ4−1だ」
「5点目が入った時点で、中継は打ち切りになりました」
「当たり前だ!」
 相当苛立っているのが、その声音だけで判る。
 それはそうだろう。
 点が加算されるごとに、おそらく、視聴率は確実に落ちている。
 J&Мにしても、企画から関わってきた看板番組、過去に例のない生中継を組んだだけに、ここでの失敗は絶対に許されない。
―――クビかな、これは。
 やや、ふっきれた気分で、美波がそう思った時だった。
「すごかったのよ、さっき」
 ふいに口を挟んだのは、さっきから弁当だのジュースだの、普通の観戦気分で、一人試合を楽しんでいる副社長だった。
「もう一点追加されるところを、顔面ブロックで鼻血ブー」
「………誰がです」
 フィールドでは、試合が続行されている。
 相変わらず押し込まれている。いつ点が入っても不思議ではない状況だ。
 が、その中で、確かに一人、タンカで運び出され、ピッチ外で治療を受けている選手がいた。
「うちのアイドル」
 真咲しずくは、平然とした顔でそう言った。


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「大丈夫か、雅君」
「は、はい」
「棄権してもいいんだぞ」
 心配そうに見つめている片野坂イタジを、雅之は首を振って押しのけた。
「もどります、大丈夫なんで」
 鼻の奥がじんじんする。
 鼻血なんて小学校の時以来だ。
 つか、普通にかっこわりーし、俺。
 足が動かないからって、何も顔からボールに突っ込まなくても。
「雅!元の位置に入れ!」
 ゴール前から、神尾の怒声が飛んだ。
「はい!」
 大声で答えてから、走り出す。
「もどってこんと思ったわ」
 すれ違い様、ミラクル中田の声がした。
「悪かったな」
「……………」
 え?
 聞き間違いかな、と思った。
 が、振り返った時、中田の背中はすでに遥か先にあった。
 謝られたような気もしたし、慰められたような気もした。
 が、もし謝られたのだとしたら、その理由は、なんとなくだが……判るような気もした。
―――謝らなきゃなんねぇのは、俺なのにな。
 逃げたいと思ったし、実際ずっと、逃げ腰でプレーしていた。多分、自分だけでなく、「悪かったな」と言った中田も含めて全員が。
 つか、バカじゃん、俺も。
 何をいまさら、逃げてたんだろう。
 最初から、この程度の展開はわかってたはずなのに。
「来るぞ!」
 神尾の声。
 イーグルスのスローインから、あっさり敵にボールが回される。サイドチェンジを繰り返しながら、再び簡単に攻め込まれる。
「雅、もっと右にいけ、モギーはマークを絶対に外すな!」
「おう!」
「っす!」
 わかんねぇ。
 心臓が引きちぎれるほどの勢いで走りながら、雅之は思う。
 もう勝てないって判ってるし。
 かなわないって判ってんだけど。
 なのになんで走ってんだろ、俺。
「雅、右っつったろ!」
 サイドチェンジで、ボールのコースを読めということだ。
 攻める気かよ、神尾さん。
 雅之は、苦笑いを殺してダッシュした。
 足、いてぇ。
 胸が苦しい。
 肺に穴でも開いてる気分だ。
 わかってる、多分、一番情けなくて逃げたいはずの神尾さんが、がんばってるから。
 わかってんだ、俺だって、やるしかねぇって。
 でないと、あの人引っ張り出した責任取れないじゃん。
 みんなをここまで引っ張ってきた責任、取れねぇじゃん。
 正面からスライディング。体勢がくずれて、思いっきり腿を擦りむいた。
 あまりに無茶な突っ込みに、辟易したのか、相手は意外なほど簡単にボールを手放す。
 そこに、おはぎが飛び込んできた。
「おはぎさん!」
「雅君、前だ!」
 おはぎさんまで、攻め気かよ。
 みんな、怖くないのかよ。
 もう一点取られたら、本当にこの試合、冗談みたいな草サッカーになっちまうのに。
 雅之は、手の甲で鼻をこすって跳ね起きた。
 走る、走る、走る――
 ぐんぐん景色が、敵も味方も一色になって、遠ざかっていく。
 あ、すげぇ、気持ちいいかも。
 なんだろ、この開き直りみたいな腹にくる感覚は。
 おはぎのクロスを、走りこんできたカズシが、必死の形相で頭に合わせにいった。当然、敵のディフェンダーが、カズシの二倍はあろうかという巨体をぶつけてくる。
 はじけ飛んだカズシは、しかしすぐに跳ね起きる。
「とられたらあかん!」
 ディフェンスラインがあがっている。ゴール前は神尾1人。
 ここでとられたら、逆に、あっけなくカウンターを食らってしまう。
 しかしボールは、無情にもイーグルスディフェンダーの足元に落ちた。
「雅、戻れ!」
―――はえー、もうかよ、
 指示を聞くまでもなく、全速力で自陣めがけて走り出していた。
 自分を追い抜いて行く、おはぎとミラクル中田。
 雅之は、何故か笑っていた。
 もう、誰も下を見ていなかった。

 















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