34


「今日は、楽しかった」
 少しだけ素直になってみた。
 が、そんな凪の態度が信じられないのか、隣立つ男はすこし不審気な顔になる。
「のわりには、全然俺の方見てなかったような」
「しょーがないじゃん、柏葉さんのリクエストで、余計なやつと同席してたんだから」
 駅から乗ったタクシーを降りて、徒歩。
 こんな遠くまで送ってもらって、かえって迷惑っていうか、余分なお金がかかるような気もするけど。
 それでも、久し振りの2人きり。
 凪は、ぶらぶらと所在無くぶらさがっている?雅之の手に視線を落とした。
 繋ごうかな、ま、やめとこ。
「どっか自販ねぇかな、喉乾かない?」
 雅之は呑気にそう言い、凪から離れて周辺を見回す。
―――ああ、鈍感。
 今日の私なら、なんかもう、捧げたい!ってくらい、あんたのことが好きなんだけど。
 まぁ、そこまではオーバーとしても。
「その余計な同伴者、前ちゃんの子供ってマジ?」
「そうみたい、今日も、なんだかんだっていい感じで話してたよ」
 ひねくれはしているが、そんなに悪い男でもない、碧人も。
 せっかくの高収入だし、家庭教師のバイトも続けようと思っている凪なのである。
「今日は、実家に帰るの?」
「あの部屋には帰れねーだろ、りょうと末永さんがいるってのに」
 振り返った雅之は、少し憤慨気味に眉をあげた。
「そりゃ、仲直りはしてほしいけどさ、なんつーの、部屋の主の俺が、頑なに掟を守ってるっつーのに、そりゃないよって感じじゃん?」
「………掟?」
「え、はっ、な、なんでもないなんでもない」
 と、たちまち両手を振って後退する雅之。
「はー、今夜はあちぃな」
 脱いだ上着を肩にかけ、何かを誤魔化すように歩きだす。
 情けないなぁ。
 サッカーの試合も、今夜もミニライブも、最高にかっこよかったのに。
「……今日は、本当によかったよ」
 凪は、足を速めてその背中を追いながらそう言った。
「そっか」
「うん、……正直、最近ちょっと遠いなって思ってて、あんたのこと」
「え、遠いって?耳?」
「……………」
 言葉の隠喩は、この男には難しいのかもしれない。
「とにかく、嬉しかった」
「そ、そっか」
「ありがとね」
「……………」
 黙られると調子が狂う。見あげた顔は、案の定、こっちが恥ずかしいほど照れまくっていた。
 あ、
 手――つないでくれた。
 あったかくて、大きいな。
 今度は凪が、少しだけドキドキしてうつむいた。
「……もうちょっと、待って」
 前を見たまま、雅之が言った。
 少しだけ深刻な声だったから、別の意味で、凪もドキっとしてしまっていた。
「髪、あと少しで、こう、坊主って感じじゃなくなるんで」
「……………はぁ」
 髪??
「今度笑われたら、さすがに立ち直れないし、俺」
「………………………………」
 それ、なんの話?
 凪は、呆れきった眼差しを雅之に向けた。
「……待つって、なにを」
「え、なにって、その」
「その?」
「その……キ、キキキ」
「………………」
 やっぱりか。
 それは確かに、笑った自分が悪かったけど。
「つかそれ、目、つむればいいだけなんじゃない?」
「えっ」
「別に笑わないけど、見なきゃいいだけなんだから」
 まぁ、意識すると笑っちゃうかもしれないけど。
「………………」
「……………?」
 沈黙。
 あ、そっか、今私、もしかして、誤解が誤解を生むような発言を――
 ま、いっか。
 雅之が足を止めたので、凪もあわせて止めていた。
 周囲を用心深くうかがっている。
 てゆっか、そこまで準備されてもちょっと引いてしまうんですが。
「………いい?」
「いっけど……」
 聞かれたら、さらに引く。
 ムードもへったくれもないって感じ。
 それでも肩を抱かれ、閉じた商店の庇の下で――大きな影に覆われた時、凪は強い動悸と、眩暈のような感覚を感じていた。
「ま、待って」
「え?」
 顔が影になってて少し怖い――とは言えない。
 それから、
「大人のキスは、ちょっとやだ」
「……………」
 少しの間黙った雅之が、闇の中で笑ったような気がした。
 その余裕、なんかむかつく。
 と、思った時には、唇が重なっていた。
 凪は慌てて目を閉じる。
―――あんだけ照れてたくせに、こうなると結構大胆っていうか。
 まぁ、キスは――これで、三回目なんだけど。
 三回目だけど、そっか、二年ぶりのキスになるんだ。
 えーと、確か前は、
 だんだん、思考がまとまらなくなっていく。
 周辺の音が消えて、心臓だけが、爆音をたてている。
 少し強く抱き寄せられ、凪はよろめく。合わさった唇から、わずかな息遣いが感じられた。
「………、ここまで」
「うん、わかってる」
 凪が顔を引くと、男は素直に頷いた。
 今、余裕がないのは、雅之ではなく、凪の方だった。
―――なんか……立てないや。
 まだ動悸が収まらない。
 体がふわっとして、へんな感じ。
 雅之の腰に手を回すようにしてすがり、凪は動けないままでいた。
「俺………真面目に好きだから」
 髪を撫でられ、耳元で声がした。
「……うん」
「大切にする、本当に」
「………うん」
「今でもすげー、してっけど」
 少し笑って、凪はうつむいた。
 やばい。
 今、夢みたいに――幸せ。



                 35



「聡君?」
「うわっっっ」
 と、振り返った聡が、慌てた様子で下肢のあたりを隠す。
「ごめん、そんなに驚かなくても」
 ミカリは慌てて浴室の扉を閉めた。
「静かだから、またこないだみたいに寝てるのかと思って」
「いやー、俺、風呂で考え事する癖あって、」
「ゆっくりしてて」
 それにしても、浴槽ならともかく、体を洗いながら考え事って……
 ミカリはそう思いつつ、用意したタオルと着替えを棚に置いた。
「は、入らないっすか、一緒に」
 すりガラスの向こうから声がした。
「いや、マジでこのまま寝ちゃいそうなんで、なんかこう、頭の芯がぼけてるって言うかなんていうか」
「へぇ」
「あ、い、今のなしです、冗談です、冗談」
 ミカリは少し笑って、「いいわよ」と言った。
 逆に、風呂の中の男がパニックになっているのが判る。
 ま、そういうとこが可愛いんだけど。ミカリは苦笑して身支度を終えた。
「なんで離れるの」
「いや……なんとなく」
 と、やや距離を開けつつ湯に沈み、2人して狭い浴槽で向かい合った。
「なんか、温泉に来たみたいね」
「狭すぎるような」
 自分から誘ったくせに、妙に居心地の悪そうな顔をして、東條聡は視線を下げた。
「去年は、冗談社で温泉に行ったの、楽しかったな」
「す、すげー、バカ騒ぎだったんでしょうね」
「すごいなんてもんじゃないわよ」
 みんな、それぞれが独自の酔い方を――思い出すと、今でもおかしくて仕方ない。
「憂也君可愛そう」
 ミカリが抜けたかわりに、今日は綺堂憂也が鬼の宴会に同行している。
「イタジさんも一緒だから」
「多分、なんの救いにもならないわよ」
「今度は、みんなで行けたらいいな」
 そう言って聡は、湯を手のひらですくってミカリを見下ろした。 
「温泉」
 普段でも優しい目が、いつも以上に優しく見えた。
「……そうね」
「今年の冬とか、来年の春あたり」
「いいわね」
 多分。
 顔だけ近づけて、濡れたキスを交わしながら、ミカリは静かな気持ちで考えていた。
―――多分、無理よ、聡君。
「気持ちいい……」
「ん?」
「お湯ん中で抱き合うの」
「のぼせちゃうわね」
 額をあわせて、もう一度キス。
 狭い浴槽の中でもどかしく体勢が変わり、キスの密度も深くなる。
「……ごめん、俺、今、ちょっと、がっついてるかも」
「うん」
 乱れた息遣いの中、被さってくる綺麗な身体に、ミカリは手を回して抱きしめた。
―――来年の今頃、この子はどうなってるんだろう。
 どこに立っているんだろう。
 そして、私は。
「ミ、……カリ、さん」
「………っ」
―――考えなきゃいけない。
 甘い陶酔の中で、それでも一点、静かなものが、まだミカリの中に残っていた。
 ずっと、どこかで逃げてきたことから。
 そろそろ――真剣に、向き合わないといけない。


 




 














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