1


「もう、全然大したことないっていうか、本当にラッキーだったっていうか、うん」
 心配そうに気遣う友人相手に、真白は、今日何度か目のセリフを口にした。
「ちょっと足をね、自転車の間で挟んじゃって、それで打ち身がひどいだけ、折れてるとかそんなのは全然、入院とかもなかったし」
「真白」
 隣室から、けん制するような母親の声がする。
 真白は舌を出し、
「ごめん。今親が来てるんだ、また連絡するね」
 と言って、携帯電話を切った。
 切った途端、空元気も萎え、忘れていた痛みが蘇ってくる。
「いたた」
「ばかねぇ、寝てなさいっていったじゃない」
 しかめっ面で歩み寄ってくる母に頷き、真白は元通り、ベッドの中に身を沈めた。
 肩に力を入れると、首筋全体が痛む。
 首に巻きつけた装具が窮屈で、そのせいか頭も痛い。
「痛い……」
「当たり前よ、あんたね、車にはねられたのよ?道歩いて転んだのとわけが違うのよ」
「………わかってる」
 真白は情けなさと痛みに、眉をしかめて目を閉じた。
 麻酔が切れてきたのか、足は、朝からずっと、じくじくと痛い。
 交差点で、出会いがしらの衝突事故。
 実際――加害車のスピード如何では、命はなかったかもしれない危険な事故だった。
 倒れたはずみ、後頭部と肩を舗装道にぶつけ、車に押しつぶされた自転車に足を挟まれた。幸いどちらも軽症で、脳にも骨にも異常はなかった。
 ただ、軽いむちうちと、それから脛の内出血。それがあまりにひどかったため、傷をいったん開いてから縫うことになった。で、一夜明けた今でも、脛の痛みがかなり辛い。
 知らせを聞いて、昨日、急きょ島根から駆けつけてくれた真白の父と母。
 襖を隔てた狭いダイニングからは、包丁を叩く音が聞こえてくる。料理人の父が、昼食の用意をしている音だ。
「お父さんのごはん、久し振りだな」
 布団を鼻先まで下げて、真白は思わず呟いていた。
「なに呑気なこと言ってんの」
 昨日は目を赤くしていた母だったが、今日はさすがに余裕を取り戻しているようだ。
 東京の料亭から島根に嫁いだ母は、お嬢様育ちらしく、四十後半になっても、どこか少女のような若々しさがある。母は、娘の額を弾いて笑った。
「こっちはどれだけ心配したと思ってるのよ、だから大阪なんかにやるんじゃなかったって、お父さんは怒り出すし、もう散々」
「……友達が、ちょっと大げさに電話したみたいで」
 両親に一報を入れてくれたのは、後輩の彩菜だ。
 で、ついでに、病院に忘れてきた真白の携帯で、あらゆる友達に連絡してくれたのも。
「あら、いい子じゃない。今朝、携帯電話届けてくれた女の子でしょ?」
 母は、窓を開けながらそう言った。
 桜の甘い匂いがする。目の前は公園で、桃色の膨らみが、横臥している真白の目にもかすかに見えた。
「真白も、こっちでお友達と上手くやってのね、お母さん、安心した」
「おーい、美和子、味噌がないぞ」
 と、台所から父親の声。
「はいはい」
 と、出て行こうとする母に、
「今夜も泊まれるの?」
「お父さんは無理だけど、お母さんはしばらくいるわよ」
「……うん」
 真白は、暖かな気持ちを抱いたまま、目を閉じた。
 昨日、ベッドで寝る真白の隣に小さな布団を敷き、そこで父と母が寝た。
 親子でひとつの部屋で寝るなんて、小学校の時以来だ。この年になって、絶対にできないことが、事故で――まぁ、あまりいいことではないけれど、それがきっかけになってできるんだから、不思議だな、と思う。
「本当はね、お父さん、ずっと真白を島根に帰らせろって言ってたのよ」
 やがて薬と、冷たい水を持って戻ってきた母は、真白の背を抱いて、起こしながらそう言った。
「心配性だもんね」
 真白の父、憲介は、若い頃から料理の道一筋に生きてきた男である。
 まだ十代の頃、東京の料亭での修行中に母と出会い、駆け落ち同然に故郷の島根に戻ってきた。
 人生にドラマありよねぇ、と、その逸話を姉と話すたびに、真白はしみじみと思ってしまったものだった。だって、恋愛のれの字も感じさせない無愛想な父から、そんな情熱的な話なんて想像もできない。
「それもあるけど……まぁ、わかるでしょ」
 と、普段呑気な母の口調がそこだけ曇った。
「真白が、芸能人みたいな人とお付き合いしてるから、心配なのよ」
 芸能人みたいな、じゃなくて、思いっきり芸能人なんですけど。
「………まぁ、心配かけたけど」
 そもそもりょうが、よりにもよって、両親が揃っている時に店に来たから、隠しようもなかった2人の馴れ初め。
 真白は、痛み止めと抗生剤を飲み干して、再びベッドに仰向けになった。
「もう、大丈夫っていうか……もう、そんな、心配かけるような関係じゃないんだ」
「……お別れしたの?」
 そこは同じ女なのか、母の声が、少し複雑な色味を帯びる。
「うーん、微妙なとこだけど……自然消滅ってほどでもなくて、なんていうか」
 そこで深刻に考えると、少し辛くなる気がした。
「友達に戻ったの、そんな感じ」
「………そう」
「まぁ、相手、思いっきりテレビの人だから、そもそも友達でもいられなくなるかもしれないけど」
「平気なの?」
「うん、別に」
 あまり考えないようにしてるから。
 それは、胸の中だけで呟いた。
 今日――三時から、難波で二回目のライブ公演が行なわれる。
 チケットもないし、今から買えるはずもないけど、それでも、ずっと心はざわついていた。行くべきか、行かざるべきか。
 行ってしまえば、会ってしまえば、それが最後になると思ったし、行かなくても、それはそれで、2人にとってゆるやかな最後になるような気がした。
 が、そんな心配も杞憂になった。
 どうしたって行けない。その結果どうなっても、これはもう運命だろう。
「お母さんは、いい子だと思ったけど、」
 母は、複雑なため息をついて立ち上がった。
「やっぱり、芸能人って薄情なのかしらね、ちょっとがっかり」
「友達だから、本当に」
 そこは、真白も少しムキになっていた。
 りょうは、薄情なんかじゃない。
 優しすぎるほど優しいよ。どれだけ優しいか、多分、想像できないと思うけど。
 一緒にいる間、どれだけ大切にしてくれたか――誰にも、判らないだろうけど。
 
思い出した?最初のキス。
 ごめんな、こういう時、俺ががつんって言わなきゃいけねーのに。
 ごめんな、明日は一日ロケで……見送れなくて。
 ごめんな。

―――いつも、謝らせてばかりだったね、私。
「…………」
 思い出が、溢れてくる。
 もう思い出さない。忘れようって決めたのに。
 玄関のチャイムが鳴る。
「はいはい」
 と、母の声と足音。
 彩菜かな、と真白は目の端に滲んだ涙を払って、顔を上げた。
「真白、……お友達」
 半身を起こし、カーディガンを羽織った時に、母が奇妙な顔で戻ってきた。
 その時には、父親に挨拶しているらしい「友達」の声で、それが誰だか真白にも判っていた。
「すいません、ご無沙汰してます」
 冗談でしょ?
 咄嗟に時計を見あげる。力を入れた首が痛んだが、そんなことはどうでもよかった。
 午前11時半、あと数時間でライブが始まる。
 その主役で当事者が。
 何があっても、こんな時間にこんな場所にいていいはずがないのに。


                  2


「片瀬君、私たち、これから警察に行くんだけど」
 沈黙を破るようにそう言ってくれたのは、母だった。
 父はさきほどから、ずっとむっつりしたまま、口を開こうともしない。
 狭いリビング。
 ベッドで半身を起こしたままの真白の視野に、不自然な距離を開けて立っている、父と母とかつての恋人、三人の姿が映っている。
「30分くらいで戻れると思うけど、悪いけど、真白にご飯食べさせてやってくれないかしら」
 そんなもん、一人で食べられる。
 閉口したが、口を挟むような雰囲気でもなかった。
 かなり機嫌の悪い父親と、まさか両親と遭遇するとは思ってもいなかったのだろう、相当居心地の悪そうにしている「友達」。
 今、黙り続けている男二人の感情を乱すようなことは言いたくない。
「か、片瀬君は、仕事もあるし、そんなにゆっくりしてられないと思うけど」
 真白は控えめに、それだけを言った。
「すぐに戻ります。それに、一人でも大丈夫でしょ」
 が、母はそう決めつけ、ぐずぐずしている父親の手を引くようにして、上着を被せ、玄関に引っ張っていく。
 慌しい足音と、二人が何か言い争っている声がして、それもやがて静かになった。
「………大丈夫?」
 ようやくりょうが口を開く。
 真白は目を合わせないまま頷いて、内心の動揺を悟られないようにした。
 畳が軋んで、少しだけりょうが距離をつめてくる。が、それでもその足は、真白のいる寝室には入ってこようとしなかった。
 最後に会ったのが――ラビッシュ大阪公演の、千秋楽の夜だった。
 その時は、ひどく痩せて、やつれてさえ見えたりょうの身体は、今は――元通りに戻っている。
 いや、むしろ、前より逞しくなった気さえした。
 腕からも腰からも、ぽきんと折れそうな頼りなさがなくなっている。少年から今は、完全に大人の男の体型に変わっている。
 髪がかなり伸びて、それが肩にかかっていた。前髪も長くて、結んだら、結構可愛い女の子になってしまいそうだ。
「とにかく、元気そうで……安心した」 
 多分、リハーサルの最中に抜けてきたんだろう。まだ肌寒いのに、飾り気のないTシャツにジーンズだけという軽装。
「……でも、どうしてりょうが、知ってるの?」
 真白が聞くと、やはり居心地の悪そうなまま、りょうはうつむいて前髪を払った。
「朝、リハの前に、将君から聞かされた、携帯に、事故ったってメールあったって」
「柏葉君に?」
 なんで?
 一瞬眉を上げた真白は、―――ああ、彩菜だ、とため息をついた。
 あの――ばか!
 いや、そもそも未練みたいに、アドレスを残していた私が一番いけないんだけど。
「ほんと、ごめん、迷惑かけて」
 真白はため息をついて頭を下げた。
「見てのとおり、全然大したことないの、騒ぐほどの事故じゃないし、怪我も大したことないし」
 じゃあ、この事故騒ぎは、ストームのみんなにも伝わっているんだろう。本当に――なんてはた迷惑な私なんだろう。そう思うと、心の底から情けなくなる。
「親も来てくれてるし、面倒みてくれる友達もいるから」
「……みたいだね」
「だから、りょうは、すぐにでもツアーに戻りなよ、私のことなら、放っといてもらって大丈夫だから」
「……………」
 りょうは答えない。
 その沈黙の冷たさで、今の自分の言葉がりょうを傷つけてしまったことを、真白はようやく理解した。
―――あ、今のは……。
 りょうの迷惑になりたくない、その思いから出た言葉。が、それを、言い訳して、何になるというのだろう。
 もう心の中では、とっくに結論は出ているのに。
「また………ゆっくり話し、しようよ」
 真白がそう言うと、りょうは何も答えず、目も合わせないままで頷いた。
「…………」
「…………」
 それでも、その場に立ったまま、りょうの横顔は、何か――言葉を捜しているような気がする。
 それが何か、考えると怖くなりそうだけど。
「………よくないね、こういうの」
 気持ちを――静めるだけ静めてから、真白は言った。
 それだけで、きっとりょうには伝わったろう。
 この数ヶ月の不自然な関係、それをこのままにしておけないことを、真白だけではない、きっと、りょうだって判っている。
 こういう場合、私が二つも年上だから。
 やっばり、私が、切り出した方がいいんだろう。
「………お互い、自由になった方が、」
 それでも、言葉を繋ぐたびに、感情の波が胸を衝いた。
「いいかなって、思う時があるんだ」
「………うん、」
 横顔を見せたまま、りょうが頷く。
「まぁ、自由なんだけどね、基本」
 真白はふざけた声でそう繋ぐ、そうでもしないと、感情が壊れてしまいそうだった。
「……なんていうか、精神的にって意味で」
「…………俺といると、きつい?」
 はじめて、はっきりした声が返ってきた。
「そんなんじゃないけど」
 そんな目で見ないで。
 お願い。
 もう、そんな目で、私を見ないで。
「……りょうは優しいから、私が苦しいのとか、ちゃんとわかってたりするじゃない?」
 目をそらしたままで、真白は続けた。
「それで、きっとりょうも、私のことで苦しかったり悩んだりするのかなって、なんていうか、もうそういうのが重いの、多分」
「……………」
「言いたいの……それだけ」
「……………」
 しばらく黙り、りょうはかすかに息を吐いた。
「……うん、なんとなく、判る」
「…………」
 納得したってことだろうか。
 自分から言い出したことなのに、その刹那、真白は目の前がぼやけて、滲むのを感じていた。
「………じゃあ、」
 りょうが呟く。そしてそこで、言葉を止める。
 じゃあ?
 別れよう?
 終りにしよう?
 判っているのに、予想できるのに、真白の胸は、動悸が高まり、苦しいほど痛くなる。
「……あ、時間」
 だから、なんでもない顔をして、壁にかけてある時計を見あげてみた。
 笑う。
 すごい、ここで笑ってるよ、私。
「駅行きのバス来るし、帰っていいよ、一人でも大丈夫、友達も来てくれるから」
 ずるいな、私。
 こうやって、最後の言葉から逃げている。
 りょうの口から出る最後通告、聞かないで――終りにしようとしてるんだ。
「……うん、」
 りょうは頷く。
 真白の目を見ないまま、ようやく固まっていた足が動き、玄関に向かって歩き出す。
 真白はベッドに片手をつき、とりあえず平気な足を軸にして立ち上がった。
「いいよ、こなくて」
 さすがにりょうが、それには驚いたようだった。
「つか、全然平気なの、怪我っていっても打ち身だけだから」
「いいって」
「いいよ、戸締りもあるし」
 足は少し引きずるけど、歩行に不便があるわけじゃない。
 が、りょうが慌てて手を伸ばしてくる。
「ほんと、平気だから」
 遮ろうとした手が、りょうの手と重なった。
 少し冷たくて、結構男らしい、大きな手のひら。
「……………」
 忘れていた体温に触れた途端、抑えていたものが、身体を満たしていくのが判った。
―――りょう……
 動けなくなる。
 りょうの腕が背中に回るのが判っても、動けない。
「あ……、」
 肩を抱かれ、バランスを崩してりょうの胸にすがる形になる。
 迷っている間に、唇が近づいてきた。
「りょ……」
 だめ――
 キス。
 柔らかくて優しいキス。
 今は、きっと、卑怯なキス。
「い、や、……りょう」
 首を振って逃げようとしても、逃げられない。
 足を庇うように支えられたまま、何度も何度も、甘い口づけが繰り返される。
「や、……」
「真白さん……」
 互いの呼吸が、少しずつ乱れている。
―――りょう……。
 溶けそう――
 心が、溶けて、悩んだことも、決めたことも、全部流れてしまいそう。
 多分、りょうも、それが判っているから続けている。
 いつも以上に、優しくて甘い口づけを。
「……だ、りょう」
 そんなの、いや。
 そんなの、卑怯だ。
 真白は、りょうの胸を、少し強く突いて押し戻した。途端に、うつむいた目から涙が零れた。
 拒否されたりょうが、傷ついたのも判る。それでも顔はあげられなかった。
「…………ごめん、でも」
「……………」
「こんなの、やだ……私」
 ぽたぽたっと、涙の粒が胸元に落ちる。
 肩を抱いてくれるりょうの手から、ふっと力が緩んだ気がした。
「真白さん、俺、」
 玄関の鍵が回る音がしたのはその時だった。
 真白は、はっとして、りょうから距離を開けようとする。が、自由にならない足と身体。結局は、二人で寄り添ったまま、思いの外早く帰宅した両親を出迎えることになった。
「あ、玄関まで見送ろうとしたら、ちょっと、バランス崩しちゃって」
 真白に言葉に眉をひそめる父も母も、二人の間に流れる不自然な空気を、機敏に察したらしかった。
 なにより、どう誤魔化しても、娘の目にははっきりと泣いた後がある。
「……片瀬君、少し話があるんだが」
 父が、りょうにそう言うのを、真白はうつむいたまま、どうしようもない気持ちで聞いていた。













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