15


「じぁあ、また明日な」
「寝坊すんなよ」
 口々にそう言って別れたのは、深夜二時を回った時間だった。
 六本木。
 J&M事務所。
 六階のリハーサル室を出た将は、あくびをしながら壁に背を当てた。
―――疲れた……。
 今は、一刻も早く帰宅して、ベッドの中にもぐりこみたい。
 明日には舞台、そしてサッカー部の撮影が予定されているりょうと雅之だけは、さすがに早い時間に帰してやった。
 ツアーの合間の舞台公演。仕事が詰め込まれるのは人気アイドルにはありがちのことだが、ここまでひどいスケジュールもないだろう。
 正直、りょうはよくやっていると思うし、快く快諾してくれた劇団ラビッシュにも感謝したい。
「やべー、また守衛のおっさんに叱られるな」
 将は一人で呟きながら、扉に鍵を差し込んだ。
(せめて、1時には出てってくださいよ。)
 とは、毎日のように言われている、が、ここ最近、それを守れたためしがないからだ。
 微妙に焦りつつ、リハーサルルームの鍵を閉めた時だった。
「あら」
 照明の落ちた廊下。背後からいきなりの声。
「うおっっ」
 将は鍵を落さんばかりの勢いで驚いていた。
「な、なんなのよ、幽霊でも見たみたいに」
 女の声も驚いている。
 薄暗い廊下の向こうに、浮かび上がったスレンダーな人影。
 黒のパンツスーツ、背中に流れる褐色の髪。
 薄闇の中でも、くっきりとした美貌が眩しいくらいだ。
「べ、べつに」
 な、何動揺してんだ、俺。
 どうもおかしい、どうもあの日から調子が悪い。
「いい加減にしてくださいって、守衛のおっさんから電話あったから、様子見にきたんだけど」
 帰る間際だったのか、女の手にはバックと車のキーがきらめいていた。
「もう帰るとこ?」
「あ、ああ」
「一人?」
「う、うん」
「あそ、じゃ、また明日ね」
 え?
「……………」
 それだけ?
 そのままきびすを返し、すたすたと去っていく後ろ姿。
 一瞬唖然とした将は、少しためらってから、その背中に声をかけた。
「ちょ……、待てよ」
「何?」
「……………」
 いい加減。
 はっきりさせたいのは、りょうじゃなくて、俺の方だ。
 いや、恋愛がどうとかそんなんじゃなくて、ずっと胸の底でしこっていた、この女への不信感みたいなものを。
「話……あるんだけど」
「今?」
 足を止めた真咲しずくは、不思議そうな目で将を振り返る。
「………今、でよければ」
 それだけしか言えなかった。
 何故今かと言われたら、特に理由もない。
「…………」
 しばらく黙っていたしずくは、無言で将の方に歩み寄ってきた。
「屋上、出る?」
「え?」
「外で話そうか、その方が気分いいし」
 意外なほど優しく言われ、逆にそれが怖いとも思いながら、将は、女の背について屋上に続く階段を上がった。



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「何?」
 フェンスの手前、少し距離を開けて星のない夜空を見上げ、すぐに口を開いたのは、しずくだった。
「何、話って」
「………ああ」
 将は口ごもり、何度か髪をかきあげた。
 風が少し冷たかった。今夜は冷えるな――てか、そんなことどうでもよくて。
「……いろいろ、逃げてたけど、ちゃんと聞いとこうかな、と思って」
「何を」
「……色々」
「だから何」
 そんなに、切り込むように問い詰めなくても。
 将は軽く咳払いをして、気持ちが静まるのをしばし待った。
 それから言った。
「なんで消えたの」
「…………」
「なんで戻ってきたんだよ」
「…………」
 しずくの横顔は、なんの変化も見せないまま、ただ真っ直ぐに夜の闇を見つめている。
―――それから。
 言いかけて将は、口ごもる。
 あの――車で見た、海岸であんたとキスしてた男って。
 それは、口にはできなかった。
 まだ、口に出すほどの勇気がもてない。初恋が思いっきり破れた日。あの日の辛い思い出は、将にとっては軽いトラウマだ。
「消えたのは、会社のゴタゴタに巻き込まれたくなかったから」
 ふいに、しずくが静かな口調でそう言った。
「戻ってきたのは、巻き込まれるのも面白いかなって思ったから」
「…………」
「それだけよ」
 それだけ。
 それだけ?
 つか、その中に、そもそも俺って入ってすらないのかよ。
 将は、半ば眩暈を感じつつ、それでもフェンスで自分を支える。
「あ、」
「あ?」
「あんたに……とって」
「私にとって」
「俺って、なに?」
 この屋上から飛び降りるくらいの勇気を振り絞っていった言葉だった。
 返事を待つ数秒の間、心臓がどっどっと爆音をたてている。
 が、
「ペットのバニー」
 笑いを含んだ声に、こめかみの何かがぷつりと切れた。
「……………………」
 将は、うつむいてきびすを返した。
「じゃ、そういうことで」
 ポケットに手を突っ込んで歩き出すと、おかしそうな笑い声がついてくる。
「怒りっぽいなぁ、相変わらず」
「うるせぇよ」
 俺の純情が、お前なんかに判ってたまるか。
 怒り任せに屋上の扉に手をかける。
「なんて答えて欲しいのよ」
「そんなもん、リクエストすることと違うだろ」
「私が質問してるのよ、なんて答えて欲しいのかって」
 将は動きを止めていた。
 質問?――なんてって、言われても。
「なんて答えれば、君は喜ぶのかなと思って」
「……べ、別に、」
 知るかよ。
 つか、そんなもん、そもそも喜びたいと思って聞いたわけじゃないし。
 肩を、軽く叩かれた。
「よかったわよ、今日」
「…………」
「ストームのファンになっちゃった、私」
「……………」
 それだけで、不思議なほど胸が満たされている。
 振り返ることもできないまま、将は扉のノブに手をかけた。
「最後までがんばりなさい」
「お……おう」
 調子が狂う、これはこれで。
 急にそんなに素直な口調で言われても――、
「……………」
 あれ?
 将は、手にかかる有り得ない抵抗に眉をあげた。
「……あの、さ」
「ん?」
 と、背後のしずくのいぶかしげな声。
「いや……」
 これ、あかねー。
 何度回しても、同じところでひっかかる。
「ごめん、ここ、……鍵がかかってるみたいなんだけど」
「ええっっ」
 さすがのしずくも素っ頓狂な声をあげた。


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「どうすんの」
「どうするって、外から鍵開けてもらうしかないでしょ」
 眉をしかめたしずくが、バックから携帯電話を取り出す。
「守衛のおっさんが締めたのかな」
「もう帰りますって電話いれたからね、まずかったなぁ」
 しかし、しずくは、一度プッシュしかけた携帯をすぐに閉じた。
 めずらしく、わずかに迷いを浮かべた目で将を見上げる。
「そっちから、誰かに連絡とれない?」
「え、俺?」
 そりゃ――いいけど。
「ちょっと、このシチュエーション、今、唐沢君の耳に入れたくないのよね」
 唐沢君。
 唐沢社長か。
「別に、やましいことしてるわけじゃねぇだろ」
 携帯を取り出しつつ、将が言うと、
「してないけど、今はね、ちょっと微妙な時期だから」
「………?」
 微妙。
 まぁ、ストームは、いつだってJでは微妙なポジションなんだけど。
 将は、別れたばかりの憂也を呼び出し、繋がらなかったので、取り合えず留守電にメッセージを入れた。
 多分運転中だろう。憂也は会社に内緒で――とは言いつつ、かなり大胆に、250のバイクを乗り回してるから。
「携帯のチェックだけは忘れんなっつってるから、すぐにかかってくると思うけど」
「ありがと」
 静かになると、風が一際冷たく感じられた。
 戻り寒波かな、とふと思う。それくらい、今夜は寒い。
「着る?」
 春物のスーツ姿の女は、少しばかり寒々しかった。
 将が着ていたデニムジャケットを脱ぐと、
「アイドルに風邪引かせたらマネージャー失格じゃない」
 しずくは笑った横顔で、それを拒否する。
 将は、少しの間黙ってから、脱いだ上着を女の肩に被せた。
 女に風邪ひかせたら、男失格じゃん。
 とは、口には出さなかった。
 しかも――好きな、女に。
 しずくは、特に拒まなかったが、被せられたジャケットを手で押さえ、かすかに笑って将を見上げる。
「……何」
 月が、その白い肌に映えている。
 きれいだと思った。もちろん、それも口にはできない言葉だけど。
「男らしいな、と思って」
 そう言ってしずくは、上着の前を胸元で合わせた。
「パパが、もう十年遅く、私を生んでくれてたらね」
「は、はは」
 将は、動揺を隠してとりあえず笑った。
 な、なんつー、タチの悪い冗談を。
―――この……。
 薄闇の中。
 閉じ込められた屋上で2人きり。
 この、理性を保つのが超難しいシチュエーションで、言うかよ、普通。
「立ってても疲れるし、座らない?」
 しずくがそう言い、先に立って歩き出す。
 辿り着いたのは、植え込みの中にある小さなベンチ。
 ここは、ちょっとした死角になっていて、キッズ最後の夏休み、憂也や雅之と、よくさぼった場所だった。
 将が先に座ると、あまり距離をあけず、しずくがその隣に座る。
「…………」
「…………」
 え、なんか。
 なんか、超いいムードじゃねぇ、今?
 将は、収まった動悸が、再び激しくなるのを感じた。
 これが、他の誰かだったら、まぁ、適当な言葉をひとつふたつ言って、簡単にキスくらいしちゃってるパターンだ。
 そう、他の誰かだったら。
「な、なんか、静かじゃん」
 信じるな、夢を見るな、柏葉将。
 期待しても、どうせキレイにすかされるんだ、いつものように。
「大人になったんだな、と思って」
「…………」
 え?
 もしかしなくても、俺?
「不思議だね、私の中でのバニーちゃんは、昔のバニーちゃんのままなのに」
「……もう、二十超えてんだぜ、俺」
「そういやそうだ」
 そういやそうだって、なんだよ、それ。
 が、笑う女の横顔は、どこか寂しそうにも見えた。
 将は、少し戸惑って視線をそらす。
「変わってないって言いたいんだろ」
「変わったよ」
「どこが」
「んー、背?」
「当たり前だろ!」
 振り返ると、かなり間近で視線があった。
「…………」
「…………」
 え、……なに?
 すげぇ、ドキドキするんだけど。
 そんな目で見られると、ちょっと……おかしくなりそうなんだけど。
「目も、」
 指先が、目元に触れた。
 ぐっと胸が熱くなる。
「鼻も……」
 それから、指が滑って、
―――唇……。
「なぁんか、子供の成長見守る母親って感じ?」
「………………………………」
 がくっっっ。
 からからと笑って、しずくは前を向き直った。
「いっそのこと、養子にしちゃおっかなー、私のかわいいバニーちゃん」
 もう、腹さえもたたなかった。
 いや、いいんだ、これでいいんだ、よく我慢したよ、柏葉将。
「産めよ、そんなに欲しいんなら結婚でもなんでもして」
「あはは、私、一生結婚しない人だから、それはない」
「……へぇ」
「てゆっか、そもそも恋愛が面倒だしね、真咲しずくの座右の銘、男は鑑賞するためにある」
「勝手に言ってろ」
 ああ―― 
 今ほど、憂也が恋しいと思えた時もないだろう。
 よくわかったよ。
 まるで望みのない恋愛。
 でも、俺、それでもこいつが好きなんだ――。



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「いやー、まさか最初にケツ乗せんのが、将君だとは想像してもなかったよ」
「わりーな、綺麗なねぇちゃんじゃなくてよ」
「いんや、そこいらのお姉さまに負けてませんって」
「……お前が言うと、シャレになってねぇからやめろ」
 夜の国道。時間で言えば、もう朝だ。
 バイクを飛ばす2人の前に、まだ暗い夜明けが広がっている。
「悪いな、疲れてるのによ」
「え?」
 大声で言っても、爆音に紛れて聞こえない互いの声。
 いったん家に帰った憂也は、そこで携帯メールに気づき、予備のヘルメットを持参して戻ってきてくれた。
 真咲しずくはそのまま車で帰宅。将は今、憂也が運転するバイクの背に乗っている。
「つか、こえーよ、お前の運転」
 事故ったら何もかもパァだな、と、思う反面、あまりに清々しい朝の空気が、このままどうにでもなれ、みたいな開放感をかきたてる。
「なぁ、将君」
 目の前は赤信号。
 バイクを止めた憂也は、わずかにこちらに首を傾けた。
「俺のカンだけど」
「え?」
「野生のヤマカン、だからあんま、あてにしないで」
「なんだよ、だから」
「あの人、多分将君が好きだよ」
「あの人?」
「真咲さん」
「は?」
「それも、かなりだと思うな」
「……………」
 一瞬意味を図りかねた将は、少し考えてから爆笑した。
「ありえねーよ」
「そうかな」
「そうそう、俺、そもそも、まるっきり対象外だから」
「……ふぅん」
 信号が青になる。
 アクセルを踏み込んだ憂也が、バイクを急発進させる。
 そう、なにしろ子供だし。
 将は嘆息して天を仰ぐ。
 ペットの次は養子かよ。ああ、もうなんでも来いって感じだ。ここまできたら――。



 将が倒れた日。
 あの日、誰よりも早く病院に駆けつけたのは憂也だった。
 受付で病室を聞こうとした時、表の扉から、血相を変えて飛び込んできた女がいた。
 一瞬、それが誰だか判らないほどの形相で。
 長い髪を乱し、息さえ切らして、顔色は気の毒なほど青ざめていた。
 まぁ――どれだけ心配したら、ああなるのかな、と実際思う。
 かなりのもんだ、と、憂也は、気をきかすことを取り合えず選んだ。
 ロビーで、他のメンバーの到着を待つことにした。
 が――
「将君さ」
「ん?」
「……あともういっこ」
 言いかけた憂也は、その言葉を飲み込んだ。
 これこそ、何の根拠もないヤマカンだ。
「なんだよ、言いかけたら最後まで言えよ」
「いやー、どうせ信じてもらえねぇし」
―――真咲さんのこと、あんま、信用しない方がいいと思うんだよね。
 将君のこと好きって言っといて、こう言うのもなんだけど。
 本能みたいなカンだから、あえて言い切るようなことでもないんだけど。
 柏葉家の近くで、憂也はバイクを止める。
 ここからは、ちょっと敷居の高い高級住宅街だ。この時間帯のバイクの乗りつけはよくないだろう。
「あれ、」
 バイクから降りた将が、携帯に目を留め、少し驚いた顔になった。
「メール、末永さんからきてる」
「マジ?」
 憂也もさすがにバイクを降りた。
「おいおい、まさか最後通告が将君経由っつー、最悪のオチじゃないだろうな」
「バーカ、怖いこと言うなよ」
 携帯を開いた将の目が、はっきりと暗く翳った。
「なに?やっぱ、もうダメだって?」
「いや、これ、彼女が打ったんじゃない、多分、他のやつが打ったんだ」
「………どういうこと?」
「事故ったんだって、昨日」
「………………」
「………ちょっと詳細は判んねぇけど、」
「……………」
「そんな、心配するほどのことじゃないみたいだけど」
 憂也はわずかに眉をひそめた。
 問題は。
 これを、りょうに言うべきかどうか。
 今日は1日中、リハーサルとツアー本番。明日舞台を控えているりょうは、ライブが終わると、その足で東京にとんぼ帰りだ。
 そして、舞台が終わると、今度は次のツアー先に移動。ある意味、今回のツアーで、一番きついスケジュールになっているのがりょうとも言えた。
 憂也は、難しい顔をしたままの将を見た。
 これが他のメンバーなら、言ったところで、取り合えずは大丈夫だ。でも――りょうは。
 精神的に不安定なりょうは、ダメージがすぐに表に出る。キッズ時代、ステージで倒れた時もそうだった。
「とりあえず、返信してみる、末永さんの容態も気になるし」
「大丈夫なのかよ」
「うん、命には別状ないらしい」
 夜明けはもうすぐだった。
 憂也はみじろぎもできないまま、黙って携帯を押す将の指を見つめ続けていた。


 










                
    team storm(後) 終






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