7


「すご……」
 スタジアムの中に入った凪は、赤一色に染まった客席に息を呑んだ。
 東京、調布にある東京スタジアム。
 フィールド周辺のトラックには、テレビスタッフとカメラがひしめき合っている。
 3万収容の客席はほぼ満員。記者席をのぞけば、殆ど赤色のレプリカユニフォームで埋め尽くされていた。
 ちょっと、すごすぎ。
 凪は、微妙にびびりつつ、メインゲートで手渡された崖っぷちサッカー部のユニフォームを見た。絶対に着ろってことなんだろう。代金も払ってないのに、もらった以上。
 それにしても、すごい。
 人気バラエティ番組の撮影とは言え、それが、ここまで大掛かりなものだとは思ってもみなかった。
 今日の試合のチケットは、観覧希望者への抽選と一般発売、二つの手法で市場に出回ったが、番組の人気を反映してか、かなりの激戦だったという。
 凪のそれは、雅之に送ってもらったものだ。
 二枚あって、風を誘おうと思ったけど、やめた。
 だめもとで電話してみた。以前交換しあった携帯の番号に。
 少し前に交通事故にあったと聞いていたし、多分、無理だと思っていたけど。
「すごいね、人」
 スプリングブーツで足の傷を隠している人は、やはり、戸惑ったような目で凪を見下ろした。
 末永真白。
 以前会った時より随分髪も伸びて、ますますお姉さんっぽくなった気がする。
「平気ですか、足」
 そんなに歩くことないですからー、なんて調子のいい言葉で誘っておいて、現実は、結構歩かせてしまった。凪は申し訳なくなって、少し目上の真白を見る。
「うん、全然」
 真白は笑う。
 事故から10日しかたっていない。まだ痛みもあるだろうに、よく来てくれたな、と、実際思う。
「もともと大したことないの、縫った傷あとが気になるくらい」
「痛くなったら、いつでも言ってくださいね」
 凪は、真白を先導するような形で、こみあった人を縫って指定された席を探した。
「あ、クッション持ってきました、私」
「あ、ありがと」
「お菓子もいっぱい」
 凪がそう言って、硬い椅子に持参したクッションを引いていると、真白がかすかに笑うのがわかった。
「凪ちゃんって、男の子みたいだね」
「えっ??」
 それ、ケンカ売られてる?もしかして。
「彼氏にしたら、頼りがいありそう」
「そういう意味なら、よく言われます」
 凪は、真白を促して席についた。
「首、ひねったとか聞きましたけど」
「それも全然、ギブスっていうの?つけてると逆に吐きそうになるの、苦しくて」
「よかったですね、軽い怪我で」
「強運ね」
 そう言って笑う横顔が、綺麗だった。
―――りょうんとこ、どうもマジで別れたっぽいよ。
 とは、先日、雅之から聞いてはいた。
 まぁ、もともと理解が人より鈍い男だから、どこまで本当か判らないけど。
 ただ、今日、会ってから一度も、真白は片瀬りょうのことを話さない。だから、凪も、触れない方がいいんだな、というのはなんとなく判った。
 でも――
「すごい、あらためて思うけど、最近の人気ってすごいよね、ストーム」
 そう言って、眩しそうな目をフィールドに向ける人は、今日、少なくとも来てくれた。
 それは、完全に――心から切り離したわけではないような気がした。
 ストームのことも、片瀬りょうのことも。
「成瀬君と会ってる?」
「あ、全然、電話くらいで」
「そっか」
「まぁ、私も、大学はじまって、浮かれてる場合じゃないんで」
「……平気?」
 なんとなく、何が聞きたいか、判ってしまった。
 こっから核心入るかな、と、凪は少し緊張する。
「……正直、あの男とは、そんなに深くつきあってないんで」
 そんなこと、成瀬の前で言ったら、怒られそうだけど。
「正直に言うと、深くつきあうのが、ちょっと怖いっていうか」
 それは、認めたくないけど、少しだけ思う。
 心に防波堤、引いてるのかもしれないなって。
「あんま、恋愛ごときで深刻になりたくないんです、うん。他にもしたいこといっぱいあるし」
 それには、今度は真白が、少し意味ありげな微笑を浮かべた。
「……おかしいですか」
「ううん、……うん……おかしいかな」
 え、そんなはっきり言わなくても。
「てゆっか、そういうのって、コントロールできるものじゃないと思うんだけどな」
「そうなんですか」
「うん、……多分ね、もっと好きになると、判ると思うけど」
「……………」
 片瀬さんのこと、
 凪は言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
 なんとなく、それも理解してしまった。
 真白さんは、コントロールできないから、苦しいんだろう。
 ってことは、―――まだ、かなり好きってことなんじゃないかな。
「今日は、なんで来てくれたんですか」
「…………」
「あ、乗り物のことじゃないですよ」
 そう付け足すと、少し寂しげな面立ちの人は、たちまち人好きのする笑顔になって笑い出した。
「凪ちゃんって面白い」
「?そ、そんなでも」
 こっちは普通にしゃべってるのに、何がこの人の琴線に触れているのか判らない。
「成瀬君に似てる、カップルって似てくるっていうけど、本当だね」
「…………」
 凪は、一瞬、目の前が暗くなったのを感じた。
 真白さん、それ、思いっきりケンカ売ってます。
「なんていうの、自分にトドメ……」
 ひとしきり笑った後、真白は、むしろすっきりした口調で言った。
「世界が違うって、確認するためにきたのかな」
「……………」
 凪は、しばらく考えてから眉をひそめた。
 それは、
 意味は判る。でもそれは違う。反論しようとした凪は、それでも轟音のような歓声に、一瞬言葉を失っていた。
 フィールドに、赤いユニフォーム姿の「崖っぷちサッカー部」のメンバーが現れる。
 激しいロック超の音楽と共に、テレビのサッカー中継でおなじみのアナウンサーの声。そして、一人一人、サッカー部の部員が紹介される。
 その顔が、ゴール裏の巨大スクリーンに映し出される。
 忘れ去られ、消えかけていたお笑い芸人たち。
 その1人1人に、今は、盛大な拍手と怒号のような歓声が送られている。
 番組放映当初、誰も名前を知らなかった連中が、今は全国区の人気者になりつつある。
 テレビってすごいな、と凪は思う。そして、同時に怖い、とも思う。
 雅之からの電話で、ある程度の実情を聞いている凪は、今回の企画が、決して美談だけで成り立っているわけでないのを知っている。
 それでも、オンエアされるエピソードは、涙なくしては見られない作られた感動ばかり。
 メンバーの過去、家族など、その悲劇性が、かなり誇張されて取り上げられている。
 視聴者は、観客は、ある程度演出されたドラマを観ている、というより見せられているのだ。
 その意味では、目の前にあるのは虚構の世界。
 けれど、今フィールドに立つ当人たちにも、当人にしかわからないドラマがある。それは、真実として伝わらないかもしれないけど、絶対にある。
 凪が信じているのはそれだけだった。
「フォワード、ストーム、成瀬雅之!!」
 うおーーっっと、歓声が一段と激しくなった。
 巻き起こる成瀬コール。
 スクリーンでは、ほとんど表情を変えない雅之が、パスの練習をしている。
―――世界が違う……。
 凪も、刹那にそれを感じた。
 轟音のような歓声、そのたびに震えるスタジアム。
 今日、凪は、何万もの観客の一人で、雅之は、その期待を一身に背負う主役だった。
 真白は、何を考えているのか、静かな眼差しのまま、じっとフィールドを見つめているようだった。


                 8


「ゲスト画像いって」
「撮影オッケー?」
「事務所の許可は出てる、ただ、インタビューは厳禁」
「やっぱなぁ」
 スタッフが色めき立っている。
 メインテーブルに座った貴沢秀俊は、不機嫌が表情に出るのを、じっと堪えたまま、いつも通りに微笑していた。
「唐沢社長も、来てるらしいぜ」
 カメラが向こうに行ったので、河合誓也が、気を抜いたように話しかけてきた。
 ここは、東京スタジアムのビップルーム。
 ガラス張りの窓から、階下のフィールドが一瞥できる最高のシートだ。
 まだ揃っていないが、ここに、サッカー解説者や、元Jリーガーなどが同席する予定になっている。
 社長なんて、問題じゃねぇだろ。
 貴沢はそう思いつつ、黙っていた。
 どうせ、しょうもない八百長試合だ。それが判って、この仰々しさはなんだろう。くだらなさすぎて反吐が出る。
「……水原マネに聞いたけど、お前、こないだ、ストームのコンサートに行ったんだって」
 カップのコーヒーを飲みながら、誓也があきれたような声で言った。
「らしくねぇじゃん、なんだよ、あんな奴らが気になるのかよ」
「まさか」
 即座に貴沢は眉をあげた。
「手作りコンサートっていうのに、興味があってさ、たまたまだよ」
 冷めたままの声で言うと、誓也は、吹き出すように笑った。
「ま、見ものではあるわな」
「……………」
 本当は。
 その後、楽屋で、柏葉将に何気なく話してやるつもりだった。
 明日の試合、筋書きがあるみたいだよ。
 あの直情バカが、社長なりエフテレになりに怒鳴り込んで、またぞろセイバーの時のように、大騒ぎにでもなればいいと思っていた。
 なのに、
 5×5が30かよ。
「………バカじゃねぇ」
 思わず呟いてしまっていた。
「え?」
「いや、別に」
 試合開始直前、スタジオは、大歓声に包まれている。
 三十分も前、同じフィールドで、貴沢と誓也は、この日のために用意された楽曲を歌った。
 その時は、おざなりにしかなかった声援が、今は、ヒートアップして怖いほどになっている。
―――どっちが主役だと思ってんだ、この番組の。
 貴沢の苛立ちが最高点に達した時、目の前のモニターに、観客席に座るゲストの姿が映し出された。
「……つか、ありえねぇだろ」
 貴沢は思わず立ち上がる。
 後輩のバラエティには絶対に出ないギャラクシー。
 そこに映っているのはギャラクシーの緋川拓海と、彼の親友でもある、有名サッカー選手だった。
 日本人で初めて、サッカーの最高峰「セリエA」で成功を収めた男。
 どんなに乞われても、国内のバラエティ番組には絶対に出演しない、世界の相羽、こと相羽匡史選手。
 会場から聞こえる悲鳴のような歓声が、この事態の異常さを物語っていた。


                   9


「ぎゃーっっっっ」
 試合前の練習を終えた控え室。
 モニターを見て、最初に飛び上がったのは雅之だった。
 う、うう、嘘だろ、オイ。
 な、なな、なんだって緋川さんが、え?
 俺の青春の全てを捧げたあの人が、こんなとこにきてんだよーっっっ
 キャップにサングラス。思いっきり私服姿。観客と同じ雰囲気で座ってはいるものの、その周囲は全てJ&Mのスタッフだ。
 画面の端に唐沢直人と真咲しずくの姿を認め、雅之は、ほとんど失神しそうになっていた。
 つ、つか、なんだってこんな大げさなもんになったんだ?この番組。
「なに泡くっとんねん、今更」
 背後から、ミラクル中田に頭を叩かれた。
「この大観衆の中、一番平然としとったんに、今更やで」
 背後でおはぎも笑っている。
「いや……それは、」
 職業病とでもいうのか、大観衆の中で立たされるのは慣れている。が、事務所の先輩や社長に見守られる?のは、実の所あまり経験がない。
「にしても、相羽さんやで」
「ありえんやろ、普通、これ、かなり数字が跳ねるんちゃうか」
 最後のミーティング。しかし、肝心の監督兼選手が現れないため、全員が、ばらばらとモニターの前に集まっている。
 そのモニターは、今は、東京イーグルスの練習風景を映していた。
 これから初めて対峙するプロの世界。
 体格もさることながら、何気ないパス、シュートにも、凄みを帯びた迫力がある。
「勝てたらすごいな」
「ありえんけどな」
「ありえんから奇跡やねん」
「いけますよ」
 雅之は力を込めて言った。
「神尾さんみたいなトップ選手に鍛えてもらってたんすから、俺らだって」
 ほとんど善意で試合を受けてくれた東京イーグルスには悪いと思うが、彼らが信じている筋書きを逆手にとって、雅之たちはありえない瞬間を作り出すつもりだった。
 しかし、それは同時に、テレビ局への造反でもある。
「………最後に、もう一回、確認しときたいんやけど」
 ミラクルが、いつにない真面目な目で呟いた。
「何をやねん」
「それこそ、今さらやで」
 最後に視線を向けられ、雅之もまた頷いた。
「やりますよ、予定通りです」
 局サイドで用意した試合の筋書きを、あえて無視する。
 一歩間違えたら、タレント生命さえも失いかねない、危険な賭け。
 これで、ストーム全員に迷惑かけたら、腹を切って詫びるしかないと雅之は思っている。その意味で、雅之は今日、懐に辞表を抱くような覚悟でスタジアム入りした。
 やるさ。
 なにしろ、5×5は30だ。
「勝つぞー!」
「おう!」
 全員の気合の声。
「点いれっぞー」
「おう!」
「まぁ、無理やけどな」
「なにいうてんねん」
 笑い声。それまでどこか緊張していた全員に、少し余裕がでてきたようだった。
「……神尾さん、遅いな」
 ふと気づき、雅之は呟いた。
 練習の時、ふいに途中から姿を消した神尾恭介が、まだ戻らない。
 今日の試合の戦略は全て、元プロサッカー選手である神尾が立てたものである。
 ぎっと背後の扉が軋む。
 同時に全員が、振り返った。
「……えーと……」
 そこに立っていたのは、かなり困惑した表情の、元プロのゴールキーパー、仙波だった。
 高校時代から神尾の親友、今回の「がけっぷちサッカー部企画」に参加した元プロ選手は、この仙波と神尾しかいない。
「悪いんだけど、……恭介、今日は無理っぽい」
 え?
 全員が、呆けたように顔をあげる。
 神尾さんが?
「腹痛で、今、医務室で休んでる。試合は、お前らだけでやってくれってさ」












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