1


「けっこう狭いな」
「スピーカーがいまいちかもね、会社に連絡してみて」
 薄暗い会場。
 階段を降りながら、将は内部を見回した。
 四日後に迫ったストームライブツアー「チームストーム」、初日公演は、ここ、渋谷のハウス「キュア」で行なわれる。
 ライブハウスとしては、大きいキャパで、収容人員は六百強。
 ただ、スタッフが危惧していた通り、図面で観た印象より、随分狭いという感じはした。
「ここに鉄柵もってくるだろ、ちょっと狭くなるねぇ、触られ放題じゃない?」
「少々いいですよ、慣れてるから」
「興奮しすぎて、将棋倒しになったらまずいよなぁ」
 りょうの希望で、急きょ作られることになった客席中央までの花道。
 確かに狭いハウスでは、一歩間違えれば危険な状況になりかねない。
「まぁ、警備と柵の強度には気をつけるよ、君らもあまり煽らないように」
「はは」
―――煽るなねぇ。
 将は思わず失笑する。
 ライブになると、人が変わるりょうや憂也あたりは、多分煽りまくるだろう。
「結構、うちのお客さんって、そのあたりの礼儀は心得てるっていうか」
 将は、椅子の背を撫でながら言った。
「うちだけじゃなくて、ギャラクシーさんのライブもそうなんだけど、ファンの子たち、盛り上がるとこは盛り上がるけど、静かにして欲しい時はちゃんとしてるんですよ」
 そういう意味では、将はファンを信頼している。
「あんま、目茶苦茶な触られ方ってのもないんですよね。空港とかで一般の人に巻かれた時は、やばいとこも触られたりして、マジで困ったこともあったんですけど」
 ははは、と同行した前原社長が笑っている。
「コンサートでは、一度もそんな目にあったことないんですよ、不思議なんだけど」
「それはさ、君らの一生懸命がお客さんに届いてるからだよ」
「だったら嬉しいんですけど」
 苦笑して顔をあげた途端、ふっと目の前が暗くなった。
―――……?
 将は自分でも驚きつつ、咄嗟に椅子で自身を支える。
「……だよね、だから、いいネーミングだとおもったよ、今回のツアー」
 前原の言葉も、一瞬上手く聞き取れなかった。
「じゃ、ステージでモニター位置の確認しようか」
「あ、はい」
 眩暈――?
 将はまだ信じられない気持ちのまま、前原の後をついて歩き出した。
 健康だけには自信があった。立ちくらみなんて、生まれてこのかた初めてだ。
 まぁ――ここまで自分を酷使したことも、生まれて初めての経験だけど。
 睡眠時間は平均で二時間弱。時々、頭痛で吐きそうになることもある。気持ちだけは張っていたが、体力が限界に近づいているのは、なんとなく感じていた。
 が、休みたくても休めない。ツアーのために変更してもらった昼ドラの撮影スケジュール、快く承知してくれたスタッフや共演者に、これ以上迷惑はかけられない。ツアーのことも、将自ら決断を下さなければならない問題が山積している。
「じゃ、将君、メシでも行こうか」
「あー、いや、今から撮影入ってるんで」
 会場の下見を予定通り終え、レインボウのスタッフと、裏口から出たところだった。
「ストームの柏葉さんですか」
 背後から聞こえた穏やかな声に、将は足を止めていた。
「ああ、やっぱり柏葉さんだ、ようやくお会いできた」
 若者向けの奇抜なファッション店が並ぶ狭い路地裏、数メートル先の路上に、見知らぬ老紳士が立っていた。
 まず目に飛び込んできたのは、銀に近い灰色の髪と、それから「うわっ、でけぇ」という印象。
 実際、かなりの老齢に見えるのに、その紳士の背丈は将の頭ひとつ軽く越えていた。
 上品そうな漆黒のスーツに身を包んだ男は、口元に柔和な笑みを貼り付けたまま、ゆっくりと将の傍に歩み寄ってくる。
「柏葉さん」
「は、はい」
―――つか、誰?
 どこかで知り合いになったスポンサー企業の人だろうか。咄嗟に思い出せず、将は戸惑う。
 周囲のスタッフも、男の身なりがいかにも豪奢なのと、将に話しかける素振が親しげなので、おそらく、どう対応していいか判らずに戸惑っている。
―――日本の人じゃねぇのかな?
 将は、間近で足を止めた男を見上げてそう思った。
 切れ長の目に、紺碧が淡く滲んでいる。
 筋の通った鼻も、どこか薄い肌の色も、やはり生粋の日本人とは少し違う気がした。
「失礼を承知のお願いなのですが」
 男はそんな将を見つめ、わずかに笑うと、柔らかく口を開いた。
「今回のライブツアー、チケットを一枚、どうか私にわけてもらえないでしょうか」
―――え?
 チケット?
 意外な要求に、将も、その場にいたスタッフも唖然として顔を見合わせた。
 男は、少し困ったように首をかしげる。
「どうしても孫に見せてやりたいのですが、どこに電話しても、チケットは入手できないと言われました。こちらに伺ったのは偶然ですが、直接スタッフさんにお会いすれば、なんとかなると思いまして」
―――え……。
 ここに至り、ようやく将は、目の前の老紳士が、全くの初対面で、仕事上の繋がりさえないことを理解した。それはスタッフも同様だったのか、ふっと周囲の空気から緊張が解ける。
「お願いします。どうにかして、コンサートチケットを売ってもらえないでしょうか」
「申し訳ないですが、それはちょっとできないんですよ」
 若いスタッフが、将を守るように前に出た。数人がそれに続き、やんわりと老人を取り囲む。
 いくら相手が確かな身上の持ち主でも、いきなり将のようなタレントに声をかけられるのはまずいと思ったのだろう。セキュリティの問題として。
「いや、しかし、もうどこでも買えないのですよ」
「チケット販売は、もう終わってるんですよ、大変申し訳ないんですけど」
 若いスタッフに左右から取りかこまれ、老人は当惑しているようだった。端整な顔に、困惑の笑みを浮かべ、助けを請うように将を見る。
「孫はずっと入院していたのです。私はどうしても、孫に見せてやりたいのです」
「すいません、本当にそれはできないんです」
「いや、なんとかしますよ」
 将は、咄嗟に言っていた。
「できるかどうか判らないですけど、やれる範囲で手配してみます、よかったら、ご住所、お聞きしてもいいですか」
「柏葉君」
 と、背後のスタッフが苦い声で言う。
「やぁやぁ、すいません、これはこれは、本当に申し訳ない」
 途端ににこやかな笑顔になった老人は、針のように目を細めて将を見つめた。
 その瞬間、将は、わずかな嫌悪を―― 一瞬ではあるが、この初対面の老人に確かに感じていた。
 ただしそれは、触れれば溶ける淡雪ほどに儚い感情ではあったが。
 なんだろう。
 そのまま、じっと見下ろされ、将はただ困惑する。
 悪い人じゃなさそうだけど、普通の顔が優しくて、笑うとむしろ冷たく見える人っていうのも初めてだ。
 老人は、笑顔を顔に貼り付けたまま、かなり長い間、将一人を見つめていた。
 あの――、と、さすがに将が口を挟みかけた時、
「柏葉さん」
「はい」
「孫がいつもお世話になっております」
 さすがにそれには気が緩み、思わず将は笑ってしまっていた。
「僕の方こそ、お世話になっています」
 再び歩み寄ってきた老人から名刺を受け取る。意外なほど長くて綺麗な指だった。名前と住所しかない名刺には、男の身分を示すものは何も記されてはいない。
「テレビでずっと拝見していましたが、想像以上に親切な方ですね」
 苦りきった顔のスタッフに目礼しつつ、老人は最後に振り返ってそう言った。
「何より、目がいい。いい目をしている、本当にいい目です」
 妙な人だな――。
 そう思いつつ、渡された名刺を見る。
 真田孔明
「………?」
 どこかで聞いた名前だと思った。どこだったろう、確か――。
「将君、ダメじゃない、そんな約束して」
 と、背後から女性スタッフの声がした。
「チケットは公平にさばかないと、そういう特例、あまりファン相手にやらない方がいいわよ」
「すいません、」
 そう言って、ポケットに名刺を突っ込んだ時だった。
 くらっときた。
 そのまま、前かがみになったのまでは覚えている。
 後は――まるで、記憶にない。


                  2


―――なんの音だろう。
 潮騒だ。
 寄せては返すリフレイン。
 胸にしみていくあのメロディ。
 ああ――また俺は見ている。あの辛い過去の再体験。
 一番好きだった女が、他の誰かとキスしてる場面―――
 バニーちゃん。
 いや、俺もうバニーじゃねぇし。
 かっわいいっ、もうっ、ぬいぐるみみたい、ずっと抱っこして持ち歩きたいくらい。
 いや……俺、もうぬいぐるみじゃねぇし。
 子供でもねぇし。
―――将………
 うん、そう。
 将。
 俺の名前、呼んで。
 そうやって、俺に触って。
 脱がせて、俺も脱がせるから。
 キスして――俺に、して。
 もっと、深く、深く感じさせてくれ――。


 


「おっと、起きたか」
「……………………」
 しばらく瞬きを繰り返していた将は、ようやく現実を理解した。自分を見下ろす顔の正体を理解した。
「うおーーーーっっっ」
 と叫んで頭まで毛布をひっぱり上げる。
「つか、…………なんつー声だしてんのよ」 
 嘘だろ?おい。
 将は身体を丸めたまま、どっどっどっと鳴る動悸の音だけを聞いていた。
 俺まさか、妙な寝言言ってねーよな。
 いくら欲求不満とは言え、な、なんつー夢を見てたんだ。確かめるまでもない、多分、今、まともに立てない状況になっている。
「どうしましたか?」
 ばたばたと足音。
「いや、それが私にもよく」
 女――真咲しずくの声。
「柏葉さん?大丈夫ですか?」
「…………はい」
 なんつー、恥ずかしさだ。
 将は羞恥をこらえて顔を出し、看護婦に支えられつつ、再び枕に頭を沈めた。
「過労と軽い貧血だって」
 再び2人になる。
 椅子に腰掛け、足を組んだ真咲しずくは、ジーンズにカットソーというラフなスタイルだった。髪も背中に流したまま、ほとんどノーメイクの素顔は、逆に、いつもより随分若く見える。
 貧血か――将は軽く嘆息した。朝礼で一人や二人、それが理由で倒れてたやつがいたっけ。そんなものには全く無縁だと思っていたのに。
「で?」
 将はようやく、落ち着きを取り戻していた。
 冷静になると、まざまざと情けなさと、そして残酷な現実がこみ上げてくる。
今、何時だろう。間違いなく、午後の撮影はキャンセルだ。なんてことだ――よりにもよってこんな時期に。
「しばらくは休養――って言われたけど、無理なんでしょ、どうせ」
「今日の撮影、どうなった?」
「イタちゃんが謝罪に行ってる、なんとかなるわよ、心配しなくても」
「……………」
 額がわずかにひりひりしている。
 指で触れると、そこにはカットバンが貼り付けてあった。
「アイドルの自覚ゼロ、顔から倒れてどうすんのよ」
 その額を、びしっと指で弾かれる。
「いてーよ、バカ」
「バカはどっちよ、飲まず食わずで、何やってんの」
 女の声が、少しだけ恐くなった。
「必死にやればいいってもんじゃないのよ、自己管理ができなきゃ、それは単なる無謀な暴走。結局、色んな人に迷惑かけてるじゃないの」
「………………」
 返す言葉は何もない。
 黙っていると、女がわずかに嘆息するのが判った。
「もっと、人を頼りなさい」
「頼ってるよ」
「頼ってないわよ」
「頼ってるって」
「頼ってないの、底のところで、君は一人で背負い込んでるの」
 びしっと決め付けられる。
 反論したかったが、将はぐっと言葉を呑んだ。
「………さっきから携帯、メールがじゃんじゃん入ってるわよ」
「病院って、携帯まずいんじゃねぇの」
 ほとんど自分の声がふてくされている。
 ああ――どんなに年を重ねても、この立場の圧倒的な違いと、人生経験の差だけはいかんともしがたい。
 結局、夢だけなのかもしれない。
 自分の願いが満たされる場所は。
「ここは大丈夫なんだって」
 ほら、と携帯電話を投げられる。
「……………」
 ベッドから半身を起こし、将は携帯のメールを開いた。
 55件。
「はっ??」
 嘘だろ?迷惑メールか?もしかして。

 
将君、大丈夫?連絡あった時は、心臓止まるかと思ったよ。
 夜にはそっち戻るから、ゆっくり休んで、絶対に無理はしないこと。


―――りょう……


「その目は、心の恋人片瀬君からか」
 からかうような声がした。
「うるせーよ」
 携帯の角度を変えて隠しつつ、次を開く。


 
将君!無理すんな、俺、思わず泣いちゃったよ。
 夕方には見舞いに行くから待ってて、食いたいもんとかあったらリクいれて、なんでも持ってくから。



 雅……。


 将君、ごめん。将君ばっかに無理させてたんだね。
 忙しいのはみんな同じなのに、いつの間にか頼ってた、本当にごめんね。
 これからは、もっと僕に色んなこと言ってくれていいからね。
 夜には戻れるから、これからのこと相談しよう。


 聡……。


 
いやー、やっちゃったね。
 いつかこうなると思ってたわ。わりーわりー、もしかして確信犯?俺。
 お詫びにこれからは、俺が色々動くからさ、あんま無理すんな、全国のマダムがお昼の勇姿を待ってるぜ。



 憂也らしい。
 将は苦笑して、額に手を当てた。
 メールは、他にも、昼ドラの共演者。

 
とにかく休め、その分俺の出番が増えるからラッキーだよ

 
柏葉君、撮影のことは気にしないでいいからさ。
 撮りだめも随分あるし、君が頑張ってるの、みんなちゃんと知ってるから。今は身体を養生してやってください。


 監督やプロデューサーからも入っている。
 スタッフ、レインボウをはじめとするツアースタッフ。
 悠介から伝わったのだろう、大学の友人からも沢山入っていた。


―――あ……やべー
 少し、ぐっときそうになっている。今、一番弱みを見せたくない相手の前で。
「……つか、みんな暇なんじゃん」
「そう、暇々、だからその暇人たちに、少しは仕事を分ければいいの」
 肯定も否定もせず、将は軽く眉をしかめる。
 確定――また、年下のバニーに格下げだ、今日は。
「まぁ、今夜一晩くらいは、ゆっくり休んでなさい」
「そんくらいで、いいの」
 将は携帯を閉じて女を見上げた。
 こいつは、動揺したのかな。それとも、いつもみたいに余裕でここに来たのかな。
 普段と同じ表情からは、なんの感情も透けてこない。
「そんくらいしか、じっとしてないでしょ、君は」
「……ありがとう」
 それは、小さな声で呟いた。なんとなくだけど、この女が、そうやって病院側にかけあってくれたような気がしたから。
「色々買ってきたけど、なんか飲む?」
「んじゃ……水」
「はいはい、水ね」
 昔ながらのかいがいしさで、真咲しずくが冷蔵庫からペットボトルを取り出している。
 ああ――大昔の家庭教師時代に戻られた気分だ。
 今、俺、思いっきり子供に思われてるんだろうな。
「はい、」
 と、カップに注がれた水を差し出される。将は少し黙ってしずくを見上げた。
 ま、いっか。
 それはそれで、今はこのまま甘えちまえば。
「飲ませて」
 ちょっと開き直って言ってみた。
「………は?」
「だって、甘えていいっつったじゃん、さっき」
「へぇ……」
 今度はしずくが、面白そうな目になった。
「じゃ、口移しで飲ませたげようか」
「………」
 う、と内心動揺している。
 ここでまた主導権逆戻りかよ。
「じゃ、しろよ」
「あら、しちゃうわよ」
 結構間近で視線が合う。
「…………」
「…………」
 え、マジで?
 マジで?
 嘘だろ、え――え?
「おー、ここだここだ」
「将君、大丈夫か?!」
 浅葱悠介と憂也の声。
 冗談とも本気ともつかない、ものすごく微妙な距離だった。
「ざーんねん」
 くすりと笑って立ち上がる女を、将は、激しい動悸を感じつつ、ただ、呆然として見送った。












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