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 あ、またこの人。
 この時間の常で、車内は込み合っていた。
 流川凪は、ヤニ臭いサラリーマン連中の間をそそくさと抜け、その男の前に立つ。
 いつも見る顔だから、なんとなく安心するのかな――と、思う。
 ほぼ満員の電車内、凪はいつものように、少し控えめに、目の前の男を観察した。
 年の頃は、四十半ばくらいだろうか、やや薄い髪、剥き卵のようなつるっとした額、濃い眉とくっきりとした二重瞼。パーツだけを取ると「昔はかっこよかった?」と、思えないでもないが、全体的には、やたら濃い顔のおじさんという感じ。
 普通のサラリーマンと違うのはその服装で、ジーンズにカジュアルなジャケット、インナーはTシャツ。明らかに会社務めの人ではない。で、耳にはいつもイヤフォンを差込み、手元のノートに熱心に何かを書き綴っている。 
―――勉強でもしてるのかな……?
 今日も凪は、興味を持って男の様子を伺ったが、さすがにノートの中を覗き込むほど無作法にはなれなかった。
 くたびれきった中年男ばかりの車内、彼の猛烈な勤勉?ぶりは、かなり周囲から浮いて見える。何しろ、ほとんど一心不乱といっていいほどの熱心さで、凪と同じ駅で降りるまでずっと、彼はその作業を続けているのである。
 やがて観察にも飽き、凪は疲れた目を暗い窓の外に向けた。
 今日は、朝から五時まで、実家近くのファミレスでアルバイトだった。慣れない接客仕事で身体は泥のように疲弊していたが、これからさらに、もうひとつのバイトの予定が入っている。
 今、凪が向かっているのは、春休みからはじめたバイトのひとつ――。
 家庭教師先の医大志望生が住む家だった。
 約束した時間は、夜の七時から九時まで。都心から少し離れた場所にあるため、電車が帰宅ラッシュと思いっきり被ってしまうのが難だが、報酬が割高だから文句も言えない。
 今、バイトの合間を縫って教習所に通っている凪は、夏までには中型バイクを買うつもりでいる。そうすれば、自宅から離れた大学に通うのも、割がいいというだけで始めたバイト先への移動も、随分楽になるからだ。
 時々電話で話す恋人にもそれは打ち明けているが、「おーっすげーっ、最初にケツに乗せんの、俺にして」
 と、どっちが男か女か判らないような反応をされた。
 まぁ、そういうところが、可愛くもあるのだが――。
 恋愛って不思議だな。
 凪は、外を見ながら、ぼんやりと考える。
 小学校の頃の成瀬雅之は、そんな、可愛げのあるような男ではなかった。
 バカみたいに笑っていたが、女の子には結構冷たくて(凪はまだ、自分が男と思われていたと知らない)、話しかけてもそっけなかったのをよく覚えている。
 あんなに人懐っこくて、そう、まるで犬っコロみたいに可愛いやつだなんて、付き合うまでは知らなかったし、想像もしていなかった。
 食事の時に、まずご飯からかっ込む癖とか。
 全然スタイルを気にしている風でもないのに、実はかなりのおしゃれで、髪にも服装にも必要以上に気合いれてるとことか。
 滑舌を気にしていて、暇さえあれば、発声練習に余念がないとことか。
 悩まないようで悩んでて、で、その悩みをすぐ忘れるとことか。
 凪は色々考えつつ、思わず苦笑を浮かべていた。
 彼の特別になれたからこそ、知ったこと、判ったこと。
 忙しいアイドルとは、二日に一度の電話がやっとの交際手段だが、今の凪にはそれで十分だし、その先がほしいと思ったことはあまりない。
 だから――柏葉将いわく、「ダメになりかけている」という片瀬りょうと末永真白の気持ちが、いまひとつ理解できないのも本音だった。
 自分も好きで、相手も好きでいてくれるなら。
―――それでいいんじゃないかな、それだけじゃ、だめなのかな……。
 それだけじゃダメになるのが、男と女の恋愛なら。
 逆に、そんな関係にはなりたくない、と凪は半ば本気で思っていた。


                  2


「凪ちゃん」
―――また、こいつか。
 荷物を片付けた凪は、声を無視して立ち上がった。
「つれないなぁ、いつものことだけど」
 完全に面白がっている声が、凪の背に近づいてくる。
 六畳たらずの室内。凪はちょっと身体を硬くし、鞄を掴んで振り返った。
 凪が家庭教師をしている海堂家。ここは、郊外の高級住宅地に構えた、かなり豪華な一戸建てである。
 生徒である海堂ミサ――高校一年生の、いかにも遊んでます風な少女が凪の生徒だが、今、凪の前に立つのは、その兄で、現役医大生の海堂碧人。
 当のミサは、いつものことだが、9時になると同時に携帯を掴んで部屋を出ている。
 締め切ったベランダで、これもいつものことだが長電話だ。彼氏との電話なのか、大抵その後、凪の存在などまるで無視して家を出て行く。
 初日こそ、ミサの電話が終わるまで待っていた凪だが、今は、なるべく早く退室することを心がけていた。なにしろ、一人になると、それを待っていたかのように、その兄がやってくるからである。
「ミサの様子、聞きたいなぁ」
 今も碧人は、ミサの学習椅子に腰掛け、楽しそうな目で凪を見あげた。
「大して変わってません」
「やっかいでしょ、我侭だし、頭も悪いし、礼儀も悪いし」
「……まぁ、まだ三回目なんで」
 素っ気無く答える凪にとっては、やる気のない生徒より、その三つ年上の兄の方がはるかにやっかいな存在だった。
「紺碧のみどりに人って書いて、あいとだから」
 と、初対面の日、聞きもしないのに詳しく説明してくれた医大生は、何故か凪に絡んでくる。絡む――というより、露骨に好意をぶつけてくる。
「警戒心強いんだ、流川さん」
 凪の横顔をのぞきこむようにして、碧人はさらに面白そうな声になった。
「俺が来るとがちがちになってるんだもん、可愛いなぁ」
―――バカじゃない………?
 それは強くもなる。なにしろ、この広い豪邸には、今、兄妹と凪の三人だけ。揃って医師だという2人の両親は、たいていの時間、不在なのだ。
 しかも、ちょっと長居するとミサが外出してしまうので、その後は2人だけになる。
 この、うぬぼれの強いバカ男と。
「別にとって食べようってわけじゃないよ、仲良くなりたいだけなんだ」
 碧人はそう言って立ち上がると、今度は、凪の退路を遮るように手を広げ、にっと笑った。
 スマートな長身、名前負けしないきれいな顔。髪型も服装も流行を追った最先端。
 都内にある大手総合病院を経営しているというこの家庭は、家も家具も、何もかも洗練され、見事なまでに裕福そうな外観を備えていた。多分、そのあたりの自信が、彼の強引さの源でもあるのだろう。
―――絵に描いたようないやな男。
 とは、凪が碧人に抱いた第一印象だが、さすがにそれは口にしていない。
 で、さらに嫌なことに。
「そうだ、一年の講義で使う本が、今俺の部屋にあるからさ、よかったらあげよっか」
「知り合いからもらうことになってるんで」
「大学入ったら、部活とかやらないの?どこも入る予定ないならさ、テニス部に入らない?」
「開いた時間はバイトするつもりなんで」
 碧人は、凪が来月入学する東欧医大の先輩なのである。両親も同大学出身で、妹のミサも東欧志望、そこで東欧に現役合格した凪が家庭教師に選ばれたということらしい。
 というか、そもそも家庭教師など雇わず、この男が妹の勉強くらい見てやればいいと思うのだが。
「すいません、私、帰りの電車の時間があるんで」
 凪はそれだけ言い、男の傍をすり抜けるようにして、女子高生の部屋を出た。
 階段を降りたところで、すいっと再び、男が肩を並べてくる。
「送るよ」
「いえ、そんなわけには」
「遠慮しなくていいって、必死にバイトしてるくらいだから、家の方も大変なんだろ」
「…………」
 そうでもないけど、学費の足しに仕事をするくらい、常識なのではないだろうか。
「医大は金かかるからさ。困ったときはいつでも相談していいからね」
「はぁ、どうも」
 もう、これ以上話したくない。
 凪は無言で、足を速めて玄関に向かう。
「凪ちゃん!」
 ふいに、碧人が凪の前に回り込んできた。
 さすがにぎょっとして、後ずさる。男の目は、唐突に真剣だった。
「俺、運命感じたんだ」
 は?
「最初の日に一目ぼれ、マジで好きになったんだ、君のこと」
「……………」
 凪は無言で、間近に迫った碧人の顔を見つめた。
 いい顔だ。
 目も二重だし、鼻も形がいい、口元も上品で、いわゆる美少年タイプ。
 ビジュアル的には、雅之より上な気がする、でも――。
 多分、顔の美醜じゃないんだろう。仮にこの海堂碧人がJ&Mのアイドルを目指したとしても、オーディションにひっかかりもしないだろうと凪は思う。
 なんていうか、これは多分、天運だ。
 大げさだけど、億単位の国民の中から、選ばれてスポットライトを当てられた存在、それがアイドルであり、芸能人だからだ。
「すいません、彼氏いるんです、私」
 どこにでもいるようで、決して自分とは同じではない存在。
 そんな男を、彼氏といっていいのかどうか判らないけど。
―――ここ、辞めよ。
 凪は、玄関で靴を履きながら決めていた。
 割高だからといって、身の危険をおかしてまでするような仕事じゃない。
 医大生限定の家庭教師派遣会社。報酬がいいのが魅力だから、悪い評価が下され、仕事が回ってこなくなるのは惜しい気もするけれど。
 碧人は、それでも凪の背後に、未練たらしく立っているようだった。
「彼氏ってやっぱ、医大の人?」
 やっぱ?
 その口調を疑問に思いつつ、靴を履き終えた凪は、立ち上がる。
「……学生じゃなくて、仕事してる人なんで」
「何の?」
「………?」
 何の?
 ちょっとそれには答えられない。黙っていると、何故か碧人は、嬉しそうな顔になった。
「じゃあ、もう大人なんだ、凪ちゃんのカレ」
「……年はいっこ上だから」
「へぇ、じゃあ俺とタメ?」
 その表情と口調で、碧人が内心、凪の「彼」に下した評価が判った気がした。
 高卒か、そう言いたいのだろう、多分。実は高校も中退してますなんて言ったら、飛び上がって驚かれそうだ。
「俺が思うにさ」
 ああ、まだ話が続くのか……。
 いい加減帰らせてほしい。
「医者の相手は、やっぱ医者がいいと思うよ、将来とか考えたら特に。あ、うち両親とも医者だからさ、余計にそう思うんだけど」
「結婚なら、多分しないんで、その人とは」
「え」
 仮にするとしても、まぁ、想像もできないし、できないからまさに「仮」なんだけど、それは、あいつが四十くらいになってからじゃないだろうか。仕事柄。
 言っとくけど、その時まで傍にいると思ったら大間違いだ。そもそも今の世界情勢で、日本が存続しているかどうか。
「へぇ、純情そうにみえたけど、意外と人生、計算してんだね」
 しかし碧人の目は、俄然生き生きと輝いてきた。
「俺も計算するタイプだから、結構合うのかな、俺たち」
 へいへい。
「じゃ、失礼します」
 多分、永久に。
「あ、そうだ、凪ちゃんって」
 扉に手をかけるのを遮るように、ちょっと慌てた風に言葉がかけられた。
「アイドルに興味あるんでしょ、ストームとか」
「……………」
 何故そんなことを言い出されたのか判らないまま、さすがにそれには、振り返っていた。
 ようやく女を振り向かせることに成功した男は、嬉しそうに鼻を鳴らす。
「今度あいつら、全国のライブハウス回るんだって?大都市のチケットは激戦とかってネットに出てたけど」
 その代わり、地方のチケットは売れるどうか、そんな疑問も乗っていた。その記事は凪も読んでいる。
「……海堂さんも、ストームに興味あるんですか」
「俺?まっさか」
 将来の医師は、心底軽蔑したように肩をすくめた。
「あ、女の子が夢中になるのはかわいいと思うよ。でも、男ってさー、自分よりレベルの低い奴なんかに興味ないから、普通」
「………へー」
「アイドルなんて、頭悪い奴の代名詞みたいじゃん」
「…………」
 凪は、かすかに拳が震えるのを感じ、それを笑顔で誤魔化した。
 いけない、この手の早さだけは直さなければ。
「凪ちゃんさ、プロフィールのアンケートで、好きな芸能人、ストームの成瀬雅之って書いてたじゃない」
「………ああ」
 しばらく眉を寄せていた凪は、ようやく合点がいって頷いた。
 凪が登録している家庭教師派遣会社。
 そこに、履歴と一緒に出したプロフィールのことだ。かなりしょうもない質問も交じっていて、不思議だったが、ようはそれを見て、相手が気に入った先生を指名するという制度らしい。
「ちょっとびっくりしちゃったんだよねー、素直すぎっていうかさ、普通そこ、もっと……なんていうか、自分のレベルあげるような奴の名前書くじゃない?」
 考えるのが面倒で、適当に書いた名前だった。まぁ、彼は一応芸能人だし、一応好き?なタイプだし。
「ちょっと、兄貴、何やってんのよ」
 階段の上から、かなり不機嫌そうな声がした。
 凪はむしろほっとする。妹のミサ――凪にとっては初めての生徒。
 が、ほとんどパンツまで見えそうなミニをはいた、肉厚の女は、凪を嫌悪の目で見下ろした。
「あんたも終わったら、とっとと帰ってよ。いちゃつくならよそでやって」
 すごい誤解だ。
 が、それを解く間も与えず、我侭なお嬢様は、そのまま自室に再び消える。
「俺、実はストームの事情に、かなり詳しい芸能関係者知ってんだよね」
 妹の嫌味も気にならないのか、男はむしろ、得意げに鼻を鳴らした。
「今回のライブツアーだって、相当やばい事情あるし、あのグループ、そもそも年内に解散するって知ってた?」
「………………」
「俺なら、最前列チケットはもちろん、直に会わせてあげることもできるよ、どう?1回でいいからさ、俺とデートしてみない?」











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