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 午後のワイドショーが終わる。
 特集は貴沢秀行のドームツアーのことばかりで、目的の話題に触れたものは何もなかった。
 ストーム春のライブツアー「チームストーム」
 今日は東京公演初日だ。
 午後一時時から最初のステージがはじまっている。
「…………」
 真白はテレビを消し、かすかにため息をついて、部屋の掛け時計を見あげた。
―――バイト、行かなきゃ。
 先月から、彩菜の紹介ではじめたカフェのバイト。
 制服も可愛いし、大学の友達も沢山くる。週末はサークルの飲み会で、来週にはバイト仲間と旅行。なんだか最近、真白の周辺はやたら賑やかで騒がしい。
 それもこれも、何かと真白を連れまわしてくれる、おせっかいな後輩のせいだろう。
 最初は迷惑以外のなにものでもなかった。でも、それが今の、唯一の気晴らしなのだから、不思議なものだ。
 戸締りをして、アパートの階段を降りる。
 真白は、自転車を押しながら車道に出た。
(真白ちゃん、明日が最終リハーサルなの、よかったら取材の手伝いにきてもらえないかな。)
 ミカリの誘いは、少し迷ってから断った。
 りょうからは、あれから電話もメールもない。もちろん真白もしていない。
 ラビッシュの東京公演と、掛け持ちで敢行されるライブツアー。りょうが、今、どれだけ忙しくて、どれだけ精神的に消耗しているか、想像するまでもないからだ。
 余計な電話で、りょうをこれ以上悩ませたくない。
―――楽しい話題じゃないもんね。
 どんな形で話しても、結局は、ひとつの方向に話が流れていくだろう。
 大阪公演の舞台でりょうから届いたチケットは、今回のツアーでは届かなかった。
 それが――りょうの気持ちであり、ある意味結論かな、とも思う。
 真白が今、思っていることを、多分、りょうも同じように思っている。
 悲しいほどそれがよく判る。本当に悲しいほど。
―――別れたほうがいい。
―――お互い、自由になった方がいい。
「……………」
 優しいりょうは、ゴシップが記事になった時も、東京公演に引き続いて出ることになった時も、かなり悩んだし、苦しんだはずだ。
―――私の存在が……りょうの足枷になってるんだろうな。
 言えば、りょうは、必ず否定するだろうけど。
 真白は思う。
 今、片瀬りょうは、役者としてひとつの正念場に立っている。
 今は、多くのことを才能あふれる人たちから吸収して、りょう自身が大きくなるための糧にすべき時期なのだ。
 ひとつの、小さな恋に縛られるよりも。
―――なんの取り柄もないもんね、私。
 だから、もう、いいかな、と、真白は静かに思っていた。
 いない生活にも慣れた。慣れてしまえば、すごく楽で、楽しい毎日。
 ぽっかりと空いた心の穴は、いつか、他のもので埋めていくしかないけれど。
「………………」
 この、ツアーが終わったら。
 スピードをあげて自転車をこぎながら、真白は意味もなく晴れた春空を見上げた。
 この、ツアーが終わったら、この恋も終りにしよう。
 さよならって、言おう。
 りょうに言わせるんじゃない、私の口から。
 私の口から、さよならって言おう。
 いつもの交差点、普段なら一度停止するそこで、そのまま直進してしまったのは、気持ちが散漫していたからなのかもしれない。
 右側から緩やかに直進してくる黒い乗用車。気づいた時には、どうにもならない距離だった。
 短い間に色んなことが頭に浮かんだ。
 それは走馬灯じゃなくて、バイトのこととか、昨日作ったカレーの残りとか、そんなしょうもないことだったけど。
 あー、ばか、私。
 何やってんだろ、やっちゃった。
 そんなことまで頭に浮かんだ。
 時間にしたら、本当にわずかな一瞬。
 自転車の側面に、車のノーズがぶつかってくる。スローモーションの世界から、現実の衝撃が掴みかかってくる。
 こんなもんで、終わるのかな。
 最後にそう思っていた。
 不思議なくらい、ひどく冷めた感情だった。
 ハンドルから手を離した真白は、身体がふわっと浮くのを感じていた。



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「おっつかれー」
「やったぁ、すんげーっ盛り上がりっ、超サイコー」
「超たのしーっっ」
「ばーか、今からミーティングやるぞ」
 将だけが生真面目な声で言うが、さすがにその目は笑っていた。
 客席からは、四度目のアンコールの声がまだかすかに響いている。
 その声が心地よくて、雅之は笑いを押さえきれない。
「出ねぇ?」
「ばーか、もう無理だよ」
 アンコール、確かに気持ちとしては何度でもやりたい。が、終電の時間や、会場の撤収を考えると、勝手なことはできない。
「いえいっ」
「おうっ」
「やりぃっ」
 と、口々に叫びながら、楽屋に駆け込んだ5人はハイタッチを交し合った。
 チームストーム公演初日。
 正味二時間半、休憩三十分を挟んでの二回公演。
 全員の髪から汗の雫が滴っている。最後のアンコールで着ただけのシャツも、すでに汗沁みが大きく浮き出している。
「あっちー」
「シャワーねぇんだっけ」
「着替えたら事務所に戻ってミーティングだからな、修正するとこいっぱいあるぞ」
 口々に言い合いながら、撤収に入るスタッフの間を縫って、控え室に戻る。
「しっかし、これで一日目かよ」
 雅之は、足をさすりながら呟いた。
 死のロードは始まったばかりだ。なのにもう、酷使した足が悲鳴を上げている。
 今日雅之は、キッズに入って初めてバク転を失敗した。
「そう、まだ一日目だよ、今から泣きごといってんじゃねぇぞ」
 がこん、と将に頭を殴られる。
 その将は、脱ぎかけの衣装のまま、すぐに聡に向き直った。
「聡、振り付けちょっと変更したいけど、いいか」
「うん、わかってる」
 ツアー初日。
 客席の反応が鈍かったところ、自分たちで納得できなかったところ、反省点は色々あった。それは、明日の難波公演までに修正しないといけない。
 つまり今夜、これからミーティングで詰めて修正していくのだ。
 確かに、泣きごとを言っている場合ではなかった。
「前ちゃん、今夜は徹夜だって言ってたよ」
「うわー、きついな」
 憂也と聡の声がした。
 そっか。
 と、少し雅之は反省する。
 わずかでも休める自分たちはまだいい方だ。ツアーの間中、機材を抱えて異動を続けるスタッフに比べたら。
 今夜撤収した機材は、トラックで即座に大阪まで運ばれる。
 そして夜通し作業があって、明日の午前がリハーサル、午後から本番。前原たちの疲れは、雅之らの比ではないだろう。
「にしても、凪ちゃんどうしたんだろな」
 聡が、タオルで汗を拭きながら近づいてきた。
「最前列、いなかったじゃん、雅、せっかく押さえたって言ってたのに」
「ああ」
 雅之は、自分も頭をごしごしこすりながら、顔を上げた。
「なんでも、迷惑かけた知り合いに譲ったって言ってたよ、自分は立ち見で見るからって」
「あいつじゃん」
 と、口を挟んだのは、上半身裸の憂也だった。
「ほら、昨日のリハでさ、凪ちゃんの後ろで、なんか雅のことずーっと睨んでた茶髪の兄ちゃん」
「うん」
 と、雅之も頷く。
 その男が、凪のために用意した席に女連れで座っていた。
 女は、まだ学生服だったから、彼女というより妹かな、という雰囲気だったけど。
「つか、雅、今回は妙に余裕じゃん」
 その雅之の頭をぐりぐりしつつ、憂也が冷やかすような声で言った。
「ニューライバルの登場かもしんないんだぜ?ちょっとは可愛らしく、嫉妬でもしてやれよ」
「……………」
 嫉妬。
 雅之は、少し考えてから頭を掻いた。
「ま、なんつーの?俺のライバルは」
 でかすぎて、口にも出したくない相手で。
「……ま、とにかく、あの程度でどう思えって言われても、なんとも………」
 多分、流川にしても、歯牙にもかけないってやつだろう。
 だから、深く考えもしなかった。
「でっかくなったなぁ、雅」
 憂也が楽しそうに笑い出す。
 それが、誉められているのか、からかわれているのか判らなくて、雅之はただ、頭を掻いた。



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「……りょう」
 うつむいて、携帯を見つめている親友の横顔に、将はためらってから声をかけた。
「ああ、ごめん」
 せかされた、と思ったのだろう。まだステージ衣装のままのりょうは、少し慌てた態で立ち上がる。
「……電話、ないのかよ」
「ないっていうか、俺がそもそもしてないから」
 かすかに笑って、りょうは汗で濡れたシャツを脱ぎ捨てる。
 舞台で体力がついたせいか、薄く筋肉のついた身体は、同性の目から見ても、眩しいほど綺麗だった。
「……はっきりさせなきゃいけないんだ、それは、判ってるんだけど」
「何をだよ」
 そう聞くと、りょうはただ、曖昧に笑う。
 将は嘆息し、汗で濡れた前髪をかきあげた。
「はっきりさせるだけが、解決方法でもないと思うぜ」
 そして、りょうの背にタオルを投げてやる。
「苦しめたくないんだ、これ以上」
 そのタオルで顔を抑えながら、りょうは囁くような声で言った。
「…………」
「俺は傍にいてやれない。……役にのめりこむたびに、また、別の恋をするかもしれない。あの人は、そんなことに耐えられるような人じゃないよ」
「………」
 眉をしかめたまま、将は自分の髪に指を差し入れた。
 真面目に考えすぎんなよ――とは、この生真面目な男にはとても言えない。
「俺は、惜しいと思うけどな」
 でも、一方で、りょうみたいなタイプは、いっそ自由な立場でいたほうがいいのかもしれないとも思う。
「お前の決めることだし、今回は何も言わないよ、ただ」
 で、俺も俺で――人のこととやかく言えるほど余裕ねぇし、最近は。
「ダメになる時は何やってもダメになるんだ、逆もまたしかりでさ、そんなに焦って答えださなくてもいいんじゃないかと思うけどな」

 














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