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「来てくれたんだ」
 凪がそう言うと、冷めた目をしたままの男は、しらけたように肩をすくめた。
 六本木某所。
 地下にある小さなクラブ。その正面入り口での待ち合わせ。
「ばらされたら困るじゃん」
 海堂碧人。
 凪が通う大学の、一級上の先輩である。そして、凪が家庭教師をしている女子高生の兄。
 裕福な家で育った男は、それを誇示するかのごとく、高級そうなレザージャケットを羽織っていた。
「つか、アイドルって暇なんだ」
 階段を降り、会場の扉を開きながら、碧人は馬鹿にしたような声で続けた。
 凪は後をついて行き、慌てて中の受付で招待券を見せる。
 と、見せてから気がついた。受付席にいるのは、ストームのマネージャー、片野坂なんとかさんと、小泉ちゃんと呼ばれている小柄な人だ。
 い、いいのかな、と、凪は少しだけ不安になる。
 一応私、アイドルには厳禁と言われている、アイドルの彼女なんですけど。
 が、場内に入って、すぐにそれは杞憂だと判った。
 ステージ前にいくつかのテーブル席が設けられており、すでに沢山の人が、思い思いの席についている。
 サッカーの試合で知り合いになった鏑谷プロのスタッフや出演者の人たち。おなじみ、冗談社の一団も、隅のテーブルに席をとっている。
 そこにミカリの姿を認め、凪はようやくほっとしていた。まぁ一応、同類だから。
「で、親父は今夜もこきつかわれてんだ」
 最後尾の二人掛けのシートに座ると、碧人は冷ややかな声でそう言った。
 凪は頷く。
「一応、ゲストのつもりだったらしいけど、結局は手伝ってるんだって」
「馬鹿だね、相変わらず」
「好きなんでしょ、音響の仕事が」
 凪はそう言い、まだ幕の開かないステージを見あげた。
 ツアーの打ち上げを兼ねた、ストーム即席のミニライブ。
 雅之に電話をもらった時は、正直、行かない、と即答していた。そんな芸能関係の席に出るなんて冗談じゃない。
 が、
「打ち上げっつーより、ライブに来られなかった人のためのライブっていうか、友達ばっか集めた気楽なもんだから、来て」
 と、結構しつこく誘われて、で、最終的には柏葉将から電話までされて、それで行くことに決めたのだった。
「前ちゃんの息子さん、知り合いなんだろ」
 碧人のことを言われたのも、その時だった。
「よかったら連れてきてあげて、前ちゃんも喜ぶから」
 柏葉将の情報収集の早さには、ちょっと感心してしまう。
 で、凪には、もうひとつ気がかりがあった。真白さんは――来るんだろうか。
 あの日、サッカーの試合の日、最後の最後で、迷っているらしいあの人に、実は、とどめをさしてしまったんじゃないだろうか、私。
「ひゃあ、ライブハウスってこんなんか」
「ちょっと敷居が高いねんなぁ、俺らには」
 そんな声が背後からした。
 新たに入ってきた集団は、あきらかに一般人ではない風だった。全員背が高くて、妙なほどスタイルがいい。
 舞台関係の人かな、とふと思う。
「ちわー」
「呼ばれたんで、やってきました」
「なんかしょうにあわねぇな、こういうの」
 次に入ってきたのは、凪も知っている――というか、今では、一躍人気者になってしまった「崖っぷちサッカー部」の元部員たちだ。
 その瞬間、場内にもわっと声援があがる。
―――つか、……何が友達ばっか集めた気楽なものよ。
 凪は困惑しつつ、眉をあげた。
 どう見ても、一般人には敷居が高い面子の数々。適当な時間に抜けてやろう、悪いけど。
 そんなことを考えている内に、バッグを抱えたゴージャスな美人が入ってきた。
 黒のパンツに胸元の開いたドレスシャツ。滑らかな肌に栗色のロングヘア。女優――にしては、初めて見る顔だけど、一般人にしては綺麗すぎる女性。
 しばらく見ていた凪はようやく気がついた。
 サッカーの練習の時にいた人だ。ストームのマネージャーとか言ってたけど、え、こうして見るとものすごい美人じゃん。
 それから、その女の背後に、
「………あ、」
 思わず凪は立ち上がり、それから声を出したことが恥ずかしくなって、うつむいた。
「あれ?涼ちゃんの知り合い?」
 その女が足を止めて、自分の背後に立つ美波涼二を振り返っている。そして、……多分、美波の視線の先を追ったのだろう、初めて気がついたように、隅に座る凪に目を止めた。
「ん?ユーはもしかして、成瀬君の、かの」
 凪でさえびびる一言をあっさり言おうとした女の口を、その背後に立つ美波が、すかさず手で塞いだ。
「君も来ていたのか」
「あ、はい」
「こっちは仕事だ、まぁ、楽しみなさい」
 そのまま、何か言おうとする女――凪の記憶が正しければ、ストームのマネージャーマサキさんとかいう女性を引きずるようにして、美波涼二は前の方に席に歩いていく。
 お礼……言いたかったけど。
 サッカーの試合の日。成瀬のことが心配で――スタッフ通用門のところをうろうろしていたら、見つけてくれたのが美波だった。
 そして、少しの時間なら、ということで会わせてもくれた。
 あの日は、ちょっと動顛していて、きちんとお礼も言えなかった。
―――もう少し、話がしたかったけど。
 前の方のテーブルで、その美波と、美貌のマネージャーが、ほとんど顔を近づけあうようにして話している。
 親しげな雰囲気は、先ほど、ものも言わず、美波が女の口を塞いだ所作からもあきらかだった。
 なんだろ、私。
 今……結構複雑な気持ちなんだけど。
 別に、いいじゃない、美波さんが今幸せなら、それはそれで。
 彼のことなら、もう、気にしないでおこうって、決めたんだし。
「佳世、遅いで」
「ごめん、遅くなったわね」
 そんな声がした。
 カヨ――。
 聞き覚えのある名前に、凪は振り返る。
 まさかね、と思う。まさか、先月、片瀬りょうとの交際をスクープされた、織出佳世とかいう女優じゃ――ないよね。
 しかし、凪の前を通り過ぎた長身の女は、はっきりと写真の面影を横顔に滲ませていた。
―――マジ?これ。
 凪は唖然として顎を落す。
 だとしたら間違いない。今日、真白さんが、来るわけがない。



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「なんなんだよ、あの女、一体」
 将は、思わず呟いて拳を握る。握って、開く。
 いや――怒ってる場合じゃねぇし、俺。
 咳払いをして、将は自分の立ち位置を再度チェックした。
 そう、今は子供じみた嫉妬をしている場合じゃない。
 舞台裏。
 もうすぐ、ミニライブの幕があく。
 幕間から垣間見た客席で、将にすれば、あまり見たくないツーショットを見てしまった。
 デビュー前、真咲家に居候していたという美波涼二は、子供の頃からあの女を知っている。だから、まぁ、兄妹みたいに親しげにしてるだけだと――信じたい。
「しょっ、将君」
 着替えを済ませた雅之が、血相を変えて駆け込んできたのはその時だった。
「まじーよ、りょうの奴、劇団の人呼んでるよ」
「ああ、知ってるよ」
 それが?と振り返った将の胸を、雅之がぐっと掴んで引き寄せた。
「来てんだよ、末永さんも」
「えっ」
 さすがの将の手からも、思わず回線表が落ちていた。
 いや、――色々考えて、今回それは、なしにした。末永真白を招待するのは。
 末永真白とりょうのことは、問題の根が深いだけに、もう少し時間を置いてフォローしようと。
「だ、誰が呼んだよ」
「将君が動揺してんなよ、俺も、マジびびるじゃんか」
「ミカリさんだよ」
 背後から、苦い顔で口を挟んだのは、聡だった。
「彼女が真白さん呼んだんだ。俺が一言言っときゃよかったのに……ゴメン」
「もう来てんのか」
「来てる、冗談社の席に座ってる」
「……………」
 最悪といえば、これ以上ないほど最悪のバッティング。
 でも――
「来たんだな、彼女」
 今まで、将の誘いも、ミカリの誘いも、ずっと断り続けていたのに。
 少なくとも今日、りょうに、確実に会うと判って来た。
「……頭のいい人だから、何も考えずに来たわけじゃないと思うよ」
 将は嘆息し、整えた髪に指を入れた。
「最悪だけど、いい機会かもしんねー、それが最後通告にしろ、なんにしろ」
 生殺しの状態よりはましだろう、あの強情な二人にとっては。
 多分――可能性としては、別れを言いにきたんだろうけど。
「りょうには俺が言う、とにかく、今夜で、けりつけさせよう」



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「………………………」
 りょうは、ただ、黙ってうなだれた。
 最悪だな、その目が無言で、諦めた笑いを浮かべている。
「しょうがないね」
「……………ま、自業自得っつーか」
「…………うん」
 頷いてりょうは黙る。
 将は無言で、嘆息した。
 正直、りょうの、舞台女優への恋は、恋であって恋ではないだろう。
 りょうも、多分、相手の女も、それが一過性のものだと最初から判っているはずだ。
 だから――もう少し、間をおけば、と思っていたのだが。
「言い訳する気もないし……なんにしても」
 りょうは、さすがに陰鬱な目で立ち上がった。
「多分、覚悟して来てくれたんだ、俺も腹括るよ、いい加減」
「……………」
 行こう、そう言いかけたりょうの手を、将は思わず掴んでいた。
 いや、腹って――そんなに簡単に括るもんかよ。
「よく考えろよ」
「考えたよ」
「じゃあもっと考えろよ、わかってんのか、今なら間に合うことも、別れちまえば、二度と取り戻せなくなるかもしれないんだぞ」
 少し苛立った声がでた。
 りょうの眉がわずかに翳る。
「友達じゃないんだ、親子でもない、男と女は、別れたら、もしかすると一生会えなくなるかもしれねぇんだ」
「…………」
「本当に、その覚悟があるのかよ、お前」
 もしかして今日で。
 二度と、会えなくなるかもしれない覚悟が。
 りょうは、黙って目をすがめる。
「悔いがないくらい、もっと自分を見せてやれよ、りょう」
 将は嘆息して、親友の肩を静かに抱いた。
「その上で、別れたきゃ別れればいい。それは……一人じゃない、二人で決めればいいんだよ」



 













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