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「おつかれー、」
「今日はありがとう、楽しかった」
 そんな声が飛び交う中、織出佳世は、誰もいなくなったステージを見上げた。
「片瀬の彼女、来てるゆうたけど、どこにおったんやろな」
 立ち上がりながら、劇団の同僚、梶原永輝がそう言った。
 この席に交じり、ひとしきり話していったアイドルは、終始楽しそうだったが、その目はどこか辛そうに見えた。
「わかったわよ、私には」
 わずかに残る感慨を振り捨て、佳世は冷めた目で永輝を見上げた。
「へぇ」
 と、永輝も、少し鼻白んだような表情になる。
「なんや、また私こそが片瀬りょうの恋人ですっちゅう目でステージをみとったんか」
「違うわよ」
 佳世はバッグを持ち、どこか警戒する目で自分を見ている――片瀬りょうのマネージャーに一礼してから、歩き出した。
「大切な、宝物でも見るような目で見てたから」
「…………」
「彼女じゃないわよ、片瀬君がね」
 佳世は足をとめ、もう一度ステージを振り返る。
 バイバイ、アイドル。
 ま、そこそこ楽しかったわよ。
「ご飯でも食べにいかない?」
 そう言うと、背後の永輝が激しく咳き込むのがわかった。
「……ま、また今度な」
「へぇ、そう」
「嘘や嘘や、もうー、佳世ちゃんてば、嘘にきまっとるやんか」
 佳世は思わず笑っていた。
「晩飯も食うて、朝も食わへん?」
「冗談でしょ」
 佳代は、笑いながら――きっと、もう二度と、振り返ることはないと思っていた。
 もう、現実にはどこにもいない、舞台の上で情熱的に愛してくれた男の幻を。



                    32



「じゃ、まぁ、あとは適当に上手くやって、俺はこいつを送ってくから」
 将はタクシーの扉を閉めてそう言うと、背後で生あくびをしている女を振り返った。つか、なんでこうなるんだ?と思いつつ。
「りょう、末永さんと二人で話し合うの?」
 タクシーに乗り込んだ聡が、窓を開けて不安そうに聞いてくる。
「まぁな、雅ん家で……凪ちゃんが先に、末永さん送ってくれてるはずだから」
 で、その後は、その凪ちゃんと雅がデートかな。
 聡は聡で、このタクシーはどう考えても恋人のマンション行きだし。
 憂也は、九石ケイに引っ張られるように、二次会に行ってしまった。
 聡を乗せたタクシーが夜の街に消えていく。
―――で、俺は、
「おい、帰るぞ」
 将は、憮然とした声で言った。
「ふぁーい」
 酔っ払い女のタクシー代わりかよ。
「薄情よねぇ、涼ちゃんったらさ、仕事だってさっさと帰っちゃうんだもん」
「つか、何しにきたんだよ、あんたら」
 真咲しずくと美波涼二。
 ライブの間中、なんだかずっと――妙なほどべたべたしていたように見えたのは、気のせいだろうか。
 最も美波さんは、雰囲気的に子供をあやしているような風ではあったが。
「後ろで寝ててもいい?」
「勝手にしろよ」
 すでに怒りを通り越して仏の心境。仏っても、阿修羅仏に近いけどよ。
―――りょう、
 うまくやってっかな。
 2人の意固地な気性からして、今夜、仲直りできなきゃ、もう絶対無理だろうけど。
 将は、嘆息して夜空を見上げた。
 ああ――俺も、人のこと心配してる場合じゃねぇんだけどな。



                  33



「……今日は、ありがと」
 最初に口を開いたのは、りょうだった。
 ソファに座り、体を硬くしていた真白は、ただ無言で頷いた。
 今年の新年に来た時は、にぎやかで楽しかった成瀬雅之の部屋。
 今――2人きりで向かい合っていると、ただ広いだけの、むしろ寂しい部屋に見える。
 りょうは、真白から離れた壁際の棚に、背を預けるようにして立っていた。
 この部屋に来てからずっと、暗く翳っている横顔。りょうはまだ、まともに真白を見ようともしない。
「今日は、どっか泊まってるの」
「……うん、ホテル」
 言葉少なに、真白もうつむく。
 りょうが息を吐く。
 それから少し間があった。
「………別れるために、来たんだろ、今日」
「……………」
 少し迷いながら目をそらし、それでも真白は頷いた。
 そう――そのために来た。
 もう、この辛いだけの恋を終わらせるために。
「………真白さんを、傷つけたことは、言い訳できないし、するつもりもないけど」
「ううん、それは違う」
 それだけは違う。
「そういうのは……判ってる、そんなことで、りょうを恨んだりとか、嫌いになったりとか、そんなんじゃ全然ないから」
 仕事――仕事というより、彼が選んだ職業そのものに内包されているもの。
 でも。
「……でも、そういうの、ひっくるめて平気でいられるほど」
 真白は言葉を詰まらせ、そこでわずかに唇を震わせた。
「おおらかでも、ないかな」
「………うん」
 時計の音だけが、響いている。
 窓の外を通る車の音。
 そんな意味のない音だけが、2人の沈黙を繋いでいる。
「別れようか」
 口を開いたのは、りょうだった。
「……………」
「俺が悪いことしたから、俺から言った」
 ようやく顔をあげたりょうの、視線を感じる。
 今度、目を合わせられないのは真白の方だった。
 心臓が、怖いほど強く高鳴っている。
 別れる。
 自分から決めたことなのに、はっきりと告げられるのは、想像以上の衝撃だった。
 激情が胸を震わせ、うつむいた真白は、そのまま泣きそうになっていた。
 それでも、かろうじて言葉を繋ぐ。
「………うん、ありがと」
「終わったね」
「……………」
 終わった――。
 真白以上に覚悟を決めていたのか、りょうの声は、不思議なほど落ち着いていた。
「じゃ、今は俺たち、友達かな」
 多分今も、じっと真白を見つめている。
「うん、そうかも」
 真白はそれだけを言い、何度か小さく頷いた。
 友達。
 せめて、その関係だけでも保つことができるのだろうか。
「………友達として、聞いて」
 りょうはそのままの姿勢でうつむき、両手の指を膝の上で組んだ。
「俺が中一の時、自殺したんだ、俺の兄貴」
「………………」
「お袋が俺ばっか可愛がるからだって親父は言ってた。よく判らない、大学受験、失敗したってのもあると思うし、ほかにも原因はあったのかもしれないし」
 真白は何も言えないまま、とつとつと、まるで――他人の家の話をするような淡白さで話し続ける男を見上げた。
「でも、それからお袋もダメになった。外面は普通なんだけど、家の中じゃもう目茶苦茶。親父は浮気ばっかだし、あとはもう、いつ糸が切れてもおかしくないってくらいやばい状態が続いて」
 で、入院。
 りょうはそう言って、やはり感情のこもらない目で肩をすくめた。
「もう、俺の顔見てもわかんないの」
「…………」
「兄貴のことは時々呼んでも、俺の名前は呼ばねーの」
「…………」
「俺はただ、お袋の期待に応えようとしただけなんだけどね、なのに、俺見てもわかんないんだ、もう」
「りょう、」
 真白は呟いて顔をあげた。その刹那、涙が零れた。
「兄貴のことは覚えてても、俺のことは覚えてないんだ」
「もういいよ」
 もう――話さないで。
 淡白なのは、必死に感情を殺しているからだとようやく気づく。
 もういい、もう話さないで。
「親父は俺を毛嫌いしてるしね、もうずっと前からだけど、……今でもよくわかんない、俺、どうすりゃよかったのかな」
「……………」
「どうしてれば、あの2人に愛してもらえてたのかな」
 真白は立ち上がり、りょうの傍に歩み寄ると、その腰に腕を回して抱きしめた。
 胸に頬を寄せる。暖かな鼓動がした。
「……最近、思うんだ、だから俺、アイドルになったのかなって」
 りょうの手が、髪をゆっくり撫でてくれる。
 辛いことを話しているのはりょうの方なのに、真白を慰めるような優しい手つきだった。
「真白さん、前言ってたじゃん、どんなにたくさんの人に愛されても、俺が好きになれるのは一人だけだって、でも俺、一人に愛されるだけじゃ満足できないんだ、多分」
「……………」
「飢えるほど沢山の人に愛されたい、でも、それでも満足できない、それでも、何も埋まらない」
「………………」
「一人になるのが怖くてずっと、……何かを求めていたような気がする」
―――りょう……
 暖かな胸から鼓動が聞こえる。
 昔から知っているりょうの香り。自分のものだと思っていた香り。いつの間にか何もかも、知ってるつもりになっていた。でも、何も知らなかった。何も――
「なんで、泣くの」
「……………」
 りょうの問いに、真白は無言で首を振った。
「………ごめんな」
「………………」
 髪に、そっと唇が寄せられるのが判った。
「今まで、ごめん………いっぱい苦しめてごめん、我慢させて、ごめん」
 そんなことない。
 そんなこと、全然ない。
 真白は言葉が出ないまま、りょうの首に腕を回して抱きしめた。
 その背に、りょうが両手を添えてくれる。
「俺、生まれて初めて、自分のこと全部人に話した」
―――りょう。
「真白さんも、言って、本当の気持ち、今だけでいいから、俺に聞かせて」
 りょう。
 堪えようとした嗚咽が溢れ、真白の目を新しい涙が伝った。
―――澪。
「あ………」
「……………」
「アイドルなんか、やめて」
「……………」
「東京になんか行かないで、ずっと私の傍にいて」
 耳元で、りょうが小さく呟くのが聞こえた。
 真白さん、
「大好き……澪」
 強く抱きしめた。強く、強く。
「大好き………愛してる」

 




 













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