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「はい、カット!」
 なんだかなぁ……と思いつつ、雅之は頭をあげた。
「いい絵撮れたよ、成瀬君」
「神尾さんも、おつかれさん」
 スタッフの掛け声の中、立ち上がった雅之は、やはり立ったままの神尾恭介に一礼する。
 カメラが止まった途端、冷めた目になった元プロサッカー選手は、そんな雅之に目もくれずにきびすを返した。
「じゃ、次は、とりあえず神尾さんが、しぶしぶグランドに出て行って」
「だんだん成瀬君とも仲良くなる感じでいこうか」
 バラエティ番組「いきなり夢伝説」の「がけっぷち芸能人サッカー部企画」。
 今日は、雅之一人だけが、「離脱した神尾恭介を説得して部に戻す」という筋書きありきの、撮影に挑んでいた。
「神尾さんがいないとダメなんです!」
「お願いです、戻ってください、俺らと一緒に戦ってください!」
 そんなセリフを言って、神尾の玄関先で土下座する。それが台本どおりの筋書きだ。
 確かに雅之にしても、気まずい形で離脱した神尾には、戻ってきてほしかった。が、こんな形で――テレビ局の意向どおりに戻ってこられるのも、どうなのかな、と思う。
―――つか、これじゃ、やらせじゃん。
 そうは思ったものの、元々が筋書きありきのドキュメンタリーである。雅之には何も反論できない。結局はシナリオ通りに振る舞い、シナリオどおりに土下座した。ただ、今日に関して言えば、雅之なりの思惑もある。
 東京都内にある神尾のマンション。
 もとJリーグのレギュラーで、一時は日本代表にまで選ばれた男の居所は、意外なほどわびしかった。シンクにたまったままの食器、埃だらけの電話、どこか据えた匂いのする室内。玄関脇に投げてある、錆びた三輪車がなんだか寂しい。
 神尾に離婚暦があったことを、雅之はあらためて思い出していた。
「んじゃ、それはまた明日ってことで」
 当の神尾はさばさばした顔で、ソファに背を預け、煙草を口にくわえている。
 帰り支度を始めたスタッフに断ってから、雅之は、今日、一度も個人的に話していない男の前に立った。
 身長百八十センチの巨体は、座っていても迫力がある。高校時代は、レフティモンスターと呼ばれ、高校サッカー界の寵児だった。
 雅之はまだ中学生だった。アイドルになるなんて想像もしていなかった頃、夢に見るほど憧れ、ブラウン管や雑誌で輝いていたヒーローの面影はどこにもない。
 緊張は、武者震いで追い払う。
「あの……すいません、聞いてもいいっすか」
「どうぞ」
「神尾さん、ホント、戻ってくれる気あるんですか」
 雅之と目もあわせないまま、煙草をふかしている男は、口元に皮肉な笑いを浮かべた。
「仕事だからな」
 そっけない声が返ってくる。
 その、小ばかにしたような口調で判った気がした。やっぱりそうだ、やる気なんてさらさらないんだ、この人は――。
 雅之はうつむき、準備してきた言葉を必死で頭の中で反芻する。
「テレビ、……見てもらえばわかると思うんですけど、今……結構みんな、マジで必死にやってんで、」
「視聴率あがってるもんな、そりゃ誰でも必死になるわな」
「神尾さんは、」
 雅之は、内心こみあげたものをぐっと抑えつつ言った。
「本当にあの中で、みんなと一緒にやってくれる気あるんですか」
「なきゃどうだっていうんだよ」
 太い眉を嫌悪でひそめ、神尾は煙草臭い息を吐いた。
「つぅかバカじゃねぇの?どう頑張ったって、東京イーグルスとやって勝てるわけねぇだろ、テレビ受けする程度には必死になってやるよ、それで十分じゃねぇか」
「それじゃダメなんです」
「は?なにいってんだ、お前」
「みんな……今、結構マジになってんです」
「だから、視聴率あがってるからだろ」
 ははは、とスタッフからも失笑が聞こえた。
「成瀬君、もういいじゃない」
「君らのやってることはバラエティなんだからさ、神尾さんみたいなスタンスでいいんだよ」
「視聴率すごいじゃない、みんなそれで満足してるでしょ」
「……そんだけなわけないだろ」
 思わず、低く呟いていた。
 どこのバカが、視聴率あがってるからって、毎晩吐くまでランニングしてんだよ。
 毎日毎日、足の感覚なくなるまでボール蹴ってんだよ。
 もう絶対来ない、もう辞める、そう言いながら、次の日には絶対集まってくる奴ら。
「……そんだけのわけないですよ、そんなの、一緒にやってるスタッフさんにもわかんないんすか」
 雅之は、うつむき、唇を強く噛んだ。
 リフティングが百回できたって喜んでいたおはぎさん。その腿が真っ赤にはれ上がっていたのを雅之はよく知っている。カズシさんは毎日テーピングして、古傷の膝を庇いながらがんばってる。
 モギーさんは、別れた奥さんと子供に試合を見せたいと言っている。
 最初は確かになりゆきだった。視聴率に乗せられて練習に参加した。でも今は違う、ひとつのボールを追っていくうちに、パスが一本繋がる度に、確かに強くなっていく思い。
「サッカーって……忘れてた夢じゃないかって、思うんです」
 多分、みんなにとって。
 忘れた、というより、忘れようとしていた夢。
 雅之とっては、申し訳ないけど、それはただの趣味だった。
 でも、一部の芸人にとっては、二度と帰らない青春の思い出。掴みきれなかった夢の残滓だ。だから、あえて無関心を装っていたのかもしれない。本気になるのが怖かったのかもしれない。今なら――その気持ちがよく判る。
「みんな、崖っぷちだけど、その中で何かを掴もうとしてんじゃないっすか、それ、勝つとかそういうことじゃないですよ、上手くいえないけど、そんなもんじゃないですよ」
「…………」
 神尾は冷めた目のまま、ただ煙草の煙を吐いている。
「戻ってこないでください」
 雅之は、感情を堪えたままで言った。
 昨日からずっと迷い、悩んでいたことだった。
 おいおい、と、スタッフが目を丸くして何か言いかける。雅之はそれを片手で遮った。
「そういう俺らのこと、理解できないなら、絶対に戻ってこないでください。俺が言いたいのはそれだけです」


                16


―――やってるなぁ……。
 凪は窓から半身を出し、片肘をついたまま、眼下に広がるグラウンドを見下ろした。
 照明が煌々とついた廃校のグランド。
 凪がここに来たときからずっと、掛け声と怒声が続いている。
 エフテレビが都から借り受けた取り壊し予定の小学校。
 すでに、その校舎は締め切られていたが、「崖っぷち芸能人」の練習を俯瞰で撮影するために、カメラだけは中に入る許可を得ている。凪が立っている教室は、その、撮影のために特別に開けられたスペースだった。
 むろん、凪はカメラマンでもスタッフでもない。が、以前、こっそりと出入り口を教えてもらっていたから、撮影のない日は、こうやって時々見学に来ている。
 地上三階、見下ろす光景はどこか懐かしいものだった。
 思い出すなぁ……。
 千葉のサッカークラブ時代、丁度今と似たような光景、似たような香り。
「……………」
 小学校の時、夕方はいつも真っ暗になるまでボールを蹴っていた。
 男子に負けるのが嫌で、誰よりも上手くなりたくて必死にボールを蹴っていた。
 中学になって、女子が入れるクラブがなくなって――自然とやめてしまったサッカー。
 それを本当の意味で悔いたのは、高校になってからだったのかもしれない。
 気がつけば、前ほど早く走れなくなっていた。
 まるで身体の一部のように自由に操れていたボールに、ひどく違和感を覚えるようになっていた。
 その時に気づいた。なくしてしまったのは技術だけじゃない、ほとばしるような情熱も、一途に駆けた夢のような時間も、同時になくしてしまったのだと。
 一つのことをにむしゃらに打ち込めた幸せを、それがいかに、宝物のように大切な時間だったかを――後になって気がついた。それから、自分のやりたいことを、ずっと探していたような気がする。
(今日ってのは、明日になれば、二度と戻らない時間でしょ。)
「……………」
 前原の言葉がふいに胸に蘇る。
 過ぎた時間は、もう二度と戻らない。何をしても、もう二度と。
 グラウンドから雅之の声が聞こえる。
「なにやってんだよ、違うだろ」
「前、前、もっと前!」
 照明に照らし出されたグラウンド、そのほとんど中央で、身振り、手振りを交えつつ、必死で指示を出している。
 ちょっと顔を上げれば、ここに恋人がいることに気づきそうなものなのに、一度もこちらを見ようとしない。振り返りさえもしない。
―――私のことなんか、きれーーに頭から消えてんだよね、多分。
 でも、まぁ、それでいい。
 始終女のことばっか考えてるような男なんて、こっちから願い下げだ。
 ある意味、妬ましくなるほど輝いている恋人。なんだかんだいって、いつも自分のしたいことを持っていて、自分じゃ気づいてないだろうけど、多分、人の何倍も、凝縮した時間を生きている男。
 今は、振り返らない彼の背中が、たまらなく愛しい気がした。
 どれだけハードな日々なんだろう。ツアーが始まるまであとわずかだ。ほとんど毎日リハーサルがあるはずなのに、夜になればサッカーの練習、東京イーグルスとの試合までも、あと少しだから――。
―――バイト先にさ、超むかつく男がいるんだよね。
―――昨日ね、電車の中で素敵な男の人に会ったんだ。
―――夏にはバイクが買えるから、いつか成瀬を乗せてあげるよ。
 話したいことは沢山あった。
 思いっきり笑う顔とか、最近ちょっと伸びてきた髪とか、見たいし、触れたいし、一緒にいたい。
 でも、――まぁ、これでいい。
 凪は身体を起こし、腕についた埃を払って窓を閉めた。
 帰んなきゃ、せっかく高いお金払って大学行かせてもらうんだから、勉強勉強。
 凪は、前を見ている雅之が好きだし、自分も、負けないくらい前を向いて生きたいと思っていた。逆に、雅之に妬まれるほど前を。


                 17

「特番ですか」
「そう、二時間の生、最近すごい反響だから、この企画」
 相棒の河合誓也と、プロデューサーの会話を聞きながら、貴沢秀俊は、自分の眉が自然に曇るのを感じていた。
「すげー、特番だってさ、聞いたか、ヒデ」
 嬉々として振り返る河合に、バカじゃねぇ?と、内心冷ややかに思いつつ、貴沢はいつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「僕らはスタジオでいいんですか」
「いや、今回はオールロケでいくから。調布にある東京スタジアムでさ、生放送で試合中継するからね。ゲストも解説も呼んで本格的に、……君らもどっちかっていえばゲストみたいな感じかな」
「…………」
 エフテレビのミーティングルーム。
 いきなり夢伝説の企画会議。今、番組プロデューサーとスタッフ、そして総合司会の貴沢秀俊と河合誓也が同席している。
「じゃ、僕らは気楽に見てていいんですね」
 と、河合がやはり呑気に言う。
 ふざけんな、貴沢は内心の激しい感情を、ペットボトルを持つ手のひらでかろうじて抑えた。
 看板番組の初めての特番だ。なのに、その主役の座を、俺たちは奪われようとしてるんだ、その意味がマジでわかってんのか。
 あんな、クズみたいな売れない奴らの寄せ集めに。
「……でも、まともな試合になるのかな、それが少し心配なんですけど」
 貴沢はつとめて柔らかく言った。
「相手は東京イーグルスですよ、そもそも二時間も流すような試合ができるのかな」
「まぁ、そこだよね、問題は」
 髭面のプロデューサーは、ちょっと言葉を濁し、ごしごしと髭をこすった。
「ま、神尾さんや仙波さんが戻ったから、多少は形になるだろうけどね、ぶっちゃけ、試合は、―――あ、これやらせじゃないからね、やらせじゃないんだけど」
 と、言い訳めいた前置きをして、プロデューサーはごほん、と咳払いをした。
「まぁ、ある程度ね、筋書きありきでいこうかな、と思ってる」
 それ、思いっきりやらせだろ、そう思いつつ、貴沢は意外そうな顔をしてみた。
「筋書きですか」
「相手はプロだからね、しかも日本のトップチームだよ。いくらバラエティでも負けるわけにはいかないでしょ。最初に立て続けに二点取って、あとはね、悪いけどちょっと手抜いてもらって、うちのサッカー部の見せ場を作ってもらってさ、で、期待を持たせつつ引っ張って引っ張って、最後のロスタイムで奇蹟の一点!」
 プロデューサーは、興奮気味にまくしたてた。
「それで十分だし、泥みたいにぼろぼろになって頑張るのが、ほら、今のサッカー部の売りじゃない。最後にさ、連中がマジで泣いてくれたら、これ、めちゃめちゃ数字としては取れると思うんだよね」
「面白いですね」
 貴沢は冷ややかに言って、にっこりと笑った。
「それ、……あいつら、じゃない、成瀬君たちは知ってるんですか」
 河合の声は、逆にどこか戸惑っていた。
「いやいや、知らない、絶対に言わないでよ。彼らの本気があってこその企画なんだから。絶対無駄だってわかってるのに、必死で頑張ってる姿が、今受けてるわけだから、ね」
 企画会議が終り、次の仕事が入っている貴沢は、荷物を持って立ち上がった。
「なんか、……いいのかよって感じがしねぇ?」
 企画のやらせが腑に落ちないのか、河合が、どこか冴えない目で見あげてくる。
「大切なのは数字だろ」
 貴沢は、親友のみに見せる冷たい素顔で切り捨てた。
「あいつらにはそこでおしまいの企画でも、俺たちにはまだ続く番組なんだ、数字が取れなきゃ共倒れだ」
「ま、そりゃ……そうなんだけど」
「俺たちは、高見で踊りを見てればいいのさ」
 そういい捨て、先に部屋を出た貴沢は、それでも眉をしかめたままだった。
 信じられない、今でも悪い夢を見ているようだ、あんな問題外の奴らのために――二時間の特番?
 もちろん、このままで済ませるつもりはない。
―――やらせね。
 貴沢は、どのタイミングでそれを切り出そうかと考えていた。
 相手は、そう、直情的な柏葉あたりが妥当だろう。例のセイバー騒ぎの二の舞を演じてくれればそれでいい。
 あとは、どんな試合になるか、ゆっくり見物していればいいだけだ。
 彼らが絶対に上がって来られない高い場所で。











                      
チームストーム(前) end






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